作りごとを超えた真実の生活をしたいと思いませんか?
そのように生きたいと思います。
( 以下、『沢木興道聞き書き』講談社学術文庫からの引用)
次から次へと変わってゆくものを追っかけて一生ふらふらしていたのでは、それこそ一生を空しくしてしまうものである。
どこまでも作りものを作らないで進んでゆく、その溌剌たる生活こそ真実なものである。
道元禅師の只管打坐は処世術でも技術でもない、人格の真実である。
無常ということは、生きることである。いかして、真実の生活をするかの努力が仏道者なのである。
なにかのまねであったり、つくりものであったりしたならば、そんなものは人間ごとであっても仏道ではない。仏道とは、いろいろな働きをする以前の、もとの自分になることなのである。
坐禅はあたかも、武士が三尺の秋水(真剣の銘柄)を引き抜いて身構えていると同様に真剣な姿である。これ以上、真剣な姿勢はありえない。
どんな人間でも、一番尊いのは、その人が真剣になったときの姿である。
どんなにであろうと、ギリギリの真剣な姿には、一指も触れることのできない厳粛なものがある。
これがわしの一生を坐禅に供養させるようになった因縁である。