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八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神との和解」 2020年3月29日の礼拝

2020年05月30日 | 2019年度
イザヤ書27章2~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

 その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。
 主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ
 害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。
 わたしは、もはや憤っていない。
 茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば
 わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす。
 そうではなく、わたしを砦と頼む者は
 わたしと和解するがよい。
 和解をわたしとするがよい。
 時が来れば、ヤコブは根を下ろし
 イスラエルは芽を出し、花を咲かせ
 地上をその実りで満たす。


ローマの信徒への手紙8章31~39節(日本聖書協会「新共同訳」)

  では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
 「わたしたちは、あなたのために
   一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」
と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。


  先週の礼拝では、主イエス・キリストの十字架が神の御業であるという事を見ました。もし、神が主イエスを十字架におかけになったというのであれば、その目的な何であったのでしょうか。聖書は、神が私たちと和解しようとされたからだと告げています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:18)とある通りです。
  神との和解というのであれば、それは今まで神と敵対関係にあったことを意味しています。私たちにとってこれは意外なことのように思えます。そのような自覚がないからです。神の御心に添えないという事実を認めることができますが、神に敵対しているとまでは考えることができません。しかし、聖書は、神の御心に添えない生き方そのものが神に敵対している事実を示しているというのです。神の御心に添えないということを、罪と説明されるならまだ理解できます。しかし、神に敵対しているというのには、なかなか納得できないのではないでしょうか。それは罪を単なる失敗とか能力不足と考えているからかも知れません。しかし、聖書は神から何が正しく何が悪いかということについての充分な知識を与えられていながら、自らの意志で神に背く行為を繰り返してきた事を明らかにしています。聖書はこれを神に対する反逆であるとまで言います。
  しかし、それと同時に聖書は、神が人々の犯した罪と反逆の全てを赦す(エレミヤ33:8)と約束してくださったと告げるのです。それは主イエス・キリストによって実現しました。主イエスが十字架にかかり、私たちの罪の贖いとなったことによって、神が私たちの罪を赦してくださったのです。これが神との和解ということです。
  これは、罪人である私たちの方から申し出たものではありません。神の方から差し伸べられた和解の手です。その手を握り返し、神への感謝の生活をする以外何の条件も付けられていません。その意味では、神との和解は、無償で与えられた神の恵みと言えます。「わたしたちがまだ罪人であったとき、神はわたしたちに対する愛を示されました。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ5:8~10)とあるとおりです。
  神によって和解させていただいた私たちは、この神の愛から引き離されることはありません。和解してくださった神は、気まぐれな方ではないので、私たちを見捨てることはありません。そして、神の力を上回って、私たちを神から引き離す力のある者もいないのです。そして、私たちが神から離れるようなことがあったとしても、迷える小羊を捜し回る羊飼いのように私たちを捜し出し、御国へと導いてくださるのです。


「神の御業としての十字架」 2020年3月22日の礼拝

2020年05月29日 | 2019年度
イザヤ書53章1~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
 主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
 この人は主の前に育った。
 見るべき面影はなく
 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し
 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。
 彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって
   わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
 わたしたちは羊の群れ
 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
 そのわたしたちの罪をすべて
   主は彼に負わせられた。
 苦役を課せられて、かがみ込み
 彼は口を開かなかった。
 屠り場に引かれる小羊のように
 毛を切る者の前に物を言わない羊のように
 彼は口を開かなかった。
 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
 わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
 命ある者の地から断たれたことを。
 彼は不法を働かず
 その口に偽りもなかったのに
 その墓は神に逆らう者と共にされ
 富める者と共に葬られた。
 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
 彼は自らを償いの献げ物とした。
 彼は、子孫が末永く続くのを見る。
 主の望まれることは
   彼の手によって成し遂げられる。

 彼は自らの苦しみの実りを見
 それを知って満足する。
 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
 彼らの罪を自ら負った。
 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
 彼が自らをなげうち、死んで
 罪人のひとりに数えられたからだ。
 多くの人の過ちを担い
 背いた者のために執り成しをしたのは
 この人であった。


