よれよれ日記

谷晃うろうろ雑記

田舎暮らしには覚悟がいる

2007年05月04日 | Weblog
私の師匠は呻いた。

県にしろ市町村にしろ、地方ではその地域内から上がる税収をはるかに超える交付税などを地域外から受け取っている。

年寄りしか居ない山の中の限界集落では、道路などの生活環境を維持するのに集落の外からの人役がないと暮らしが成り立たない。

霞ヶ関からすれば「たかり」だと見える。しかし山に雨が降らなければ川だって流れない。どこかに木がたくさん生えてなければ、二酸化炭素は吸収されない。

それをそれと受け止めて、しかも田舎で暮らそうとするならそれなりの覚悟が要る、と師匠は呻く。

昔「極東米軍のプレゼンスとパフォーマンス」という言葉が耳についた。

「プレゼンスとパフォーマンス」という言葉は、当然米軍側が英語で言った言葉で、それを聞かされた日本人の私はそれを何と訳したらいいのか、呆然としていた。

今では霞ヶ関語で「たかり」と言われて、歯噛みしたくなる田舎人になっているのだが、ひらめいた。

「プレゼンスとパフォーマンス」は「存在価値と付加価値」か、と。

存在することに価値がある、ということもあるだろうが、存在するなら何か付加価値を出さないと許されない、という言葉の使い方として。

お町に見える県庁所在地の生活だって、大都会から見ればなんら存在価値もなく、「負荷価値」がある田舎暮らしだったりして。

覚悟が要る所以である。さすが、師匠。


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谷を越えると、また谷だった。

2007年05月03日 | Weblog
田舎で川筋を登っていくと、段々に人がいなくなる。

車で行ける所まで行き着いたら歩かなくてはならないが、それでもズンズン進めば、いずれ谷から離れて尾根にたどり着くか、それぞれの谷筋の天辺に行き着くはず。そこでやれやれと腰を落ち着けていられる暇人は古今そう多くはないから、たいてい尾根なり峠を越えると凡人はまた次の峰を目指すか、別の谷を下っていくことになる。

昔は、ひとつの谷と隣の谷は別の世界だったろう、と思わせる瞬間が、当今車でうろちょろしていても、ときどきある。

いつまで続くかと上り詰めてきた道が、峠を越えた途端に眺望が開けて下り坂になり、気分まで明るく軽くなる。車のアクセルを踏んでいるだけなのに勝手なものだ。

なんだか毎日ろくに先が見通せないのに、どこに向かって歩いているんだかと思う。自分の子どもらが学校に区切りが付いたのを見ると、ああ親子でひとやま越えたかとは思う。さて次の谷は、次の峠はの繰り返し。

それでもいいや、と思うようになった。



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