八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「湖上を歩いて近づくイエス」  2018年1月21日の礼拝

2018年02月25日 | 2017年度
イザヤ書43章10~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしの証人はあなたたち
 わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。
 あなたたちはわたしを知り、信じ
 理解するであろう
 わたしこそ主、わたしの前に神は造られず
 わたしの後にも存在しないことを。
 わたし、わたしが主である。
 わたしのほかに救い主はない。

マタイによる福音書14章22~33節(日本聖書協会「新共同訳」)

  それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。


  マタイ14章13節に主イエスがひとり人里離れたところに行かれたと記されています。ところが大勢の人々がやって来て癒しを求めました。それに応えて人々を癒し、夕暮れになったため、空腹になった人々のため奇跡を起こされました。いわゆる五千人の給食と呼ばれている出来事です。その後、群衆を解散させ、弟子たちには強いて舟に乗せ、対岸のゲネサレトへと向かわせられました。主イエスご自身は、ひとり山に登り、祈られました。おそらく14章13節に記されている人里離れたところに行かれた目的は祈るためであったと思われます。
  主イエスがたびたびひとりで祈られた様子が、福音書に記されています。主イエスはひとりで祈ることを大切にしていたことが分かります。特にこの時は、洗礼者ヨハネが殉教したとの報告を受けた後でした。ヨハネのことを思い起こしていたということもあるでしょうが、全ての人々の救いのために十字架にかかる時がいよいよ近づいたという思いがあったからではないでしょうか。主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、そのヨハネが捕らえられたと聞き、伝道を開始されました。また彼の死の報告が届いたとき、神のご計画が次の段階に進んだことを知り、ゲツセマネで祈られたように「あなたの御心が行われますように」(マタイ26章42節)と祈られたのではないでしょうか。ヨハネの出来事は、神のご計画が進行していることを示していたのです。そのようにして神のご計画が進んでいくのを感じ、ひとり山で祈っておられたのです。
  一晩中祈っておられた主イエスは、先に舟で対岸へ向かわせたはずの弟子たちが、風と波によって湖の真ん中で立ち往生していることに気が付かれました。主イエスは、直ちに弟子たちの所へ向かわれます。その場で風と波を静めることができたと思いますが、弟子たちのそばに行くことが重要と考えられたのでしょう。湖の上を歩き、弟子たちの舟に近づかれました。
  この奇跡は、主イエスの神の子としての力を示しているだけではありません。第一に、困難に遭っている弟子たちのそばにいようとしてくださる主イエスの決意が示されています。第二に、たとえ湖であっても、波と風であっても、その他どのような状況にあっても、主イエスの行く手を阻むことができないことを示しています。使徒パウロが「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8章38~39節)と、告げているとおりです。




「五つのパンと二匹の魚」  2018年1月7日の礼拝

2018年02月20日 | 2017年度
出エジプト記16章33~35節(日本聖書協会「新共同訳」)

  モーセがアロンに、「壺を用意し、その中に正味一オメルのマナを入れ、それを主の御前に置き、代々にわたって蓄えておきなさい」と言うと、アロンは、主がモーセに命じられたとおり、それを掟の箱の前に置いて蓄えた。イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた。

マタイによる福音書14章13~21節(日本聖書協会「新共同訳」)

  イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。


  洗礼者ヨハネが殺害された報告を聞いた主イエスは、ひとりで人里離れたところに行かれました。身の危険を案じてではなく、祈るためでした。福音書はたびたび主イエスが祈るために一人になられたと記しています。洗礼者ヨハネの死は、主イエスの十字架と復活の時が迫っていることを告げる出来事だったのです。主イエスの十字架と復活は、全ての人々を救うための神のご計画でした。主イエスの地上の生涯は、この時へと向かっていたのです。そして、いよいよその時が近づき、父なる神に祈ろうとして、人里離れたところへと向かわれたのです。
  しかし、方々の町から集まった群衆が、主イエスの後を追って来ました。主イエスは、彼らを深く憐れまれました。「深く憐れむ」と訳された言葉は、もともと「内臓、はらわた」を意味する言葉から来ており、はらわたが動かされるほどの激しい感情の動きを表しています。この表現は福音書の中だけに、しかも主イエスの感情を表現する時に使われています。そのような人々への激しい憐れみから、病人たちをお癒しになられたのです。
  夕暮れになると、弟子たちが主イエスの所にやって来て、「群衆を解散させましょう」と提案してきました。彼らが空腹になっているのではないかと心配したからです。しかし主イエスは、解散させる前に弟子たちの手によって食料を配るようにとおっしゃいました。弟子たちが持っていたのはパン五つと魚二匹だけでしたが、主イエスが祈られ、弟子たちにパンと魚を配らせると、群衆はそれらを食べ、満腹になりました。奇跡が起こったのです。そこにいた人々は女性と子どもを別にして五千人いましたので「五千人の給食」と呼ばれています。
  マタイ福音書4章に、主イエスが悪魔から誘惑を受けたという出来事が記されています。その誘惑の一つは、「神の子なら石をパンに変えてみろ」というものでした。それに対し主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という旧約聖書の言葉を引用し、その誘惑を退けられました。この出来事を考えてみますと、五千人の人々の空腹を奇跡によって満たしたことは、悪魔の誘惑を退けた言葉と矛盾するように思われます。
  一見矛盾に見える二つの出来事を理解するために、主イエスを誘惑した悪魔の本当の目的を知ることが大切です。悪魔の意図は、「神の子としての働きは、人々に食料を与えることは果たせるのではないか」ということなのです。それに対して主イエスは、「神の子としての働きは、食料を与えることによってではなく、神の御言葉を与えることによって果たされる」と答えられたのです。言い換えれば、神の御心を人々に明らかにすることであり、それは全ての人々のための贖罪として十字架にかかることだとおっしゃっておられるのです。しかし、それは人々の空腹を無視するということではありません。主イエスは、空腹の彼らを深く憐れまれたのです。その結果、空腹のまま帰らせないようにと奇跡を起こされたのです。主イエスのなさった奇跡は、人々に対する憐れみから出たみ業なのです。主イエスはかつて「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要であることをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6章31~33節)と教えられました。主イエスも人々に必要な物が何であるかをよくご存じであり、速やかに行動されたのです。


