出エジプト記30章23~30節
上質の香料を取りなさい。すなわち、ミルラの樹脂五百シェケル、シナモンをその半量の二百五十シェケル、匂い菖蒲二百五十シェケル、桂皮を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油一ヒンである。あなたはこれらを材料にして聖なる聖別の油を作る。すなわち、香料師の混ぜ合わせ方に従って聖なる聖別の油を作る。それを以下のものに注ぐ。すなわち、臨在の幕屋、掟の箱、机とそのすべての祭具、燭台とその祭具、香をたく祭壇、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具、洗盤とその台。あなたがこれらを聖別すると、神聖なものとなる。それに触れたものは、みな聖なるものとなる。アロンとその子らにこの油を注いで、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせなさい。
マルコによる福音書14章3~9節
イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
今日の聖書の箇所は、受難週の第4日目、水曜日の出来事です。
ベタニアは、エルサレムの東側にある小さな村で、ここに主イエスと弟子たちが逗留し、エルサレムへ通っていました。
この日に、主イエスと弟子たちがエルサレムへ行ったという記述はなく、代わりに二つの出来事を伝えています。ひとつは弟子の一人であるイスカリオテのユダが、ひそかに主イエスを役人に引き渡そうと取引をしたこと、もう一つは、一人の女性が主イエスの頭に香油を注いだことです。この二つの出来事は共に主イエスの死に関わっています。
主イエスの頭に香油が注がれたのは、食事の席でのことでした。
過越の祭りが近づいており、遠方から多くの人々が集まってきていました。ベタニアはエルサレムに近い村でしたので、遠方から来た人々もこの村に宿泊し、この食事の席にいたと思われます。
一人の女性が、いきなり主イエスの頭に香油を注ぎました。あっという間に香りが部屋に充満し、せっかくの食事も台無しです。周りにいた人々が怒り出すことも当然のことでしょう。「憤慨した」、「彼女を厳しくとがめた」という言葉が、その怒りの激しさを表しています。しかし、人々は食事のことではなく、その女性が香油を無駄にしたことをとがめました。「三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができた」というのが、彼らの言い分です。
純粋なナルドの香油は、とても高価なものでした。300デナリオンというのは、当時の労働者の約一年分の給金に当たります。またその香油の容器は石膏の壷とありますが、高価なアラバスター(雪花石膏)製のものです。それを壊して香油を注いだとありますから、この女性がその中身を全部使い切るつもりであったことが分かります。人々がもったいないと考えたことは、ごく自然のことでしょう。
しかし、主イエスはそのように憤る人々を制して、「わたしに良いことをしてくれた」、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」、「福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」とおっしゃいました。
香油を注いだ女性をかばったとも言えますが、それだけではありません。主イエスは、やがてご自身が十字架におかかりになることをおっしゃっておられるのです。それはこのエルサレムに来る前から弟子たちに何度も告げておられたことでした。
「福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」とは、主イエスが十字架におかかりなることが決して突然でなく、また偶然でもなく、むしろ神の御計画である事を示しているのです。そして、その時は迫って来ていました。
さて、主イエスが十字架におかかりになるのは、いったい何のためなのでしょう。それはすべての人を罪から救うためです。すべての人の罪の贖いをし、とりなしをしてくださるためです。
主イエスは、憤る人々に対し、香油を注いだ女性をかばいました。主イエスが十字架にかかられたのは、この女性のためだけではなく、ここで憤っている人々のためにも十字架にかかられたのです。そして、それから二千年後の時代に生きている私たちのためにも十字架にかかってくださったのです。
もし、私たちが周囲の誰かに対して憤っているなら、思い出さねばなりません。私たちが怒っている相手のためにも、主が十字架にかかってくださったことを。その人のために十字架にかかってくださった主イエスに逆らって、私たちは自分の正しさを主張し、なおも憤り続けるべきなのでしょうか? 罪人であるこの私を赦してくださった主は、その人のためにも十字架にかかり、その罪を赦しておられるのです。
