、小沢官房長官、支持率危険水域でも、支持をしてる人達の為に鳩山総理と反小沢分子の大幅改造を断行して新発進し直せ

マイナス思考げ危機感ゼロ党内でケンカしてる暇あるかそんなバカ閣僚は即解任し仕事する若手と交代させ、一致団結選挙に突進。

リトアニアからブラジルへ、故郷喪失者の人間の実在性を凝視する視線

2009-12-02 21:14:18 | 大半の国民は他人に任せで我欲ばかり
リトアニアからブラジルへ、故郷喪失者の人間の実在性を凝視する視線
  
「ブラジルの表現主義者」 ラサル・シーガル展


 もう20年も前になるかと思うが、温かな掌の手触りをもつ『リトアニアへの旅の追想』という映像詩をみた。今日では、米国インディペンデント映画の不朽の名作といわれているようだが。ナチスに追われ米国に亡命したリトアニア生まれのユダヤ人ジョナス・メカスがニューヨークでの日常を16ミリ・フィルム(8ミリだったかも?)で撮りはじめ、27年後、「亡命した人間」が故郷の村を訪ねる思い出の旅、そして強制収容所に収監されていた絶望的な日々を追想する部分と三つの独白的な映像を積み重ねた物静かだが20世紀の人間世界の愚かさも抉るような刃先のきらめきをもった作品だった。
 ラサル・シーガルというリトアニアの首都ヴィリニュスのユダヤ人コロニーに生まれ、ドイツ表現主義の影響下から出発し、ブラジルに永住の地を見出した画家の回顧展が始まった。142点の作品を通覧していくうちに、メカスの映像がひたひたと広がった。シーガルは、ドイツ表現主義の画家たちが絶えず人間を凝視しつづけたように、人間を酷烈な視線で観た、観ようと前傾姿勢を保とうとした画家だ。内質的にけっして政治的な作家ではなかったと思うが、彼が生きた時代と、そして出自、さらにいえば小国リトアニアの運命が雄弁な作家にしたように思う。
 メカスの映像詩はいまだベルリン市街を分かつ「壁」が屹立している時代に作品化された。「壁」が何時、崩壊するのか誰も分からない状況を暗黙の了解事項として、その映像は見る者の肺腑に染み込んで来たのだった。シーガルの絵に具体的な表象があるわけではないがロシア革命、ナチスの台頭、大戦、ソ連邦によるリトアニア併呑といった20世紀東欧史が反映している。歴史の痕跡、傷痕を留めているという言い方もできるだろうか。
 シーガルとブラジルとの出会いは1912年、画家21歳の時だ。ブラジルに住む兄弟を訪ねたのが最初だ。そして、1924年以来、サンパウロに居を定めブラジル人画家として後半生を過ごすことになる。
 第一次大戦における敗戦、廃墟、失意と混乱のなかから出てきたドイツ表現主義は、ナチの台頭によって政治的に窒息させられる短くも豊潤な実験性と鋭敏な時代感覚を合わせ持った大きな潮流であった。そこで行われた社会批評と美術との融合の試みは現在まで大きな影響を与えている。シーガルは、その運動のなかで単なる写実では飽きたらず人間存在の実在を極めようする探求の画家となる。それは、第一次大戦の悲惨を兵士として体験したオットー・デックスら先導者たちのドイツ表現主義の忠実な使徒になることであった。シーガルの清新な感受性は先達たちの妥協なき戦いの前衛に近づく、デックスはシーガルの師だが、同時にキルヒナーの神経を逆撫でるような刺激的な色彩で描き出された人物像にも抗しがたく引きつけられた画家であったと、初期作品がそう語っている。しかし、シーガルは先輩たちより更に惨酷な現代史とともに歩むことを強制される。祖国リトアニアはモスクワの配下となって独立を失い、故郷喪失者となる。
 難民・亡命者を満載した船内光景、虐殺の大画面、親密感に富んだユダヤの老人像、愛する妻の肖像にしも何処か陰鬱である。色彩を意志的に抑制した寒々としたタブローがつづく。しかし、そんななかにあって時折り暖色が跳ね、絵筆の喜びを率直に反映した作品が、雲間の射光のように慰安の境地に誘う作品がある。それらはいずれもブラジルを、ブラジルの太陽を浴びる民衆を描いた作品だ。それらの絵は、ブラジル生活が始まってから描かれたものではなく、欧州からの旅で描かれた時代から始まっていて、本質的に色彩を抑制しつづけてきた画家の履歴のなかにあって、うまい表現とはいえないが“砂漠のオアシス”のようなものだ。ブラジルは、北国生まれの故郷喪失者に慰安と、精神に良きバランスを与えていたのだ。そんな第二の故郷に恩返しをすべく、彼はブラジルにおいて、植民地美術からの完全なる脱却を願って絵画だけでなく、文字の書き手として多くの発言を繰り返して行く。
 メカスが米国の作家として認知されているように、シーガルもブラジルの画家である。そして、メカスより時代の輻射熱を直截に受け止めて真摯に創造活動に邁進した表現者であると思う。そんな画家の業績が日本ではまったく黙殺されている。手元の日本語によるドイツ表現主義関係のいくつかの文献にあたったがシーガルの名はない。いや、ブラジルを除くスペイン語圏アメリカでも無名であった。いま、その再評価が米大陸で本格的にはじまった。
 1991年、シーガルとメカスの祖国リトアニアは市民の血を犠牲にしてモスクワの意思を挫き、独立を勝ち取った。シーガルの死後、34年を経てのことだった。 
後日談 : ラサル・シーガル展は2002年3月から6月、メキシコ市内の国立近代美術館で行なわれた後、7月からアルゼンチンのブエノス・アイレスのラテンアメリカ美術館に巡回した。本稿は、2002年5月号の『芸術新潮』の「WORLD」欄に書いた記事に対して、すこぶるつきで飽き足らず、全面改稿して、『ラティーナ』誌のアート欄に寄稿した文章に、今回またあらたに手を加えたのが掲載の文章。まぁ、これでも書き足りないぐらいだが、いまだブラジルの地を知らずリトアニアを訪れる機会も巡ってくるかな、という現在、あまり勇み足もしたくないとの思いもあるので、まずは紹介の一助にということで……。 



