八幡鉄町教会

聖書のお話(説教)

「神に喜ばれる者となる」 2015年12月27日の礼拝

2016年07月07日 | 2015年度
詩編41編2~14節(日本聖書協会「新共同訳」)

 いかに幸いなことでしょう
   弱いものに思いやりのある人は。
 災いのふりかかるとき
   主はその人を逃れさせてくださいます。
 主よ、その人を守って命を得させ
 この地で幸せにしてください。
 貪欲な敵に引き渡さないでください。
 主よ、その人が病の床にあるとき、支え
 力を失って伏すとき、立ち直らせてください。

 わたしは申します。
 「主よ、憐れんでください。
 あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」
 敵はわたしを苦しめようとして言います。
 「早く死んでその名も消えうせるがよい。」
 見舞いに来れば、むなしいことを言いますが
 心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。
 わたしを憎む者は皆、集まってささやき
 わたしに災いを謀っています。
 「呪いに取りつかれて床に就いた。
 二度と起き上がれまい。」
 わたしの信頼していた仲間
 わたしのパンを食べる者が
   威張ってわたしを足げにします。

 主よ、どうかわたしを憐れみ
 再びわたしを起き上がらせてください。
 そうしてくだされば
   彼らを見返すことができます。
 そしてわたしは知るでしょう
 わたしはあなたの御旨にかなうのだと
 敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。
 どうか、無垢なわたしを支え
   とこしえに、御前に立たせてください。

 主をたたえよ、イスラエルの神を
 世々とこしえに。
 アーメン、アーメン。



コリントの信徒への手紙 二 5章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

  わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。


  今日、司式者には詩編41編を2節から読んでいただきました。
  1節は、標題の部分で、初めから付いていたのではなく、後に付け加えられたと考えられております。それで、礼拝の中で聖書を朗読していただく時には、この標題の部分を読まないようにしていただいています。
  詩編は、全部で150編あります。しかし、この全てが一気に書かれたのでも、集められたものでもありません。いくつかのグループに集められたものが、後に一緒にされて現在のように一つの書となったのです。
  詩篇3編から今日の詩篇41編までは、標題に「ダビデの詩」という言葉が付いております。そのため、3編から41編を「ダビデの詩編」と呼ばれます。現在のようにまとめられる前は、他の詩編からは独立した詩集だったと考えられています。
  41編14節の神を誉め讃える言葉は、頌栄と呼ばれますが、41編だけの頌栄ではなく、3~41編全体の、すなわち「ダビデの詩編」のの最後を飾る頌栄だったと考えられます。ですから、2~13節がこの詩篇のもとの部分と考えて良いでしょう。

  この詩編の詩人は、大変大きな悩みをかかえております。おそらく、重い病をかかえていたのではないかと思われます。しかも、この詩人の苦しめる人がいるようです。そのような状況を神に訴え、助けを求めているのです。
  詩人はきわめて厳しい状況におかれている中でひたすら神を呼び求めています。病だけでなく、人間関係にも苦しめられているのです。しかも、信頼していた仲間にも裏切られ、誰も信じられないという有様です。この人だけは裏切る事はないと信じていいた人に裏切られた失望をうたっているのです。詩人はもはや人を信頼する事が出来なくなっています。人からどのように評価されるかという事にも期待していないと言って良いでしょう。ただ神にすがっています。このような姿は、私たち人間の社会では負け犬とみなされるかも知れません。人生の敗北者と見られる事でしょう。
  しかし、この詩人はついに知ったのです。いったい誰の目を意識して生きるべきかという事を。
  かつて、詩人は、人間の目を意識して生活していた事でしょう。信頼する仲間をつくる事が大切と考えていたに違いありません。そのために、人から良い評価を得ようと一生懸命に生きてきた事でしょう。そして、信頼する仲間を得たと確信していたのです。しかし、大きな病を得た時、その病に苦しめられるだけでなく、信頼していた仲間の裏切りを知ってしまったのです。
  このような絶望のどん底で、詩人は本当に信頼すべきは神のみであった事に気づかされたのです。人の目ではなく、神の目を意識して生きるべきであった事に気づかされたのです。
  人間関係がどうでも良い、というのではありません。人間には弱さ、罪深さがあるということです。この詩人の周囲には、悪意のない人もいたのかも知れません。しかし、最も信頼していた仲間に裏切られた時、もう誰も信じられなくなっていたのではないでしょうか。人の善意も悪意に感じられ、また、周囲の全ての人が自分に悪意を持っている、そのような疑心暗鬼に陥っていた事でしょう。この詩人もまた罪深い罪人であり、その弱さを持っているのです。疑心暗鬼に捕らわれているのは、その罪深さの現れです。
  しかし、この詩人はそのまま闇に留まる事はありませんでした。神に目を向け、神に希望を見出す事が出来ました。この詩人の信仰深さがそうさせたと言うよりは、神がこの詩人を見捨てなかったというべきでしょう。神が、この詩人の目をご自身に向かわせたのです。