フィリピの信徒への手紙2章6~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。


  主イエス・キリストが十字架にかけられた責任はローマ人にあるのか、それともユダヤ人にあるとかという議論は、昔からありました。
  十字架はローマ帝国が行っていた死刑方法なので、ローマ人に責任があるとするのがローマ人説で、ローマから派遣されたピラトに主イエスを裁かせたのはユダヤの大祭司であり、またイスカリオテのユダの裏切りによるので、ユダヤ人に責任があるとするのがユダヤ人説です。
  この問題は過ぎ去った過去の問題というだけではなく、しばしばユダヤ人を迫害する根拠として、この議論が表面化してきた歴史があります。特に、マタイ福音書27章に記されているピラトによる裁判の場でのピラトとユダヤの民衆とのやりとりが引用されてきました。「ピラトは群衆の前で手を洗って『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。』と言ったのに対し、ユダヤの民衆は『その血の責任は、我々と子孫にある。』と答えた。」(27:24~25)という件りです。第二次世界大戦の時のユダヤ人への迫害はこの言葉を根拠とされ、当時のキリスト教会もこれに加担したとも言われます。
  しかし、以上のローマ人説やユダヤ人説とは別に、聖書は次のように語っています。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4:25)。また「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8:32)。これらの言葉は主イエスを死に引き渡したのは父なる神であると言っているのです。すなわち、父なる神にその責任があると言っているのです。もちろん、主イエスの死の責任を、単に父なる神に押しつけようとしているのではありません。主イエスの十字架は神のご計画ですが、それは全ての人の罪の贖いとして神がご計画されたと言っているのです。その意味では責任は神にあると言えるのですが、そもそも神がそのようなご計画を立て、それを実行されたのは何のためでしょうか。私たち人間を罪から救うためだったのではないでしょうか。先ほど引用したローマ書もそのことを言おうとしているのです。それはイザヤ書53章に記されている御言葉が成就したことを意味しています。
  さらに聖書は、神の独り子イエスも父なる神のご計画に従って、自ら十字架へと進んで行かれたと記しています。このようにして、主イエスの十字架は、神のご計画であり、御業であることを告げているのです。
  そこで、最初の問題を振り返っておく必要があります。マタイ27:24~25の言葉です。キリスト教会は、あの言葉をユダヤ人迫害の根拠としたことがありました。それは明らかに大きな誤りでした。あの言葉は神の民の言葉として聞かなければならなかったのです。神が全ての人を罪から救うご計画によって十字架におかけになったのですから、あの言葉を神の民にこそ責任があると受けとめなければならなかったのです。そうであれば、十字架の責任はユダヤ人だけでなく、むしろキリスト教会も神の民として、主イエスの血には「我々にも責任がある」と告白すべきだったのです。
  主イエスの十字架に責任が無いという人は、自分が神の救いに無関係であると言い放っている事を知るべきでしょう。



「神から選ばれたパウロ」 2020年3月15日の礼拝

2020年05月28日 | 2019年度
申命記7章6~8節(日本聖書協会「新共同訳」)

  あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

使徒言行録9章10~19節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。


  主イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダの名前が出てくる時、福音書は彼を「十二人の弟子の一人」と紹介しています。主イエスの弟子は数多くいたと思われますが、十二人の弟子というのは、その中の中心的なメンバーです。当然、主イエスの最も身近にいた人物ということです。ですから、ユダの裏切りは、他の弟子たちにとってとても大きな衝撃でしたが、そのユダは、自滅してしまいました。
  使徒言行録1章には、そのユダの自滅の様子と共に、彼に代わって十二人の弟子(この時は使徒と呼ばれています)に加わる人を選ぶ様子も記されています。その時、ペトロが「私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです」と言い、マッテヤという人物が使徒に選ばれました。
  十二という数字は、旧約時代からイスラエルの十二部族などのように、完全数としての象徴的な意味を持っていました。使徒の数が十二というのもそれです。実際はきっちり十二ではないと言うことがあります。旧約の十二部族は、レビ族を加えると十三になるのですが、それでも十二部族という言い方がされました。十二人の使徒というのも象徴的な意味があったのです。
  一コリント15章3~11節に「主イエスが三日目に復活し、十二人に現れた」とあります。主イエスが復活された時というのは、イスカリオテのユダが十二人からはずれており、またマッテヤが使徒に選ばれたのは、主イエスが天に昇られた後です。ですから、厳密に言いますと、復活された主イエスが現れたのは、十一人に対してであったはずですから、十二人という数字は象徴的な表現であったと言えます。
  それを考えると、使徒言行録1章の使徒の補充の記述は、十二人の内一人が欠けたのでそれを補充したとされていますが、それは単に数の問題と考えるべきかという疑問が浮かんできます。きっかけは確かに数の問題であったかも知れません。しかし、それ以上に重要なのは、「私たちに加わって、主の復活の証人になるべき」というペトロの言葉です。この言葉こそ、使徒の使命を明らかにしているからです。使徒言行録は、この使命を果たす使徒たちの働きを伝えていると言えます。しかし、そうしますと、マッテヤは使徒の補充選挙の時に名前が出てくるだけで、その後の働きについては何も記されていません。もちろん、だからと言って、彼が何の働きをしなかったというわけではないでしょう。それを考えると、使徒言行録が関心を持っているのは、使徒パウロと言えます。使徒言行録の後半がパウロの伝道に集中しているからです。そのパウロは、はじめはキリスト者を迫害していました。それがキリスト者となり、伝道者になりました。その様子が使徒言行録9章に記されているのです。
  神の選びの不思議さを思わずにはいられません。旧約の申命記7章は、神の選びの不思議さを語っています。そして、神の選びは、神の固い決意とも言えます。しかも、私たちの常識をはるかに超える神のご計画があり、それを確実に実行する神の力があります。全ての人々を救うという神のご計画であり、キリストの十字架と復活によって全ての人々を救い、そして、迫害する者が神の救いを宣べ伝える者へと変えるという神の力です。私たちもまた同じように、神のこのご計画により救いに選ばれ、そして神の力により、滅びに定められていた私たちは神の救いを受ける者へと変えられ、さらに、その救いを宣べ伝える者へと変えられたのです。