  「バナナ園にて」(1927年)


虚構のなかの冷たい幻想

2009-12-02 21:05:55 | 連立はマニフェスト合意条件で連立組む

 虚構のなかの冷たい幻想 レメディオス・バロの異界

 たとえば、「笛吹き」と題された絵をみてみよう。
 若い笛吹きが奏でる調べに合わせて化石の断片が地上から舞い上がり、後景の塔の壁材として飛翔していく光景。それとも、塔から一枚一枚はぎ取られ、音色に誘われて笛吹きの足元に舞い降りる、とまったく反対の印象も与える不思議な絵だ。笛吹きも朽ちたまま立ち涸れた森から抜け出てきた、不可思議な存在だ。 
 「ハーモニー」と題された絵。厚い壁で囲まれた青白い部屋で、独り悄然と机上に浮かぶ五線譜に昆虫やら葉などを刺し通し旋律を紡ぐ青年を描く。前後の壁に染みのような女の虚像が描かれ、その女の手は五線譜に延び、青年に啓示を与えているような、それと引き替えに青年の精気を奪っているような……青年の頬は痩け、死相さえ漂っている。
 幻視の女流画家である。
 生まれは1908年、スペインはカタルニアの小さな町、その名もアンヘル、「天使の町」である。両親はバスク人であった。生後、暫くして両親とともに北アフリカのモロッコに移り、7歳でマドリッドの学校に入学するまで生活する。幼少期のアフリカ体験が描かれているわけではないが、レメディオスの絵が徹底的に無国籍を志向している事情と何処かで通底するものがあるように思う。
 レメディオスの代表作をもう一点、紹介しておこう。「太陽の音楽」。草が生えた毛布のようなものを裸体に纏った若い女。たぶん、ミューズ。そして、顔はたぶん自画像。化石の森のような褐色の地に射し込んで来る光の束を大きな弦楽器と見立て、その光の束から自在に音色を弾きだす。光輪となって地上に浸透する小さな円のなかだけ、花々が繁る。 そうレメディオスは繰り返し「音楽」を象徴化している。その「音楽」は無論、交響楽ではありえず、独奏曲、しかも自己慰安のための旋律に満ちたものだ。私生活を反映、象徴するものでもあろう。さまざまな解釈が成り立つが、それは余りにも極私的であって、批評を頑なに拒んでいるように思う。レメディオスが描く自画像はそんなふうに表象される。
 グリムやアンデルセン、あるいはウォルト・ディズニーのアニメに登場してくるようなメルヘン的な楽しさと薄気味の悪さが同居、というより錯綜する。独特のユーモアと、毒気の含んだ風刺性。ネーデルランドのボッシュの影響もあれば、シュールレアリストのエルンストの陰もみられる。童画そのものとしか思えない絵もある。童話には、よく残忍さが隠されているというが、その二律離反するものがレメディオスのなかに共存する。
 作品はいずれもが細心の筆使いで丹念に描かれている。衝動はなく、緻密に計算された絵なのだ。薄く溶かした絵の具を幾度も塗り重ねて微妙な肌触りを作っている。その意味ではレメディオスとほぼ同世代の画家フリーダ・カーロとは対極的な位置にある。フリーダの絵は、幾ら非日常の世界を描いても、そこには地上に根を下ろした生身の女の熱き体温が感じられるものだが、レメディオスの絵にはひんやりとした人工的な冷気がこぼれ落ちそうな気配しかない。この怜悧さはどこかから来るのか? 
 レメディオスは1942年以来、メキシコに定住することになる。その2年前に、彼女の作品はシュールレアリスト絵画展の出品作としてメキシコ市に渡り、二度目の夫シュールレアリストの詩人ベンジャミン・ペレと新生活を開始する。その42年には、メキシコ文部省が「絵画彫刻学校」を設立し、夫ペレはここの教授に迎え入れられた。同僚にはディエゴ・リベラやその妻フリーダがいた。
 レメディオスは絵を生活の足しにするために売る必要はなかった。だから、心ゆくまで絵を愛撫していられたし、幻想に浸ってもいられた。彼女の代表作はもとより大半の作品がメキシコで描かれ、故にカタルニアではなくメキシコの画家として認知されているが、この地のコントラストの激しい光と陰に育まれはしなかった。明度はせいぜい絵筆の先を照らすものがあれば良かった。
 レメディオスの本格的な展覧会は1982年のことである。それまで、ほんの少数の者しかその潤沢な個性的な美の世界を知らなかった。幻視を紡いだ画家の日常とはどのようなものであったのか? 画家は多くを語っていない。1963年、55歳で死去。早すぎる死だと思う。
 現在、レメディオスの主要作品はメキシコ近代美術館に収蔵されている。因みに、同美術館にはフリーダの代表作、リベラ、シケイロス、オロスコなど壁画運動を担った巨匠たちの代表的なタブローが常設展示されている。その一角に、昨秋からレメィデオスに捧げられたコーナーが設けられた。
 「私は語りたくない。作品こそが重要だ」とはレメディオスの生前の弁。しかし、その幻想に魅せられた者は、その意味性を自己流に解釈したくなるものだ。そうした作業を通じて、孤高の画家も否応なく美術史に定着させられてゆく。