  13節に「無垢なわたしを支え、とこしえに、御前に立たせてください。」とあります。
  「無垢」という言葉は、旧約聖書のヨブ記でヨブに対してもこの言葉が使われています。ある人が、これを「ひたすらすがる」と訳しています。これは罪がないと言うのではなく、神に対して誠実さを全うする態度をいうからだというのです。別の人は、ヒブル語では違う言葉であるが、新共同訳では同じ「無垢」と言われているノア(創世記6章)に言及し、「無垢」は神との関係に分裂がない状態を言うと説明し、41編の詩人が敵と呪いによって神に引き離されそうになりながら、必死に神にしがみついている。それ故、ここでの「無垢」は信仰の事であって、道徳的な事ではないと結論づけています。
  この詩人は、自分の正しさを強調しているのではありません。ただひたすら、神にすがりついているのです。「このように必死にすがりついている私を支え、とこしえに、御前に立たせてください。」と、祈っているのです。
  この詩人は、神に目を向けるように変えられたようですが、しかし、人の目を意識するという束縛から自由になっていないようです。 11節の言葉がその事を示しています。
  11節。「主よ、どうかわたしを憐れみ、再びわたしを起き上がらせてください。そうしてくだされば、彼らを見返すことができます。」
  「彼らを見返す」というのは復讐を考えているという事ではないと思いますが、しかし、自分に悪意を持つ人々を見返してやりたいという強い願望があることは確かなようです。
  この詩人がおかれている境遇を考えると、見返してやりたいと思う事を非難することは出来ません。誰もが抱く、ごく自然な感情だと思います。誰もが、この詩人に共感するのではないでしょうか。
  しかし、だからこそ、この詩人は罪の力に捕らわれていると言わざるを得ないのではないでしょうか。そして、この詩人に共感できる私たち自身も、罪の力の虜になっていると言わざるを得ないのではないでしょうか。
  神に目を向けるようにされていながら、神の目を意識するだけでなく、人の目を意識し、見返してやりたいという思いから自由になっていないのです。

  先ほど、司式者には、Ⅱコリント5章1~10節を読んでいただきました。その中に次のような言葉がありました。
  9節。「ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」
  これは口語訳では「ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。」と訳されていました。
  使徒パウロは、神の目を意識して生活するようにと、くり返し教えております。神の目を意識するというのは、神に見張られて、びくびくと恐れながら生活するという事ではありません。むしろ、神に喜んでいただけるような生活をするという事です。パウロの「ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。」という言葉は、それを示しています。神に喜ばれること、神から褒められること。私たちが切に求める事が、これ以外にあるでしょうか。主イエスも、神から「良い忠実な僕」と呼ばれる事がどれほど大きな幸いであるかを告げております。このように、神から褒められる事を願いながら生活をする。これが、神に救われ、神に愛されている私たちの生活です。
  もちろん、私たちが完全に罪をおかさないという事ではありません。詩編41編の詩で言うならば、「無垢」な私たちの生活です。「ひたすら神にすがりつく」生活です。ひたすら、神にすがりつくのですから、神から目をそらさないように注意しなければなりません。
  とにかく、神に喜ばれるように、神に目を向け、神の御心に精一杯応えたいという願いを持ちながら、そして、「応える事が出来るようにしてください」と祈りながらの生活という事です。
  その上で、周囲の人々の言葉や行為に対しても、見返してやりたいという思いからの行動ではなく、神が喜ばれるように行動する事を心がけていく事が大切です。それは簡単な事ではないでしょう。完璧に行う事は出来ないでしょう。しかし、神はそのように心がけようとしている私たちの心を見てくださるのです。失敗したとしても、完全でなかったとしても、神は、そのように神の喜ばれたいと願っての私たちの生活、行動を、喜んでくださるのです。
  参考に、使徒パウロの言葉を聞いておきましょう。
  コリントの信徒への手紙二 6章3~10節。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」
  伝道者としての生活を語っていますが、この姿勢は、全てのキリスト者が聞くべき言葉だと思います。
  ローマの信徒への手紙12章14~17節では、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」と教えられています。
  主イエスも、マタイ福音書5章44節で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と教えておられます。
  「聖人君子になりなさい」という教えではありません。神は私たちを必ず守り、支え、導いてくださるのです。私たちを救うために、御子であるキリストを罪の償いとしてくださるほどに、私たちを愛してくださっているのです。この神を信頼して生活するようにと、そして、神に喜ばれる者でありなさいと教えておられるのです。



