イザヤ書43章10~11節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしの証人はあなたたち
わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。
あなたたちはわたしを知り、信じ
理解するであろう
わたしこそ主、わたしの前に神は造られず
わたしの後にも存在しないことを。
わたし、わたしが主である。
わたしのほかに救い主はない。
マタイによる福音書14章22~33節(日本聖書協会「新共同訳」)
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
マタイ14章13節に主イエスがひとり人里離れたところに行かれたと記されています。ところが大勢の人々がやって来て癒しを求めました。それに応えて人々を癒し、夕暮れになったため、空腹になった人々のため奇跡を起こされました。いわゆる五千人の給食と呼ばれている出来事です。その後、群衆を解散させ、弟子たちには強いて舟に乗せ、対岸のゲネサレトへと向かわせられました。主イエスご自身は、ひとり山に登り、祈られました。おそらく14章13節に記されている人里離れたところに行かれた目的は祈るためであったと思われます。
主イエスがたびたびひとりで祈られた様子が、福音書に記されています。主イエスはひとりで祈ることを大切にしていたことが分かります。特にこの時は、洗礼者ヨハネが殉教したとの報告を受けた後でした。ヨハネのことを思い起こしていたということもあるでしょうが、全ての人々の救いのために十字架にかかる時がいよいよ近づいたという思いがあったからではないでしょうか。主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、そのヨハネが捕らえられたと聞き、伝道を開始されました。また彼の死の報告が届いたとき、神のご計画が次の段階に進んだことを知り、ゲツセマネで祈られたように「あなたの御心が行われますように」(マタイ26章42節)と祈られたのではないでしょうか。ヨハネの出来事は、神のご計画が進行していることを示していたのです。そのようにして神のご計画が進んでいくのを感じ、ひとり山で祈っておられたのです。
一晩中祈っておられた主イエスは、先に舟で対岸へ向かわせたはずの弟子たちが、風と波によって湖の真ん中で立ち往生していることに気が付かれました。主イエスは、直ちに弟子たちの所へ向かわれます。その場で風と波を静めることができたと思いますが、弟子たちのそばに行くことが重要と考えられたのでしょう。湖の上を歩き、弟子たちの舟に近づかれました。
この奇跡は、主イエスの神の子としての力を示しているだけではありません。第一に、困難に遭っている弟子たちのそばにいようとしてくださる主イエスの決意が示されています。第二に、たとえ湖であっても、波と風であっても、その他どのような状況にあっても、主イエスの行く手を阻むことができないことを示しています。使徒パウロが「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8章38~39節)と、告げているとおりです。
わたしの証人はあなたたち
わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。
あなたたちはわたしを知り、信じ
理解するであろう
わたしこそ主、わたしの前に神は造られず
わたしの後にも存在しないことを。
わたし、わたしが主である。
わたしのほかに救い主はない。
マタイによる福音書14章22~33節(日本聖書協会「新共同訳」)
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
マタイ14章13節に主イエスがひとり人里離れたところに行かれたと記されています。ところが大勢の人々がやって来て癒しを求めました。それに応えて人々を癒し、夕暮れになったため、空腹になった人々のため奇跡を起こされました。いわゆる五千人の給食と呼ばれている出来事です。その後、群衆を解散させ、弟子たちには強いて舟に乗せ、対岸のゲネサレトへと向かわせられました。主イエスご自身は、ひとり山に登り、祈られました。おそらく14章13節に記されている人里離れたところに行かれた目的は祈るためであったと思われます。
主イエスがたびたびひとりで祈られた様子が、福音書に記されています。主イエスはひとりで祈ることを大切にしていたことが分かります。特にこの時は、洗礼者ヨハネが殉教したとの報告を受けた後でした。ヨハネのことを思い起こしていたということもあるでしょうが、全ての人々の救いのために十字架にかかる時がいよいよ近づいたという思いがあったからではないでしょうか。主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、そのヨハネが捕らえられたと聞き、伝道を開始されました。また彼の死の報告が届いたとき、神のご計画が次の段階に進んだことを知り、ゲツセマネで祈られたように「あなたの御心が行われますように」(マタイ26章42節)と祈られたのではないでしょうか。ヨハネの出来事は、神のご計画が進行していることを示していたのです。そのようにして神のご計画が進んでいくのを感じ、ひとり山で祈っておられたのです。
一晩中祈っておられた主イエスは、先に舟で対岸へ向かわせたはずの弟子たちが、風と波によって湖の真ん中で立ち往生していることに気が付かれました。主イエスは、直ちに弟子たちの所へ向かわれます。その場で風と波を静めることができたと思いますが、弟子たちのそばに行くことが重要と考えられたのでしょう。湖の上を歩き、弟子たちの舟に近づかれました。
この奇跡は、主イエスの神の子としての力を示しているだけではありません。第一に、困難に遭っている弟子たちのそばにいようとしてくださる主イエスの決意が示されています。第二に、たとえ湖であっても、波と風であっても、その他どのような状況にあっても、主イエスの行く手を阻むことができないことを示しています。使徒パウロが「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8章38~39節)と、告げているとおりです。