吉村 昭著『三陸海岸大津波』
本書は当初中公新書の一冊として一九七〇年に『海の壁-三陸海岸大津波』というタイトルのもとで刊行された。その後改題され『三陸海岸大津波』として中公文庫の一冊として一九八四年に文庫本化された。更に、二度目の文庫本化として二〇〇四年三月に文春文庫として刊行された。
タイトルが示すように、本書は東北地方の東海岸、青森県・岩手・宮城三県にわたり続く三陸海岸を襲った津波に関する詳細なルポタージュである。
明治以降、三陸海岸は三度の大津波に襲われた。
一、一八九六年(明治二十九年)六月十五日 死者二六三六〇人
二、一九三三年(昭和八年)三月三日 死者二九九五名
三、一九六〇年(昭和三十五年)五月二十一日 死者一〇五名
著者は三陸地方が気に入り何度か旅した。いつの頃からか、かつてこの地を襲った津波について深い関心を持ち、文献を集め、体験者から話を聞き本書を練り上げた。
一八九六年の津波について、著者は貴重な証言を得る。一八八六年(明治十九年)生まれの中村丹蔵氏は、著者が取材した当時八十五歳。記憶も鮮明だった。以下の引用は、中村氏を取材したうえで書かれた津波発生時の再現である。
○
中村氏は、当時十歳の少年で端午の節句の夜、家で遊んでいた。小雨が降り、家の周囲には濃い霧が立ち込めていた。
突然、背後の山の中からゴーッという音が起った。少年は、豪雨が山の頂きからやってきたのだな、と思った。
と、山とは逆の海方向にある入口の戸が鋭い音を立てて押し破られ、海水が激しい勢いで流れこんできた。
祖父が、
「ヨダ(津波)だ!」
と、叫んだ。
中村少年は、家人とともに裏手の窓からとび出すと、山の傾斜を夢中になって駆け上った。
翌日、海も穏やかになったのでおそるおそる家にもどってみると、家の中にはおびただしい泥水にまじって漂流物があふれていた。
○
中村氏の記憶によると、この時の津波は海抜五〇メートルの高さにまで達している。
著者は一九三三年の大津波の際に書かれた小学生の作文を発見、本書の中に原文のまま数篇をとりこんでいる。以下は、その一例。
○
つ な み
尋二 佐藤トミ
大きなじしんがゆれたので、着物を着たりおびをしめたりしてから、おじいさんと外へ出て川へ行って見ました。
其の時はまだ川の水はひけませんから、着物を着てねました。そうしておっかなくていると、外でつなみだとさわぎました。
私はぶるぶるふるえて外に出ましたら、おじさんが私をそって(背負って)山へはせ(走り)ました。
山で、つなみを見ました。
白いけむりのようで、おっかない音がきこえました。火じもあって、みんながなきました。
夜があけてから見ましたら、家もみんなこわれ友だちもしんでいたので、私もなきました。
○
リアス式海岸という津波の被害を受けやすい三陸地方。数次の津波被害の体験をふまえ、住民の避難訓練や防潮堤の建設が進む。その結果、後の津波被害の軽減化がはかられていく。
例えば、田老町(岩手県)の場合、一九三三年の津波の翌年から防潮堤の建設が始まった。太平洋戦争中の中断はあったが、一九五八年(昭和三十三年)に全長一、三五〇メートル、高さ最大七・七メートル(海面からの高さ一〇・六五メートル)の大防潮堤を完成させた。防潮堤完成後に襲ったチリ地震津波では死者も家屋の被害はなかった。ちなみに、田老町では一八九六年の津波で一、八五九人、一九三三年の津波で九一一人の死者を出している。
『関東大震災』の著書もある吉村昭。災害・安全・防災に関するドキュメントの腕の冴えを見せている。
(二〇〇四年・文春文庫・四三八円+税)
本書は当初中公新書の一冊として一九七〇年に『海の壁-三陸海岸大津波』というタイトルのもとで刊行された。その後改題され『三陸海岸大津波』として中公文庫の一冊として一九八四年に文庫本化された。更に、二度目の文庫本化として二〇〇四年三月に文春文庫として刊行された。
タイトルが示すように、本書は東北地方の東海岸、青森県・岩手・宮城三県にわたり続く三陸海岸を襲った津波に関する詳細なルポタージュである。
明治以降、三陸海岸は三度の大津波に襲われた。
一、一八九六年(明治二十九年)六月十五日 死者二六三六〇人
二、一九三三年(昭和八年)三月三日 死者二九九五名
三、一九六〇年(昭和三十五年)五月二十一日 死者一〇五名
著者は三陸地方が気に入り何度か旅した。いつの頃からか、かつてこの地を襲った津波について深い関心を持ち、文献を集め、体験者から話を聞き本書を練り上げた。
一八九六年の津波について、著者は貴重な証言を得る。一八八六年(明治十九年)生まれの中村丹蔵氏は、著者が取材した当時八十五歳。記憶も鮮明だった。以下の引用は、中村氏を取材したうえで書かれた津波発生時の再現である。
○
中村氏は、当時十歳の少年で端午の節句の夜、家で遊んでいた。小雨が降り、家の周囲には濃い霧が立ち込めていた。
突然、背後の山の中からゴーッという音が起った。少年は、豪雨が山の頂きからやってきたのだな、と思った。
と、山とは逆の海方向にある入口の戸が鋭い音を立てて押し破られ、海水が激しい勢いで流れこんできた。
祖父が、
「ヨダ(津波)だ!」
と、叫んだ。
中村少年は、家人とともに裏手の窓からとび出すと、山の傾斜を夢中になって駆け上った。
翌日、海も穏やかになったのでおそるおそる家にもどってみると、家の中にはおびただしい泥水にまじって漂流物があふれていた。
○
中村氏の記憶によると、この時の津波は海抜五〇メートルの高さにまで達している。
著者は一九三三年の大津波の際に書かれた小学生の作文を発見、本書の中に原文のまま数篇をとりこんでいる。以下は、その一例。
○
つ な み
尋二 佐藤トミ
大きなじしんがゆれたので、着物を着たりおびをしめたりしてから、おじいさんと外へ出て川へ行って見ました。
其の時はまだ川の水はひけませんから、着物を着てねました。そうしておっかなくていると、外でつなみだとさわぎました。
私はぶるぶるふるえて外に出ましたら、おじさんが私をそって(背負って)山へはせ(走り)ました。
山で、つなみを見ました。
白いけむりのようで、おっかない音がきこえました。火じもあって、みんながなきました。
夜があけてから見ましたら、家もみんなこわれ友だちもしんでいたので、私もなきました。
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リアス式海岸という津波の被害を受けやすい三陸地方。数次の津波被害の体験をふまえ、住民の避難訓練や防潮堤の建設が進む。その結果、後の津波被害の軽減化がはかられていく。
例えば、田老町(岩手県)の場合、一九三三年の津波の翌年から防潮堤の建設が始まった。太平洋戦争中の中断はあったが、一九五八年(昭和三十三年)に全長一、三五〇メートル、高さ最大七・七メートル(海面からの高さ一〇・六五メートル)の大防潮堤を完成させた。防潮堤完成後に襲ったチリ地震津波では死者も家屋の被害はなかった。ちなみに、田老町では一八九六年の津波で一、八五九人、一九三三年の津波で九一一人の死者を出している。
『関東大震災』の著書もある吉村昭。災害・安全・防災に関するドキュメントの腕の冴えを見せている。
(二〇〇四年・文春文庫・四三八円+税)