ゆとろぎへの道 仲村峯夫 一隅を照らす素晴らしきかな人生 照らさずとも好し また素晴らしきかなこの人生(とき)

日々、つれづれなるままに、心のおもむくままに、趣味的ハルサーの想いを…
自分探しの旅は 違う景色の見える道

有限と無限の認識、ジョブズの言葉への偏見的拘り

2019-04-06 10:02:06 | 日記
    有限と無限の認識、ジョブズの言葉への偏見的拘り
 数量や程度などものごとに限りがあることを「有限」といい、限度や限界がないことを無限という。
我々の住むこの三次元の世界はそのすべて?が有限の存在である。
日常生活の中では水や大気などほぼ無料・無限に存在するように錯覚しがちだが、生命の維持に不可欠な水や大気も全てが有限な存在でしかない。
敢えて、「無限なもの」といえば、神様かそれに類するサムシンググレートと、この大宇宙ぐらいしか思いつかない。
 その宇宙にしても「今から140億年前に誕生し、膨張を続けている」と聞けば、やはり有限宇宙を思い浮かべる。
一方、一つの宇宙にたくさんの銀河系が存在し、さらに別にもたくさんの宇宙が存在する(多元宇宙論)と聞けば無限宇宙も想起できる。
しかし、この無限宇宙の概念も言葉としてのイメージは想起できるが、実感イメージとしてはほぼ描き切れない存在でしかない。
神様もほぼ同じで、絶対唯一と言いながらも世界的な統一イメージすら存在しないし、第一誰も直接会ったことはない。
おそらくその存在も永遠に証明することもできないのだろうと思う。
 もし、この世界は全てが有限な存在で、無限なものは存在しないのであれば言葉としての存在だけの「無限」はどんな意味があるのだろうと思ってしまう。
殆んどの人間はこの言葉としての「無限」を無意識のうちに刷り込まれ、勘違いの中で日常を過ごしているようにしか思えないからである。
 「人間は生まれ、ほんの一瞬生き、そして死ぬんだ。ずーとそうだ。『自分がいつか死ぬんだ』と認識することは、人間の全てのストレスや恐怖を解消する」とジョブズはいう。
それは同時に「人間が如何にちっぽけな有限な存在である」かを思い出させ、「人間は今生において、自分の事だけに責任を負えばいいんだ」ということを再認識させるのだろうと思う。
「もっともちっぽけな有限な存在であることをを認識し、今やっていることが、どこかにつながる、と信じて生きる」というジョブズの処世訓は今の私には、もはや偏見的拘りの域なのかも知れない。









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