。
● 「1954年7月、米国のグァテマラ侵攻を批判するデモに参加した時のフリーダ・カーロ。車椅子での参加で、彼女の最後の政治的行動だった。写真は、メキシコ市内で観光客用に販売されている多くのフリーダ関係の絵葉書の一枚」
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◆ 虚構のなかの冷たい幻想 レメディオス・バロの異界
たとえば、「笛吹き」と題された絵をみてみよう。
若い笛吹きが奏でる調べに合わせて化石の断片が地上から舞い上がり、後景の塔の壁材として飛翔していく光景。それとも、塔から一枚一枚はぎ取られ、音色に誘われて笛吹きの足元に舞い降りる、とまったく反対の印象も与える不思議な絵だ。笛吹きも朽ちたまま立ち涸れた森から抜け出てきた、不可思議な存在だ。
「ハーモニー」と題された絵。厚い壁で囲まれた青白い部屋で、独り悄然と机上に浮かぶ五線譜に昆虫やら葉などを刺し通し旋律を紡ぐ青年を描く。前後の壁に染みのような女の虚像が描かれ、その女の手は五線譜に延び、青年に啓示を与えているような、それと引き替えに青年の精気を奪っているような……青年の頬は痩け、死相さえ漂っている。
幻視の女流画家である。
生まれは1908年、スペインはカタルニアの小さな町、その名もアンヘル、「天使の町」である。両親はバスク人であった。生後、暫くして両親とともに北アフリカのモロッコに移り、7歳でマドリッドの学校に入学するまで生活する。幼少期のアフリカ体験が描かれているわけではないが、レメディオスの絵が徹底的に無国籍を志向している事情と何処かで通底するものがあるように思う。
レメディオスの代表作をもう一点、紹介しておこう。「太陽の音楽」。草が生えた毛布のようなものを裸体に纏った若い女。たぶん、ミューズ。そして、顔はたぶん自画像。化石の森のような褐色の地に射し込んで来る光の束を大きな弦楽器と見立て、その光の束から自在に音色を弾きだす。光輪となって地上に浸透する小さな円のなかだけ、花々が繁る。 そうレメディオスは繰り返し「音楽」を象徴化している。その「音楽」は無論、交響楽ではありえず、独奏曲、しかも自己慰安のための旋律に満ちたものだ。私生活を反映、象徴するものでもあろう。さまざまな解釈が成り立つが、それは余りにも極私的であって、批評を頑なに拒んでいるように思う。レメディオスが描く自画像はそんなふうに表象される。
グリムやアンデルセン、あるいはウォルト・ディズニーのアニメに登場してくるようなメルヘン的な楽しさと薄気味の悪さが同居、というより錯綜する。独特のユーモアと、毒気の含んだ風刺性。ネーデルランドのボッシュの影響もあれば、シュールレアリストのエルンストの陰もみられる。童画そのものとしか思えない絵もある。童話には、よく残忍さが隠されているというが、その二律離反するものがレメディオスのなかに共存する。
作品はいずれもが細心の筆使いで丹念に描かれている。衝動はなく、緻密に計算された絵なのだ。薄く溶かした絵の具を幾度も塗り重ねて微妙な肌触りを作っている。その意味ではレメディオスとほぼ同世代の画家フリーダ・カーロとは対極的な位置にある。フリーダの絵は、幾ら非日常の世界を描いても、そこには地上に根を下ろした生身の女の熱き体温が感じられるものだが、レメディオスの絵にはひんやりとした人工的な冷気がこぼれ落ちそうな気配しかない。この怜悧さはどこかから来るのか?