「神の慈しみによって」  2017年12月31日の礼拝

2018年02月12日 | 2017年度
詩編44編2~27節(日本聖書協会「新共同訳」)

 神よ、我らはこの耳で聞いています
 先祖が我らに語り伝えたことを
 先祖の時代、いにしえの日に
   あなたが成し遂げられた御業を。
 我らの先祖を植え付けるために
   御手をもって国々の領土を取り上げ
 その枝が伸びるために
   国々の民を災いに落としたのはあなたでした。
 先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも
 自分の腕の力によって勝利を得たのでもなく
 あなたの右の御手、あなたの御腕
 あなたの御顔の光によるものでした。
 これがあなたのお望みでした。

 神よ、あなたこそわたしの王。
 ヤコブが勝利を得るように定めてください。
 あなたに頼って敵を攻め
 我らに立ち向かう者を
   御名に頼って踏みにじらせてください。
 わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。
 自分の剣によって勝利を得ようともしていません。
 我らを敵に勝たせ
 我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。
 我らは絶えることなく神を賛美し
 とこしえに、御名に感謝をささげます。〔セラ

 しかし、あなたは我らを見放されました。
 我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず
 我らが敵から敗走するままになさったので
 我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。
 あなたは我らを食い尽くされる羊として
 国々の中に散らされました。
 御自分の民を、僅かの値で売り渡し
 その価を高くしようともなさいませんでした。
 我らを隣の国々の嘲りの的とし
 周囲の民が嘲笑い、そしるにまかせ
 我らを国々の嘲りの歌とし
 多くの民が頭を振って侮るにまかせられました。
 辱めは絶えることなくわたしの前にあり
 わたしの顔は恥に覆われています。
 嘲る声、ののしる声がします。
 報復しようとする敵がいます。

 これらのことがすべてふりかかっても
 なお、我らは決してあなたを忘れることなく
 あなたとの契約をむなしいものとせず
 我らの心はあなたを裏切らず
 あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。

 あなたはそれでも我らを打ちのめし
   山犬の住みかに捨て
 死の陰で覆ってしまわれました。
 このような我らが、我らの神の御名を忘れ去り
 異教の神に向かって
   手を広げるようなことがあれば
 神はなお、それを探り出されます。
 心に隠していることを神は必ず知られます。
 我らはあなたゆえに、絶えることなく
   殺される者となり
 屠るための羊と見なされています。

 主よ、奮い立ってください。
 なぜ、眠っておられるのですか。
 永久に我らを突き放しておくことなく
 目覚めてください。
 なぜ、御顔を隠しておられるのですか。
 我らが貧しく、虐げられていることを
   忘れてしまわれたのですか。
 我らの魂は塵に伏し
 腹は地に着いたままです。
 立ち上がって、我らをお助けください。
 我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。


ローマの信徒への手紙8章23~25節(日本聖書協会「新共同訳」)