 レメディオス・バロの「笛吹き」


初出掲載紙 : 『ラティーナ』2002年4月号
後日談 :  おそらく、日本で女性の画家たちの系譜が普及書として出されたのは1985年、イタリア美術専攻の若桑みどりさんが岩波新書『女性画家列伝』であったと思う。いま思えば、すこぶる物足りないものだが、当時として、ともかく類書がなかったから、これを読んで感化された人も多かったはずだ。もの足りないというのは、わがフリーダ・カーロさえ一語半句も言及されていなかった。米国のジョージア・オキーフもなし、アルゼンチンのフィニは取り上げれていたけれど南米の風土はそこになかった。おそらく、今回紹介するレメディオス・バロを知る読者は少ないかも知れないがメキシコ及び欧米では良くしられた女性画家だ。これから、ここでも画家に限らず彫刻家や写真家など女性芸術家を積極的に紹介していきたいと思う。


「1954年7月、米国のグァテマラ侵攻を批判するデモに参加した時のフリーダ・カーロ。

2009-12-02 20:56:29 | 執行部に不満なら小沢に直訴する度胸もて


● 「1954年7月、米国のグァテマラ侵攻を批判するデモに参加した時のフリーダ・カーロ。車椅子での参加で、彼女の最後の政治的行動だった。写真は、メキシコ市内で観光客用に販売されている多くのフリーダ関係の絵葉書の一枚」