「イスカリオテのユダ」 2020年3月1日の礼拝

2020年05月27日 | 2019年度
詩編41編10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 わたしの信頼していた仲間
 わたしのパンを食べる者が
   威張ってわたしを足げにします。


ヨハネによる福音書6章60~71節(日本聖書協会「新共同訳」)

  ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
  このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。



  ヨハネ福音書6章には、多くの弟子たちが主イエスから去っていったことが記されています。主イエスがご自身を天から下ってきたパンだとおっしゃった意味が分からず、さらに主イエスが「私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠に生きる」とおっしゃったため、彼らがますます混乱したからです。それは後に教会で行われる聖餐を指していたのですが、彼らには理解できなかったのです。
  主イエスのもとに残ったのは、ペトロをはじめとする12人の弟子たちだけでした。彼らは12弟子とか12使徒と呼ばれる最も身近な弟子たちで、その中にイスカリオテのユダもいたのです。
  イスカリオテのユダは主イエスを裏切った人物としてよく知られていますが、詳しいことは何も分かっていません。父親の名がシモンであることは、今日の聖書の箇所にのみ出てきます。彼の素性はほとんど知ることはできませんが、財布を預かっていたことから主イエスや弟子たちから信頼されていたことが分かります。また、最後の晩餐では、主イエスの隣の席に着いていたらしいことも分かっています。そして、どの福音書も彼の名前を出す時、「12人の一人」という言葉と共に「このユダが裏切った」という言葉を使っています。主イエスの最も身近な存在であった弟子が主イエスを裏切ったのです。
  「裏切り」と言えば、今年の大河ドラマの主人公、明智光秀を連想させます。明智光秀は主君織田信長に信頼されていた武将でしたが、突然大軍を率いて無防備同然の信長を襲い、命を奪ってしましました。この光秀と比べれば、ユダの裏切りの行為はささやかなものです。軍隊を率いて命を奪ったのではなく、役人たちを手引きしただけです。主イエスが隠れ家に潜んでいたわけではありません。毎日、神殿で多くの人の前に堂々と姿を現していました。大祭司たちはいつでも主イエスを捕らえることができたのです。実際そうする計画でした。しかし、彼らは祭りが終わってからと決めていたのです。しかし、そこへやって来たのがユダでした。主イエスをできるだけ目立たないように捕らえる機会を、大祭司たちが必要とし、ユダがそれを提供しただけです。言ってみれば、ユダは崖の斜面で石を転がしたにすぎず、それが大きな災害の原因となったようなものと言えます。裏切りであることは確かですが、行為としては極めてささやかでした。
  「裏切る」はもともと「引き渡す」という意味でしたが、これ以降、「裏切る」という意味でも使われるようになりました。ユダはお金で主イエスを役人に引き渡しました。役人は大祭司に、大祭司はユダヤ総督に、ユダヤ総督は死刑執行人に、死刑執行人は主イエスを死に引き渡したのです。
  主イエスは十字架にかかり、全ての人の罪の贖いとなりました。これは神のご計画でした。これだけを見ると、ユダは神のご計画の手助けをしたかのように見えます。しかし、彼は悪意から行動したのであり、正当化されることはありません。それゆえ、主イエスは彼を「悪魔」と言うのです。主イエスの最も身近な存在であった弟子が、神のご計画を妨げようと行動し、「悪魔」と呼ばれたのです。しかし、神は、ユダの悪しき行動を全ての人を救うために逆用されました。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:20)のように、十字架は、神が人間の悪を善に変えられた出来事でした。すなわち、多くの民の命を救う神の恵みの出来事となったのです。


