八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「施しについての教え」 2015年5月10日の礼拝

2015年05月18日 | 2015年度
申命記15章7~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。

マタイによる福音書6章2~4節(日本聖書協会「新共同訳」)

  だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」


  マタイ福音書の6章1~18節には、施し、祈り、断食について教えられています。これらは信仰者が行うべき善行と考えられていました。その最初に取り上げられている善行が「施し」です。
  何故、施しが最初に出てくるのでしょうか。
  それについては、いろいろの考え方があります。三つの善行の中でも施しが最も大切だと考える人もあるようです。確かに、このような順番について無視することはできません。しばしば大切な物が最初に置かれることがあるからです。例えば、新約聖書の中でマタイ福音書が最初にあるのも、決して偶然ではなく、この福音書が四つの中でも特に大切であると考えられたからです。同じように、三つの善行が並べられている時、最初に教えられている施しは特に大切に考えられていたと考えることができるのです。
  しかしその一方で、宗教的なことからいいますと、祈りの方が重要だとも言えます。祈りを中心に施しと断食の教えが配置されたと考えることができるのです。山上の説教の構図を考えてみますと、主の祈りを中心に、前後に関連する形式や内容であたかも年輪のように配置されていることが分かります。そこから、祈りが最も重要であるという考え方も出てくるわけです。
  このように考えてきますと、施しと祈り、いったいどちらが重要なのかという議論は尽きることがありません。そこで、今、私たちは、どちらが大切かというよりも、これら三つの善行は切り離す事はできないと考えておくに留めておきたいと思います。

  さて、私たちは、施しということを考える時、人道的な意味を考えることはあっても、宗教的な意味をあまり考えないのではないかと思います。
  先ほど、司式者に申命記15章7~11節を読んでいただきました。そこでは、貧しい同胞に物を与えるということだけではなく、神の恵みを分け与えることだと教えられています。すなわち、施しをする人を通して、神が貧しい人々に恵みを与えるということなのです。神から預けられた恵みを、相手に渡すことなのです。
  そこで、私たちが心に留めておかねばならないことは、私たちが持っている全ての物は神からの恵みであるということ、そして周りのひとりひとりが神の恵みにあずかるようにと、まず私たちに豊かに与えられているということです。

  2節。「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている」。
  ここで「偽善者」という言葉が出て参りますけれども、もともとは「役者」という意味です。古代ギリシア・ローマで演劇をする時、仮面をかぶってすることがありました。日本の能を思い起こすと良いかもしれません。役者は劇中の人物を演じているのであって、自分自身を観客に見せているわけではありません。そこから、悪い意味で「偽善」という意味で使われるようになったのです。本心と見せかけの姿が違うということを言い表すのに都合が良かったからなのでしょう。
  2節。「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」。
実際にラッパを吹き鳴らす人がいたとは思えませんが、自分が施しをしていることを人々に見せびらかす人はいたと思います。
  「会堂や街角」は、多くの人々がいるところです。わざわざ多くの人がいるところで施しをすることは、その行為を人々に見てもらいたいという動機があるということです。相手を憐れむよりも、施している自分がほめられたいのです。神の恵みを自分の誉れの手段にしてしまっているのです。
  先ほど申しましたように、私たちが持っている全ての物は、神からの恵みです。私たち自身が神から恵みを受けているのです。受けている恵みを自分だけのものにするのではなく、周りのひとりひとりに分け与えていくことを、神が求めておられるのです。私たちを通して周りの人たちを助ける。そのようにして、神の恵みをあらわすことを、神は求めておられるのです。
  施しをとおして神の恵みを明らかにしなければならないのに、神をないがしろにするかのように、施しをする自分自身を人々に見せびらかし、自分がほめられる事を喜ぶ。それを主イエスは偽善と呼ぶのです。
  2節。「はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている」。
  「はっきりあなたがたに言っておく」は、主イエスがよく用いられた言葉でした。「はっきり」と訳されている言葉は、「アーメーン」という言葉で、もともとは旧約聖書の言葉ヒブル語で「本当に」、「まことに」という意味です。私たちも祈りの時に用いる言葉です。新約聖書は、ギリシア語で書かれています。しかし、「アーメーン」という言葉をギリシア語に翻訳せず、ヒブル語のままにしてあるのです。主イエスがこの言葉を用いる時、特に重要なことを告げておられた。それを福音書記者たちは大切にし、「アーメーン」という言葉のまま主イエスの教えを伝えてのだと思います。
  2節。「彼らは既に報いを受けている」。
  「忘れてはならない。自分の栄誉を求めて善行を行う者は、それ自体がその人が受けるべき報いのすべてである。しかし、それ以上は与えられることはない」。それがここで言われている意味です。
  自分の栄誉を求める者は、自分の行為で得た物以外、神から与えられることはありません。神からの栄誉を受けることよりも、人々からの賞賛を欲したのです。それは神からの栄誉を拒否したことを意味します。