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◆ 虚構のなかの冷たい幻想 レメディオス・バロの異界

 たとえば、「笛吹き」と題された絵をみてみよう。
 若い笛吹きが奏でる調べに合わせて化石の断片が地上から舞い上がり、後景の塔の壁材として飛翔していく光景。それとも、塔から一枚一枚はぎ取られ、音色に誘われて笛吹きの足元に舞い降りる、とまったく反対の印象も与える不思議な絵だ。笛吹きも朽ちたまま立ち涸れた森から抜け出てきた、不可思議な存在だ。 
 「ハーモニー」と題された絵。厚い壁で囲まれた青白い部屋で、独り悄然と机上に浮かぶ五線譜に昆虫やら葉などを刺し通し旋律を紡ぐ青年を描く。前後の壁に染みのような女の虚像が描かれ、その女の手は五線譜に延び、青年に啓示を与えているような、それと引き替えに青年の精気を奪っているような……青年の頬は痩け、死相さえ漂っている。
 幻視の女流画家である。
 生まれは1908年、スペインはカタルニアの小さな町、その名もアンヘル、「天使の町」である。両親はバスク人であった。生後、暫くして両親とともに北アフリカのモロッコに移り、7歳でマドリッドの学校に入学するまで生活する。幼少期のアフリカ体験が描かれているわけではないが、レメディオスの絵が徹底的に無国籍を志向している事情と何処かで通底するものがあるように思う。
 レメディオスの代表作をもう一点、紹介しておこう。「太陽の音楽」。草が生えた毛布のようなものを裸体に纏った若い女。たぶん、ミューズ。そして、顔はたぶん自画像。化石の森のような褐色の地に射し込んで来る光の束を大きな弦楽器と見立て、その光の束から自在に音色を弾きだす。光輪となって地上に浸透する小さな円のなかだけ、花々が繁る。 そうレメディオスは繰り返し「音楽」を象徴化している。その「音楽」は無論、交響楽ではありえず、独奏曲、しかも自己慰安のための旋律に満ちたものだ。私生活を反映、象徴するものでもあろう。さまざまな解釈が成り立つが、それは余りにも極私的であって、批評を頑なに拒んでいるように思う。レメディオスが描く自画像はそんなふうに表象される。
 グリムやアンデルセン、あるいはウォルト・ディズニーのアニメに登場してくるようなメルヘン的な楽しさと薄気味の悪さが同居、というより錯綜する。独特のユーモアと、毒気の含んだ風刺性。ネーデルランドのボッシュの影響もあれば、シュールレアリストのエルンストの陰もみられる。童画そのものとしか思えない絵もある。童話には、よく残忍さが隠されているというが、その二律離反するものがレメディオスのなかに共存する。
 作品はいずれもが細心の筆使いで丹念に描かれている。衝動はなく、緻密に計算された絵なのだ。薄く溶かした絵の具を幾度も塗り重ねて微妙な肌触りを作っている。その意味ではレメディオスとほぼ同世代の画家フリーダ・カーロとは対極的な位置にある。フリーダの絵は、幾ら非日常の世界を描いても、そこには地上に根を下ろした生身の女の熱き体温が感じられるものだが、レメディオスの絵にはひんやりとした人工的な冷気がこぼれ落ちそうな気配しかない。この怜悧さはどこかから来るのか? 
 レメディオスは1942年以来、メキシコに定住することになる。その2年前に、彼女の作品はシュールレアリスト絵画展の出品作としてメキシコ市に渡り、二度目の夫シュールレアリストの詩人ベンジャミン・ペレと新生活を開始する。その42年には、メキシコ文部省が「絵画彫刻学校」を設立し、夫ペレはここの教授に迎え入れられた。同僚にはディエゴ・リベラやその妻フリーダがいた。
 レメディオスは絵を生活の足しにするために売る必要はなかった。だから、心ゆくまで絵を愛撫していられたし、幻想に浸ってもいられた。彼女の代表作はもとより大半の作品がメキシコで描かれ、故にカタルニアではなくメキシコの画家として認知されているが、この地のコントラストの激しい光と陰に育まれはしなかった。明度はせいぜい絵筆の先を照らすものがあれば良かった。
 レメディオスの本格的な展覧会は1982年のことである。それまで、ほんの少数の者しかその潤沢な個性的な美の世界を知らなかった。幻視を紡いだ画家の日常とはどのようなものであったのか? 画家は多くを語っていない。1963年、55歳で死去。早すぎる死だと思う。
 現在、レメディオスの主要作品はメキシコ近代美術館に収蔵されている。因みに、同美術館にはフリーダの代表作、リベラ、シケイロス、オロスコなど壁画運動を担った巨匠たちの代表的なタブローが常設展示されている。その一角に、昨秋からレメィデオスに捧げられたコーナーが設けられた。
 「私は語りたくない。作品こそが重要だ」とはレメディオスの生前の弁。しかし、その幻想に魅せられた者は、その意味性を自己流に解釈したくなるものだ。そうした作業を通じて、孤高の画家も否応なく美術史に定着させられてゆく。

● レメディオス・バロの「笛吹き」

* 初出掲載紙 : 『ラティーナ』2002年4月号
* 後日談 :  おそらく、日本で女性の画家たちの系譜が普及書として出されたのは1985年、イタリア美術専攻の若桑みどりさんが岩波新書『女性画家列伝』であったと思う。いま思えば、すこぶる物足りないものだが、当時として、ともかく類書がなかったから、これを読んで感化された人も多かったはずだ。もの足りないというのは、わがフリーダ・カーロさえ一語半句も言及されていなかった。米国のジョージア・オキーフもなし、アルゼンチンのフィニは取り上げれていたけれど南米の風土はそこになかった。おそらく、今回紹介するレメディオス・バロを知る読者は少ないかも知れないがメキシコ及び欧米では良くしられた女性画家だ。これから、ここでも画家に限らず彫刻家や写真家など女性芸術家を積極的に紹介していきたいと思う。


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◆ リトアニアからブラジルへ、故郷喪失者の人間の実在性を凝視する視線
  「ブラジルの表現主義者」 ラサル・シーガル展

