八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神の国の市民」 2022年10月16日の礼拝

2022年10月31日 | 2022年度
エゼキエル書9章1~7節(日本聖書協会「新共同訳」)

  彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。主はまた彼らに言われた。「神殿を汚し、その庭を、殺された者で満たせ。さあ、出て行くのだ。」彼らは出て行き、都の人々を打った。

ヨハネの黙示録7章2~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
 ユダ族の中から一万二千人が刻印を押され、
 ルベン族の中から一万二千人、
 ガド族の中から一万二千人、
 アシェル族の中から一万二千人、
 ナフタリ族の中から一万二千人、
 マナセ族の中から一万二千人、
 シメオン族の中から一万二千人、
 レビ族の中から一万二千人、
 イサカル族の中から一万二千人、
 ゼブルン族の中から一万二千人、
 ヨセフ族の中から一万二千人、
 ベニヤミン族の中から一万二千人が
   刻印を押された。
  この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。
 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、
 小羊とのものである。」
また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。
 「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、
 誉れ、力、威力が、
 世々限りなくわたしたちの神にありますように、
 アーメン。」


  エゼキエル書では「印」、黙示録では「刻印」となっていますが、これらは神の所有、神の保護を示す「印」です。「印」を額につけたというのは、奴隷の印を額につけたことから来ていると言われます。奴隷に印をつけることで、その奴隷が誰の所有であるかをはっきり示すということです。
  エゼキエル書は、神が人々を裁かれる際、これから起きる厳しい罰を受けることがないように、御心にかなう人々の額に印をつけさせたというのです。黙示録の場合も同様で、額につけられた刻印は災いを受けないための印です。このような印は、他にも創世記のカインの例があります。
  さらに、直接人間につけられたというのではありませんが、もう一つ例を紹介します。イスラエルの民がエジプト脱出のきっかけとなった過越しという出来事です。神がエジプト中に死をもたらした時、イスラエルの人々がその災いに遭わないようにと、家の入口に小羊の血を塗らせました。これが災いがその家を避けていく印となりました。この大きな災いに恐れをなしたエジプトの王は、イスラエルの人々を国外に退去させました。こうしてイスラエルの人々は、奴隷の地エジプトを脱出し、神が用意した乳と蜜の流れる地へと出発したのです。
今紹介した印は、神の所有、保護のもとにあることを示すことから「神の刻印」と言います。これに対し、黙示録には「獣の刻印」(14:9、他)という言葉が出てきます。これは神に背く者の印であり、やがて彼らは神の裁きによって滅ぼされてしまいます。
  それでは、私たちにはどのような印がつけられているのでしょうか。それはキリストです。キリストが私たちの印なのです。キリストは十字架で流された血によって私たちを罪と死から救い、神の所有とし、保護してくださっているのです。「印」という言葉ではありませんが、ローマの信徒への手紙6章に「キリストに結ばれる洗礼」という言葉があり、「キリストと共に生きる」(6:8)、「罪に対して死に、キリスト・イエスに結ばれて神に対して生きる」(6:11)と言われています。洗礼は私たちがキリストに結ばれている印なのです。「神は、私たちに証印を押して、保証として “霊”を与えてくださった」(Ⅱコリント1:22)、「聖霊で証印を押された」(エフェソ1:13)とあるように、私たちが「神の刻印」を受けているのです。これは聖霊の働きによるのであり、洗礼はそれの証なのです。
  黙示録は、神の刻印を受けた人は神の国に生きる者とされていると告げます。すなわち、神の国の市民とされているということです。私たちも、キリストの名による洗礼を受け、神の国の市民とされています。しかし、まだ用意された御国に入ったわけではありません。御国へと向かう旅の途中です。その意味では、エジプトを脱出したイスラエルの民が40年の荒野の旅をし、約束の地に入って行ったのと似ています。「私たちの本国は天にある」(フィリピ3:20)という言葉は、私たちの旅が神の国へと向かっていることを思い起こさせます。そして、それを思い起こすことは私たちが神の国の市民であることを思い起こさせるのです。神が私たちを御国へと導き、また同時に、御国で私たちの到着を待ってくださっているのです。ちょうど、放蕩息子の父親が、帰ってくる息子を遠くで見つけ、走り寄って温かく迎える父親のように(ルカ15章)、神は待っておられるのです。


