エゼキエル書9章1~7節(日本聖書協会「新共同訳」)
彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。主はまた彼らに言われた。「神殿を汚し、その庭を、殺された者で満たせ。さあ、出て行くのだ。」彼らは出て行き、都の人々を打った。
ヨハネの黙示録7章2~12節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
ユダ族の中から一万二千人が刻印を押され、
ルベン族の中から一万二千人、
ガド族の中から一万二千人、
アシェル族の中から一万二千人、
ナフタリ族の中から一万二千人、
マナセ族の中から一万二千人、
シメオン族の中から一万二千人、
レビ族の中から一万二千人、
イサカル族の中から一万二千人、
ゼブルン族の中から一万二千人、
ヨセフ族の中から一万二千人、
ベニヤミン族の中から一万二千人が
刻印を押された。
この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、
小羊とのものである。」
また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、
誉れ、力、威力が、
世々限りなくわたしたちの神にありますように、
アーメン。」
エゼキエル書では「印」、黙示録では「刻印」となっていますが、これらは神の所有、神の保護を示す「印」です。「印」を額につけたというのは、奴隷の印を額につけたことから来ていると言われます。奴隷に印をつけることで、その奴隷が誰の所有であるかをはっきり示すということです。
エゼキエル書は、神が人々を裁かれる際、これから起きる厳しい罰を受けることがないように、御心にかなう人々の額に印をつけさせたというのです。黙示録の場合も同様で、額につけられた刻印は災いを受けないための印です。このような印は、他にも創世記のカインの例があります。
さらに、直接人間につけられたというのではありませんが、もう一つ例を紹介します。イスラエルの民がエジプト脱出のきっかけとなった過越しという出来事です。神がエジプト中に死をもたらした時、イスラエルの人々がその災いに遭わないようにと、家の入口に小羊の血を塗らせました。これが災いがその家を避けていく印となりました。この大きな災いに恐れをなしたエジプトの王は、イスラエルの人々を国外に退去させました。こうしてイスラエルの人々は、奴隷の地エジプトを脱出し、神が用意した乳と蜜の流れる地へと出発したのです。
今紹介した印は、神の所有、保護のもとにあることを示すことから「神の刻印」と言います。これに対し、黙示録には「獣の刻印」(14:9、他)という言葉が出てきます。これは神に背く者の印であり、やがて彼らは神の裁きによって滅ぼされてしまいます。
それでは、私たちにはどのような印がつけられているのでしょうか。それはキリストです。キリストが私たちの印なのです。キリストは十字架で流された血によって私たちを罪と死から救い、神の所有とし、保護してくださっているのです。「印」という言葉ではありませんが、ローマの信徒への手紙6章に「キリストに結ばれる洗礼」という言葉があり、「キリストと共に生きる」(6:8)、「罪に対して死に、キリスト・イエスに結ばれて神に対して生きる」(6:11)と言われています。洗礼は私たちがキリストに結ばれている印なのです。「神は、私たちに証印を押して、保証として “霊”を与えてくださった」(Ⅱコリント1:22)、「聖霊で証印を押された」(エフェソ1:13)とあるように、私たちが「神の刻印」を受けているのです。これは聖霊の働きによるのであり、洗礼はそれの証なのです。
黙示録は、神の刻印を受けた人は神の国に生きる者とされていると告げます。すなわち、神の国の市民とされているということです。私たちも、キリストの名による洗礼を受け、神の国の市民とされています。しかし、まだ用意された御国に入ったわけではありません。御国へと向かう旅の途中です。その意味では、エジプトを脱出したイスラエルの民が40年の荒野の旅をし、約束の地に入って行ったのと似ています。「私たちの本国は天にある」(フィリピ3:20)という言葉は、私たちの旅が神の国へと向かっていることを思い起こさせます。そして、それを思い起こすことは私たちが神の国の市民であることを思い起こさせるのです。神が私たちを御国へと導き、また同時に、御国で私たちの到着を待ってくださっているのです。ちょうど、放蕩息子の父親が、帰ってくる息子を遠くで見つけ、走り寄って温かく迎える父親のように(ルカ15章)、神は待っておられるのです。