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「飼い葉桶の中の救い主」 2015年12月20日の礼拝

2016年07月04日 | 2015年度
詩編62編2~9節(日本聖書協会「新共同訳」)

   わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
   神にわたしの救いはある。
   神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
   わたしは決して動揺しない。
 お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。
 亡きものにしようとして一団となり
 人を倒れる壁、崩れる石垣とし
 人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。
 常に欺こうとして
 口先で祝福し、腹の底で呪う。〔セラ
   わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。
   神にのみ、わたしは希望をおいている。
   神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
   わたしは動揺しない。

 わたしの救いと栄えは神にかかっている。
 力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
 民よ、どのような時にも神に信頼し
 御前に心を注ぎ出せ。
 神はわたしたちの避けどころ。〔セラ


ルカによる福音書2章8~12節(日本聖書協会「新共同訳」)

  その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

  今日の御言葉に登場するのは、ベツレヘムという古い町の近くで野宿する羊飼いたちです。その羊飼いたちに天使が神から遣わされ、救い主の誕生という重要なメッセージが伝えられました。
  何故、羊飼いに伝えられたのでしょうか。もっとふさわしい人がいなかったのでしょうか。
  旧約聖書の中に、預言者たちが神の召命を受けた出来事がいくつも記されています。選ばれた人々の中には、何とか断ろうとした人もいます。モーセもその一人でした。出エジプト記の3~4章に、モーセが神の選びを固く拒む様子が記されています。その時、モーセは80才になっておりました。肉体的にも無理があると言えるでしょう。また、神が行くように命じておられるエジプトは、モーセがかつて失敗して、逃げ出したところです。しかも、仲間だと思っていた人々からも裏切られるという苦い思い出もあります。モーセとしては、絶対に行きたくない場所です。また、神が与えようとしている使命を遂行するには、自分は年をとりすぎ、またはるかに自分の能力を超えた要求だと考えずにはいられませんでした。このように固く拒み続けるモーセに対して、神は、なおモーセを説得し続けたのです。
  ここで注目すべきことは、神がモーセを説得する時、モーセの人間としての知恵や力を強調してはいない事です。「私が共にいる」、「語るべき内容は、私が伝える」と告げておられるという事です。神は、お選びになった人を一人で行かせる事を決してなさらず、「私が共にいる」と言って、守り、導いてくださるのです。それゆえ、困難な使命を果たした時、それは、選ばれた人の力でなされたのではなく、その人をお選びになった神の力によるのです。それ故、使命の遂行が人間の力によるのではなく、神の力による事をはっきりさせるために、神はあえて無力な者をお選びになっておられると言って良いでしょう。

  さて、羊飼いたちの話に戻りましょう。彼らが選ばれた理由を挙げようとすれば、できなくはないでしょうが、それはあくまで、私たちの勝手な推測にすぎません。何故、彼らが選ばれたかについては、聖書は何も語ろうとしません。ですから、これ以上、このことをいろいろ詮索する事には、あまり意味があるとは思えません。むしろ、大切な事は、私たちには理解できない理由によって、神が彼らをお選びになったという事です。そこには、神の堅い決意がある事を理解するだけで充分です。そして、彼らに、救い主の誕生の重要なメッセージをお伝えになりました。それは、神の御計画を告げ知らせるものでした。