レメディオスは1942年以来、メキシコに定住することになる。その2年前に、彼女の作品はシュールレアリスト絵画展の出品作としてメキシコ市に渡り、二度目の夫シュールレアリストの詩人ベンジャミン・ペレと新生活を開始する。その42年には、メキシコ文部省が「絵画彫刻学校」を設立し、夫ペレはここの教授に迎え入れられた。同僚にはディエゴ・リベラやその妻フリーダがいた。
レメディオスは絵を生活の足しにするために売る必要はなかった。だから、心ゆくまで絵を愛撫していられたし、幻想に浸ってもいられた。彼女の代表作はもとより大半の作品がメキシコで描かれ、故にカタルニアではなくメキシコの画家として認知されているが、この地のコントラストの激しい光と陰に育まれはしなかった。明度はせいぜい絵筆の先を照らすものがあれば良かった。
レメディオスの本格的な展覧会は1982年のことである。それまで、ほんの少数の者しかその潤沢な個性的な美の世界を知らなかった。幻視を紡いだ画家の日常とはどのようなものであったのか? 画家は多くを語っていない。1963年、55歳で死去。早すぎる死だと思う。
現在、レメディオスの主要作品はメキシコ近代美術館に収蔵されている。因みに、同美術館にはフリーダの代表作、リベラ、シケイロス、オロスコなど壁画運動を担った巨匠たちの代表的なタブローが常設展示されている。その一角に、昨秋からレメィデオスに捧げられたコーナーが設けられた。
「私は語りたくない。作品こそが重要だ」とはレメディオスの生前の弁。しかし、その幻想に魅せられた者は、その意味性を自己流に解釈したくなるものだ。そうした作業を通じて、孤高の画家も否応なく美術史に定着させられてゆく。
● レメディオス・バロの「笛吹き」
* 初出掲載紙 : 『ラティーナ』2002年4月号
* 後日談 : おそらく、日本で女性の画家たちの系譜が普及書として出されたのは1985年、イタリア美術専攻の若桑みどりさんが岩波新書『女性画家列伝』であったと思う。いま思えば、すこぶる物足りないものだが、当時として、ともかく類書がなかったから、これを読んで感化された人も多かったはずだ。もの足りないというのは、わがフリーダ・カーロさえ一語半句も言及されていなかった。米国のジョージア・オキーフもなし、アルゼンチンのフィニは取り上げれていたけれど南米の風土はそこになかった。おそらく、今回紹介するレメディオス・バロを知る読者は少ないかも知れないがメキシコ及び欧米では良くしられた女性画家だ。これから、ここでも画家に限らず彫刻家や写真家など女性芸術家を積極的に紹介していきたいと思う。
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◆ リトアニアからブラジルへ、故郷喪失者の人間の実在性を凝視する視線
「ブラジルの表現主義者」 ラサル・シーガル展
もう20年も前になるかと思うが、温かな掌の手触りをもつ『リトアニアへの旅の追想』という映像詩をみた。今日では、米国インディペンデント映画の不朽の名作といわれているようだが。ナチスに追われ米国に亡命したリトアニア生まれのユダヤ人ジョナス・メカスがニューヨークでの日常を16ミリ・フィルム(8ミリだったかも?)で撮りはじめ、27年後、「亡命した人間」が故郷の村を訪ねる思い出の旅、そして強制収容所に収監されていた絶望的な日々を追想する部分と三つの独白的な映像を積み重ねた物静かだが20世紀の人間世界の愚かさも抉るような刃先のきらめきをもった作品だった。
ラサル・シーガルというリトアニアの首都ヴィリニュスのユダヤ人コロニーに生まれ、ドイツ表現主義の影響下から出発し、ブラジルに永住の地を見出した画家の回顧展が始まった。142点の作品を通覧していくうちに、メカスの映像がひたひたと広がった。シーガルは、ドイツ表現主義の画家たちが絶えず人間を凝視しつづけたように、人間を酷烈な視線で観た、観ようと前傾姿勢を保とうとした画家だ。内質的にけっして政治的な作家ではなかったと思うが、彼が生きた時代と、そして出自、さらにいえば小国リトアニアの運命が雄弁な作家にしたように思う。
