生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

みこころのままに――人生の極意

2011年03月27日 | 思ったことなど
 西田幾多郎が、イエスのゲッセマネでの祈りや、親鸞上人の言葉を、
「宗教の極意」と述べていることを紹介しました。
 
 この「みこころのままに」「あなたまかせ」
「(浄土に行くか地獄に行くかなど)全く知らない」などの言葉に、
天災や人災で、いかに悲惨な現実を生きていようとも、
本当に力強く生き、死んでいける極意があるように思います。

 ここで、コメントでいただいた質問、
「ほんとの祈りって、自分のためではなく、
どこまでも『あなたの望みのため』なんでしょうか」
に一言、お答えします。

 この「あなたの望み」の「あなた」を、特定の個人や団体と
受け取ると、微妙な問題があるように思います。
 「あなたのためを必死に思ってる・・・」
 「誰それの幸せだけを本当に思っている・・・」
と、本当に自分で思っていたにもかかわらず、
後になって、結局は、「私の望むことを押しつけていただけかも」と
気づくような体験は、多くの人がしているのではないでしょうか?

 恋愛中、あるいは片思いでいるときなど、
「本当にあなたのことを思っている」と自分で深く信じていますが、
「自分の所有欲や、自分の思うままにしたい欲望に
色づけられていたなー」と、後になって気づくことはよくありますね。
 また例えば、親が、本当に「子どものため」を思って必死に、
育てることは、本当に尊いことですが、
「あなたのためを思って言ってるんでしょ!」「うるせーなー」みたいな
葛藤も、多くの人が経験することだと思います。

 こういうことを、私は悪いことだとは全然思っていません。
人間の逃れられない宿命のようなもので、
「自分のためか」「人のためか」「金のためか」「夢のためか」
混じり合って、よくわからないまま生きているのが、
私たちの実情だと思います。

 イエスは、ご自身が、「この杯を取りのけてください」と
神に祈っていることからもわかるように、
「自分の望みを押し殺せ」とは決して言っていません。
ありがたいことです。
 自分の望みがあるのは、それはそれとして、
「だけど、みこころのままに」と祈っているのです。
 ここで、イエスも自分にとって不可知な「みこころのままに」
と祈っているので、本当の祈りなのだと思います。
(もしイエスが、「神の望みはコレコレだ」と知っていると思い込んで
祈っていたら、イエスも、「頭でっかちな人」になってしまいます。)

 ちなみに、私が、「身体」のことで探求してきて、その極意も、
実は、「私が欲することでなく、あながた」という祈りのようなものである
ことを発見しました。
 続く・・・
●この前の文章
西田幾多郎『善の研究』の最後の段落



コメント (1)
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