 もう20年も前になるかと思うが、温かな掌の手触りをもつ『リトアニアへの旅の追想』という映像詩をみた。今日では、米国インディペンデント映画の不朽の名作といわれているようだが。ナチスに追われ米国に亡命したリトアニア生まれのユダヤ人ジョナス・メカスがニューヨークでの日常を16ミリ・フィルム(8ミリだったかも?)で撮りはじめ、27年後、「亡命した人間」が故郷の村を訪ねる思い出の旅、そして強制収容所に収監されていた絶望的な日々を追想する部分と三つの独白的な映像を積み重ねた物静かだが20世紀の人間世界の愚かさも抉るような刃先のきらめきをもった作品だった。
 ラサル・シーガルというリトアニアの首都ヴィリニュスのユダヤ人コロニーに生まれ、ドイツ表現主義の影響下から出発し、ブラジルに永住の地を見出した画家の回顧展が始まった。142点の作品を通覧していくうちに、メカスの映像がひたひたと広がった。シーガルは、ドイツ表現主義の画家たちが絶えず人間を凝視しつづけたように、人間を酷烈な視線で観た、観ようと前傾姿勢を保とうとした画家だ。内質的にけっして政治的な作家ではなかったと思うが、彼が生きた時代と、そして出自、さらにいえば小国リトアニアの運命が雄弁な作家にしたように思う。
 メカスの映像詩はいまだベルリン市街を分かつ「壁」が屹立している時代に作品化された。「壁」が何時、崩壊するのか誰も分からない状況を暗黙の了解事項として、その映像は見る者の肺腑に染み込んで来たのだった。シーガルの絵に具体的な表象があるわけではないがロシア革命、ナチスの台頭、大戦、ソ連邦によるリトアニア併呑といった20世紀東欧史が反映している。歴史の痕跡、傷痕を留めているという言い方もできるだろうか。
 シーガルとブラジルとの出会いは1912年、画家21歳の時だ。ブラジルに住む兄弟を訪ねたのが最初だ。そして、1924年以来、サンパウロに居を定めブラジル人画家として後半生を過ごすことになる。
 第一次大戦における敗戦、廃墟、失意と混乱のなかから出てきたドイツ表現主義は、ナチの台頭によって政治的に窒息させられる短くも豊潤な実験性と鋭敏な時代感覚を合わせ持った大きな潮流であった。そこで行われた社会批評と美術との融合の試みは現在まで大きな影響を与えている。シーガルは、その運動のなかで単なる写実では飽きたらず人間存在の実在を極めようする探求の画家となる。それは、第一次大戦の悲惨を兵士として体験したオットー・デックスら先導者たちのドイツ表現主義の忠実な使徒になることであった。シーガルの清新な感受性は先達たちの妥協なき戦いの前衛に近づく、デックスはシーガルの師だが、同時にキルヒナーの神経を逆撫でるような刺激的な色彩で描き出された人物像にも抗しがたく引きつけられた画家であったと、初期作品がそう語っている。しかし、シーガルは先輩たちより更に惨酷な現代史とともに歩むことを強制される。祖国リトアニアはモスクワの配下となって独立を失い、故郷喪失者となる。
 難民・亡命者を満載した船内光景、虐殺の大画面、親密感に富んだユダヤの老人像、愛する妻の肖像にしも何処か陰鬱である。色彩を意志的に抑制した寒々としたタブローがつづく。しかし、そんななかにあって時折り暖色が跳ね、絵筆の喜びを率直に反映した作品が、雲間の射光のように慰安の境地に誘う作品がある。それらはいずれもブラジルを、ブラジルの太陽を浴びる民衆を描いた作品だ。それらの絵は、ブラジル生活が始まってから描かれたものではなく、欧州からの旅で描かれた時代から始まっていて、本質的に色彩を抑制しつづけてきた画家の履歴のなかにあって、うまい表現とはいえないが“砂漠のオアシス”のようなものだ。ブラジルは、北国生まれの故郷喪失者に慰安と、精神に良きバランスを与えていたのだ。そんな第二の故郷に恩返しをすべく、彼はブラジルにおいて、植民地美術からの完全なる脱却を願って絵画だけでなく、文字の書き手として多くの発言を繰り返して行く。
 メカスが米国の作家として認知されているように、シーガルもブラジルの画家である。そして、メカスより時代の輻射熱を直截に受け止めて真摯に創造活動に邁進した表現者であると思う。そんな画家の業績が日本ではまったく黙殺されている。手元の日本語によるドイツ表現主義関係のいくつかの文献にあたったがシーガルの名はない。いや、ブラジルを除くスペイン語圏アメリカでも無名であった。いま、その再評価が米大陸で本格的にはじまった。
 1991年、シーガルとメカスの祖国リトアニアは市民の血を犠牲にしてモスクワの意思を挫き、独立を勝ち取った。シーガルの死後、34年を経てのことだった。 

* 後日談 : ラサル・シーガル展は2002年3月から6月、メキシコ市内の国立近代美術館で行なわれた後、7月からアルゼンチンのブエノス・アイレスのラテンアメリカ美術館に巡回した。本稿は、2002年5月号の『芸術新潮』の「WORLD」欄に書いた記事に対して、すこぶるつきで飽き足らず、全面改稿して、『ラティーナ』誌のアート欄に寄稿した文章に、今回またあらたに手を加えたのが掲載の文章。まぁ、これでも書き足りないぐらいだが、いまだブラジルの地を知らずリトアニアを訪れる機会も巡ってくるかな、という現在、あまり勇み足もしたくないとの思いもあるので、まずは紹介の一助にということで……。 

