快気分析

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仕組みとアプローチ -  デスマスクでなくても信長なら生前に「マイマスク」を作っていた可能性が高いと考えられて来た理由

2020-01-27 19:00:44 | 明智光秀
 デスマスクですが、もしかしたら信長は死の直前にデスマスクを作らせようとしただけではなく、生前から自身の顔を型取りしてデスマスクならぬ「マイマスク」を作っていたのではないか?と思えて来ました。
 何故かと言うと当時の信長ならそれを実行したのが別に不自然ではない理由が多々有るからです。
 一つは信長自身が襲撃を受けた際、後継ぎや親族、家臣らの安泰を考えて首を敵方に渡さぬよう即座に処分しなければいけない場合、デスマスクを作っている間に敵方に奪われてしまうりスクが有るわけでそれなら生前にマイマスクを作っておいた方が良い事になります。
 そして信長がマイマスクを作ったとしたらその理由として他に考えられるのは、信長が当時自らが神であるかのような振る舞いをし始めていた事から、信長が仮に死んでもその「マイマスク」からソックリさんを探し出し、さもあたかも信長がいつまでも死なずに生き続けている演出をしようと目論んでいた可能性が有ります。
 そして更にメリットが有り、「マイマスク」で信長のリアルなソックリさんを直ぐに探せれば、後継ぎや親族、家臣らは、さもあたかも信長がまだ生きているかのような演出が長くできるわけで、これは権力を維持する上で大きな意味が有ったと思われます。
 武田信玄が落命した後も暫くは影武者が信玄の健在を装った期間が有るのは有名な話ですが、それだけでかなりのメリットが武田家には有った事が実証されていたはずです。
 しかし武田家は武田信玄の「マイマスク」を作っていなかった為、じきにバレる事なり結局は武田勝頼の代で実質滅亡してしまいました。
 この状況を知っていた信長、そしてイエズス会関係者らからデスマスクの話を仮に聞いていたとしたら、更には合理主義者でありしかも当時は自らを(永久不滅に死なない神として)神格化しようとしていた信長ならば、生前にデスマスクを作り「信長は今も生きている」という演出をしようとしていた可能性は十分有ったと見ています。

仕組みとアプローチ -  本能寺から信長の首を持ち出さずにデスマスクだけを残せた可能性について考える

2020-01-27 18:16:19 | 明智光秀
 本能寺の変の際、弥助が本能寺から脱出して信忠のいる二条御新造に行ったと言う史料もあるようで、もしかしたらこの弥助が信長の首を持ち出して教会へ届け、そこでデスマスクが作られたのかとも考えていたのですが、あの状況で本能寺から弥助が果たして脱出できたのだろうか?と言う疑問がまず残ってしまいます。
 何しろ信長を襲撃する方はそれこそアリの這い出る隙も無い位に包囲、監視していたはずだからです。
 そしてもう一つ残る疑問ですが、仮に弥助が脱出するのを明智勢が容認したから脱出可能だったとしても、弥助が信長の首を持っていたらその大きさでわかってしまい、取り上げられるリスクが高かったのではないか?と言う事です。
 弥助は信長の首を持って本能寺脱出はしていなかった・・・ではあのデスマスクは根拠のない物なのでしょうか。
 これについては暫くわからなかったのですが、調べているうちにデスマスクが実物である可能性も否定できないプロセスも或いは可能性としてはゼロではない、と考えるようになりました。
 それは次の通りです。
 「本能寺の変で襲撃が始まったのは未明、大体午前4時頃。そしてほぼ襲撃が終了したのは午前8時頃と言う史料が有るようで、これを参考にすると約4時間かかった事になり、そのどの時点で信長が落命し、弥助がどの時点で脱出したのかは様々考えられます。仮に信長が早々に諦めて首を渡さないようにする手段を取ったとすれば、まず信長が自刃或いは家来らに斬首してらにもらい首からデスマスクを作る。そしてデスマスクはそう厚みがないので弥助が持って出ても襲撃部隊に奪われるのを回避できる可能性は有ったし、それも無理ならデスマスクは堀にとりあえず沈めて場所を覚えておき、後で引き上げるならデスマスクの確保は可能。仮に襲撃部隊がデスマスクを引き上げたとしても首ではないので信長が生前に残したとも解釈できてしまうので信長の首として意味はない。そしてデスマスクを作った後の信長の首は油などで焼いてわからないようにしてしまった。」
 大体このような手段で信長の首は襲撃部隊へ渡らず、そしてデスマスクは残った、という事を考えたのですが、ではデスマスクをそんな短時間に作れるのかどうか?がわからず調べると、当時の日本でそれは可能だった事がわかって来ました。
 そのカギは蝋燭の蝋です。
 デスマスクは石膏や蝋に顔をあてる事で作れるようなのですが、当時は夜間の照明に油や蝋燭が使われていました。既に和蝋燭は室町時代から使われ始めていたようで、しかも和蝋燭の蝋はその融点がヨーロッパの蝋より低いようです。
 蝋燭の方は高級品で地位の高い人達でしか使えなかったようですが、しかし安土城他多くの城を造ってしまう程の信長ですから本能寺の照明に蝋燭をかなり確保していたとしても違和感は有りません。
 この蝋を使って短時間でデスマスクを作成、そして火災で焼けないように弥助が持ち出すか堀にとりあえず沈めるなどして後で回収したのなら信長の首が襲撃部隊側に決して渡らず焼失しデスマスクだけを残せる、となります。
 このプロセスはどうでしょう。

 

仕組みとアプローチ -  まるで佐久間信盛の失敗例を参考にしたかのような秀吉の戦い方

2020-01-27 08:57:23 | 明智光秀
 秀吉の中国攻めですが、1581年以降の主な戦いと言うと1581年の鳥取城攻略(鳥取の飢え殺し)、備中高松城水攻めしかありません。
 つまり武器を使った戦闘は殆ど無し。
 ですが確かに拠点となる城を一つ攻略してはいるし備中高松城は水攻めでかなり追い詰めていたので信長から「手抜きではないか」と疑われる程ではなかった、というように見えます。
 この1581年と言うのがどんなタイミングなのかと言えば、それは1580年8月に佐久間信盛が信長による19ヶ条の折檻状で追放された少し後である事はすぐにわかります。
 おそらくと言う程度の推察ですが秀吉は次にように考えていたのではないか、と思っています。
 「(いくら秀吉と言えども)強豪であり石見銀山を御料地とするなど朝廷に評判の良い毛利氏を相手にまともには戦いたくない、がしかし特に戦果をあげないでいると佐久間信盛のように追放処分になってしまうリスクも有る。ならば毛利氏の安国寺恵瓊と協議の上、兵糧攻めや水攻めなど実際の戦闘ではない方法でありながら、一方ではあたかも戦っているかのような演出をしたらどうか。例えば鳥取城の兵糧攻めで酷く飢えるのは城に逃げ込んだ農民らだけ、という程度に抑え、備中高松城の水攻めでも特に城内の武人らが犠牲になるような事にはならない程度にしておこう。城主が切腹するのはできれば避ける方向で考えているが、替え玉を用意する手も有りその時間的には十分余裕が有る。このあたりは毛利氏側と協議の上進めよう。」
 秀吉ならその程度の事は考えていたと思うのですが実際はどうだったのでしょう。
 本能寺の変の後にすんなり中国おお返しが出来た事や毛利氏が五大老になった事などからこの可能性は十分に有ったと考えてしまいます。