メカスの映像詩はいまだベルリン市街を分かつ「壁」が屹立している時代に作品化された。「壁」が何時、崩壊するのか誰も分からない状況を暗黙の了解事項として、その映像は見る者の肺腑に染み込んで来たのだった。シーガルの絵に具体的な表象があるわけではないがロシア革命、ナチスの台頭、大戦、ソ連邦によるリトアニア併呑といった20世紀東欧史が反映している。歴史の痕跡、傷痕を留めているという言い方もできるだろうか。
シーガルとブラジルとの出会いは1912年、画家21歳の時だ。ブラジルに住む兄弟を訪ねたのが最初だ。そして、1924年以来、サンパウロに居を定めブラジル人画家として後半生を過ごすことになる。
第一次大戦における敗戦、廃墟、失意と混乱のなかから出てきたドイツ表現主義は、ナチの台頭によって政治的に窒息させられる短くも豊潤な実験性と鋭敏な時代感覚を合わせ持った大きな潮流であった。そこで行われた社会批評と美術との融合の試みは現在まで大きな影響を与えている。シーガルは、その運動のなかで単なる写実では飽きたらず人間存在の実在を極めようする探求の画家となる。それは、第一次大戦の悲惨を兵士として体験したオットー・デックスら先導者たちのドイツ表現主義の忠実な使徒になることであった。シーガルの清新な感受性は先達たちの妥協なき戦いの前衛に近づく、デックスはシーガルの師だが、同時にキルヒナーの神経を逆撫でるような刺激的な色彩で描き出された人物像にも抗しがたく引きつけられた画家であったと、初期作品がそう語っている。しかし、シーガルは先輩たちより更に惨酷な現代史とともに歩むことを強制される。祖国リトアニアはモスクワの配下となって独立を失い、故郷喪失者となる。
難民・亡命者を満載した船内光景、虐殺の大画面、親密感に富んだユダヤの老人像、愛する妻の肖像にしも何処か陰鬱である。色彩を意志的に抑制した寒々としたタブローがつづく。しかし、そんななかにあって時折り暖色が跳ね、絵筆の喜びを率直に反映した作品が、雲間の射光のように慰安の境地に誘う作品がある。それらはいずれもブラジルを、ブラジルの太陽を浴びる民衆を描いた作品だ。それらの絵は、ブラジル生活が始まってから描かれたものではなく、欧州からの旅で描かれた時代から始まっていて、本質的に色彩を抑制しつづけてきた画家の履歴のなかにあって、うまい表現とはいえないが“砂漠のオアシス”のようなものだ。ブラジルは、北国生まれの故郷喪失者に慰安と、精神に良きバランスを与えていたのだ。そんな第二の故郷に恩返しをすべく、彼はブラジルにおいて、植民地美術からの完全なる脱却を願って絵画だけでなく、文字の書き手として多くの発言を繰り返して行く。
メカスが米国の作家として認知されているように、シーガルもブラジルの画家である。そして、メカスより時代の輻射熱を直截に受け止めて真摯に創造活動に邁進した表現者であると思う。そんな画家の業績が日本ではまったく黙殺されている。手元の日本語によるドイツ表現主義関係のいくつかの文献にあたったがシーガルの名はない。いや、ブラジルを除くスペイン語圏アメリカでも無名であった。いま、その再評価が米大陸で本格的にはじまった。
1991年、シーガルとメカスの祖国リトアニアは市民の血を犠牲にしてモスクワの意思を挫き、独立を勝ち取った。シーガルの死後、34年を経てのことだった。
* 後日談 : ラサル・シーガル展は2002年3月から6月、メキシコ市内の国立近代美術館で行なわれた後、7月からアルゼンチンのブエノス・アイレスのラテンアメリカ美術館に巡回した。本稿は、2002年5月号の『芸術新潮』の「WORLD」欄に書いた記事に対して、すこぶるつきで飽き足らず、全面改稿して、『ラティーナ』誌のアート欄に寄稿した文章に、今回またあらたに手を加えたのが掲載の文章。まぁ、これでも書き足りないぐらいだが、いまだブラジルの地を知らずリトアニアを訪れる機会も巡ってくるかな、という現在、あまり勇み足もしたくないとの思いもあるので、まずは紹介の一助にということで……。