  被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。


  詩編44編の詩人は苦境に直面しています。この詩編の最初は過去の神の恵みと導きを思い起こしつつ、直面している苦境から救ってくれるよう懇願しています。それに続いて、何故神は今の苦境を省みてくださらないのか、何故沈黙しておられるのかと不満を募らせています。それでも、かろうじて神への信仰を捨てないようにと、神に訴え続けています。23節では、詩人と神の民が受ける苦難は、神のせいだとさえ言うほどです。この詩人は神への不信ぎりぎりのところまで追いつめられているのです。
  信仰者が何故悩み苦しむのかという問題は、聖書の中で時々取り上げられます。特に有名なのはヨブ記でしょう。そのヨブ記では、信仰者が何故苦しむのかという答えは出てきません。神がヨブに語られたのは、ご自身が天地の全てを創造し支配しておられる神であるということだけです。私たちにはこれだけで納得することは難しいように思われますが、ヨブはこの神の言葉を聞いて納得するのです。何故信仰者が苦難を受けるのかという答えはありませんが、神が全てを支配しておられることを告げることにより、ヨブが受けている悩みについても神は知っておられるということです。そして、神が知ってくださっていることは、苦難の意味を知らされなくとも、神は必ずこの状況を良い方向へと変えてくださるという信頼を生み出したのです。
  使徒パウロはローマの信徒への手紙8章26節で、この23節を引用し、信仰者が受ける苦難について語っています。しかしパウロは、神への不信ではなく、人々から受ける苦難にまさる神の恵みを語ります。たとえどのような苦難に遭おうとも、キリストの愛から決して離されはしないと断言しているのです。パウロは、罪とその呪いの中にある私たちの世界には、神に逆らう者たちによる迫害やその他の苦難は現実にあると告げ、しかし、それにもかかわらず、私たち信仰者は神の愛から決して引き離されることはないと断言するのです。
  詩編44編27節に「慈しみ」という言葉が出てきます。この言葉は「契約の愛」と説明されます。それは感情的情緒的な愛情ということではなく、神の変わることのない愛ということです。神は約束されたことを決して破ることはなく、しかも相手の状況がどのように変わろうとも、約束を無効にすることはない誠実な愛ということです。詩人はこのような神との確かな関係の中に置かれていることを前提に、神に訴えているのです。
  私たちキリスト者は、神のこのような慈しみを主イエス・キリストによって示されました。それ故、このような神の愛から、私たちを引き離すことが出来るものは何一つ無いのです。(ローマの信徒への手紙8章35~39節)


「神の導き」  2017年12月24日の礼拝

2018年02月05日 | 2017年度
出エジプト記13章21~22節(日本聖書協会「新共同訳」)

  主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。


マタイによる福音書2章9~11節(日本聖書協会「新共同訳」)

  彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

  占星術の学者たちを導いた星を「ベツレヘムの星」と呼ぶことがあります。この星が一体何であるのかは、いろいろな推測がされてきましたが、はっきりとしません。17世紀にケプラーが惑星の動きと関係があると主張したことが、この星についての一番可能性が高い科学的な仮説とされています。
  表面的には、占星術の学者たちを導いたのは星ですが、その星を用いて彼らを導いたのは神です。旧約聖書には、荒野の40年間、イスラエルの人々を導くのに、神は昼は雲の柱、夜は火の柱を用いたとされています。ベツレヘムの星はそれと同じように、占星術の学者たちを導いたのです。
  雲の柱と火の柱は神が共にいますことの目に見える象徴となりました。聖書は、私たちに、神は私たちと共にいてくださり、導いてくださる方だと告げています。
  主イエスを拝みに来たのはユダヤ人ではなく、おそらく異邦人と思われる占星術の学者たちでした。何故、占星術の学者たちだったのでしょう。マタイ福音書にとって重要だったのは、彼らが異邦人だったということです。地の果てから異邦人が救い主を求めてユダヤに来ました。マタイ福音書の最後の場面において、復活された主イエスが弟子たちを伝道に派遣します。全ての民をキリストの弟子にしなさいとの使命が与えられたのです。使徒言行録1章8節の言葉で言うと「あなたがたは、地の果てに至るまで、私の証人となる」ということです。マタイ福音書は、異邦人への伝道に強い関心があったと言えます。そのため、地の果てから救い主を求めて異邦人が訪ねて来、異邦人に救いを伝えるため、地の果てまで行きなさいと命じられたという形式を意識して書かれているのです。
  さて、占星術の学者たちは救い主を求めて、星に導かれて主イエスのもとへやって来ることが出来ました。私たちはどうなのでしょうか。私たちには、星よりも確かな聖書が与えられ、救い主へと導かれています。Ⅱテモテ3章15節で「聖書はキリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を与える」と言われているとおりです。またヨハネ福音書5章39節で、主イエスが「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」と告げています。神は聖書を用いて、私たちを主イエスのもとへと導いてくださいます。主イエスのもとに導かれた私たちは、さらに神の都、父なる神のもとへと導かれていくのです。主イエスは、「私は道である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことが出来ない」(ヨハネ14章6節)と、約束してくださっていますので、私たちは確実に神の都、父なる神のもとへと導かれていくのです。