詩編137編1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)
バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
わたしたちを捕囚にした民が
歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
どうして歌うことができようか
主のための歌を、異教の地で。
エルサレムよ
もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい。
わたしの舌は上顎にはり付くがよい
もしも、あなたを思わぬときがあるなら
もしも、エルサレムを
わたしの最大の喜びとしないなら。
コリントの信徒への手紙 二 1章3~4節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
宗教改革の時代につくられたハイデルベルク信仰問答は、キリスト教信仰について書かれた本です。この本の特徴の一つは、「生きている時も、死ぬ時も、ただ一つの慰めは何か」という言葉から始まっていることです。そして、その慰めはまず自分の罪と惨めさを知ること、第二に、この罪と惨めさから神が救ってくださったことを知ること、第三に、どのようにして神に感謝する生活をするかを知ることが大切だと教えています。そして、ハイデルベルク信仰問答はこの流れに沿って書かれていきます。このハイデルベルク信仰問答から、今回の説教題を「惨めさを知り、慰めを知る」としました。
罪とその惨めさを知ることの大切さは、ローマの信徒への手紙にも現れています。1~3章において人間の罪について語られていますが、そこでは「罪」という言葉はほとんど使われておらず、その罪から生じている悲惨な状態を示しています。そして、その罪と悲惨に捕われているすべての人間を神が救うために神の独り子イエス・キリストを遣わしてくださったと告げるのです。このように見てきますと、ローマの信徒への手紙はハイデルベルク信仰問答と同じ流れに沿って書かれていることがわかります。
罪とその惨めさについて、故国から追われた状態と説明した人がいます。詩編137編は、バビロン捕囚によって故国を失った詩人の詩で、まさにその悲痛さが伝わってきます。故国から追われた状態は、罪を犯したアダムとエバが楽園から追い出された絶望と惨めさとも重なってきます。この罪と惨めさを味わう人は、故国をあこがれ、帰ることをひたすら願うのです。故国へ帰ることができない絶望に落とされながらもなお、故国を慕い求める。それが詩篇137編の詩人です。
ハイデルベルク信仰問答が、まずこの罪とその惨めさを知ることの大切さを説くのは、私たちの住む世界は神が用意されたエデンの園ではなく、むしろ神の裁きを目前にしているソドムの地であると示そうとしているのです。ソドムに住んでいたロトはその町が罪深い町と知っていながらそこから出ることをためらっていましたが、天使に促され、ようやく町を脱出しました。
この時のロトと同じように、罪と惨めさから逃れよ、とハイデルベルク信仰問答は語り、幸いと喜びに至る道が私たちの目の前に用意されていると告げているのです。そして、それを「慰め」という言葉を用いて語るのです。
その「慰め」は、神が私たちのために遣わしてくださった救い主イエス・キリストによってもたらされました。この「慰め」は惨めさから私たちの目をそらさせるような気休め程度のものではありません。なぜなら、キリストは私たちを罪から救ってくださり、罪から生じる惨めさからも解放してくださるからです。
とは言え、この「慰め」の中にいる実感がないのはなぜでしょうか。それは、捕囚の地バビロンを居心地よく思っているからです。多少の不満があっても住み慣れた土地という思いがあるからではないでしょうか。私たちが住む世界はまさにそのようなバビロンの地となっているのです。かつて捕囚の地にあったユダヤ人に故国があったように、私たちにも帰るべき場所があります。それが神の都です。私たちを神の都へと導いてくださるキリストはいつも私たちと共にいて、守り、養ってくださいます。神の都へ向かう道は決して平たんなものではなく、険しく困難に満ちています。しかし、それらもまた、私たちをそれを通して訓練しようとする神の御手の中にあります。それ故、導いてくださる神にいつも目を向け、守られ慰められていることを確認していくことが大切です。そして、神の都への途上、共に同じ道を歩む兄弟姉妹がいます。神が私たちを慰めてくださるように、私たちも互いに慰め励ましあうことが大切なのです。
バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
わたしたちを捕囚にした民が
歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
どうして歌うことができようか
主のための歌を、異教の地で。
エルサレムよ
もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい。
わたしの舌は上顎にはり付くがよい
もしも、あなたを思わぬときがあるなら
もしも、エルサレムを
わたしの最大の喜びとしないなら。
コリントの信徒への手紙 二 1章3~4節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
宗教改革の時代につくられたハイデルベルク信仰問答は、キリスト教信仰について書かれた本です。この本の特徴の一つは、「生きている時も、死ぬ時も、ただ一つの慰めは何か」という言葉から始まっていることです。そして、その慰めはまず自分の罪と惨めさを知ること、第二に、この罪と惨めさから神が救ってくださったことを知ること、第三に、どのようにして神に感謝する生活をするかを知ることが大切だと教えています。そして、ハイデルベルク信仰問答はこの流れに沿って書かれていきます。このハイデルベルク信仰問答から、今回の説教題を「惨めさを知り、慰めを知る」としました。
罪とその惨めさを知ることの大切さは、ローマの信徒への手紙にも現れています。1~3章において人間の罪について語られていますが、そこでは「罪」という言葉はほとんど使われておらず、その罪から生じている悲惨な状態を示しています。そして、その罪と悲惨に捕われているすべての人間を神が救うために神の独り子イエス・キリストを遣わしてくださったと告げるのです。このように見てきますと、ローマの信徒への手紙はハイデルベルク信仰問答と同じ流れに沿って書かれていることがわかります。
罪とその惨めさについて、故国から追われた状態と説明した人がいます。詩編137編は、バビロン捕囚によって故国を失った詩人の詩で、まさにその悲痛さが伝わってきます。故国から追われた状態は、罪を犯したアダムとエバが楽園から追い出された絶望と惨めさとも重なってきます。この罪と惨めさを味わう人は、故国をあこがれ、帰ることをひたすら願うのです。故国へ帰ることができない絶望に落とされながらもなお、故国を慕い求める。それが詩篇137編の詩人です。
ハイデルベルク信仰問答が、まずこの罪とその惨めさを知ることの大切さを説くのは、私たちの住む世界は神が用意されたエデンの園ではなく、むしろ神の裁きを目前にしているソドムの地であると示そうとしているのです。ソドムに住んでいたロトはその町が罪深い町と知っていながらそこから出ることをためらっていましたが、天使に促され、ようやく町を脱出しました。
この時のロトと同じように、罪と惨めさから逃れよ、とハイデルベルク信仰問答は語り、幸いと喜びに至る道が私たちの目の前に用意されていると告げているのです。そして、それを「慰め」という言葉を用いて語るのです。
その「慰め」は、神が私たちのために遣わしてくださった救い主イエス・キリストによってもたらされました。この「慰め」は惨めさから私たちの目をそらさせるような気休め程度のものではありません。なぜなら、キリストは私たちを罪から救ってくださり、罪から生じる惨めさからも解放してくださるからです。
とは言え、この「慰め」の中にいる実感がないのはなぜでしょうか。それは、捕囚の地バビロンを居心地よく思っているからです。多少の不満があっても住み慣れた土地という思いがあるからではないでしょうか。私たちが住む世界はまさにそのようなバビロンの地となっているのです。かつて捕囚の地にあったユダヤ人に故国があったように、私たちにも帰るべき場所があります。それが神の都です。私たちを神の都へと導いてくださるキリストはいつも私たちと共にいて、守り、養ってくださいます。神の都へ向かう道は決して平たんなものではなく、険しく困難に満ちています。しかし、それらもまた、私たちをそれを通して訓練しようとする神の御手の中にあります。それ故、導いてくださる神にいつも目を向け、守られ慰められていることを確認していくことが大切です。そして、神の都への途上、共に同じ道を歩む兄弟姉妹がいます。神が私たちを慰めてくださるように、私たちも互いに慰め励ましあうことが大切なのです。