愚母の祖母の五十回忌法要に付いていった。安芸郡田野町へ。
亡くなってほぼ五十年、浄土宗のお寺での法要の後、そのおばあさんのことを覚えている孫同士が「いとこ会」をすることになった。
世話役を買ってでた方が、系図のような資料を作って配ってくれた。
おばあさんが産んだ子は7人で、その下の孫は31人いる。
今回は愚母の母方のいとこ会だったが、父方も子だくさんで、父方母方あわすと50人を超えるいとこがあるという。
愚父もいとこが多いのだが、愚父愚母はどちらも二人しか兄弟姉妹がなく、私には三人の兄弟の他にはいとこが4人、しかも既に二人欠けている。
五十年という歳月を過ぎれば、生きていた人は死に、陰も形もなかった子どもが現れ、その子たちが世の中の中心になっていく。
仏壇やお寺はそういう変遷をながめてくれている、時を写す鏡のようなものなのかもしれない。
そういえば、神社には鏡があるな、と今頃気がついた。
私の子どもたちは、どんな鏡をのぞき込むことになるのだろう。
亡くなってほぼ五十年、浄土宗のお寺での法要の後、そのおばあさんのことを覚えている孫同士が「いとこ会」をすることになった。
世話役を買ってでた方が、系図のような資料を作って配ってくれた。
おばあさんが産んだ子は7人で、その下の孫は31人いる。
今回は愚母の母方のいとこ会だったが、父方も子だくさんで、父方母方あわすと50人を超えるいとこがあるという。
愚父もいとこが多いのだが、愚父愚母はどちらも二人しか兄弟姉妹がなく、私には三人の兄弟の他にはいとこが4人、しかも既に二人欠けている。
五十年という歳月を過ぎれば、生きていた人は死に、陰も形もなかった子どもが現れ、その子たちが世の中の中心になっていく。
仏壇やお寺はそういう変遷をながめてくれている、時を写す鏡のようなものなのかもしれない。
そういえば、神社には鏡があるな、と今頃気がついた。
私の子どもたちは、どんな鏡をのぞき込むことになるのだろう。