快気分析

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仕組みとアプローチ -  斎藤利三と信長のイザコザ

2020-01-06 18:20:52 | 明智光秀
 斎藤利三が信長から死罪(切腹命令)を言い渡された理由と考えられる事については既に記事にしました。
 ではなぜ斎藤利三が信長に「裏切者、かそれに近い意味の言葉」を発したのか?ですが、本能寺の変前に起きた事の時系列が仮に事実だったとすれば、確かに納得できる点も有ります。
 江戸時代以前の史料では次の通りです。
 

5月15日 安土城滞在中の家康の饗応役として明智光秀が任命され対応する。
5月17日 明智光秀はこの饗応役を解任され、毛利攻め援軍を支持され、その日の内に坂本城へ戻る。
5月21日 信長に恭順する旨が書かれた長曾我部元親から斎藤利三へ宛てた書状の日付けの日にあたる。(石谷家文書)
5月30日 斎藤利三が信長から死罪(切腹命令)を言い渡される。
6月1日  本能寺にて公家衆らと茶会。
6月2日  本能寺の変発生。


 以上、これらの事から次のようなプロセスを考えました。
 まず、長曾我部元親が信長に恭順する旨が書かれた書状が明智光秀宛ではなく、斎藤利三であった理由と言うのは、確かに斎藤利三が長曾我部氏と繋がる窓口のような縁戚だった事もあるのでしょうが、それよりも明智光秀が既に畿内総司令官を解任されて毛利攻め準備にかかり、既に斎藤利三しか窓口がいなくなったから、と考えています。
 書状の日付けが5月21日というのは、上記の通り、5月17日に光秀が畿内総司令官を解任されてしかも安土城には既にいなかったからです。
 おそらくこの事を斎藤利三が長曾我部元親に書状ですぐに知らせたのでしょう。
 大体、3日~4日後には必ず届くはずだったので、届いた当日か翌日に斎藤利三へ書状を送ったはずなので辻褄が合います。
 次にこの書状を持って、斎藤利三は信長に会いに行き、長曾我部氏が信長の要請通りにするという恭順の意を伝えたのかも知れませんが、実際に会えたのかどうかはわかりません。
 既に信長は斎藤利三と会う気も無い状況だったのか、或いはそうでなくても「この書状の内容などの信長は応じない」、という事を斎藤利三に伝えたのか、と言う状況だったのではないでしょうか。
 これが何を意味するのかと言うと、信長は「それまで長曾我部氏に要請していた土佐、阿波の南半分だけを長曾我部所領とするどころか、それらも全て没収するかごく一部の狭いエリアだけの領有」、という旨の事を斎藤利三に言った可能性が否定できません。
 当初は長曾我部氏に「四国に限れば切り取り次第」と言っておきながらその後に「土佐、阿波の南半分だけに縮小」と「契約違反」を起こし、更に「土佐、阿波の南半分さえも認めない、長曾我部は更に小さな所領のみ、或いはゼロで無一文になれ」と言ういわば「二重の契約違反」である強引な内容を斎藤利三に言い渡したのかも知れない、と考えています。
 ここまで来ると斎藤利三は信長など主君でも何でもないただの「裏切者」に過ぎないわけで、これで怒りが頂点に達して信長に「裏切者」かそれに近いコトバを吐いてしまい、怒った信長が斎藤利三に死罪(切腹命令)を言い渡した、そう言う状況だったのかと思えます。
 石谷家文書の日付けと斎藤利三が死罪を言い渡されたタイミングから言うとほぼピッタリ合っているからです。