「大金を預けられた僕たち」 2020年2月23日の礼拝

2020年05月25日 | 2019年度
イザヤ書49章1~6節(日本聖書協会「新共同訳」)

 島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた
 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。
 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。
 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために
 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主は
 こう言われる。
 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。


マタイによる福音書25章14~30節(日本聖書協会「新共同訳」)

  「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」


  マタイ福音書24章から終末についての教えが続いています。一般に「タラントンのたとえ」と呼ばれている今日の聖書の言葉も、その一部分として記されています。これまで主イエスがご自身の再臨について語られ、その時が来るまで、私たちがどのように生活すべきかが教えられてきました。そして、25章1節以下の「十人のおとめのたとえ」で主イエスの再臨に備えるようにと警告されました。そこでは主イエスを迎える備えをすることに焦点がありましたが、今回の「タラントンのたとえ」は主イエスの再臨の時までの生活に、焦点が置かれています。
  このたとえは、主人が僕たちに大金を預け、帰って来た時、僕たちに貸し与えたお金の精算をするという話です。僕たちは5タラントン、2タラントン、1タラントンをそれぞれ預けられ、主人が帰ってきた時、預かった大金を使って利益を上げたことを報告しました。ただひとり、1タラントン預かった僕はそれを土の中に隠し、借りた1タラントンをそのまま主人に返しました。主人は、利益を上げた僕たちを「忠実な良い僕」とほめましたが、1タラントンをそのまま返した僕に対しては、「怠け者の悪い僕」と言って叱りました。
  注目すべき第一のことは、それぞれの僕に預けた金額がそれぞれ違うことです。このたとえでは、神が主人に、私たちは僕にたとえられていますので、神が私たちに与えてくださっている恵みに違いがあり、不公平だということです。現実の私たちもそれぞれ違いがあり、それに文句を言ってもどうにもなりません。大切なことは、神から受けている恵みを、私たちがどう用いるかということです。このたとえでは、5タラントン、2タラントンをそれぞれ預かった僕たちがそれを充分に用いています。そして、第二に注目すべき事が、5タラントン儲けた僕と、2タラントン儲けた僕への主人のほめ言葉が全く同じということです。
  儲けた金額に違いがありますが、主人は等しく「忠実な良い僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ。」とほめました。儲けた金額の違いを、この主人は全く気にしていません。儲けた金額よりも、預けられたものを用い尽くしたことをとても喜んでいるのです。これがこのたとえの重要なところです。ですから、1タラントン預かった僕が損をしたわけでもないのに、主人から「怠け者の悪い僕だ」と厳しく叱られたのです。与えられた恵みを用いなかったからです。
  私たちは、神からどれだけ恵みをいただいているかを、お互いの顔を見ながら一喜一憂することが多いのではないでしょうか。神からの恵みを、神からの評価そのものと思いこんでいるのです。神の御心は、恵みを充分に用いなさいということなのです。神はご自身の責任において、恵みを与えてくださっているのです。損をするのではないかと恐れることはないのです。
  福音書に、弟子たちがたびたび「自分たちの中でいちばん偉いのは誰だろう」と議論していたとあります。彼らは、神の目を意識しているようで、実は、お互いを見比べて、自分自身を評価していたのです。弟子たちの働きはそれぞれ違います。神は、彼らの働きに優劣をつけようとはなさいません。今日のたとえのように、「忠実な良い僕だ。よくやった。私と一緒に喜んでくれ。」とおっしゃっておられるのです。同じように、私たちに対しても、神は「忠実な良い僕だ。よくやった。私と一緒に喜んでくれ。」とおっしゃってくださるのです。