●  「バナナ園にて」(1927年)


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7時起き、出社。朝から大雨。というか風がものすご

2009-12-02 02:43:43 | 執行部に不満なら小沢に直訴する度胸もて
[2981] 1/31 - 2/6 2009-02-08 (Sun)

1/31(土)

7時起き、出社。朝から大雨。というか風がものすごく強い。
芝浦の運河を渡る辺りは大変なことになっていた。
午前中は芝浦の本社で仕事して、昼、ますたにでチャーシュー麺を食べて、
神保町に移動する。
有楽町で降りて、HMV2件回ってCDを探す。何も買わない。
OAZOの丸善まで歩いていく。
翌週末の河口湖キャンプでのプレゼント交換のお題が漫画となっていて、
「じみへん」にしようと思って探すが見つからず。最近人気ないのかな。
あれこれ見ているうちに、
「岳」の最新刊と浅野いにおのと新井英樹の短編集が欲しくなって買う。

神保町で夕方まで仕事。
その後新宿で高校の友人たちと4人で飲む。
西武新宿の周りをラブホテルに囲まれた「世界の山ちゃん」で手羽先を食べて、
2軒目は歌舞伎町の笑笑。
遅くまで飲む。映画の話をする。
「バタフライ・エフェクト」ってのがいいと。僕以外の3人が見てた。
これ、前も誰かに薦められたんだけど、誰だったのか思い出せず。
探して見てみよう。

家に帰ってきてまた1人で飲む。
金曜から2回目の番ボー(ミメロギア)の講評がアップされ始めて、
一番苦しんだ下駄と草履で思いがけなく金賞を獲得。驚く。そして一人泣き。
やっぱり賞をもらえるのは嬉しい。

---
2/1(日)

今日から2月。昼まで寝てる。
クリーニング屋に行って、その足で西友へ。
今日の昼と夜の食材を買う。
食べるものはいつもと一緒。
肉野菜炒めを作って、ラーメンを茹でる。

吉祥寺のDiskUnionにCDを売りにいく。
「ミツバチのささやき」と「ドゥ・ザ・ライトシング」のDVDと
持ってても聞くことのなさそうな Judas Priest だとか。
査定待ちの間、PARCO の地下の LIBRO で「じみへん」を探す。やはり見つからず。
6枚売って、3000円弱となる。
もっと行けるかなと思ったけど、今回は不発。
「ミツバチのささやき」は旧企画ので amazon だと9000円の価格がついている。
amazon のマーケットプレイスに出せばよかったかなあ。

そういえば土曜は2軒で飲んでトータル4500円。安いもんだ。
金曜の編集学校の3回目の汁講は沖縄料理の店で4000円。
2日で1万5000円ぐらいかかるかなと思っていたので、出費が抑えられて嬉しい。
今月はあれこれあってお金がかかる。

荻窪に戻ってきて、床屋へ。
「岳」の8巻があったので待っている間に読む。
昨日買って家にもあるんだけど。

DiskUnionで見かけたミドリのライブアルバムのポスターがかっこよくて、買う。
大阪発のジャズ・パンクのバンドなんだけど、
ボーカルとギターの女の子がセーラー服を着ててぶち切れてるという。
初めてだったんだけど、聞いてみて「確かに」と思った。
これは面白い。ライブで見てみたい。

夜、先日同様玉子料理の素シリーズの「出し巻き卵」を元に、
豚コマと玉ねぎで玉子丼を作って食べる。

午前0時になるのを待って、編集学校「20守」最後のお題038番を答える。
終わったのは午前2時半近く。
これまでで最長。
卒門達成。「トップで卒門」に挑戦することになっていて、
たぶんいけたと思う。
焼酎のお湯割りを飲んで部屋で一人乾杯。
番ボーの講評、最後に届いた分を読んで3時に寝る。
2個目の金賞を獲得。素直に嬉しい。

---
2/2(月)

10時半まで寝てて、着替えて出社。
13時までに到着すればよかったので、とりあえず新宿へ。
西新宿で降りて、もうやんのカレーバイキングを食べようかと思って行ってみるものの

開店は11時半から。30分近くあって次の機会にする。
地下道を歩いて、新宿駅の南口へ。
サザンテラスにある広島県のアンテナショップでイカ天を乗せたお好み焼きを食べる。

ここにある宮崎県のアンテナショップとどっちにするか迷った。
前々からどっちかで1度食べてみたかった。

紀伊国屋でようやく、プレゼント交換用の「じみへん」を見つける。
3巻という微妙なチョイス。
他に4巻と5巻があって、後になるほど面白いんだけど、
どっちかが1話2Pではなく4Pの時代になってイマイチになるので、無難に3巻を。

