、小沢官房長官、支持率危険水域でも、支持をしてる人達の為に鳩山総理と反小沢分子の大幅改造を断行して新発進し直せ

マイナス思考げ危機感ゼロ党内でケンカしてる暇あるかそんなバカ閣僚は即解任し仕事する若手と交代させ、一致団結選挙に突進。

解消へ向かう日米同盟、中国のメッセージ

2010-04-24 14:38:17 | 日本の夜明けはこのままではない
解消へ向かう日米同盟、中国のメッセージ
2010年04月24日 | 中国問題 米国防総省(ペンタゴン)は、日米安保崩壊を視野に入れた独自リポートを作成した。ペンタゴン・リポートの第1の提言は『日米同盟の見直し論』。軍事同盟の相手として日本はふさわしいのかという疑問だ。ペンタゴンで対日政策を担当するM・シファー国防次官補代理の側近A氏に聞いた。

「米国が強く要請したにもかかわらず、鳩山由紀夫政権はインド洋での給油活動を中止し、米軍普天間飛行場の移設問題では優柔不断な態度を取り続けている。歴代の米国政府は、日本にNATOにおける英国の役割を期待し、自民党政権はできる範囲で応えようとしてきた。鳩山政権はこうした歴史的経緯をまったく無視している」

 リポートでは、第2の提言として「日本政府が同盟強化を先送りするなら、日米同盟の解消も想定すべき」と言及している。内部文書とはいえ、米当局がここまで踏み込んだ例はない。すでに、同盟解消を想定した軍事オプションもあるのか、A氏に聞いた。
「当然だ。まずは米韓軍事同盟の強化。韓国の李明博大統領がこの構想を支持しているのも追い風だ。この場合、東アジアの安保政策の拠点はハワイの米太平洋司令部となり、沖縄駐留の米海兵隊はグアムまで引く。極東有事の際、海兵隊の現場急行に時間がかかるのが弱点だが、第七艦隊でフォローできる。

 究極のオプションとして『米中安全保障条約』の締結構想がある。鳩山政権が『駐留米軍はいらない』との考えに固執すれば、中国との友好関係構築へと軍事戦略を転換せざるを得ない。この場合、日米同盟は邪魔になり、破棄される運命となるだろう」。日米同盟が破棄されば、日本は自国の領土・領海・領空を自分の手で守らざるを得なくなり、防衛力は格段に低下する。これに大喜びするのは中国と北朝鮮だろう。
報告書は終章で『中国の国防当局は日米同盟は間違いなく崩壊する』との見方を紹介している。
(以上、zakzakより 引用抜粋

2政治団体「ダミーと思わず」西松元幹部が証言

2010-04-23 20:40:33 | 日本の夜明けはこのままではない
その読売新聞記事を引用する。これは、読売のサイトにも載っている。


2政治団体「ダミーと思わず」西松元幹部が証言

 準大手ゼネコン「西松建設」から小沢一郎・民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」などへの違法献金事件で、政治資金規正法違反(虚偽記入など)に問われた小沢氏の公設第1秘書で同会の元会計責任者・大久保隆規被告(48)の第2回公判は13日午後も、岡崎彰文・元同社取締役総務部長(68)の証人尋問が行われた。

 岡崎元部長は、同社OBを代表とした二つの政治団体について、「西松建設のダミーだとは思っていなかった」と証言した。

 公判では、大久保被告が両団体を同社のダミーと認識していたかどうかが争点で、審理に影響が出そうだ。

 岡崎元部長は、裁判官の尋問に対し、「二つの団体については、対外的に『西松建設の友好団体』と言っていた。事務所も会社とは別で、家賃や職員への給料も団体側が支払っていた」と説明。前任者に引き継ぎを受けた際にも、「ちゃんとした団体で、問題はないと言われていた」と答えた。

 昨年12月の初公判で、検察側は、同社が信用できる社員を政治団体の会員に選び、会員から集めた会費を献金の原資にしていたと指摘したが、岡崎元部長は「入会は自分の意志だと思う。私自身は、社員に入会を強要したことはない」と述べた。