  「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
  このメッセージにあるメシアというのは、確かにユダヤ人たちが長年待ち望んでいた救い主です。しかし、彼らが待ち望んでいたメシアは、神がお遣わしになった主イエスとはかけ離れておりました。
  当時、ユダヤはローマ帝国やヘロデ王家の支配を受けておりました。ヘロデ王家はユダヤ人ではなく、ユダヤのすぐ南を支配していたイドマヤ人でした。ユダヤ人はこれらの外国の支配から自由を獲得し、かつてダビデの時代のような王国が建てられる事を強く願っておりました。そのためにクーデターを起こす者たちもおりました。自らメシアを名乗るものや周囲の人々からメシアに違いないと担ぎ上げられた人もいました。とにかく、彼らが待ち望んでいたメシアとは、異邦人から独立させてくれる軍人としてのメシア、政治的なメシアだったのです。
  また「救い主」という言葉も当時いろいろの場合に使われました。たとえば、ローマ皇帝を讃える時に、「皇帝は主である」とか「神である」とか「救い主」だと言って、歓呼しました。
  このように「救い主」という言葉だけでは、神がどのような救い主を遣わそうとされているのかは、はっきりしません。ただ、天使が告げたその後の言葉に、ちらりと神の意図を垣間見る事ができます。

  「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
  ここには、飼い葉桶という言葉があるだけで、馬小屋、あるいは家畜小屋とは書かれていません。小屋という事からは木材などを遣った建物を連想しますが、聖書にはその言葉がありません。実際、ベツレヘムでは洞窟が多く、家畜を飼う時、その洞窟を利用したようです。
  現在ベツレヘムには、4世紀頃に建てられたベツレヘム教会があります。これは、ローマ帝国で初めてキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝の母ヘレナが、礼拝所をここに建てたことが始まりとされています。その教会の祭壇の下は、洞窟になっており、その洞窟で主イエスがお生まれになったと伝えられています。
  この教会以外にも主イエスがお生まれになったことを記念する礼拝所がありますが、やはり、洞窟を利用して建てられています。ある礼拝所では、入り口に動物の像を造って演出しています。
  話を元に戻しますが、そのような家畜を飼う場所で主イエスはお生まれになったというのです。現代人である私たちから見ると、最も貧しい状態でお生まれになったと気の毒に思います。当時の人にとってもあまり境遇がよいとは言えなかったでしょう。しかし、家畜が飼われているところで出産することはめずらしいことだったでしょうが、特別酷い扱いとは考えられていなかったようです。
  また、住民登録のため、いろいろのところから大勢の人が集まっていました。中には、小さな子どももいたかも知れません。みんな他人のことに気を遣う余裕がなかったと考えられます。いつまでこのような状況が続くのだろうか、お金は持つだろうかという心配もあったでしょう。大勢の人が集まっているわけですから、騒ぎが起こることもあったでしょう。その事を考えると、家畜を飼う場所の方が落ち着いて出産できたのかも知れません。
  このような状況を想像した上で、天使が告げたことをもう一度思い起こしましょう。
  「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
  天使は、大勢の人々の中から救い主を見つけだすしるしを告げているのです。それが「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」です。
  先ほどもいいましたように、「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」そのものは珍しいかも知れませんが、特別な事ではありません。誰が見ても、「ああ! この方こそ救い主だ!」と見極める出来事ではありません。救い主の証明にはならないのです。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子がしるしである」と、天使が告げたからこそ、羊飼いたちはその乳飲み子が救い主であるとわかったのです。天使がしるしだと言わなければ、それがしるしであることに誰も気づかないのです。ここに、聖書が語る「しるし」の不思議さがあります。いつものことが、いつものとおり行われている。ふだん見かける出来事が今日も起こった。その普通と思えるその出来事の中に、神はしるしを隠しておられるのです。
  飼い葉桶に乳飲み子がいることを知っていた人は、他にもいたかも知れません。しかし、その人にとっては「ちょっと可哀想な赤ん坊」というほどにしか思っていなかったのではないでしょうか。また、「こんな大変な時に赤ん坊を生んで、あの若い夫婦は気の毒だ」と思う人はいたかも知れません。しかし、これらの人々にとっては、その赤ん坊は、それ以上の存在ではありませんでしたし、それ以上の出来事でもなかったのです。誰が考えても、全ての人を救おうという神の御計画には、全く結びつかないちょっとしたエピソードでしかありません。
  ただ、羊飼いたちだけが。これがしるしだと告げられた羊飼いたちだけが、飼い葉桶の中の救い主を捜し当てたのです。
  神がなさる奇跡は、必ずしも超自然的な出来事とは限りません。むしろ、自然に起こることの中に、神の大いなる力が現されます。それを神の力と知るか否かは、私たちの知恵や努力によるのではありません。ただ、神が私たちにその事を示してくださらなければ、誰もそれを知ることは出来ないのです。
  使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一1章18節で次のように記しています。
  「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
  「十字架の言葉」というのは、十字架にかかられたキリストによって救われるという、当時から教会が宣べ伝えていた言葉、福音です。
  十字架は、当時のローマ帝国が、ローマ市民権を持っていない人々に科した最も残虐な死刑方法です。長時間苦しめ、衰弱させて死なせることにより、帝国に刃向かう者への見せしめの意味を込めて行ったものです。
  主イエスが十字架にかけられたという出来事は、ローマ帝国が行った無数の十字架のうちの一つにすぎません。少なくとも、主イエスを十字架にかけたローマの兵士にとっては、そうであったに違いありません。「今日もまたひとり、十字架に散った」というくらいにしか見ていなかったと思います。
  しかし、主イエス・キリストを信じる私たちには、「この方こそが神の独り子であり、私たちの救い主」なのです。
  何千、何万の十字架の刑が行われようとも、主イエス・キリストの十字架はそのうちの一つではありません。他の十字架とは全く違う特別の出来事なのです。
  キリスト教会が宣べ伝える十字架の言葉は、当時の人にとって、否、いつの時代の人々にとっても、救いのしるしにはなりません。十字架のキリストが、自分の救いに深く関わっていると知ることが出来るのは、聖霊が私たちに働き、信仰の目を開いてくださることによるのです。それ以外にはありません。