● 「バナナ園にて」(1927年)
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● 「1954年7月、米国のグァテマラ侵攻を批判するデモに参加した時のフリーダ・カーロ。車椅子での参加で、彼女の最後の政治的行動だった。写真は、メキシコ市内で観光客用に販売されている多くのフリーダ関係の絵葉書の一枚」
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◆ 虚構のなかの冷たい幻想 レメディオス・バロの異界
たとえば、「笛吹き」と題された絵をみてみよう。
若い笛吹きが奏でる調べに合わせて化石の断片が地上から舞い上がり、後景の塔の壁材として飛翔していく光景。それとも、塔から一枚一枚はぎ取られ、音色に誘われて笛吹きの足元に舞い降りる、とまったく反対の印象も与える不思議な絵だ。笛吹きも朽ちたまま立ち涸れた森から抜け出てきた、不可思議な存在だ。
「ハーモニー」と題された絵。厚い壁で囲まれた青白い部屋で、独り悄然と机上に浮かぶ五線譜に昆虫やら葉などを刺し通し旋律を紡ぐ青年を描く。前後の壁に染みのような女の虚像が描かれ、その女の手は五線譜に延び、青年に啓示を与えているような、それと引き替えに青年の精気を奪っているような……青年の頬は痩け、死相さえ漂っている。
幻視の女流画家である。
生まれは1908年、スペインはカタルニアの小さな町、その名もアンヘル、「天使の町」である。両親はバスク人であった。生後、暫くして両親とともに北アフリカのモロッコに移り、7歳でマドリッドの学校に入学するまで生活する。幼少期のアフリカ体験が描かれているわけではないが、レメディオスの絵が徹底的に無国籍を志向している事情と何処かで通底するものがあるように思う。
レメディオスの代表作をもう一点、紹介しておこう。「太陽の音楽」。草が生えた毛布のようなものを裸体に纏った若い女。たぶん、ミューズ。そして、顔はたぶん自画像。化石の森のような褐色の地に射し込んで来る光の束を大きな弦楽器と見立て、その光の束から自在に音色を弾きだす。光輪となって地上に浸透する小さな円のなかだけ、花々が繁る。 そうレメディオスは繰り返し「音楽」を象徴化している。その「音楽」は無論、交響楽ではありえず、独奏曲、しかも自己慰安のための旋律に満ちたものだ。私生活を反映、象徴するものでもあろう。さまざまな解釈が成り立つが、それは余りにも極私的であって、批評を頑なに拒んでいるように思う。レメディオスが描く自画像はそんなふうに表象される。
グリムやアンデルセン、あるいはウォルト・ディズニーのアニメに登場してくるようなメルヘン的な楽しさと薄気味の悪さが同居、というより錯綜する。独特のユーモアと、毒気の含んだ風刺性。ネーデルランドのボッシュの影響もあれば、シュールレアリストのエルンストの陰もみられる。童画そのものとしか思えない絵もある。童話には、よく残忍さが隠されているというが、その二律離反するものがレメディオスのなかに共存する。
作品はいずれもが細心の筆使いで丹念に描かれている。衝動はなく、緻密に計算された絵なのだ。薄く溶かした絵の具を幾度も塗り重ねて微妙な肌触りを作っている。その意味ではレメディオスとほぼ同世代の画家フリーダ・カーロとは対極的な位置にある。フリーダの絵は、幾ら非日常の世界を描いても、そこには地上に根を下ろした生身の女の熱き体温が感じられるものだが、レメディオスの絵にはひんやりとした人工的な冷気がこぼれ落ちそうな気配しかない。この怜悧さはどこかから来るのか?
