詩編41編2~4節(日本聖書協会「新共同訳」)
いかに幸いなことでしょう
弱いものに思いやりのある人は。
災いのふりかかるとき
主はその人を逃れさせてくださいます。
主よ、その人を守って命を得させ
この地で幸せにしてください。
貪欲な敵に引き渡さないでください。
主よ、その人が病の床にあるとき、支え
力を失って伏すとき、立ち直らせてください。
マタイによる福音書6章1節(日本聖書協会「新共同訳」)
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
マタイ福音書6章1~18節は、一つの大きな流れになっており、施し、祈り、断食という三つのことが扱われています。これらは、当時、信仰生活における大切な行為でした。施し、祈り、断食についての教えは、ほぼ同じ形式で記されています。その形式を繰り返すことで、人の目を意識して行うのではなく、神の目を意識して行うようにと教えているのです。
この三つの教えの中で、主の祈りが出てきます。今、私たちが唱えている主の祈りとは少し違いますが、マタイ福音書にある主の祈りが元の形と考えられています。
ルカ福音書にも主の祈りがありますが、比べてみますと、少し違いがあります。
また、主の祈りが弟子たち教えられることになった経緯を、ルカ福音書は伝えています。すなわち、弟子たちが主イエスに祈ることを教えてくださいと願い出、その時教えられたのが主の祈りであったと言うのです。
マタイ福音書は、主の祈りがどういう経緯で弟子たちに教えられるようになったかを明確に記していません。確かに山上の説教の中にありますので、この時に教えられたということになりますが、しかし、これほど多くの教えが一気に語られたとは考えにくいということがあります。おそらく、いろいろの場面で語られたものが、山上の説教という形にまとめられたと思われます。マタイ福音書全体の構成から、そういうふうに考えることが出来るのです。
ですから、主の祈りも、これほど多くの教えの中で語られたというよりも、山上の説教という数多くの主イエスの教えの中で特別の位置を与えられ、ここに配置されたと考える方が、山上の説教の構造上、納得しやすいのです。ある人は、山上の説教は主の祈りを中核としているとさえ言います。
さて、1節前半で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」とあります。
「善行」と訳されている言葉は、他のところでは「義」と訳されています。この「義」は、聖書の中で重要な意味を持っています。特に私たちの救いに関わる言葉として使われています。例をあげますと、ローマの信徒への手紙3章20~26節があります。
「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。・・・ ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。・・・イエスを信じる者を義となさるためです。」
ここで、義は道徳的な正しいという意味だけでなく、信仰と救いに深く関わっていることが分かります。
マタイ6章1節の「善行」も、道徳的な正しさや人道的な善行というだけでなく、信仰の事柄としての義について語られているのです。
また、「人々に見られないようにしなさい」とは、「人々ではなく、神に見ていただきなさい」ということです。神の目を意識して生活することが大切なのです。ある人は、「人々に見られないようにしなさい」という言葉について、施し・祈り・断食は自分と神だけのことにしておきなさいとの教えだと説明しています。
ここで注意すべきなのは、善行をすること、義なる行いをすることは、救われるために行うのではないということです。6章2節以下で、施し・祈り・断食なども救われるために行うというのではありません。むしろ、神に救われた感謝の生活として、善行をするのであり、施し・祈り・断食をするのです。信仰生活は、救われるための生活ではなく、既に救われていることを感謝する生活なのです。神に見ていただくというのは、神に感謝する私たち自身を見ていただくのです。それは神の御心に応える生活です。
ルカ福音書18章11~14節に、次のような主イエスが語られた譬えが記されています。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ファリサイ派の人々がいつもこのように祈っていたということではないと思いますが、信仰者が陥りやすい過ちが警告されていると言えます。神に祈っていながら、その実、自分自身の信仰とその生活を誇っているのです。
この譬えは、ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りは、どちらが優れいているかということが教えているのではありません。
私たちは、正しい信仰生活をしようとします。それは良いことです。しかし、正しくあろうとして、落とし穴に落ち込むことがあるのです。ファリサイ派の人々は決して不信仰でもなければ、不真面目ということではありません。彼らはいつも信仰深くあろうと心がけ、熱心に信仰生活をするまじめな人々です。しかし、その熱心さ故に、陥りやすい罠があるのです。主イエスの譬えはそれを警告しているのです。
自分の目から見ても、周囲の人々の目から見ても正しい生活をしようとします。それがいつしか、神からどう見られているかを忘れてしまうことがあるのです。否、自分の目から見た正しさは、神の目から見ても正しいと思いこんでしまうのです。それはまた、自分の目から見た正しさを基準にして自分自身を高く評価することになりますし、反対に周囲の人々の行いに対して厳しい評価をしやすくなるのです。主イエスが「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7章3節)と警告している言葉に、耳を傾けるべきでしょう。
今日の聖書の言葉は、周囲の人への厳しい評価についての警告ということではありませんが、自分自身の評価や他人の評価を気にする時、神の目より人の目を意識して生活してしまいやすいことを警告しているのです。