「神の秘められた計画」 2022年10月9日の礼拝

2022年10月24日 | 2022年度
創世記32章23~33節(日本聖書協会「新共同訳」)

  その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
  ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。


コロサイの信徒への手紙1章21~29節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。
  今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。



  ヤコブが逃亡先の伯父ラバンの家から故郷に帰る途中、真夜中に誰かと格闘したとあります。聖書にはっきり出ていませんが、相手は天使だったようです。この出来事は、ヤコブの祈りの激しさを表していると説明されます。
  故郷へ帰る途中とは言え、ヤコブの状況は決して明るいものではありませんでした。伯父ラバンとその息子たちからねたまれ、居づらくなっていました。その時、ベテルで出あった神(創世記28章)から故郷に帰るようにと言われ(31:3)、出立したのですが、その故郷では兄エサウが復讐しようと待ち構えていたのです。
  さて、コロサイの信徒への手紙1章26節に「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画」とあります。この計画とは、すべての人々を罪から救うことです。「計画」という言葉は、すべての人を救うことが単なる思い付きや気まぐれで行われたのではないということです。そして、神が用意周到に準備されたということを意味しています。
  私たちが救われていることも、決して偶然ではありません。神の御計画であり、そのために神ご自身が働いてくださったのです。
  神がアブラハムを選ばれた時、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:3)と告げられました。この言葉は息子のイサク、孫のヤコブにも語られ、彼らの子孫がこの計画のために用いられていきました。ヤコブがべテルで神と出会った時、アブラハムの時と同じ言葉が与えられたのでした。
  イエス・キリストは彼らの子孫として現れましたが、それは偶然ではなく、初めから神の計画だったのです。この計画の一部は、預言者たちによって明らかにされましたが、神が定められた時が来るまで、ほとんどが隠されていました。
  しかし、時が満ち、すべてが明らかにされる時が来ました。イエス・キリストが十字架にかかられ、死からよみがえられたことにより、イエス・キリストの父なる神がこの御子によってすべての人々を救うこととされていたことが明らかにされたのです。この十字架と復活のキリストを、聖書は「福音」と呼びます。喜ばしいメッセージということです。
  この救いの計画は明らかにされ、救いの御業が完了しました。これからは、この救いをすべての人々に伝える必要があります。「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされた」(コロサイ1:27)とあるとおりで、このためにキリスト教会が選ばれ、用いられるのです。
  教会に与えられた使命は、「労苦している」とあるように、平たんなものではありません。しかし、教会は孤独の状態で働くのではありません。また人間の知恵や努力を頼りにこの使命を遂行するのでもありません。何よりも神が共に働いてくださるのであり、パウロはそれを「わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っている」と表現しています。「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:3)というアブラハムへの言葉は、今や「地上のすべての人は、キリスト教会によって祝福に入る」という意味を持つようになったのです。
  神が全ての人を救う計画は、神ご自身がそのために、先頭に立って働いていることを示しています。そして、救いの中に入れられた私たちに、「私の後に続きなさい」と呼びかけておられるのです。



「罪を贖う唯一の犠牲」 2022年10月2日の礼拝

2022年10月17日 | 2022年度
出エジプト記12章21~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。
  「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。
  あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」
  民はひれ伏して礼拝した。


ヘブライ人への手紙9章23~28節(日本聖書協会「新共同訳」)

  このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。


  出エジプト記12章には、イスラエルの民のエジプト脱出の原因となった過ぎ越しという出来事が記されています。エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を救い出すために、神は死の使いを送り、エジプト人にだけ災いをくだします。イスラエルの民にその災いが及ばないように、死の使いがイスラエルの人々の前を過ぎ越すようにされました。その目印になるように、家の門や鴨居に小羊の血を塗らせたのです。そこからこの出来事の記念の祭りを「過越の祭」と呼ぶようになりました。その祭りは小羊を神殿で献げ、その後小羊の肉を持ち帰り、家族で一緒に食べます。その時の食事の中で過越しの出来事を思い起こす儀式をします。そのことも出エジプト記12章に記されています。
  出エジプト記は、エジプト脱出がイスラエルの民やモーセの勇敢行な行動の結果だとは語りません。ただ神の力によって起こされたと告げています。そして、もう一つ重要なことは、この出来事はエジプトから脱出したとか、奴隷状態から解放されたということだけではなく、エジプトを出た彼らは神が約束された土地に向かって出発したということです。結局かなりの年数がかかりましたが、もともとは数か月の予定でした。とにかく、約束の地へ出発するために、エジプト脱出の出来事があったということです。
  話は新約聖書の時代に飛びますが、主イエスが十字架にかかられたのは過越の祭りの時でした。これは神の御計画であり、主イエスもそれに合わせてエルサレムに向かわれたのです。過越の祭りの時に主イエスが十字架の上で血を流されたことは、死の使いが家に塗られた小羊の血を目印に通り過ぎたことを思い起こさせます。さらに、罪に捕われていた私たちを解放し、神の国へ出発させると連想させます。
  ヘブライ人への手紙は、主イエスの十字架の出来事を旧約聖書のレビ記に記されている贖罪の日の儀式と関連させて説明しています。贖罪の日というのはイスラエル全体の罪の贖いが行われる重要な時でした。神殿の建物は前室としての「聖所」と奥にある「至聖所」とから成っていて、至聖所には年に一回だけ大祭司が入って、契約の箱の上にある「贖いの座」に血を振りまくのです。これにより、すべての人々の罪が赦されました。
  しかし、ヘブライ人への手紙は、この儀式を毎年行わなければならないこと自体不完全であったと言います。そして、主イエス・キリストこそが完全な罪の贖いの犠牲であり、それがキリストの十字架の出来事だというのです。地上の大祭司と違って繰り返すことはなく、「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れ」(9:26)たのです。「ただ一度」というのはキリストの罪の贖いが完全であること示しています。
  「罪の贖い」というのは、私たちから罪を取り除くという意味で使われますが、「罪から贖う」という意味でも使われます。この場合、私たちは神によって買い取られたという意味になります。十字架のキリストにより、私たちは神の所有になったのです。「あなたがたが・・・贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(Ⅰペトロ1:18~19)とあるとおりです。このように、私たちの救いは、御子の尊い犠牲によるのです。



「奉仕の働き」 2022年9月25日の礼拝

2022年10月10日 | 2022年度
申命記15章7~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。

コリントの信徒への手紙二9章6~15節(日本聖書協会「新共同訳」)

  つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
 「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。
 彼の慈しみは永遠に続く」
と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。



  コリントの信徒への手紙二の8~9章には、施しについて記されています。パウロがこの手紙で施しを勧めるのは、エルサレムの貧しい信徒たちを援助するという目的があったからで、ローマの信徒への手紙15章25~26節にもそのことが記されています。
  第二コリント8章では、まず施しは強いられてではなく、自らの意志で進んで行うようにと勧めました。そして9章では惜しむことなく喜んで与えるようにと教えています。
  施しについては、旧約聖書の時代から大切なこととして教えられてきました。特にそれを強調したのが先ほど司式者に読んでいただいた申命記でした。その申命記も、施しをするとき「心に未練があってはならない。・・・手を大きく開きなさい」と告げ、惜しんではならないと教えています。
  このことについて、申命記は次のように教えています。「彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる」(15:10)と告げています。施しをするとき、財産が減る心配から「惜しい」という思いが生じます。なくなることを心配するのです。申命記はなくなる心配をするなというのです。神はそれ以上に豊かに私たちに与えてくださるから、と教えるのです。
  私たちは財産を自分の力で勝ち取ったと考えやすいのではないでしょうか。だから、失うことを恐れたり、無償で見知らぬ人に施すことをもったいないと思うのではないでしょうか。
  聖書はそもそも財産に対する考え方を改めよというのです。財産を自分の力で得たということを否定しませんが何よりも神の恵みであることを知りなさいというのです。そして、第一に、神の恵みとしての財産はただ溜め込んだり、自分だけのために使うのではなく、恵みを与えてくださった神が喜ぶように用いよと教えるのです。「このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる」(申命記15:10)とあるのは、そういうことです。
  第二に、私たちを通して、神は貧しい人々を守られるということです。ここで疑問が生じるかもしれません。なぜ、神は貧しい人々を直接助けないかということです。人を介して貧しい人々を助けるという回りくどい方法を、神は何故用いるのでしょうか。
  神は「神の共同体」を考えておられるのです。神の家族と言っても良いでしょう。神に結ばれて人と人とが一つとなる関係です。主イエスが「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)と教えておられますが、これと同じです。神がまず私たちを愛してくださっているのです。神が私たちを豊かに祝福し、恵みを豊かに与えてくださっているのです。私たちが与える以上に、神は私たちを祝福し、愛し、豊かに恵みを与えてくださるのです。
  第二コリント9章6節に「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」とありました。「豊かに」と訳されている言葉は「祝福」とも訳される言葉です。施しについて、「祝福」という言葉でパウロは語り始めました。そして、「神に対する感謝の念を引き出す」(11節)と言います。こうして、パウロは施しが神の祝福で始まり、神への感謝に至ると教えているのです。