レメディオスは1942年以来、メキシコに定住することになる。その2年前に、彼女の作品はシュールレアリスト絵画展の出品作としてメキシコ市に渡り、二度目の夫シュールレアリストの詩人ベンジャミン・ペレと新生活を開始する。その42年には、メキシコ文部省が「絵画彫刻学校」を設立し、夫ペレはここの教授に迎え入れられた。同僚にはディエゴ・リベラやその妻フリーダがいた。
レメディオスは絵を生活の足しにするために売る必要はなかった。だから、心ゆくまで絵を愛撫していられたし、幻想に浸ってもいられた。彼女の代表作はもとより大半の作品がメキシコで描かれ、故にカタルニアではなくメキシコの画家として認知されているが、この地のコントラストの激しい光と陰に育まれはしなかった。明度はせいぜい絵筆の先を照らすものがあれば良かった。
レメディオスの本格的な展覧会は1982年のことである。それまで、ほんの少数の者しかその潤沢な個性的な美の世界を知らなかった。幻視を紡いだ画家の日常とはどのようなものであったのか? 画家は多くを語っていない。1963年、55歳で死去。早すぎる死だと思う。
現在、レメディオスの主要作品はメキシコ近代美術館に収蔵されている。因みに、同美術館にはフリーダの代表作、リベラ、シケイロス、オロスコなど壁画運動を担った巨匠たちの代表的なタブローが常設展示されている。その一角に、昨秋からレメィデオスに捧げられたコーナーが設けられた。
「私は語りたくない。作品こそが重要だ」とはレメディオスの生前の弁。しかし、その幻想に魅せられた者は、その意味性を自己流に解釈したくなるものだ。そうした作業を通じて、孤高の画家も否応なく美術史に定着させられてゆく。
● レメディオス・バロの「笛吹き」
* 初出掲載紙 : 『ラティーナ』2002年4月号
* 後日談 : おそらく、日本で女性の画家たちの系譜が普及書として出されたのは1985年、イタリア美術専攻の若桑みどりさんが岩波新書『女性画家列伝』であったと思う。いま思えば、すこぶる物足りないものだが、当時として、ともかく類書がなかったから、これを読んで感化された人も多かったはずだ。もの足りないというのは、わがフリーダ・カーロさえ一語半句も言及されていなかった。米国のジョージア・オキーフもなし、アルゼンチンのフィニは取り上げれていたけれど南米の風土はそこになかった。おそらく、今回紹介するレメディオス・バロを知る読者は少ないかも知れないがメキシコ及び欧米では良くしられた女性画家だ。これから、ここでも画家に限らず彫刻家や写真家など女性芸術家を積極的に紹介していきたいと思う。
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◆ リトアニアからブラジルへ、故郷喪失者の人間の実在性を凝視する視線
「ブラジルの表現主義者」 ラサル・シーガル展
もう20年も前になるかと思うが、温かな掌の手触りをもつ『リトアニアへの旅の追想』という映像詩をみた。今日では、米国インディペンデント映画の不朽の名作といわれているようだが。ナチスに追われ米国に亡命したリトアニア生まれのユダヤ人ジョナス・メカスがニューヨークでの日常を16ミリ・フィルム(8ミリだったかも?)で撮りはじめ、27年後、「亡命した人間」が故郷の村を訪ねる思い出の旅、そして強制収容所に収監されていた絶望的な日々を追想する部分と三つの独白的な映像を積み重ねた物静かだが20世紀の人間世界の愚かさも抉るような刃先のきらめきをもった作品だった。
ラサル・シーガルというリトアニアの首都ヴィリニュスのユダヤ人コロニーに生まれ、ドイツ表現主義の影響下から出発し、ブラジルに永住の地を見出した画家の回顧展が始まった。142点の作品を通覧していくうちに、メカスの映像がひたひたと広がった。シーガルは、ドイツ表現主義の画家たちが絶えず人間を凝視しつづけたように、人間を酷烈な視線で観た、観ようと前傾姿勢を保とうとした画家だ。内質的にけっして政治的な作家ではなかったと思うが、彼が生きた時代と、そして出自、さらにいえば小国リトアニアの運命が雄弁な作家にしたように思う。
