イザヤ書27章2~6節(日本聖書協会「新共同訳」)
その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。
主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ
害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。
わたしは、もはや憤っていない。
茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば
わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす。
そうではなく、わたしを砦と頼む者は
わたしと和解するがよい。
和解をわたしとするがよい。
時が来れば、ヤコブは根を下ろし
イスラエルは芽を出し、花を咲かせ
地上をその実りで満たす。
ローマの信徒への手紙8章31~39節(日本聖書協会「新共同訳」)
では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
先週の礼拝では、主イエス・キリストの十字架が神の御業であるという事を見ました。もし、神が主イエスを十字架におかけになったというのであれば、その目的な何であったのでしょうか。聖書は、神が私たちと和解しようとされたからだと告げています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:18)とある通りです。
神との和解というのであれば、それは今まで神と敵対関係にあったことを意味しています。私たちにとってこれは意外なことのように思えます。そのような自覚がないからです。神の御心に添えないという事実を認めることができますが、神に敵対しているとまでは考えることができません。しかし、聖書は、神の御心に添えない生き方そのものが神に敵対している事実を示しているというのです。神の御心に添えないということを、罪と説明されるならまだ理解できます。しかし、神に敵対しているというのには、なかなか納得できないのではないでしょうか。それは罪を単なる失敗とか能力不足と考えているからかも知れません。しかし、聖書は神から何が正しく何が悪いかということについての充分な知識を与えられていながら、自らの意志で神に背く行為を繰り返してきた事を明らかにしています。聖書はこれを神に対する反逆であるとまで言います。
しかし、それと同時に聖書は、神が人々の犯した罪と反逆の全てを赦す(エレミヤ33:8)と約束してくださったと告げるのです。それは主イエス・キリストによって実現しました。主イエスが十字架にかかり、私たちの罪の贖いとなったことによって、神が私たちの罪を赦してくださったのです。これが神との和解ということです。
これは、罪人である私たちの方から申し出たものではありません。神の方から差し伸べられた和解の手です。その手を握り返し、神への感謝の生活をする以外何の条件も付けられていません。その意味では、神との和解は、無償で与えられた神の恵みと言えます。「わたしたちがまだ罪人であったとき、神はわたしたちに対する愛を示されました。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ5:8~10)とあるとおりです。
神によって和解させていただいた私たちは、この神の愛から引き離されることはありません。和解してくださった神は、気まぐれな方ではないので、私たちを見捨てることはありません。そして、神の力を上回って、私たちを神から引き離す力のある者もいないのです。そして、私たちが神から離れるようなことがあったとしても、迷える小羊を捜し回る羊飼いのように私たちを捜し出し、御国へと導いてくださるのです。
その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。
主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ
害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。
わたしは、もはや憤っていない。
茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば
わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす。
そうではなく、わたしを砦と頼む者は
わたしと和解するがよい。
和解をわたしとするがよい。
時が来れば、ヤコブは根を下ろし
イスラエルは芽を出し、花を咲かせ
地上をその実りで満たす。
ローマの信徒への手紙8章31~39節(日本聖書協会「新共同訳」)
では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
先週の礼拝では、主イエス・キリストの十字架が神の御業であるという事を見ました。もし、神が主イエスを十字架におかけになったというのであれば、その目的な何であったのでしょうか。聖書は、神が私たちと和解しようとされたからだと告げています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:18)とある通りです。
神との和解というのであれば、それは今まで神と敵対関係にあったことを意味しています。私たちにとってこれは意外なことのように思えます。そのような自覚がないからです。神の御心に添えないという事実を認めることができますが、神に敵対しているとまでは考えることができません。しかし、聖書は、神の御心に添えない生き方そのものが神に敵対している事実を示しているというのです。神の御心に添えないということを、罪と説明されるならまだ理解できます。しかし、神に敵対しているというのには、なかなか納得できないのではないでしょうか。それは罪を単なる失敗とか能力不足と考えているからかも知れません。しかし、聖書は神から何が正しく何が悪いかということについての充分な知識を与えられていながら、自らの意志で神に背く行為を繰り返してきた事を明らかにしています。聖書はこれを神に対する反逆であるとまで言います。
しかし、それと同時に聖書は、神が人々の犯した罪と反逆の全てを赦す(エレミヤ33:8)と約束してくださったと告げるのです。それは主イエス・キリストによって実現しました。主イエスが十字架にかかり、私たちの罪の贖いとなったことによって、神が私たちの罪を赦してくださったのです。これが神との和解ということです。
これは、罪人である私たちの方から申し出たものではありません。神の方から差し伸べられた和解の手です。その手を握り返し、神への感謝の生活をする以外何の条件も付けられていません。その意味では、神との和解は、無償で与えられた神の恵みと言えます。「わたしたちがまだ罪人であったとき、神はわたしたちに対する愛を示されました。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ5:8~10)とあるとおりです。
神によって和解させていただいた私たちは、この神の愛から引き離されることはありません。和解してくださった神は、気まぐれな方ではないので、私たちを見捨てることはありません。そして、神の力を上回って、私たちを神から引き離す力のある者もいないのです。そして、私たちが神から離れるようなことがあったとしても、迷える小羊を捜し回る羊飼いのように私たちを捜し出し、御国へと導いてくださるのです。