  羊飼いたちは、天使が告げた飼い葉桶の中の救い主を捜し当てました。彼らだけが知ることの出来た神の御計画です。よく考えれば分かるとか、経験を積んだら分かるというものではありません。日常的な出来事の中に隠された神の御計画です。誰もが見ている。誰もがよく知っている。そういう出来事の中に、神は全ての人を救う御計画を潜ませ、その大いなる救いの力を発揮されるのです。
  羊飼いたちに天使がこの神の御計画を知らせました。今の私たちには、聖書を通して、聖霊が語りかけ、救いのしるし、すなわちキリストを指し示しています。
  聖書を読む人は多くいます。しかし、聖書を読む人が全て信仰に至るわけではありません。聖書を読む中で、また礼拝をする中で、神が私たちに働きかけてくださるからこそ、主イエス・キリストを真の神の独り子、真の救い主と認めることができるのです。
  私たちにとって、聖書こそが、礼拝の中で語られる御言葉こそが、私たちのためのしるしとなっているのです。




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「私たちを神の子とするために」 2015年12月13日の礼拝

2016年07月02日 | 2015年度
ホセア書2章1~3節(日本聖書協会「新共同訳」)

 イスラエルの人々は、その数を増し
 海の砂のようになり
 量ることも、数えることもできなくなる。
 彼らは
 「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と
 言われるかわりに
 「生ける神の子ら」と言われるようになる。
 ユダの人々とイスラエルの人々は
   ひとつに集められ
 一人の頭を立てて、その地から上って来る。
 イズレエルの日は栄光に満たされる。
 あなたたちは兄弟に向かって
 「アンミ(わが民)」と言え。
 あなたたちは姉妹に向かって
 「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。


ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節(日本聖書協会「新共同訳」)

  しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。

  新約聖書の中でクリスマスについての最も古い記述は、ガラテヤ書4章4~5節です。クリスマスの物語が記されているマタイ福音書やルカ福音書よりもずっと古い記述です。
  マタイやルカのように、主イエス・キリストがお生まれになった様子が記されているわけではありません。しかし、その出来事の意味を告げています。
  まず語られているのは、「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」です。
  「時が満ちた」というのは、神があらかじめ定めておられた時が来た事を示しています。すなわち、神の独り子が地上にお出でになったのは神の御計画によるもので、それが実行されたということです。
  ということは、神の独り子が地上にお出でになるのはいつでも良かったというのではない事を示しています。あの時でなければならないという神の御計画があったという事です。
  あの時でなければならなかった理由は、いったい何だったのでしょうか。
  人間的な見方からすると、いくつかの理由を挙げる事ができそうです。
  たとえば、ローマ帝国が地中海世界を支配していた事や、ギリシア語が当時の世界共通語として広まっていた事などです。
  ローマ帝国が地中海世界を支配するまでは、多くの国が乱立していました。国境を越えての旅は不便であり、危険が伴いました。ローマ帝国の支配により、国境は無くなり、しかも、道路網が整備、拡張されました。こうして、帝国内のどこへでも行き来しやすくなったのです。
  ローマ帝国時代、ギリシア語が世界の共通語として定着していたことにより、帝国内では、どの地方へ行っても意思の疎通が可能となっていました。新約聖書がもともとギリシア語で書かれたのも、この理由からでした。
  これらの状況は、キリスト教の伝道に有益に働きました。キリスト教が広く伝えられるためには最良の時と言って良いでしょう。
  しかし、これはあくまでも人間の立場からの見方です。
  「時が満ちた」というあの「時」こそ、神が御子をお遣わしになるためにあらかじめ定められていた「時」だという事が大切です。全ての人を救うために御子をお遣わしになるのは、神の御計画であって、決して気まぐれや偶然によるのではないという事です。
  同様の事は、私たちの救いについても言えます。
  私たちは、洗礼を受け、救われました。その洗礼を受けたというのも、いつでも良いというわけではなく、神の定めておられた時なのです。求道生活が長い人もあれば短い人もあります。それは、その人たちの能力や熱心さによるのではなく、神があらかじめ定めておられた時に、洗礼を受けているのです。何故その時なのかは、それぞれ理由を考えるかも知れませんが、最も大切な事は、神の定めておられた時であったと受けとめる事です。すなわち、神の御計画によって救いに入れられた事を確信する事です。神の御計画によるのですから、救いは確かなのです。その救いの確かさを知る事が大切なのです。

  「神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出」すためであっと言われています。
  まず注目したいのは、「律法の下に」と「律法の支配下に」という言葉です。日本語では違う表現になっていますが、ギリシア語では同じ言葉です。実際、口語訳聖書では、どちらも「律法の下に」となっていました。意味するところは、律法の支配下にあると考えて良いでしょう。
  神の独り子がただ人間になったというだけでなく、律法の支配の下にお生まれになったと告げているのです。律法は、神の御心を示しているのですから、神の独り子は、神の御心に従って私たちのところにお出でになり、地上での生活においても神の御心に従って生活をし、福音を宣べ伝えていたということです。
  「律法の支配下にある」のもう一つの意味は、律法の呪いを受けているという事です。このことについては、ガラテヤ書3章13節を見てみましょう。
  「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」
  ここでは、単に律法の支配下というのではなく、「律法の呪い」と言われています。先ほど、律法は神の御心を示していると申し上げましたが、それが何故、呪いとなるのでしょうか。そこには、私たちの罪という問題があるのです。神の独り子である主イエス・キリストは人間となられましたが、罪のない人間になられたのです。それに対し、私たちは罪人であり、神の御心に正しく応える事ができません。そのため、律法は、神の御心を示すだけでなく、その御心に応える事ができないという私たちの罪深さをも表しているのです。
  使徒パウロは、ローマの信徒への手紙3章20節で次のように語っています。「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」
  使徒パウロは自分自身の事を、「律法の義については非のうちどころのない者でした」と告げています。その律法の遵守に熱心であったパウロが、「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない。律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」と言うのです。このような状態であるからこそ、律法の支配下にあるという事は、律法の呪いを受けているという事なのだと言うのです。それは、罪の支配下、罪の呪いと言っても良いでしょう。
  しかし、パウロは罪の呪いとは言わず、律法の呪いと言いました。それは、私たちの罪に対する神の怒りということを強調しているのです。という事は、私たちを「律法の支配下から贖い出す」とは、「罪の呪いから救い出す」、「神の怒りにあわないようにしてくださる」ということです。そのために主イエスは地上にお出でになったという事です。それは、主イエス・キリストが私たちに代わって罪の責任を引き受けてくださる事によってなのです。それがガラテヤ書3章13節にあった「キリストは、わたしたちのために呪いとなった」ということなのです。
  そのガラテヤ書3章13節で、旧約聖書の「木にかけられた者は皆呪われている」の言葉を引用しています。
  使徒パウロは、キリストの十字架は、神の怒りを示しており、その神の怒りは私たち人間が受けるべきものでしたが、私たちに代わって神の御子がその怒りを受けてくださったと言うのです。今日の御言葉の「律法の支配下にある者を贖い出す」は、その事を告げているのです。
  こうして見てきますと、クリスマスの出来事は、ただ美しい物語というだけではないことがわかります。地上にお出でになった神の独り子は、お生まれになった時、すでに十字架にかかる運命にあったという事です。運命という表現は不信仰な言い方かも知れませんが、十字架の死に向かってこの世に現れられたという事です。それは神の御計画であり、御子なるキリストもこの御計画に従われたのです。
  最後に、「わたしたちを神の子となさるためでした」とあります。しかし、私たちが神になるわけではありません。真の神の子は、主イエス・キリストだけです。私たちが神の子となるというのは、神の子としての栄誉と特権を与えられるという事です。神の子という特権は、しかし、神にわがままを言う権利ということではありません。真の神の独り子であるキリストは、わがままを言うどころか、私たちの救いのために、父なる神の御計画に従順に従われたのです。十字架の死に至るまで従順に従われたのです。神の独り子が父なる神に従順であられたように、神の子としての特権を与えられた私たちも、どこまでも父なる神に従順であるべきです。そして、その御心は、全ての人に、この福音を、この大きな喜びを宣べ伝える事です。
 