(2010年1月13日21時23分 読売新聞)


この公判の焦点は、大久保被告が2つの団体をダミーと認識していたかどうかの一点なのだが、検察側の証人がこんな証言をしたものだから、公判は一気に検察不利に傾いたようだ。

今回、石川議員らとともに、大久保隆規被告も逮捕されたが、前記『日本がアブナイ!』は、大久保被告の訴因変更を検察が裁判所に申し立てる可能性が報じる読売新聞の17日付記事を紹介しながら、
 まさか、西松事件だけでは無罪判決になるおそれがあるので、
それを避けるために、訴因変更(追加?)することも意図して、
逮捕をしたんじゃないでしょうね~。(ーー)

と皮肉っている。

あれほど大騒ぎした大久保隆規氏の公判は、こんな状況なのである。それでなくとも納得しがたい石川議員の逮捕劇なのに、検察のこのていたらくを知ると、今回の捜査を根拠にして小沢一郎を非難する気になどならないのは当然である。ことこの件に関しては、民主党の議員たちが小沢一郎を非難せず、逆に団結を強めているように見えるのも、異常でも何でもない。ただ、鳩山由紀夫首相が小沢一郎に「戦ってください」などと言っていることはおかしいと思うし、小沢一郎は十分に説明をしてこなかったとも思う。後者は、郷原信郎氏なども繰り返し指摘していることだ。

しかし、繰り返して書くが、今回もっとも異常なのは東京地検特捜部の無理筋の捜査であり、それを無批判で全面的に応援しているかのようなマスメディアの報道である。「検察リーク報道」の異様さは、昨年の西松事件当時以上にひどいもので、「ジャーナリズムは死んだ」と言いたくなる。

最後に、最初に書いたことを繰り返すが、小沢一郎はいずれは与野党の政治家たちや国民によって乗り越えられなければならない存在だ。だが、小沢一郎を乗り越えるべきは、あくまで政治家やわれわれ国民なのであって、検察権力などでは断じてない。検察の尻馬に乗って騒ぐだけの言論は、「検察が何とかしてくれそう」という発想に基づく無責任な態度の露呈以外のなにものでもない。そんな姿勢では、やすやすと全体主義につけ込まれてしまう。われわれのなすべきことは、今回の件を機に、企業・団体献金全面禁止の世論を盛り上げていくことであって、明らかに暴走している検察に加担して「悪玉」の捕り物に拍手喝采することなどではない。

民主党の閣僚経験者一覧

2010-04-21 18:53:02 | 日本の夜明けはこのままではない
民主党の閣僚経験者一覧民主党の閣僚経験者一覧(みんしゅとうのかくりょうけいけんしゃいちらん)

目次
1 第2次中曽根内閣(自由民主党・新自由クラブの連立政権)
2 竹下改造内閣(自由民主党単独政権)
3 宇野内閣(自由民主党単独政権)
4 第1次海部内閣(自由民主党単独政権)
5 宮沢内閣(自由民主党単独政権)
6 宮沢改造内閣(自由民主党単独政権)
7 細川内閣(非自民・非共産連立政権)
8 羽田内閣(非自民・非共産連立政権)
9 村山内閣(自由民主党・社会党・さきがけの自社さ連立政権)
10 第1次橋本内閣(自由民主党・社民党・さきがけの自社さ連立政権)
11 第1次小泉内閣(自由民主党・公明党・保守党の自公保連立政権)
12 第3次小泉改造内閣(自公連立政権)
13 鳩山由紀夫内閣(民社国連立政権)
14 元・国会議員
15 関連項目


