詩編41編2~14節(日本聖書協会「新共同訳」)
いかに幸いなことでしょう
弱いものに思いやりのある人は。
災いのふりかかるとき
主はその人を逃れさせてくださいます。
主よ、その人を守って命を得させ
この地で幸せにしてください。
貪欲な敵に引き渡さないでください。
主よ、その人が病の床にあるとき、支え
力を失って伏すとき、立ち直らせてください。
わたしは申します。
「主よ、憐れんでください。
あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」
敵はわたしを苦しめようとして言います。
「早く死んでその名も消えうせるがよい。」
見舞いに来れば、むなしいことを言いますが
心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。
わたしを憎む者は皆、集まってささやき
わたしに災いを謀っています。
「呪いに取りつかれて床に就いた。
二度と起き上がれまい。」
わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。
主よ、どうかわたしを憐れみ
再びわたしを起き上がらせてください。
そうしてくだされば
彼らを見返すことができます。
そしてわたしは知るでしょう
わたしはあなたの御旨にかなうのだと
敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。
どうか、無垢なわたしを支え
とこしえに、御前に立たせてください。
主をたたえよ、イスラエルの神を
世々とこしえに。
アーメン、アーメン。
コリントの信徒への手紙 二 5章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
今日、司式者には詩編41編を2節から読んでいただきました。
1節は、標題の部分で、初めから付いていたのではなく、後に付け加えられたと考えられております。それで、礼拝の中で聖書を朗読していただく時には、この標題の部分を読まないようにしていただいています。
詩編は、全部で150編あります。しかし、この全てが一気に書かれたのでも、集められたものでもありません。いくつかのグループに集められたものが、後に一緒にされて現在のように一つの書となったのです。
詩篇3編から今日の詩篇41編までは、標題に「ダビデの詩」という言葉が付いております。そのため、3編から41編を「ダビデの詩編」と呼ばれます。現在のようにまとめられる前は、他の詩編からは独立した詩集だったと考えられています。
41編14節の神を誉め讃える言葉は、頌栄と呼ばれますが、41編だけの頌栄ではなく、3~41編全体の、すなわち「ダビデの詩編」のの最後を飾る頌栄だったと考えられます。ですから、2~13節がこの詩篇のもとの部分と考えて良いでしょう。
この詩編の詩人は、大変大きな悩みをかかえております。おそらく、重い病をかかえていたのではないかと思われます。しかも、この詩人の苦しめる人がいるようです。そのような状況を神に訴え、助けを求めているのです。
詩人はきわめて厳しい状況におかれている中でひたすら神を呼び求めています。病だけでなく、人間関係にも苦しめられているのです。しかも、信頼していた仲間にも裏切られ、誰も信じられないという有様です。この人だけは裏切る事はないと信じていいた人に裏切られた失望をうたっているのです。詩人はもはや人を信頼する事が出来なくなっています。人からどのように評価されるかという事にも期待していないと言って良いでしょう。ただ神にすがっています。このような姿は、私たち人間の社会では負け犬とみなされるかも知れません。人生の敗北者と見られる事でしょう。
しかし、この詩人はついに知ったのです。いったい誰の目を意識して生きるべきかという事を。
かつて、詩人は、人間の目を意識して生活していた事でしょう。信頼する仲間をつくる事が大切と考えていたに違いありません。そのために、人から良い評価を得ようと一生懸命に生きてきた事でしょう。そして、信頼する仲間を得たと確信していたのです。しかし、大きな病を得た時、その病に苦しめられるだけでなく、信頼していた仲間の裏切りを知ってしまったのです。
このような絶望のどん底で、詩人は本当に信頼すべきは神のみであった事に気づかされたのです。人の目ではなく、神の目を意識して生きるべきであった事に気づかされたのです。
人間関係がどうでも良い、というのではありません。人間には弱さ、罪深さがあるということです。この詩人の周囲には、悪意のない人もいたのかも知れません。しかし、最も信頼していた仲間に裏切られた時、もう誰も信じられなくなっていたのではないでしょうか。人の善意も悪意に感じられ、また、周囲の全ての人が自分に悪意を持っている、そのような疑心暗鬼に陥っていた事でしょう。この詩人もまた罪深い罪人であり、その弱さを持っているのです。疑心暗鬼に捕らわれているのは、その罪深さの現れです。
しかし、この詩人はそのまま闇に留まる事はありませんでした。神に目を向け、神に希望を見出す事が出来ました。この詩人の信仰深さがそうさせたと言うよりは、神がこの詩人を見捨てなかったというべきでしょう。神が、この詩人の目をご自身に向かわせたのです。
13節に「無垢なわたしを支え、とこしえに、御前に立たせてください。」とあります。
