MASQUERADE(マスカレード)

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2008-02-03 13:36:22 | Weblog

AHFの東京五輪不支持発言 都知事「JOCは抗議を」(産経新聞) - goo ニュース

 クウェートという国は資源の無い日本と違い石油という“金のなる木”を持っており

特別な努力もせずに豊かでいられるため、スポーツに対して考え方が根本的に

違うのだろう。日本は純粋に競技を楽しんでいるが、クウェートには国威発揚の道具

でしかない。このような考え方の国に正論で抗議しても仕方がないであろう。だから

もしJOCが抗議するのであるならば次のように言うべきであろう。「お前らの支持

などいらねえよ お前らが支持しようがしまいが東京が選ばれることは絶対にない

からな」オリンピック開催地は最終的にはアメリカ次第である。


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『アメリカン・ギャングスター』 80点

2008-02-03 02:07:10 | goo映画レビュー

アメリカン・ギャングスター

2007年/アメリカ

ネタバレ

ラストワンカットの意味

総合★★★★☆ 80

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 映画が終わって出演者やスタッフの名前が出てくると直ぐに席を立ってしまう人は気が付かないのだろうから、その後に挿入されているラストシーンと言えないくらいに短いラストカットをどのように判断するのかなどは本当はどうでもいいはずなのであるが、この作品に関してはどうでもいいで済ませることが出来ない理由は、監督がかつてカットに拘り過ぎたために1本の作品において5つの違うヴァージョンを作ってしまったリドリー・スコットだからである。
 この作品の最後は刑務所から出所してきたフランク・ルーカスが事務所のようなところで誰かを拳銃で撃つシーン(お礼参り?)で終わる。フランクが出所してくるなり最初に撃ち殺したい人間は誰なのかを考えると、どうしても彼を捕まえたリッチー・ロバーツ以外に考えられない。モデルになったリッチー・ロバーツは健在なので、監督はここで明らかに事実に反する演出をしていることになる。
 何故リドリー・スコット監督がこのような演出をしたのかを推測すると、事実に基付いた作品に敢えて事実に反する映像を挿入することで観客にインパクトを与えようとしたのだと思われる。
 しかし残念ながらもしこの推測が正しのならば、その意図は失敗していると思う。何故ならこの作品は事実を基にしたものではあっても、ドキュメンタリーではないからである。ドキュメンタリー作品だったものが最後でドキュメンタリーではないと明かされるのならばかなりのインパクトがあるが、前作『プロヴァンスの贈りもの』のラストシーンのように、作品の意味合いを変えてしまうほどの効果は本作にはほとんどないといってもいいだろう。
 勿論いつもの手堅いクールな演出は十分評価されるべき作品である。


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『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』 50点

2008-02-03 01:16:33 | goo映画レビュー

スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師

2007年/アメリカ

ネタバレ

「ミュージカル」という言い訳

総合★★☆☆☆ 50

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 ‘ダーク’な話のミュージカルとしては『オペラ座の怪人』などが有名であるが、『オペラ座の怪人』にあって『スウィニー・トッド』に足りない物は愛なのでなないのだろうか?
 この作品が不思議なのは理髪師のベンジャミン・パーカーが妻と娘と幸せに暮らしていた時のシーンがほとんど描かれないことである。ベンジャミン・パーカーがスウィーニー・トッドと化してまで復讐を決心した経緯、例えばタービン判事にどのような酷い目に遭わされたのか、あるいはフリート街の住人たちがそのことに対していかに冷たかったのか具体的に描かれることがほとんどない。そのためスウィーニー・トッドが来客の首を次々と切っていくシーンに同情できない。
 スウィーニー・トッドはタービン判事が自分の顔を覚えていなかったことを非難していたが、トッド自身自分の妻の顔を覚えていなかったため首を切ってしまうのはどう考えても納得出来ない。トッドの首が切られて映画は終わってしまうので生き残った彼の娘がどう思いその後どうなったのか描かれないのも納得しかねる。
 しかし恐らく監督のティム・バートンはこのような批判に対しては、これはミュージカルだから仕方が無いという言い訳をするのであろう。しかしミュージカル映画として成功しているのならともかく、出演者の歌声を聴いただけでも感動するというようなレベルではない。たぶんこの作品はミュージカルでなかったならばただのスプラッタムービーでしかない。そう考えればこの作品はオープニングからエンディングまでずっと血が流れていた。最初からそのつもりで観るのならば映像においてそのような雰囲気をいつものように巧妙に作りだしているので問題はないのであろうが、個人的に血しぶきを観て楽しむ趣味を持ち合わせていないのが残念であった。


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『テラビシアにかける橋』 60点

2008-02-03 00:20:13 | goo映画レビュー

テラビシアにかける橋

2007年/アメリカ

ネタバレ

‘卒業制作’

総合★★★☆☆ 60

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 10歳前後の子供たちが現実の中で生きていく上で抱く疎外感を、自分たちが頭の中で作りだす架空のイメージで解消していきながら成長していく様子はCGの控えめな利用も合わせて上手く描かれていると思う。しかしラストシーンに問題があるのではないのだろうか?
 ラストシーンはジェスが妹のメイベルを連れて自分が作った橋を渡らせて‘テラビシア王国’の女王として迎えるというものである。しかし‘テラビシア王国’に意味があるとすればそれはジェスとレスリーが何もないところから王国までに築き上げる過程にこそあるはずなのだ。王国が完成する間じかにジェスが音楽の先生に気を奪われてレスリーを誘わずに2人だけで美術館に行った結果、レスリーが事故で命を失った時、ジェスは人を愛することの難しさを思い知り大人になり王国が完成したのであるから、ジェスは完成した王国の王になるのではなく、王国から‘卒業’するべきであり、妹のメイベルは既に出来上がっている王国に女王として迎えられるのではなく、ジェスやレスリーのように何も無いところから自分の力で王国を築かなければ成長する経験ができないため意味がなくなってしまう。
 だからテラビシアの橋というものは子供からの‘卒業制作’であるはずべきなのだ。
 あと蛇足ではあるがあれだけ美人でスポーツ万能で頭の良いレスリーに友達がいなかったという設定は考え難い。そのような設定にしたいのであるのならば説明不足だと思う。


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