第2次中曽根内閣(自由民主党・新自由クラブの連立政権)
•小沢一郎
◦自治大臣兼国家公安委員会委員長(第2次中曽根内閣)
•渡部恒三
◦厚生大臣(第2次中曽根内閣)
•羽田孜
◦農林水産大臣(第2次中曽根内閣・竹下改造内閣)
竹下改造内閣(自由民主党単独政権)
•羽田孜
◦農林水産大臣(第2次中曽根内閣・竹下改造内閣)
•西岡武夫
◦文部大臣(竹下改造内閣・宇野内閣)
宇野内閣(自由民主党単独政権)
•西岡武夫
◦文部大臣(竹下改造内閣・宇野内閣)
第1次海部内閣(自由民主党単独政権)
•渡部恒三
◦自治大臣兼国家公安委員会委員長(第1次海部内閣) 
•鹿野道彦
◦農林水産大臣(第1次海部内閣)
•石井一
◦国土庁長官(第1次海部内閣)
宮沢内閣(自由民主党単独政権)
•羽田孜
◦大蔵大臣(宮沢内閣)
•渡部恒三
◦通商産業大臣(宮沢内閣)
•田名部匡省
◦農林水産大臣(宮沢内閣)
宮沢改造内閣(自由民主党単独政権)
•鹿野道彦
◦総務庁長官(宮沢改造内閣)
細川内閣(非自民・非共産連立政権)
•羽田孜
◦副総理兼外務大臣(細川内閣)
•藤井裕久
◦大蔵大臣(細川内閣・羽田内閣)
•広中和歌子
◦環境庁長官(細川内閣)
•江田五月(社会民主連合)
◦科学技術庁長官(細川内閣)
羽田内閣(非自民・非共産連立政権)
•羽田孜
◦内閣総理大臣(羽田内閣)
•藤井裕久
◦大蔵大臣(細川内閣・羽田内閣)
•石井一
◦自治大臣兼国家公安委員会委員長(羽田内閣)
•中井洽
◦法務大臣(羽田内閣)
村山内閣(自由民主党・社会党・さきがけの自社さ連立政権)
•田中眞紀子
◦科学技術庁長官(村山内閣)
第1次橋本内閣(自由民主党・社民党・さきがけの自社さ連立政権)
•菅直人
◦厚生大臣(第1次橋本内閣)
第1次小泉内閣(自由民主党・公明党・保守党の自公保連立政権)
•田中眞紀子
◦外務大臣(第1次小泉内閣)
第3次小泉改造内閣(自公連立政権)
•沓掛哲男
◦国家公安委員会委員長兼防災担当大臣(第3次小泉改造内閣)
鳩山由紀夫内閣(民社国連立政権)
鳩山由紀夫内閣を参照のこと。

元・国会議員
•池端清一
◦国土庁長官(村山内閣)
•上原康助
◦北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官兼国土庁長官(細川内閣)
•奥田敬和
◦運輸大臣(宮沢内閣)
◦郵政大臣(第2次中曽根内閣)
◦自治大臣兼国家公安委員会委員長(第2次海部内閣)
•神田厚
◦防衛庁長官(羽田内閣)
•久保亘
◦副総理兼大蔵大臣(第1次橋本内閣)
•佐藤観樹
◦大蔵大臣(村山内閣)
◦内閣官房長官(細川内閣)
•寺沢芳男
◦経済企画庁長官(羽田内閣)
•永井孝信
◦労働大臣(第1次橋本内閣)
•畑英次郎
◦農林水産大臣(細川内閣)
◦通商産業大臣(羽田内閣)
•日野市朗
◦郵政大臣(第1次橋本内閣)
•二見伸明
◦運輸大臣(羽田内閣)
•細川護煕
◦内閣総理大臣(細川内閣)
•森井忠良
◦厚生大臣(村山内閣)
•山花貞夫
◦国務大臣・政治改革担当(細川内閣)
関連項目
•日本社会党・社会民主党の閣僚経験者一覧
•国民新党の閣僚経験者一覧
表・話・編・歴民主党

民主党執行部 代表:鳩山由紀夫 - 幹事長:小沢一郎 - 国会対策委員長:山岡賢次 - 参議院議員会長:輿石東

鳩山由紀夫内閣 総理大臣:鳩山由紀夫 - 副総理兼国家戦略担当大臣:菅直人、行政刷新会議特命大臣:仙谷由人など

グループ 政権公約を実現する会(鳩山G)- 国のかたち研究会(菅G) - 民社協会(旧民社G) - 政権戦略研究会(羽田G) - 花斉会(野田G) - 凌雲会(前原・枝野G) - リベラルの会(近藤・平岡G) - 新政局懇談会(横路G) - 一新会(小沢G)