「十字架のキリストのみ」 2022年9月18日の礼拝

2022年10月04日 | 2022年度
列王記上21章1~3節(日本聖書協会「新共同訳」)

  これらの出来事の後のことである。イズレエルの人ナボトは、イズレエルにぶどう畑を持っていた。畑はサマリアの王アハブの宮殿のそばにあった。アハブはナボトに話を持ちかけた。「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい。」ナボトはアハブに、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」と言った。

ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

  人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。
  キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
  こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。



  ガラテヤという地域は今のトルコの中央部分にあります。かつてパウロがバルナバと宣教活動した場所です。それから何年もたって書いたのがこのガラテヤの信徒への手紙です。この手紙は、一つの教会にではなく、ガラテヤにあるいくつかの教会と信徒のために書かれました。
  今日読んでいただいた1章1~5節は挨拶の部分です。自己紹介から始まり、ガラテヤの諸教会のために祈り、続いてキリストによる神の救いが語られ、神の栄光を讃え、挨拶が終わります。
  6節から本題に入りますが、いきなり「あきれ果てている」(6節)、「呪われるがよい」(8節、9節)と激しい言葉が繰り返され、パウロの怒りのすさまじさが伝わってきます。原因はかつてパウロが伝えた福音から離れて、偽りの教えをガラテヤの人々が受け入れていたからでした。しかも彼らはその偽りの教えを福音だと信じていたのです。「福音」という言葉は、喜びのメッセージという意味で、どういう教えが福音であるかははっきり決まっているわけではありません。ですから、ある人が「これが福音だ」と思ったら、それを福音でないと証明することはとても困難です。これがこの議論の難しいところです。コリントの教会でも似たようなことが起こっており、パウロは「わたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えた・・・違った福音を受けた」(Ⅱコリント11:4)と言っています。そして、「パウロは「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(Ⅰコリント2:2)とまで言うのです。「十字架のキリストのみ」ということです。ガラテヤの諸教会に伝えた「福音」も「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださった」(ガラテヤ1:4)ということで、コリント書と同じです。
  いったい誰がこのような偽りの教えをしたのでしょうか。パウロもそのことを知りたかったかもしれません。コリントの教会に偽りの教えをした人々は自分たちを「大使徒」(Ⅱコリント11:5、12:11)と名乗っていたようです。彼らがそのように名乗るのは、パウロを使徒と認めないと主張していたからかもしれません。ガラテヤの諸教会に偽りの教えをした人々もそうだったのかもしれません。だから、この手紙の冒頭で「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と書いたのでしょう。自分の使徒としての正当性を主張しています。もちろん、パウロが自分で言っても、第三者にそれを証明することはむつかしいでしょう。そこで、パウロは自分が語っていることを使徒の証拠としています。「人に気に入ろうとはしていない」(ガラテヤ1:10)と強調し、神に忠実であることを示すため、自分自身を「キリストの僕」(ガラテヤ1:10)と宣言するのです。こうして、自分が伝えた福音こそが神から託された真の福音だというのです。
  パウロは自分が伝えた福音を神からのものであることを強調するため「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われよ」とまで言い放ちます。
  十字架にかかってまで、私たちを救ってくださったキリストとそのキリストをお遣わしくださった父なる神を、何としてでも守ろうとするパウロの必死さが伝わってきます。パウロだけではありません。キリスト教会もまたこの十字架のキリストという福音を守り、この方だけが私たちを救ってくださる救い主であると力強く宣べ伝えてきたのです。