「無垢」という言葉は、旧約聖書のヨブ記でヨブに対してもこの言葉が使われています。ある人が、これを「ひたすらすがる」と訳しています。これは罪がないと言うのではなく、神に対して誠実さを全うする態度をいうからだというのです。別の人は、ヒブル語では違う言葉であるが、新共同訳では同じ「無垢」と言われているノア(創世記6章)に言及し、「無垢」は神との関係に分裂がない状態を言うと説明し、41編の詩人が敵と呪いによって神に引き離されそうになりながら、必死に神にしがみついている。それ故、ここでの「無垢」は信仰の事であって、道徳的な事ではないと結論づけています。
この詩人は、自分の正しさを強調しているのではありません。ただひたすら、神にすがりついているのです。「このように必死にすがりついている私を支え、とこしえに、御前に立たせてください。」と、祈っているのです。
この詩人は、神に目を向けるように変えられたようですが、しかし、人の目を意識するという束縛から自由になっていないようです。 11節の言葉がその事を示しています。
11節。「主よ、どうかわたしを憐れみ、再びわたしを起き上がらせてください。そうしてくだされば、彼らを見返すことができます。」
「彼らを見返す」というのは復讐を考えているという事ではないと思いますが、しかし、自分に悪意を持つ人々を見返してやりたいという強い願望があることは確かなようです。
この詩人がおかれている境遇を考えると、見返してやりたいと思う事を非難することは出来ません。誰もが抱く、ごく自然な感情だと思います。誰もが、この詩人に共感するのではないでしょうか。
しかし、だからこそ、この詩人は罪の力に捕らわれていると言わざるを得ないのではないでしょうか。そして、この詩人に共感できる私たち自身も、罪の力の虜になっていると言わざるを得ないのではないでしょうか。
神に目を向けるようにされていながら、神の目を意識するだけでなく、人の目を意識し、見返してやりたいという思いから自由になっていないのです。
先ほど、司式者には、Ⅱコリント5章1~10節を読んでいただきました。その中に次のような言葉がありました。
9節。「ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」
これは口語訳では「ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。」と訳されていました。
使徒パウロは、神の目を意識して生活するようにと、くり返し教えております。神の目を意識するというのは、神に見張られて、びくびくと恐れながら生活するという事ではありません。むしろ、神に喜んでいただけるような生活をするという事です。パウロの「ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。」という言葉は、それを示しています。神に喜ばれること、神から褒められること。私たちが切に求める事が、これ以外にあるでしょうか。主イエスも、神から「良い忠実な僕」と呼ばれる事がどれほど大きな幸いであるかを告げております。このように、神から褒められる事を願いながら生活をする。これが、神に救われ、神に愛されている私たちの生活です。
もちろん、私たちが完全に罪をおかさないという事ではありません。詩編41編の詩で言うならば、「無垢」な私たちの生活です。「ひたすら神にすがりつく」生活です。ひたすら、神にすがりつくのですから、神から目をそらさないように注意しなければなりません。
とにかく、神に喜ばれるように、神に目を向け、神の御心に精一杯応えたいという願いを持ちながら、そして、「応える事が出来るようにしてください」と祈りながらの生活という事です。
その上で、周囲の人々の言葉や行為に対しても、見返してやりたいという思いからの行動ではなく、神が喜ばれるように行動する事を心がけていく事が大切です。それは簡単な事ではないでしょう。完璧に行う事は出来ないでしょう。しかし、神はそのように心がけようとしている私たちの心を見てくださるのです。失敗したとしても、完全でなかったとしても、神は、そのように神の喜ばれたいと願っての私たちの生活、行動を、喜んでくださるのです。
参考に、使徒パウロの言葉を聞いておきましょう。
コリントの信徒への手紙二 6章3~10節。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」
伝道者としての生活を語っていますが、この姿勢は、全てのキリスト者が聞くべき言葉だと思います。
ローマの信徒への手紙12章14~17節では、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」と教えられています。
主イエスも、マタイ福音書5章44節で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と教えておられます。
「聖人君子になりなさい」という教えではありません。神は私たちを必ず守り、支え、導いてくださるのです。私たちを救うために、御子であるキリストを罪の償いとしてくださるほどに、私たちを愛してくださっているのです。この神を信頼して生活するようにと、そして、神に喜ばれる者でありなさいと教えておられるのです。