支持団体 日本労働組合総連合会 ほか

歴代代表 初代:菅直人 - 2代:鳩山由紀夫 - 3代:菅直人 - 4代:岡田克也 - 5代:前原誠司 - 6代:小沢一郎 - 7代:鳩山由紀夫

前身諸政党 民主党 - 民政党 - 新党友愛 - 民主改革連合 - 自由党

院内会派 民主友愛太陽国民連合(=衆) - 民友連(=参)
民主党・無所属クラブ(新党大地と新党日本を含む)(=衆)- 民主党・新緑風会・国民新・日本(=参)

連立・合併・構想等 民由合併 - 大連立構想 - 民社国連立政権 - 民国合併構想

その他 ガソリン国会 - 消えた年金 - 堀江メール問題 - 民主くん - 公共政策プラットフォーム - 新進石川 - 新政みえ - 友愛

関連項目 民主党国会議員一覧 - 民主党の閣僚経験者一覧 - 民主党代表選挙 - 次の内閣

表・話・編・歴 日本国歴代内閣

-
'

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伊藤1
黒田
山縣1
松方1
伊藤2
松方2
伊藤3
大隈1
山縣2
伊藤4
桂1
西園寺1
桂2
西園寺2
桂3
山本1
大隈2
寺内

高橋
加藤(友)
山本2
清浦
加藤(高)
若槻1
田中(義)
濱口
若槻2
犬養
齋藤
岡田
廣田

近衛1
平沼
阿部
米内
近衛2
近衛3
東條
小磯
鈴木(貫)
東久邇宮
幣原
吉田1
片山
芦田
吉田2
吉田3
吉田3改1
吉田3改2
吉田3改3
吉田4
吉田5
鳩山(一)1
鳩山(一)2
鳩山(一)3
石橋
岸1
岸1改
岸2
岸2改
池田1
池田2
池田2改1
池田2改2
池田2改3
池田3
池田3改
佐藤1
佐藤1改1
佐藤1改2
佐藤1改3
佐藤2
佐藤2改1
佐藤2改2
佐藤3
佐藤3改
田中(角)1
田中(角)2
田中(角)2改1
田中(角)2改2
三木
三木改
福田(赳)
福田(赳)改
大平1
大平2
鈴木(善)
鈴木(善)改
中曽根1
中曽根2
中曽根2改1
中曽根2改2
中曽根3
竹下
竹下改
宇野
海部1
海部2
海部2改
宮沢
宮沢改
細川
羽田
村山
村山改
橋本1
橋本2
橋本2改
小渕
小渕改1
小渕改2
森1
森2
森2改(再編前)
森2改(再編後)
小泉1
小泉1改1
小泉1改2
小泉2
小泉2改
小泉3
小泉3改
安倍
安倍改
福田(康)
福田(康)改
麻生
鳩山(由)





※ 名前は内閣総理大臣、名前の後の数字は任命回数(組閣次数)、「改」は改造内閣、「改」の後の数字は改造回数(改造次数)をそれぞれ示す


4.パンチ一発で吹っ飛んだ林房雄

2009-11-19 00:40:35 | 日本の夜明けはこのままではない
1.長崎から朝鮮半島を経て新京へ
2.日本人の理想都市・新京
3.新京日報に入社
4.パンチ一発で吹っ飛んだ林房雄
5.社会部から広告部に転身
6.合気道の植芝盛平に師事
7.じゃじゃ馬娘との出会い
8.映画館にレディを置き去り
9.アルバイトにモデル
10.「二二六事件」で留置場入