  3~4節。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」。
  最も身近な者にも知らせてはならないということです。神は、私たちのすべてを見ておられるのです。神は見ておられないかもしれないと心配する必要はありません。
  私たちは、いったい誰の目を意識して行動すべきなのでしょうか。人の目を意識して行動すべきなのでしょうか、それとも神の目を意識して行動すべきなのでしょうか。
  本来は、すべての人間が神の目を意識して行動すべきでしょう。しかし、罪に陥った人間は神の目を意識することに耐えられないのです。そのため、神を忘れ、神の目を意識しないで生活しようとするのです。
  山上の説教は、すべての人間に当てはまることとして教えておられるのではありません。これは神の民に向けられて語られているのです。キリスト者に向けられていると言い換えても良いでしょう。
  神の民は、神の目を意識して生活すべきです。しかも、私たちは、主イエス・キリストによって、神の子としての身分を与えられているのです。
  「あなたがたは神の子なのである」と、主イエスが繰り返し語っておられます。例えば「あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ5章45節)や、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5章48節)という言葉があります。
  今日の4節にも「隠れたことを見ておられる父」とあります。これは主イエス・キリストの父であるに違いありませんが、私たちの父ともなってくださった神が、私たちを見ていてくださっているということなのです。私たちは、神の子とされているのです。私たちの父となってくださった神が、私たちの心の中まで見ておられるのです。
  それは、私たちが神の目を意識して生活をしているのか、それとも人の目を意識して生活をしているのかをも見ておられるということであります。いつも私たちを見ている神は、必ず私たちに報いてくださるのです。私たちは、神から既に恵みを与えられていましたが、その恵みを、これからますます豊かに受けることができるようにされているのです。
  「報い」という言葉は、報酬を表す言葉です。働きに見合った報酬ということです。しかし、神からの報いという時、私たちはどれだけのことを、神にしたのでしょうか。私たちは、ほとんど何もしていないのです。それにもかかわらず、神は報いとして、私たちに与えてくださるのです。すなわち、ここで言われている報いというのは、本当は報いではなく、恵みなのです。
  主イエスがなさった譬えに農園で働く労働者の話があります。
  農園の主人が、労働者たちを雇います。朝早くから雇われた労働者は一日に1デナリオンを約束されました。これは、当時としては当たり前の金額だったようです。ローマの兵士の一日の賃金も1デナリオンでした。
  農園の主人は、昼にも新たに労働者を雇い、夕方になってさらに労働者を雇いました。
  農園の主人は、すべての労働者に1デナリオンを支払ったところ、朝早く雇われた労働者が不平を言いました。不公平だというのです。わずかしか働いていない者に、自分と同じお金を払ったというねたみからでした。
  1デナリオンは、一日分の賃金でした。しかし、夕方から働き始めた労働者も、ほんのわずかしか働いていないにもかかわらず、一日分の給金をもらったというのです。
  これはたとえ話ですから、実際には起こりえないことでしょう。この譬えを通して、主イエスは神の恵みについて語っているのです。
  夕方から働き始めた労働者に対する賃金は、報酬と言えば、確かに報酬です。しかし、働きに見合う以上に多く与えられているのです。これは恵みと言って良いでしょう。
  私たちも、最後に雇われた労働者と同じだと、主イエスはおっしゃっているのです。
  神から、報い、報酬を与えられたと言っても、私たちはそれに見合うだけの働きをしたのでしょうか。働きをしていないどころか、むしろ、損なっていることの方が多いのではないのでしょうか。それにもかかわらず、神は報酬だと言って、私たちに過分な、そして豊かな恵みをくださっているのです。 私たちが働く以上に、神は私たちに与えてくださっていることを忘れてはならないでしょう。

  私たちは、神から豊かな恵みを受けています。その豊かに与えられているものの中から、あなたの周りのひとりひとりに神からの恵みであることを証して分け与えなさいと、主イエスはおっしゃっておられるのです。

  使徒パウロは、次のように教えています。
  「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。『彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く』と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます」(Ⅱコリント9章6~13節)。
  使徒パウロは、神の恵みを人々に与えることを強調しています。そして、分け与えることによって、神からますます豊かに恵みを受けると告げています。そして、この施しの心というのは、私たちを通じて、多くの人々が神に対する感謝の念を引き出すことだと訴えています。
  自分の功績として、施すのではなく、「神が私に恵みを与えてくださった。私は、その恵みをただ携えていく使者なのだ」ということを弁えておくことが大切なのです。
  施しをする時、私たちの目が神に向けられるのであれば、それは私たちの祈りに結びついていくのです。マタイ福音書が施しに続いて祈りについての教えを記しているのは、自然の流れと言えます。