その次はHMVに行って、ポイントで
The Replacements 「Pleased To Meet Me」のリマスター再発と
Tom Waits 紙ジャケ SHM-CD再発の「Swordfishtrombones」を買う。
家に帰って、Tom Waits をさっそく聞く。

丸ノ内線に乗って東京駅まで行って、神保町まで歩いて行く。
13時前で昼休みの終わる時刻。
丸の内で働くサラリーマンやOLタチガぞろぞろとオフィスに戻っていく。
快晴。日差しが暖かい。

21時まで仕事をして、帰る。
豚コマとキムチを買って、ニラ玉豚キムチチャーハンを作って食べる。
午前0時前に寝る。

---
2/3(火)

節分。世の中的には恵方巻きを食べることになっているが、
特にそういう習慣は無いため興味なし。
小さい頃にはそういうのなかったけどなあ。

昼は三幸園って中華料理屋で麻婆豆腐とライス。
日替わりが麻婆豆腐と半チャーハンだったので、
ライスと頼んでも「日替わり半チャーハンですけど?」と不思議がられる。
でも僕としては白いご飯に麻婆豆腐を乗せて食べたい。

夜は20時に出る。
味噌ラーメンを茹でて、ひき肉と野菜を炒めて、コーンとバターとメンマ。

ぼけーっとしている間に午前0時。寝る。

---
2/4(水)

神保町グルメラリーってのが始まって、昼、さっそく、対象の店に食べに行く。
オフィスの近くにあった焼肉屋。ランチの焼肉定食が650円。安い。
応募用紙を兼ねた地図を裏の酒屋にもらいに行ったら、ただでスタンプを押してくれた。
96店舗が対象で、6店舗分集めると景品がもらえる。

19時にオフィスを出る。
神保町から東京駅まで歩いて、そのまま銀座まで。
昔OJTをした女の子と会う。日比谷のティーヌンで飲む。
僕の中では後輩の女の子ってイメージなんだけど、もう30過ぎてて。
早いなあと思う。

---
2/5(木)

芝浦の自社へ。事務手続きをいくつかして、浜松町へ。花粉症の薬をもらう。
今回は3週間分処方してくれた。

明日の出張の新幹線、ジェイムズ・エルロイの小説を読みたいなあと思って OAZO の丸善へ。
「獣どもの街」を買う。
4階のギャラリーでベルナール・カトランというフランスの画家の絵を見る。
元が販売会場なので、店員が待ち構えていて、落ち着いた気分で見れなかった。
すぐにも出る。
鮮やかな色彩、かつどことなく抽象絵画っぽいタッチで花瓶などを描く。
そのまま4階のカフェで昼食。
丸善と言えば、ハヤシライス発祥の店。
入社当時日本橋で働いていた頃にも食べれたはずなのに、
社会人になって10年目にしてようやく。
「早矢仕ライス」ってのが正しいみたいですね。
丸善創業者、早矢仕有的が生み出したものとされる。
レジにおいてあった紙にはこんなふうに書かれていた。
「幕末か明治の初年のことであろう。
 友人が訪問すると、有的は有り合わせの肉類や野菜類をゴッタ煮にして、
 飯を添えて供応するのが常であった。
 そこから人々はこの料理を《早矢仕ライス》といい、
 ついにはレストランのメニューにまで書かれるようになった」
ハンバーグを添えたハヤシライスにする。\1300
なかなかおいしいね。
カレーにカツが合うならば、ハヤシにはハンバーグなのだ。

明日は5時起きで新幹線に乗るということで早めに退社。
卵料理の元の1つ、オムレツの元を使ってベーコンと一緒に炒めてケチャップを入れて、
チキンライスっぽくして食べる。

編集学校は日曜の全番回答締め切りに向けて続々と回答が寄せられる。
ずっと音沙汰無くてこの人は諦めたか、
・・・と思っていた人が今日になって急に大量に回答を。
びっくり。

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2/6(金)

この日のことは先日書いた。

タワレコで Tori Amos の91年と92年の
モントルー・ジャズ・フェスティバルでのライブアルバムを買う。
シングルだった「Crucify」もやってるけど、
そのB面に入っていた「Thank You」や「Smells Like Teen Spirit」といったカバーも演奏。

「世界一おバカなセレブ語録」ってのをタワレコで見つけて、帰りの新幹線で読む。
期待してたほど面白くなかった。一番面白かった発言は帯に全部出てたりして。
「あなたの国にも黒人はいますか?」
(ジョージ・W・ブッシュ、2001年、ブラジル大統領フェルナンド・カルドーゾとの会談で)など。