1.長崎から朝鮮半島を経て新京へ

 昭和七年一月一日 蒋介石が汪兆銘と合体し新国民政府を樹立。同月二十八日には、上海で関東軍の海軍陸戦隊が中国第十九路軍と交戦を開始し、上海事変が勃発し、中国全土に抗日運動が激化し始めた。
 そして、三月一日には、「満蒙独立国」がこの日をもって国号を「大満洲国」に改め、年号を「大同」、国旗を「紅藍白黒満地黄旗」と定め、首都を長春に置いた。日本人はこの古都に「新京」という名をつけ、多くの人が満洲に日本の未来を託した。
 シナにおいて様々な権益を得ていた欧米列強はその権益を日本に奪われるのではと懸念して満洲の共同経営を日本に申し出ていたが、日本はこれを一蹴してしまった。
 日本にすれば欧米列強に伍してというより、控え目に欧米植民地クラブの準会員として満洲だけでも自国の権益内に取込みかったのだ。
 しかし、欧米は白人以外の有色人種に植民地を許す気は毛頭なかった。
 そして、ここからが日本の泥沼の時代の始まりだったが、日本の世論は世界の動向にまったくと言っていいほど疎かった。とくに新聞社など報道機関は過激な報道が目立ち、朝日新聞をはじめ大新聞はすべて「満蒙は日本の生命線」と国威高揚を煽っていた。そして多くの庶民はマスコミに煽られ満蒙に日本の未来を託していた。
 進一郎もその日本国民の一人であったが、生来の多血質ゆえ人一倍欧米列強の姿勢に義憤を感じていた。
 このような世相の昭和七年の暮、進一郎が東山中学を勝手に退学したと誤解した養父母と折り合いが簡単につくわけもなく、進一郎はついに長崎の養父母の家を飛び出してしまった。最終目的地はいわずと知れた満洲の土肥原機関だ。
 国威高揚を意図したマスコミに煽られた軍国少年・進一郎の心は新天地・大満洲国に飛んでいたが、まずは大阪商船三井に就職して門司にいた林田生治兄(伯父である林田家の養子)の下宿に緊急避難した。
 満洲に渡るには朝鮮半島経由が順当だ。そうなると釜山と航路のある門司に地の利がある。そこで朝鮮に渡るまでの一月間ほどをこの門司で機会を狙うことにした。
 この間、外国航路の船員である生治が帰国するたびにシーツ、シャツなど外国の製品を体に巻付けて秘かに国内に持ち込んで売りさばいたりするスリルも一興であった。このスリルと旅費を稼ぐにしても絶好の機会だった。また珍しい海外の話題を話し巧みに聞かせる兄の帰還は密輸以上に心踊るものがあった。
 昭和八年一月。年が明けると元旦早々から日本軍は山海関でシナ軍と衝突し、ドイツではヒトラーが首相に就任した。世の中が妙に騒がしく、そうでなくても多血質の進一郎が門司に何時までもグズグズしていられるわけがない。
 進一郎は正月早々、門司を後にして朝鮮半島に渡り、京城にある親戚の野中材木店に職を求めた。夢の大満洲国への足掛かりの一つとして養父母の親戚を飛石に利用したのだ。当然、一時凌ぎである。

 三月二十七日、日本はついに国際連盟脱会を表明した。

 アジア・アフリカに広大な植民地を持つ欧米列強に伍して国際社会で頭角を現した有色人種に対する言われなき差別を肌身にひしひしと感じた進一郎は日本の選んだ選択を喜びこそすれ悲しみはしなかった。日本に正義ありと信じていたのだ。
 そして進一郎は内地に桜の咲く四月頃、朝鮮半島をさらに北上し、国境に近い清津まで足を延ばして葦原金物店に一時の羽根を休めた。ここで親戚の帯刀田辰夫と落ち合い、二人で国境・国門から吉林をへて、吉林省の新京へ到着して天理教長春分教会へ寄宿することになる。
 昭和八年四月から進一郎の大満洲国首都・新京での生活がスタートしたのだ。