彼は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。主はまた彼らに言われた。「神殿を汚し、その庭を、殺された者で満たせ。さあ、出て行くのだ。」彼らは出て行き、都の人々を打った。
ヨハネの黙示録7章2~12節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。
ユダ族の中から一万二千人が刻印を押され、
ルベン族の中から一万二千人、
ガド族の中から一万二千人、
アシェル族の中から一万二千人、
ナフタリ族の中から一万二千人、
マナセ族の中から一万二千人、
シメオン族の中から一万二千人、
レビ族の中から一万二千人、
イサカル族の中から一万二千人、
ゼブルン族の中から一万二千人、
ヨセフ族の中から一万二千人、
ベニヤミン族の中から一万二千人が
刻印を押された。
この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、
小羊とのものである。」
また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、
誉れ、力、威力が、
世々限りなくわたしたちの神にありますように、
アーメン。」
エゼキエル書では「印」、黙示録では「刻印」となっていますが、これらは神の所有、神の保護を示す「印」です。「印」を額につけたというのは、奴隷の印を額につけたことから来ていると言われます。奴隷に印をつけることで、その奴隷が誰の所有であるかをはっきり示すということです。
エゼキエル書は、神が人々を裁かれる際、これから起きる厳しい罰を受けることがないように、御心にかなう人々の額に印をつけさせたというのです。黙示録の場合も同様で、額につけられた刻印は災いを受けないための印です。このような印は、他にも創世記のカインの例があります。
さらに、直接人間につけられたというのではありませんが、もう一つ例を紹介します。イスラエルの民がエジプト脱出のきっかけとなった過越しという出来事です。神がエジプト中に死をもたらした時、イスラエルの人々がその災いに遭わないようにと、家の入口に小羊の血を塗らせました。これが災いがその家を避けていく印となりました。この大きな災いに恐れをなしたエジプトの王は、イスラエルの人々を国外に退去させました。こうしてイスラエルの人々は、奴隷の地エジプトを脱出し、神が用意した乳と蜜の流れる地へと出発したのです。
今紹介した印は、神の所有、保護のもとにあることを示すことから「神の刻印」と言います。これに対し、黙示録には「獣の刻印」(14:9、他)という言葉が出てきます。これは神に背く者の印であり、やがて彼らは神の裁きによって滅ぼされてしまいます。
それでは、私たちにはどのような印がつけられているのでしょうか。それはキリストです。キリストが私たちの印なのです。キリストは十字架で流された血によって私たちを罪と死から救い、神の所有とし、保護してくださっているのです。「印」という言葉ではありませんが、ローマの信徒への手紙6章に「キリストに結ばれる洗礼」という言葉があり、「キリストと共に生きる」(6:8)、「罪に対して死に、キリスト・イエスに結ばれて神に対して生きる」(6:11)と言われています。洗礼は私たちがキリストに結ばれている印なのです。「神は、私たちに証印を押して、保証として “霊”を与えてくださった」(Ⅱコリント1:22)、「聖霊で証印を押された」(エフェソ1:13)とあるように、私たちが「神の刻印」を受けているのです。これは聖霊の働きによるのであり、洗礼はそれの証なのです。
黙示録は、神の刻印を受けた人は神の国に生きる者とされていると告げます。すなわち、神の国の市民とされているということです。私たちも、キリストの名による洗礼を受け、神の国の市民とされています。しかし、まだ用意された御国に入ったわけではありません。御国へと向かう旅の途中です。その意味では、エジプトを脱出したイスラエルの民が40年の荒野の旅をし、約束の地に入って行ったのと似ています。「私たちの本国は天にある」(フィリピ3:20)という言葉は、私たちの旅が神の国へと向かっていることを思い起こさせます。そして、それを思い起こすことは私たちが神の国の市民であることを思い起こさせるのです。神が私たちを御国へと導き、また同時に、御国で私たちの到着を待ってくださっているのです。ちょうど、放蕩息子の父親が、帰ってくる息子を遠くで見つけ、走り寄って温かく迎える父親のように(ルカ15章)、神は待っておられるのです。