メカスの映像詩はいまだベルリン市街を分かつ「壁」が屹立している時代に作品化された。「壁」が何時、崩壊するのか誰も分からない状況を暗黙の了解事項として、その映像は見る者の肺腑に染み込んで来たのだった。シーガルの絵に具体的な表象があるわけではないがロシア革命、ナチスの台頭、大戦、ソ連邦によるリトアニア併呑といった20世紀東欧史が反映している。歴史の痕跡、傷痕を留めているという言い方もできるだろうか。
シーガルとブラジルとの出会いは1912年、画家21歳の時だ。ブラジルに住む兄弟を訪ねたのが最初だ。そして、1924年以来、サンパウロに居を定めブラジル人画家として後半生を過ごすことになる。
第一次大戦における敗戦、廃墟、失意と混乱のなかから出てきたドイツ表現主義は、ナチの台頭によって政治的に窒息させられる短くも豊潤な実験性と鋭敏な時代感覚を合わせ持った大きな潮流であった。そこで行われた社会批評と美術との融合の試みは現在まで大きな影響を与えている。シーガルは、その運動のなかで単なる写実では飽きたらず人間存在の実在を極めようする探求の画家となる。それは、第一次大戦の悲惨を兵士として体験したオットー・デックスら先導者たちのドイツ表現主義の忠実な使徒になることであった。シーガルの清新な感受性は先達たちの妥協なき戦いの前衛に近づく、デックスはシーガルの師だが、同時にキルヒナーの神経を逆撫でるような刺激的な色彩で描き出された人物像にも抗しがたく引きつけられた画家であったと、初期作品がそう語っている。しかし、シーガルは先輩たちより更に惨酷な現代史とともに歩むことを強制される。祖国リトアニアはモスクワの配下となって独立を失い、故郷喪失者となる。
難民・亡命者を満載した船内光景、虐殺の大画面、親密感に富んだユダヤの老人像、愛する妻の肖像にしも何処か陰鬱である。色彩を意志的に抑制した寒々としたタブローがつづく。しかし、そんななかにあって時折り暖色が跳ね、絵筆の喜びを率直に反映した作品が、雲間の射光のように慰安の境地に誘う作品がある。それらはいずれもブラジルを、ブラジルの太陽を浴びる民衆を描いた作品だ。それらの絵は、ブラジル生活が始まってから描かれたものではなく、欧州からの旅で描かれた時代から始まっていて、本質的に色彩を抑制しつづけてきた画家の履歴のなかにあって、うまい表現とはいえないが“砂漠のオアシス”のようなものだ。ブラジルは、北国生まれの故郷喪失者に慰安と、精神に良きバランスを与えていたのだ。そんな第二の故郷に恩返しをすべく、彼はブラジルにおいて、植民地美術からの完全なる脱却を願って絵画だけでなく、文字の書き手として多くの発言を繰り返して行く。
メカスが米国の作家として認知されているように、シーガルもブラジルの画家である。そして、メカスより時代の輻射熱を直截に受け止めて真摯に創造活動に邁進した表現者であると思う。そんな画家の業績が日本ではまったく黙殺されている。手元の日本語によるドイツ表現主義関係のいくつかの文献にあたったがシーガルの名はない。いや、ブラジルを除くスペイン語圏アメリカでも無名であった。いま、その再評価が米大陸で本格的にはじまった。
1991年、シーガルとメカスの祖国リトアニアは市民の血を犠牲にしてモスクワの意思を挫き、独立を勝ち取った。シーガルの死後、34年を経てのことだった。
* 後日談 : ラサル・シーガル展は2002年3月から6月、メキシコ市内の国立近代美術館で行なわれた後、7月からアルゼンチンのブエノス・アイレスのラテンアメリカ美術館に巡回した。本稿は、2002年5月号の『芸術新潮』の「WORLD」欄に書いた記事に対して、すこぶるつきで飽き足らず、全面改稿して、『ラティーナ』誌のアート欄に寄稿した文章に、今回またあらたに手を加えたのが掲載の文章。まぁ、これでも書き足りないぐらいだが、いまだブラジルの地を知らずリトアニアを訪れる機会も巡ってくるかな、という現在、あまり勇み足もしたくないとの思いもあるので、まずは紹介の一助にということで……。
● 「バナナ園にて」(1927年)
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