2.日本人の理想都市・新京

 新京は現在は「長春」と呼ぶ吉林省の省都であるが、当時は日本人が建国した大満洲国の新首都で、日本人が作る理想の首都建設の真っ最中であった。
 道路は米国のワシントンを模して百メートル道路が碁盤の目に交差し、交差点はどこも広々とした広場が設けられていた。日本国内の都市の美観を著しく損なっているあの電信柱と電線の光景もここ新京ではまったく見られない。すべて地下に埋設してあった。
 もちろん満洲国は日本国陸軍が建国した新国家であり、日本大使館=関東軍軍司令部であって新京は日本軍の武力を背景にして存在していた。
 とはいえ市街には資生堂、明治製菓、交通公社など日本人に馴染みの店舗が多く、「支那には四億の民がいる。狭い日本に住み飽きた」という言葉に誘われて満洲に一旗挙げにきた日本人で渦巻いていた。
 進一郎は土肥原賢二中将への紹介状を持参していたが、思うところあって紹介状を利用せずに新京での新しい生活をスタートさせる覚悟だった。
 「人生のスタートからコネや人脈を頼るような生き方はしたくない。正々堂々と自分の信じる道を歩むのみである」
 これが進一郎の信条であった。

3.新京日報に入社

 新京における一カ月間の進一郎の就職活動が実って五月には「新京日報新聞社」の社会部に就職口を得た。文章が得意なことからジャーナリスト志望の強かった進一郎は新聞記者に対する強い憧れを前々からもっていたのである。 「真実を書く、真実を報道する報道の使命に準ずることが九州男子の本懐である」 と迄信じていた。
 しかし、入社してみるとこの新聞社は実は関東軍第四課が買収した軍の宣伝工作の隠れ蓑であった。なんのことはない土肥原機関とのつながりが知らぬうちに出来ていたようなものだった。
 このことがこの後の進一郎の進退に大きな影響を与えるのだが、当人はまだ知るよしもなかった。なお、北シナ方面軍には一課から四課まであり、四課は情報担当、三課は謀略担当とわかれ、三課と四課の軍人同士は軍人として日本国の防衛の責任を果たすことよりも、どちらかというと功名争いや勢力競争に奔走し、お互いに凌ぎを削っていた。
 ジャーナリストとしての夢を持って入社した新聞社だったが、ここでは軍人たちが立身出世を夢見て他部門と意味ない凌ぎあいをしている姿を、この直後から進一郎は目の当たりにするのであった。
 ちなみに、就職試験は当時の満洲国の民主大臣・丁鉛修のインタビュー記事をとることで、会社が平版印刷で作成した一枚の名刺を持たされ、「取材してこい」という粗暴な方法だったが、シナ語に通じた進一郎にとってはお手のもので入社試験は難なくパスした。
 当時の満洲における現地採用の実態がわかるようなエピソードではある。なお、当時の関東軍憲兵司令官は東条英機であった。
 社会部時代には、火災記事を人より早く書こうと消防署の近くにアパートを借り、消防車に飛び乗って取材に行ったことがあったという茶目っ気ぶりを発揮したのもこの頃だ。
 運よく消防車に同乗する機会を得た進一郎は火災の様子をつぶさに取材し、 「紅蓮の炎が渦巻く火災現場からは黒々とした黒煙が舞い上がり…」 といった長々しい名文調の記事をモノにしてデスクに得意顔で渡したのだが、デスクから返ってきた原稿は赤字だらけで原文は十行ほどしか残っていなかった。
 こんな粗忽な面もあった進一郎だが、積極性だけは誰にも負けず意気軒昂であった。
 八月にはやっと新京日報新聞社の独身寮へ入居することができたが、新米の進一郎は蚕棚の三段式ベッドの最上階で寝かされた。ルームメートは後々人生をともにする久保春雄だった。