神の目を意識するということは、神からどのように見られているかということになるわけですが、はたして、私たちはどのように見られているのでしょうか。使徒パウロは次のように語っています。
「わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。』」(ローマ3章9~10節)
「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、・・・。」(ローマ9章22節)
神の目から見た私たちは罪人であり、怒りの器として滅びることになっていた存在にすぎないと言われています。しかし、聖書は同時に、そのような私たちを神は救ってくださったと告げているのです。
神に見てもらうという言葉ではありませんが、よく似た言葉に、「神に知られる」という言葉があります。
「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(ガラテヤ4章8~9節)
使徒パウロは、「今は神を知っている」といったすぐ後で、「いや、むしろ神から知られている」と言い換えています。私たちにとって、神を知ることはとても大切だと思いますけれども、使徒パウロは、それ以上に大切なこととして「神から知られている」と語っているのです。
聖書の中で「知る」という言葉は、認識するという意味の他にその人を愛するという意味で使われることもあるのです。男女の愛を言う時もこの言葉が使われ、人格的な関係の深さを表す時にも使われるようになりました。
アモス3章2節に「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する。」とあります。ここで「選んだ」となっている言葉は、口語訳では「知った」となっていました。この所では、単に選別したと言うだけではなく、愛したという意味があるのです。そして、それは神とイスラエルの民との間には、人格的な特別の関係があることを示しているのです。
使徒パウロは、このことをふまえて、「神に知られている」と言うのです。私たちは神に認識されているだけではなく、神との間に特別の関係があるというのです。すなわち、神から愛されているという関係です。
Ⅰコリント8章3節にも「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」とあります。神から愛されている人は神を愛しているという意味です。
人に見てもらおうとするのは、人から高く評価されたいとか自分を誇りたいという気持ちが私たちの心の中にあるからではないかと思います。しかし、もっとも大切なことは、神から愛されることであり、否、既に愛されているのですから、私たちを愛してくださっている神に喜ばれるように生活することです。
現代では、施しや断食は、信仰生活をする上で必ずしなければならないと考えられてはいないかも知れません。しかし、どのような生活のあり方であっても、神に愛されているものとして、神に喜ばれたいと願い、そのように心がけていく生活をすべきでしょう。
いかに幸いなことでしょう
弱いものに思いやりのある人は。
災いのふりかかるとき
主はその人を逃れさせてくださいます。
主よ、その人を守って命を得させ
この地で幸せにしてください。
貪欲な敵に引き渡さないでください。
主よ、その人が病の床にあるとき、支え
力を失って伏すとき、立ち直らせてください。
マタイによる福音書6章1節(日本聖書協会「新共同訳」)
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
マタイ福音書6章1~18節は、一つの大きな流れになっており、施し、祈り、断食という三つのことが扱われています。これらは、当時、信仰生活における大切な行為でした。施し、祈り、断食についての教えは、ほぼ同じ形式で記されています。その形式を繰り返すことで、人の目を意識して行うのではなく、神の目を意識して行うようにと教えているのです。
この三つの教えの中で、主の祈りが出てきます。今、私たちが唱えている主の祈りとは少し違いますが、マタイ福音書にある主の祈りが元の形と考えられています。
ルカ福音書にも主の祈りがありますが、比べてみますと、少し違いがあります。
また、主の祈りが弟子たち教えられることになった経緯を、ルカ福音書は伝えています。すなわち、弟子たちが主イエスに祈ることを教えてくださいと願い出、その時教えられたのが主の祈りであったと言うのです。
マタイ福音書は、主の祈りがどういう経緯で弟子たちに教えられるようになったかを明確に記していません。確かに山上の説教の中にありますので、この時に教えられたということになりますが、しかし、これほど多くの教えが一気に語られたとは考えにくいということがあります。おそらく、いろいろの場面で語られたものが、山上の説教という形にまとめられたと思われます。マタイ福音書全体の構成から、そういうふうに考えることが出来るのです。
ですから、主の祈りも、これほど多くの教えの中で語られたというよりも、山上の説教という数多くの主イエスの教えの中で特別の位置を与えられ、ここに配置されたと考える方が、山上の説教の構造上、納得しやすいのです。ある人は、山上の説教は主の祈りを中核としているとさえ言います。
さて、1節前半で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」とあります。
「善行」と訳されている言葉は、他のところでは「義」と訳されています。この「義」は、聖書の中で重要な意味を持っています。特に私たちの救いに関わる言葉として使われています。例をあげますと、ローマの信徒への手紙3章20~26節があります。
「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。・・・ ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。・・・イエスを信じる者を義となさるためです。」
ここで、義は道徳的な正しいという意味だけでなく、信仰と救いに深く関わっていることが分かります。
