ブッダの言葉の中心テーマであり、かつ、ブッダの言葉に耳を傾けて
いくに際しても一番大事なことである「物の見方」に関して書きます。
よく言われることですが、「先入観」をもって物事を見る場合には、
その先入観の枠内での見方しかできません。
例えば、強い先入観や偏見を持った人の例を思い浮かべるとすぐわかりますが、
仮に人から何か意見を言われたり指摘されたりしても、
すべて先入観・偏見の枠内で処理されてしまい、その人の物の見方や生き方は
何も変わらなかったりします。
でははたして、私たちは、このような先入観・偏見にどっぷりつかったあり方を
脱することができるのでしょうか?
「偏見で物を見ず、そのままに物を見よう」と努力して、
それが実践できるものなのでしょうか?
このような先入観・偏見も含め「物の見方」自体が、
アッタカヴァッガにおいて根本的な問題となっています。
「物の見方・見解」という意味のパーリ語「ディッティ」が、
38回も使われていることからも、いかに繰り返し問題となっているかがわかります。
ですが、私たちがもし、ブッダの言葉を聞いたとしても、
前もって何らかの物の見方あるいは偏見にどっぷりつかってしまっている場合には、
その枠内で処理されるだけとなってしまいます。
例えば、私たちが、「ブッダは~~という仏教の見解を説き、
外道の~~という見解を批判した」と前もって思いながら、
ブッダの言葉を読むと、その私たち自身の先入観によって曇った中でしか
ブッダの言葉を受け取ることができません。
物の見方そのものに関わる問題があるということは、私たち各自が、
言葉を読んだり、話を聞いたり、何かを見たりするなどの最も身近な行為・態度まで
含めて問題となるということです。
●これの前の文章
ブッダの言葉を自分で訳そうとする理由
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いくに際しても一番大事なことである「物の見方」に関して書きます。
よく言われることですが、「先入観」をもって物事を見る場合には、
その先入観の枠内での見方しかできません。
例えば、強い先入観や偏見を持った人の例を思い浮かべるとすぐわかりますが、
仮に人から何か意見を言われたり指摘されたりしても、
すべて先入観・偏見の枠内で処理されてしまい、その人の物の見方や生き方は
何も変わらなかったりします。
でははたして、私たちは、このような先入観・偏見にどっぷりつかったあり方を
脱することができるのでしょうか?
「偏見で物を見ず、そのままに物を見よう」と努力して、
それが実践できるものなのでしょうか?
このような先入観・偏見も含め「物の見方」自体が、
アッタカヴァッガにおいて根本的な問題となっています。
「物の見方・見解」という意味のパーリ語「ディッティ」が、
38回も使われていることからも、いかに繰り返し問題となっているかがわかります。
ですが、私たちがもし、ブッダの言葉を聞いたとしても、
前もって何らかの物の見方あるいは偏見にどっぷりつかってしまっている場合には、
その枠内で処理されるだけとなってしまいます。
例えば、私たちが、「ブッダは~~という仏教の見解を説き、
外道の~~という見解を批判した」と前もって思いながら、
ブッダの言葉を読むと、その私たち自身の先入観によって曇った中でしか
ブッダの言葉を受け取ることができません。
物の見方そのものに関わる問題があるということは、私たち各自が、
言葉を読んだり、話を聞いたり、何かを見たりするなどの最も身近な行為・態度まで
含めて問題となるということです。
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