4.パンチ一発で吹っ飛んだ林房雄

 新京日報に就職口を得て間もない頃、日本本土から新聞社の招聘で多くの文人墨客が新京に姿を見せていた。その中にプロレタリア文学から転向し、昭和八年創刊の文芸春秋社発行「文学界」で健筆を振るっていた当代一流の文人・林房雄もいた。
 この林房雄を進一郎がゲンコツでぶん殴るという事件が発生した。 ことの顛末はこうである。折からの上海事変で展開された皇軍による破竹の進撃振りを当時の文壇を担う一流の文士たちの健筆で新聞紙面を飾ろうというのが新聞社の経営陣、つまりは関東軍情報課の思惑であった。
 文学者たちも同じような思惑を抱いていた。日華事変が勃発して以来、それまで社会主義的自覚や階級的自覚を文学によって推進しようとしたプロレタリア文学の群れもさすがに時代の流れを読むには敏感だった。
 そのような時代の流れに敏感な「良識者」たちはその「良識」をもって個人主義的な文学意識を急旋回させ、軍部によって当時の日本社会で支配的なイデオロギーとなりつつあった日本主義、軍国主義的な社会ムードに便乗しようとしていた。
 その彼らの拠り所が昭和八年に創刊された「文学界」であり、日本主義への積極的な推進者が林房雄だった。
 この林房雄の接待役を仰せつかったのが進一郎だった。新入社員の進一郎が文壇の旗手・林大先生のお世話をするのである。これほど晴れがましいことはない、と通常の人間なら考えるところだ。
 ところが、進一郎にすれば「元をただせばアカじゃないか」「転向野郎がなんだ」と評価は極端に低いのだ。
 それはそうだろう。つい先頃までは人民に社会主義的自覚を促し、階級社会への矛盾を文学を通じて訴え天皇制を批判していた文学者が、上海事変以来、軍部に擦り寄ることしきりである。
 ついには関東軍の御用新聞社である新京日報の招聘で、軍部に都合のいい「提灯記事」を書きに大挙して新京に現れたのである。
 進一郎からみれば「卑怯未練な奴」ということになる。そんな思いが人一倍顔に出るたちの進一郎である。世の中の人間は皆、自分に平伏すると思っている林房雄を屁とも思わない進一郎の振る舞いに林は驚愕し、「実に失敬な奴だ」「満洲の田舎者め」と人目をはばからず罵倒する。
 進一郎は「なんだ」と思っていても、そこは新米記者だ。ぐっと怒りをこらえて林の顔を睨み付けるだけで我慢する。
 林にすれば、そんな進一郎の顔が気に入らない。 「君も文筆で食って生きたかったら少しは人間心理に通じる必要があるぞ。新米のくせに何をそんなに威張っているのだ」 と怖いもの知らずで進一郎をからかってしまった。
 これが進一郎の我慢の限界だった。 新聞社のトップが同席していたのだが、そんな時の進一郎には誰がいるのか、誰が留めたのか何にも気にならない。気がついた時は, 「この転向野郎」と言い態、林の頬っぺたを握り拳で思いきり殴っていた。
 林も「乱暴者!」と一喝したが、ボクシングで鍛えていた進一郎のパンチは強烈だった。林は一発で吹っ飛び、後は進一郎を押し止める新聞社の幹部に間を阻まれて二発目は不発に終わり、その瞬間に進一郎の接待役はお役御免となっていた。
 その後、さすがに文壇の大物、貫祿を見せて林は新聞社の幹部に、 「彼も若い、これから将来がある身だ。あまり手荒な処分はしないように」 と言ってくれた。
 お蔭で進一郎はとくに処分は受けなかったのだが、しかし、従来どおり社会部で記者生活を続けるのは難しい状況に陥っていた。



日本古写真倶楽部 一言メッセージ :…

2009-11-19 00:35:42 | 日本の夜明けはこのままではない
昭和30年代[ リスト ]
[ 前の記事へ ] [ 次の記事へ ] 路面電車の走る街(函館)昭和30年代  乗用自動車 傑作(0)
2005/10/17(月) 午前 1:30昭和30年代鉄道、列車 Yahoo!ブックマークに登録
昭和30年代の函館のようです。(ゲストの皆様のご指導より)          01241

路面電車には、Zパンダグラフが使用されていますね。白い札には系統番号「3」と記載のようです。

何か、アメ車が1台いますねぇ。いちばん後の軽のトラックは、愛知機械(現在は自動車の生産はしていない)のコニーに似てるような‥‥

右手、街路樹に隠れて「三井生命」の看板。左手、雪印バター飴の看板の下方に青林堂の文字。
雪印の看板が派手なので、雪印事件よりは以前でしょうネ。(笑)