  ふつうは、誕生日を迎えた人に向かって「おめでとう」と祝います。しかし、クリスマスは逆なのです。主イエスがお生まれになって「おめでとう」と言われるのは、私たちなのです。神の救いが私たちに与えられているからです。
  私たちは互いに「あなたのための救い主がお生まれになった。おめでとう」と喜び祝うべきです。そして、私たちの周囲の人々に向かっても「あなたのための救い主がお生まれになった。おめでとう」とこの喜びに招く事が大切です。それが神の子という特権を与えられている私たちに対する、神の御心なのです。



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「人となられた神の独り子」 2015年12月6日の礼拝

2016年07月01日 | 2015年度
詩編36編6~10節(日本聖書協会「新共同訳」)

 主よ、あなたの慈しみは天に
 あなたの真実は大空に満ちている。
 恵みの御業は神の山々のよう
 あなたの裁きは大いなる深淵。
 主よ、あなたは人をも獣をも救われる。
 神よ、慈しみはいかに貴いことか。
 あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ
 あなたの家に滴る恵みに潤い
 あなたの甘美な流れに渇きを癒す。
 命の泉はあなたにあり
 あなたの光に、わたしたちは光を見る。


ヨハネによる福音書1章14節(日本聖書協会「新共同訳」)

  言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

  ヨハネ福音書は、神の独り子である主イエスが人間となったと語っています。ヨハネ福音書は、このことを言う時、「人間となった」とは言わず、「肉となった」と表現しました。真の独り子であるキリストが、真の人となられたことを強調しているのです。あり得ない事が本当に起きたと声を大にして告げているのです。これは、いつの時代でも受け入れがたい事なのです。
  主イエス・キリストの処女降誕、キリストが十字架にかけられた事による救い、キリストの復活など、私たちは人々に伝える事の難しさを感じますが、それは、今の時代だから難しいのではなく、聖書の時代でも同じなのです。
  その時代の人々に受け入れられようとして、処女降誕や十字架と復活を取り除いたり、それらをゆがめて解釈しようとする事はいつの時代にもありました。ヨハネ福音書がことさら「肉となった」という表現で強調するのは、その時代のゆがめられた解釈に対する信仰の戦いの故だったのです。
  神の独り子が人間となったことには、理由がありました。人間が犯した罪の償いは人間自身がしなければならないのですが、全ての人が罪人であるため、償いをする力を持っていません。罪のない人間が、全ての人間の代表として、その責任を果たさなくてはなりません。その罪のない人間となって神の独り子が私たちのところにお出でになりました。そして、十字架によって完全な罪の償いをされたのです。完全な罪の償いはこれ以外に方法はないのです。ここに、私たちの神に対する罪の大きさが示されていると言えます。
  そして、罪の償いをする事ができる人間は、全く存在しないので、神の独り子が人間となって、しかも罪のない人間とならねばならなかったのです。
  それ故、神が人間の姿を装ったとか、見せかけたというのでは、罪の償いとしては、全く意味がないのです。「真の神が真の人となられた」。このメッセージは、神が全ての人を救うために起こされた神の御計画を告げています。それ故、どれほど、世の人々にとって受け入れがたいものであっても、聖書は、このことを力強く宣べ伝えているのです。私たちも人々から受け入れる事が難しいといわれても、これを取り除いたり、ゆがめたりする事はできないのです。
  いつの時代も、伝道の困難さがあります。そのような中で、「神の独り子であるキリストが真の人となられた」と信じるならば、それは私たち人間の知恵によるのではなく、確かに、神の力により与えられた信仰なのです。


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