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「私とクライミング 野口啓代自伝」野口啓代

2021年07月23日 07時27分52秒 | 読書(山関係)


「私とクライミング 野口啓代自伝」野口啓代

小学校5年の時、家族旅行でグアムに行き、クライミングを体験。
その翌年3月、全日本ユースで優勝。
2005年第1回ボルダリングジャパンカップで優勝、リードでも優勝。

P56
本番に強い私のパワーは、単に普段は本気で登ることがなく、大会になると本気を出せるから登れるというだけのことだった。(中略)
当時の私は本番パワーに頼ることで、ほとんど練習をしなくなっていた。

それでも勝てる、ってどーいうこと?
2005年に転機が訪れる。
日本山岳協会から、ミュンヘンで開催される世界選手権(リード)に出るよう連絡を受ける。

P62
このとき、今まで感じたことのないプレッシャーが私に一気に襲いかかってきた。
(中略)
しっかり登らなければならない。私は初めて自分が代表選手だというプレッシャーを感じていたのだ。さらに受験明けということもあって、全然登っていないという焦りもあった。世界選手権出場の連絡を受けてから、私は初めて自主的にちゃんとトレーニングをするようになった。

P63
練習内容は、ウォームアップで1周100手あるところを往復200手登り、それから80手ほどの課題をいくつかこなすというようなものだった。

P74
当時、日本女子選手でワールドカップに出場していたのは小林由佳ちゃんだけだった。
この頃も私は彼女との大きな実力差を感じていた。その彼女ですら国際大会の表彰台に立ったことがなかった。

P76
とにかく、予選を通過して日本代表としてと恥ずかしくない登りをすることだけに集中していた。

P78・・・そして決勝にすすむ
「初参戦の私だけ残っちゃった。どうしよう。私なんかがここにいていいのかな」

P80・・・結果3位となる
日本チームの人もみんな驚いている様子だった。でも人見知りの私はそんな彼らと喜ぶとか、そういう感じにならなかった。それに、みんなよりも一番驚いているのは自分自身なのだ。
世界選手権での銅メダルは日本人のみならず、アジア人としても初めてだった。さらに日本人で史上最年少のメダル獲得でもあった。実感はほとんどなかったけれど、自分がとんでもないことをやってのけたことだけはわかった。(追記:当時の記事を読み返してみた。平山ユージ氏が声もかれるほど応援して後押ししていたのがわかる。また、インタビューも掲載されている・・・気になる方は、ロクスノ#29を見てみて)

その後、ボルダリングにも参戦する。
P89
この2007年にボルダリングに参戦するようになったのはたまたまだった。松島さんたちに連れて行ってもらえるからという理由で、出たことのないワールドカップに出てみただけ。決してボルダリングに自信があるから出ようとか、そういったものではない。それだけにソフィア大会の2位は、自分の中でも大きなインパクトがあった。

P89
私は自然とリードからボルダリング中心になり、ボルダリングで世界一を目指そうと思うようになっていった。

【感想】
想定以上の面白さだった。
21年間の闘いの記録がここにある。
心の揺れ、葛藤が率直に書かれている。

【参考リンク】
野口啓代、自伝を出しました!! - YouTube

【追記】
念のため書いておくと、本書はクライマー向け。
クライマーでない方が読んでも、面白さを感じない、と思う。
ルールや用語解説が省略されているので、文章を読んで「絵」を描けないから。
臨場感を感じることができないから。

【ネット上の紹介】
壁に挑み続けた21年、集大成の五輪へ。クライミング界の女王、初の自伝
プロローグ そして五輪へ―2019年8月、最後の世界選手権
第1章 1989~2005 クライミング人生のはじまり
第2章 2005~2007 「世界一になる」。そう誓った16歳の銅メダル
第3章 2007~2008 アンナとの出会い、プロとして生きる決意
第4章 2009 念願のワールドカップ年間総合優勝
第5章 2010 最高のライバルと競い、励まし、高め合った2連覇
第6章 2011~2014 勝ち続けることの難しさと、“Take it Easy”
第7章 2015 岩場の洗礼、初の大怪我…自分の弱さと向き合う
第8章 2016~2017 五輪種目決定と、日本クライミング新時代
第9章 2018~2019 涙の八王子、生萌との最も充実した年間争い
第10章 2020~2021 五輪延期、葛藤の1年。私は、やるしかない

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