快気分析

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仕組みとアプローチ -  小牧長久手の戦いでは家康勢と秀吉勢が途中までほぼ互角だった

2020-12-08 13:15:00 | 明智光秀
 1584年の小牧長久手の戦いですが、総兵力では秀吉勢が有利だったものの、野戦や狙撃などの戦闘力で秀でていた家康勢も健闘し、ほぼ互角のまま織田信雄が秀吉方へ行ってしまい、結局この戦いは秀吉方優勢と言う条件で実質和解となりました。
 この戦いはその中身を見ると秀吉勢がキリシタン武将と非土岐一族系らが中核をなし、一方の家康勢は非キリシタン系武将と土岐一族系らが中核をなした戦いだったように思えます。
 当時に於いて正親町天皇はイエズス会を警戒してはいたものの、まだ秀吉による天下統一にもなっていなかった為、とりあえずキリシタン排除よりも織田家の残る有力武将である織田信雄を信用できる秀吉の配下にする方を優先する意向であったのかも知れません。
 「秀吉ならば自分の意向通りに動いてくれる」と正親町天皇が余程信用していたからこそ、非キリシタン系の家康勢を庇おうとしなかったのか、と言う事まで有ったのかどうかまではわかりません。
 当時の朝廷は既に直接武力行使はしない状況だったので、有る程度は武将には自らの富と権力を築く自由度が有ったのかどうか、と言う所でしょうか。
 この戦いの途中で織田信雄が家康方から秀吉方に鞍替えして秀吉の配下となり、織田家が実質的に無力化するや否や秀吉は朝廷とイエズス会を除く各勢力に対しては自らが独裁者となるべく、家康勢を殲滅にかかろうとしたまさにその時、1586年の天正地震となりました。


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