いかに幸いなことでしょう
弱いものに思いやりのある人は。
災いのふりかかるとき
主はその人を逃れさせてくださいます。
主よ、その人を守って命を得させ
この地で幸せにしてください。
貪欲な敵に引き渡さないでください。
主よ、その人が病の床にあるとき、支え
力を失って伏すとき、立ち直らせてください。
わたしは申します。
「主よ、憐れんでください。
あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」
敵はわたしを苦しめようとして言います。
「早く死んでその名も消えうせるがよい。」
見舞いに来れば、むなしいことを言いますが
心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。
わたしを憎む者は皆、集まってささやき
わたしに災いを謀っています。
「呪いに取りつかれて床に就いた。
二度と起き上がれまい。」
わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が
威張ってわたしを足げにします。
主よ、どうかわたしを憐れみ
再びわたしを起き上がらせてください。
そうしてくだされば
彼らを見返すことができます。
そしてわたしは知るでしょう
わたしはあなたの御旨にかなうのだと
敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。
どうか、無垢なわたしを支え
とこしえに、御前に立たせてください。
主をたたえよ、イスラエルの神を
世々とこしえに。
アーメン、アーメン。
コリントの信徒への手紙 二 5章1~10節(日本聖書協会「新共同訳」)
わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
今日、司式者には詩編41編を2節から読んでいただきました。
1節は、標題の部分で、初めから付いていたのではなく、後に付け加えられたと考えられております。それで、礼拝の中で聖書を朗読していただく時には、この標題の部分を読まないようにしていただいています。
詩編は、全部で150編あります。しかし、この全てが一気に書かれたのでも、集められたものでもありません。いくつかのグループに集められたものが、後に一緒にされて現在のように一つの書となったのです。
詩篇3編から今日の詩篇41編までは、標題に「ダビデの詩」という言葉が付いております。そのため、3編から41編を「ダビデの詩編」と呼ばれます。現在のようにまとめられる前は、他の詩編からは独立した詩集だったと考えられています。
41編14節の神を誉め讃える言葉は、頌栄と呼ばれますが、41編だけの頌栄ではなく、3~41編全体の、すなわち「ダビデの詩編」のの最後を飾る頌栄だったと考えられます。ですから、2~13節がこの詩篇のもとの部分と考えて良いでしょう。
この詩編の詩人は、大変大きな悩みをかかえております。おそらく、重い病をかかえていたのではないかと思われます。しかも、この詩人の苦しめる人がいるようです。そのような状況を神に訴え、助けを求めているのです。
詩人はきわめて厳しい状況におかれている中でひたすら神を呼び求めています。病だけでなく、人間関係にも苦しめられているのです。しかも、信頼していた仲間にも裏切られ、誰も信じられないという有様です。この人だけは裏切る事はないと信じていいた人に裏切られた失望をうたっているのです。詩人はもはや人を信頼する事が出来なくなっています。人からどのように評価されるかという事にも期待していないと言って良いでしょう。ただ神にすがっています。このような姿は、私たち人間の社会では負け犬とみなされるかも知れません。人生の敗北者と見られる事でしょう。
しかし、この詩人はついに知ったのです。いったい誰の目を意識して生きるべきかという事を。
かつて、詩人は、人間の目を意識して生活していた事でしょう。信頼する仲間をつくる事が大切と考えていたに違いありません。そのために、人から良い評価を得ようと一生懸命に生きてきた事でしょう。そして、信頼する仲間を得たと確信していたのです。しかし、大きな病を得た時、その病に苦しめられるだけでなく、信頼していた仲間の裏切りを知ってしまったのです。
このような絶望のどん底で、詩人は本当に信頼すべきは神のみであった事に気づかされたのです。人の目ではなく、神の目を意識して生きるべきであった事に気づかされたのです。
人間関係がどうでも良い、というのではありません。人間には弱さ、罪深さがあるということです。この詩人の周囲には、悪意のない人もいたのかも知れません。しかし、最も信頼していた仲間に裏切られた時、もう誰も信じられなくなっていたのではないでしょうか。人の善意も悪意に感じられ、また、周囲の全ての人が自分に悪意を持っている、そのような疑心暗鬼に陥っていた事でしょう。この詩人もまた罪深い罪人であり、その弱さを持っているのです。疑心暗鬼に捕らわれているのは、その罪深さの現れです。
しかし、この詩人はそのまま闇に留まる事はありませんでした。神に目を向け、神に希望を見出す事が出来ました。この詩人の信仰深さがそうさせたと言うよりは、神がこの詩人を見捨てなかったというべきでしょう。神が、この詩人の目をご自身に向かわせたのです。
13節に「無垢なわたしを支え、とこしえに、御前に立たせてください。」とあります。