帰りの丸の内線の中で、ジェイムズ・エルロイの「獣どもの街」を読み終える。

大阪は花粉が飛んでいるようで、ムズムズして鼻水が出た。

[2984] 河口湖冬キャンプ その3 2009-02-11 (Wed)

2009-12-02 02:37:29 | 執行部に不満なら小沢に直訴する度胸もて
[2984] 河口湖冬キャンプ その3 2009-02-11 (Wed)

そして次に、第2のメイン・イベント。
チームに分かれて「猫」をテーマにした曲作り。
2階の部屋に集まって、作戦会議・曲作り。
歌詞担当の僕が最初のアイデアを出して、半分ぐらいを僕の案で。
こんな歌詞になった。
「わたしは猫 あなたは犬
 追いかけられると逃げたくなるの
 でも本当はあなたが好き
 つかまえられたら どうなるかしら
 追いかけて 追いかけて
 私のしっぽ 手が届かない

 あなたは猫 わたしは犬
 追いかけても逃げていくの
 でも本当にあなたが好き
 追いかけて 追いかけて
 あなたのしっぽ 手が届かない」

E→F#7→A→Eとコードを循環させる簡単な曲。意外とすぐ、出来上がる。
練習しますかってなって、「じゃあオカムラさんは何演奏します?」と聞かれる。
え?なにもできないよ。
「まあまあそんなこと言わずに」と
誰かが持ってきた子供用の鉄琴を叩くことに。
曲の間、E→F#7→A→Eをひたすら一定のリズムで叩く。
1番と2番の間には同じフレーズのままだけど、ソロも披露。
ベースもギターもすぐ挫折して人前で楽器の演奏なんて小学校以来?
まさか苦手としていたことと大人になって出会うとは。
これ、素面だったらできなかったなあ。

お披露目の場も無事終了。なんとかなった。
他のチームはオジー・オズボーンとジミヘンを強引にミックスしたカバー、
「Eオーギュメントってどんな音?」「ビートルズの「Oh Darling」の出だしがそうみたいよ」
ってことで、そのカバーに始まるオリジナルなど。
他2チームは完全オリジナル。
よくもまあこの短期間にきちんと仕上げるよね。
しかもどのチームも笑いを取って、みんなが腹抱えて笑って。
なるほどなあ、と思った。これは楽しい。
楽器ができたらもっと楽しいんだろうけど、
楽器ができなくてもダンボールを叩くとかいくらでもやりようがあって。
そのアバウトさ、というか懐の深さ。

この頃から皆かなり酒が回ってて、脱落者が出始める。
そんな状態で、ウィンクキラー。
僕はこれ、今までの人生でやったことがなかった。
「まいったなあ。こういうの絶対苦手」と最初のうちは逃げ出すことばかり考える。
そうもいかなくて、輪に加わる。
知ってますか?ウィンクキラー。
 ・クジでキラーを決める。
 ・みんなで談笑する。キラーは目の会った人にウィンクを送る。殺したことになる。
 ・殺された人は、即時ではなく、ある程度遅れたタイミングでバッタリと倒れて輪から抜ける。
 ・誰がキラーか分かった人は手を挙げて告訴する。
  外れたら、告訴した人と告訴された人の両者が輪から抜ける。
 ・告訴を免れて、全員を殺したらキラーの勝ち。
 ・今回は人数が多いので、シャドウを導入する。これもクジで決める。
  (お互いに誰がキラーで誰がシャドウか分からないので、勘のいい人じゃない限り共謀できない)
 ・キラーはシャドウを殺せるが、シャドウはキラーを殺せない。

トランプで、ジョーカーを引いた人がキラー、スペードのエースを引いた人がシャドウとする。
最初の回はキラーにもシャドウにもならず、余り人と視線を合わせないようにしてやりすごす。
それが2回目早々にキラーを引いてしまい。
ぎこちなくウィンクしていたらすぐにも見破られてしまった。
その後、何回かしてまたキラーが回ってきて。
やってるうちにコツが分かってきて、面白くなってくる。
心理的な駆け引きが全て。むやみやたらとウィンクしない。
この人勘付いてるかも、って人にはしばらくウィンクしない。
場の雰囲気を読む。何かが起きて盛り上がっているときにまとめてウィンクする。
皆で探り合ってるときにはウィンクしない。
アトランダムに、一定期間ウィンクしない。
こんな感じでやってたら2回連続してキラーになった2回とも、最後まで残って勝ち。
名勝負とまで言われる。こういうの嬉しいよね。
なんかトランプの大富豪に似ている。ひょんなことから、得意なゲームが増えた。
やってみるもんだ。

気がついたら午前3時。
知らぬ間に寝ちゃってた人もちらほらと現れ、お開き。
露天風呂に入って出てくると1階のリビング兼ダイニング・キッチンはには布団が敷かれている。
余った食材で一品作る人がいて、最後余っていた缶ビールを僕がもらう。
結局寝たのは4時頃か。早い者勝ちで2階の寝室へ。