5月29日午後に二俣川の上流橋の上から見るとタイル状の紋様が川面に見えた
多分、川底の石の大きさと太陽の光の屈折でタイル模様が現れていたと思われるが確証できない
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5月29日午後に二俣川の上流橋の上から見るとタイル状の紋様が川面に見えた
多分、川底の石の大きさと太陽の光の屈折でタイル模様が現れていたと思われるが確証できない
今日は三河地綿の綿打ち(種取り)作業をしています。
私の幼少の頃には母の在所の畑に綿が植えられて
1948年頃にはまだ綿が植えられていた。
一面に綿が植えられていたのではなく、周囲の畑の境に植えられていた。
まだその頃は米綿(アップランド種)ではなく和棉(日本の綿)であった
その記憶が残っているのはその綿の枝で私の叔母が目に怪我をしたことから
綿の木が私の記憶として残っているのだ。
畑の周りに一直線に植えられていて綿の木がその後50年以上経った現在
私の生活に重要な記憶であることに運命的記憶となっている。
そして現在、祖母の在所の同郷の森の月グループが綿の栽培と
作品発表に尽力していることも運命的に感じるものである、
日本の綿栽培は太平洋戦争敗戦後の物不足解消に綿を植えて糸を作り、
機を織って反物や布団の綿や綿入れ半纏などに使っていた。
戦後の食料不足は深刻で町では国の配給品では足らず さつまいもの蔓や野草を食べていた程だ
輸入したくても日本には輸送船も無く、国民は食糧難で敗戦国の悲哀を味わっていた。
そして現在はウクライナとロシアの戦争勃発で世界の穀倉地帯が戦火の中となった今、
世界は自国の食料確保に奔走する、作物ばかりでなく国際的に肥料も不足だと
報じられて不安が募る、
我が家は一年分の米の予約確保はしているもののどうなるやら不安である。
冷夏で米不足の時代もあったがパンや小麦粉はあった、今度はそれも無い、
食料自給率が低い問題も長い間言われて来たが
冷却装置の田畑は住宅地となって孟夏の原因となった。
それでも仕方がない、
しょうがない、
誰かがなんとかするだろう、
♪そのうちなんとかなるだろう〜♪
綿畑から食料問題で私の今日の作業は終わってしまったのだ。
土曜日は新城市から通うSiozakiさんの教室、
新型コロナ、オミクロン蔓延を警戒して受け入れ生徒数を減らし、
観光客の手織体験も中止して来たので今日も一人の教室だ。
ワンツーマンだから授業内容も濃い、
だが今日の私は手持無ささ、綿マフラーもそろそろ織り終わりで
次の作品の構想が必要となった。
平織を終わり、綾織の組織も慣れて織り面の綾も綺麗に揃って、
両縁の耳も綺麗に織れている
「次は何を作りたいですか?」
「次はアルパカのショールを織りたいです」
ものつくり大好きな彼女は自分の作品を身につけている、
今日も私は見つけて写真に撮らせてもらった。
作るのが大好きな人だから自分の布が手に入れば
もっともっとオリジナル性が上がり世界で一つのオンリーワンになる
帯地を使って作ったバッグだ
西陣織の帯生地で綺麗に出来ています。
バッグを見ながら私の修業時代の西陣を思い
もうすでにお亡くなりになった先輩達を思い出していた。
もうすぐ梅雨入りの気配がする竹島海岸にある竹島クラフトセンターです
竹島クラフトセンターの手織教室に一人の女性が麻の暖簾を織っているのは
西尾市から通うsuzukiさんだ
毎週火曜日の静かな午前中の教室で一人手織を楽しんでいる
無理をする事は無いマイペースで次の作品の構想を練りながら織っている
Suzukiさんのカラミ織りはグランド部分に隙間のない事が特徴の織り方である
誰ともなく自然の会話の中からアイデアが生まれ、
それを実践して作者自らの技として身につけていく
そんな教室が竹島クラフトセンターである。
授業として基礎を学びそこから自分を発揮するには
自ら織りながら失敗を繰り返す
「もうイヤだ」
と、思いながら口には出さずに我慢を通す
「我慢はするな体に悪い」
と、先生は言うが
どうしたら織れるのでしょう
あ!そうか
ひらめききらめき〜♪