上質の香料を取りなさい。すなわち、ミルラの樹脂五百シェケル、シナモンをその半量の二百五十シェケル、匂い菖蒲二百五十シェケル、桂皮を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油一ヒンである。あなたはこれらを材料にして聖なる聖別の油を作る。すなわち、香料師の混ぜ合わせ方に従って聖なる聖別の油を作る。それを以下のものに注ぐ。すなわち、臨在の幕屋、掟の箱、机とそのすべての祭具、燭台とその祭具、香をたく祭壇、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具、洗盤とその台。あなたがこれらを聖別すると、神聖なものとなる。それに触れたものは、みな聖なるものとなる。アロンとその子らにこの油を注いで、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせなさい。
マルコによる福音書14章3~9節
イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
今日の聖書の箇所は、受難週の第4日目、水曜日の出来事です。
ベタニアは、エルサレムの東側にある小さな村で、ここに主イエスと弟子たちが逗留し、エルサレムへ通っていました。
この日に、主イエスと弟子たちがエルサレムへ行ったという記述はなく、代わりに二つの出来事を伝えています。ひとつは弟子の一人であるイスカリオテのユダが、ひそかに主イエスを役人に引き渡そうと取引をしたこと、もう一つは、一人の女性が主イエスの頭に香油を注いだことです。この二つの出来事は共に主イエスの死に関わっています。
主イエスの頭に香油が注がれたのは、食事の席でのことでした。
過越の祭りが近づいており、遠方から多くの人々が集まってきていました。ベタニアはエルサレムに近い村でしたので、遠方から来た人々もこの村に宿泊し、この食事の席にいたと思われます。
一人の女性が、いきなり主イエスの頭に香油を注ぎました。あっという間に香りが部屋に充満し、せっかくの食事も台無しです。周りにいた人々が怒り出すことも当然のことでしょう。「憤慨した」、「彼女を厳しくとがめた」という言葉が、その怒りの激しさを表しています。しかし、人々は食事のことではなく、その女性が香油を無駄にしたことをとがめました。「三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができた」というのが、彼らの言い分です。
純粋なナルドの香油は、とても高価なものでした。300デナリオンというのは、当時の労働者の約一年分の給金に当たります。またその香油の容器は石膏の壷とありますが、高価なアラバスター(雪花石膏)製のものです。それを壊して香油を注いだとありますから、この女性がその中身を全部使い切るつもりであったことが分かります。人々がもったいないと考えたことは、ごく自然のことでしょう。
しかし、主イエスはそのように憤る人々を制して、「わたしに良いことをしてくれた」、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」、「福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」とおっしゃいました。
香油を注いだ女性をかばったとも言えますが、それだけではありません。主イエスは、やがてご自身が十字架におかかりになることをおっしゃっておられるのです。それはこのエルサレムに来る前から弟子たちに何度も告げておられたことでした。
「福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」とは、主イエスが十字架におかかりなることが決して突然でなく、また偶然でもなく、むしろ神の御計画である事を示しているのです。そして、その時は迫って来ていました。
さて、主イエスが十字架におかかりになるのは、いったい何のためなのでしょう。それはすべての人を罪から救うためです。すべての人の罪の贖いをし、とりなしをしてくださるためです。
主イエスは、憤る人々に対し、香油を注いだ女性をかばいました。主イエスが十字架にかかられたのは、この女性のためだけではなく、ここで憤っている人々のためにも十字架にかかられたのです。そして、それから二千年後の時代に生きている私たちのためにも十字架にかかってくださったのです。
もし、私たちが周囲の誰かに対して憤っているなら、思い出さねばなりません。私たちが怒っている相手のためにも、主が十字架にかかってくださったことを。その人のために十字架にかかってくださった主イエスに逆らって、私たちは自分の正しさを主張し、なおも憤り続けるべきなのでしょうか? 罪人であるこの私を赦してくださった主は、その人のためにも十字架にかかり、その罪を赦しておられるのです。