「無垢」という言葉は、旧約聖書のヨブ記でヨブに対してもこの言葉が使われています。ある人が、これを「ひたすらすがる」と訳しています。これは罪がないと言うのではなく、神に対して誠実さを全うする態度をいうからだというのです。別の人は、ヒブル語では違う言葉であるが、新共同訳では同じ「無垢」と言われているノア(創世記6章)に言及し、「無垢」は神との関係に分裂がない状態を言うと説明し、41編の詩人が敵と呪いによって神に引き離されそうになりながら、必死に神にしがみついている。それ故、ここでの「無垢」は信仰の事であって、道徳的な事ではないと結論づけています。
この詩人は、自分の正しさを強調しているのではありません。ただひたすら、神にすがりついているのです。「このように必死にすがりついている私を支え、とこしえに、御前に立たせてください。」と、祈っているのです。
この詩人は、神に目を向けるように変えられたようですが、しかし、人の目を意識するという束縛から自由になっていないようです。 11節の言葉がその事を示しています。
11節。「主よ、どうかわたしを憐れみ、再びわたしを起き上がらせてください。そうしてくだされば、彼らを見返すことができます。」
「彼らを見返す」というのは復讐を考えているという事ではないと思いますが、しかし、自分に悪意を持つ人々を見返してやりたいという強い願望があることは確かなようです。
この詩人がおかれている境遇を考えると、見返してやりたいと思う事を非難することは出来ません。誰もが抱く、ごく自然な感情だと思います。誰もが、この詩人に共感するのではないでしょうか。
しかし、だからこそ、この詩人は罪の力に捕らわれていると言わざるを得ないのではないでしょうか。そして、この詩人に共感できる私たち自身も、罪の力の虜になっていると言わざるを得ないのではないでしょうか。
神に目を向けるようにされていながら、神の目を意識するだけでなく、人の目を意識し、見返してやりたいという思いから自由になっていないのです。
先ほど、司式者には、Ⅱコリント5章1~10節を読んでいただきました。その中に次のような言葉がありました。
9節。「ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」
これは口語訳では「ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。」と訳されていました。
使徒パウロは、神の目を意識して生活するようにと、くり返し教えております。神の目を意識するというのは、神に見張られて、びくびくと恐れながら生活するという事ではありません。むしろ、神に喜んでいただけるような生活をするという事です。パウロの「ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。」という言葉は、それを示しています。神に喜ばれること、神から褒められること。私たちが切に求める事が、これ以外にあるでしょうか。主イエスも、神から「良い忠実な僕」と呼ばれる事がどれほど大きな幸いであるかを告げております。このように、神から褒められる事を願いながら生活をする。これが、神に救われ、神に愛されている私たちの生活です。
もちろん、私たちが完全に罪をおかさないという事ではありません。詩編41編の詩で言うならば、「無垢」な私たちの生活です。「ひたすら神にすがりつく」生活です。ひたすら、神にすがりつくのですから、神から目をそらさないように注意しなければなりません。
とにかく、神に喜ばれるように、神に目を向け、神の御心に精一杯応えたいという願いを持ちながら、そして、「応える事が出来るようにしてください」と祈りながらの生活という事です。
その上で、周囲の人々の言葉や行為に対しても、見返してやりたいという思いからの行動ではなく、神が喜ばれるように行動する事を心がけていく事が大切です。それは簡単な事ではないでしょう。完璧に行う事は出来ないでしょう。しかし、神はそのように心がけようとしている私たちの心を見てくださるのです。失敗したとしても、完全でなかったとしても、神は、そのように神の喜ばれたいと願っての私たちの生活、行動を、喜んでくださるのです。
参考に、使徒パウロの言葉を聞いておきましょう。
コリントの信徒への手紙二 6章3~10節。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」
伝道者としての生活を語っていますが、この姿勢は、全てのキリスト者が聞くべき言葉だと思います。
ローマの信徒への手紙12章14~17節では、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」と教えられています。
主イエスも、マタイ福音書5章44節で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と教えておられます。
「聖人君子になりなさい」という教えではありません。神は私たちを必ず守り、支え、導いてくださるのです。私たちを救うために、御子であるキリストを罪の償いとしてくださるほどに、私たちを愛してくださっているのです。この神を信頼して生活するようにと、そして、神に喜ばれる者でありなさいと教えておられるのです。