マタイ6章1節の「善行」も、道徳的な正しさや人道的な善行というだけでなく、信仰の事柄としての義について語られているのです。
また、「人々に見られないようにしなさい」とは、「人々ではなく、神に見ていただきなさい」ということです。神の目を意識して生活することが大切なのです。ある人は、「人々に見られないようにしなさい」という言葉について、施し・祈り・断食は自分と神だけのことにしておきなさいとの教えだと説明しています。
ここで注意すべきなのは、善行をすること、義なる行いをすることは、救われるために行うのではないということです。6章2節以下で、施し・祈り・断食なども救われるために行うというのではありません。むしろ、神に救われた感謝の生活として、善行をするのであり、施し・祈り・断食をするのです。信仰生活は、救われるための生活ではなく、既に救われていることを感謝する生活なのです。神に見ていただくというのは、神に感謝する私たち自身を見ていただくのです。それは神の御心に応える生活です。
ルカ福音書18章11~14節に、次のような主イエスが語られた譬えが記されています。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ファリサイ派の人々がいつもこのように祈っていたということではないと思いますが、信仰者が陥りやすい過ちが警告されていると言えます。神に祈っていながら、その実、自分自身の信仰とその生活を誇っているのです。
この譬えは、ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りは、どちらが優れいているかということが教えているのではありません。
私たちは、正しい信仰生活をしようとします。それは良いことです。しかし、正しくあろうとして、落とし穴に落ち込むことがあるのです。ファリサイ派の人々は決して不信仰でもなければ、不真面目ということではありません。彼らはいつも信仰深くあろうと心がけ、熱心に信仰生活をするまじめな人々です。しかし、その熱心さ故に、陥りやすい罠があるのです。主イエスの譬えはそれを警告しているのです。
自分の目から見ても、周囲の人々の目から見ても正しい生活をしようとします。それがいつしか、神からどう見られているかを忘れてしまうことがあるのです。否、自分の目から見た正しさは、神の目から見ても正しいと思いこんでしまうのです。それはまた、自分の目から見た正しさを基準にして自分自身を高く評価することになりますし、反対に周囲の人々の行いに対して厳しい評価をしやすくなるのです。主イエスが「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」(マタイ7章3節)と警告している言葉に、耳を傾けるべきでしょう。
今日の聖書の言葉は、周囲の人への厳しい評価についての警告ということではありませんが、自分自身の評価や他人の評価を気にする時、神の目より人の目を意識して生活してしまいやすいことを警告しているのです。
神の目を意識するということは、神からどのように見られているかということになるわけですが、はたして、私たちはどのように見られているのでしょうか。使徒パウロは次のように語っています。
「わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。』」(ローマ3章9~10節)
「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、・・・。」(ローマ9章22節)
神の目から見た私たちは罪人であり、怒りの器として滅びることになっていた存在にすぎないと言われています。しかし、聖書は同時に、そのような私たちを神は救ってくださったと告げているのです。
神に見てもらうという言葉ではありませんが、よく似た言葉に、「神に知られる」という言葉があります。
「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(ガラテヤ4章8~9節)
使徒パウロは、「今は神を知っている」といったすぐ後で、「いや、むしろ神から知られている」と言い換えています。私たちにとって、神を知ることはとても大切だと思いますけれども、使徒パウロは、それ以上に大切なこととして「神から知られている」と語っているのです。
聖書の中で「知る」という言葉は、認識するという意味の他にその人を愛するという意味で使われることもあるのです。男女の愛を言う時もこの言葉が使われ、人格的な関係の深さを表す時にも使われるようになりました。
アモス3章2節に「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する。」とあります。ここで「選んだ」となっている言葉は、口語訳では「知った」となっていました。この所では、単に選別したと言うだけではなく、愛したという意味があるのです。そして、それは神とイスラエルの民との間には、人格的な特別の関係があることを示しているのです。
使徒パウロは、このことをふまえて、「神に知られている」と言うのです。私たちは神に認識されているだけではなく、神との間に特別の関係があるというのです。すなわち、神から愛されているという関係です。
Ⅰコリント8章3節にも「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」とあります。神から愛されている人は神を愛しているという意味です。
人に見てもらおうとするのは、人から高く評価されたいとか自分を誇りたいという気持ちが私たちの心の中にあるからではないかと思います。しかし、もっとも大切なことは、神から愛されることであり、否、既に愛されているのですから、私たちを愛してくださっている神に喜ばれるように生活することです。
現代では、施しや断食は、信仰生活をする上で必ずしなければならないと考えられてはいないかも知れません。しかし、どのような生活のあり方であっても、神に愛されているものとして、神に喜ばれたいと願い、そのように心がけていく生活をすべきでしょう。