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快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  土橋重治に宛てた明智光秀の書状が6月12日と言う異常に遅い日付けなのか?

2020-02-07 20:02:07 | 明智光秀
 本能寺の変の後、明智光秀は当時まだ征夷大将軍であった足利義昭を上洛させようと工作したようですが、その一つが足利義昭上洛に際して協力を求める為に土橋重治へ宛てた書状です。
 2017年にこの書状の原本と考えられるものが見つかったようですが、その日付が6月12日。
 この日付けを見て思うのは、これではどう見ても既に手遅れでではないか?と言う事です。
 本来ならば本能寺の変が起きた6月2日の3日後である6月5日までにはこのような内容の書状が送られていなければならなかったはずです。
 光秀は6月初旬の段階でまだ筒井順慶らが加勢するだろうなどとかなり楽観視していたのでしょうか?
 それとも本能寺の変の後すぐに足利義昭へ上洛の要請をしていて、四国、紀州経由などで上洛するなどの目途が立った旨の返事を足利義昭からもらった為、それから土橋重治に協力を求める書状を送ったのか?
 或いはもう足利義昭が上洛する見込みが無いのに、雑賀衆の一部を明智方に加勢させる為の芝居だったのか?
 果たしてどれだったのでしょう。

仕組みとアプローチ -  信長へ恭順の意を示した長曾我部元親からの書状は何故残っているのか

2020-02-07 01:09:08 | 明智光秀
 以前の記事で斎藤利三が信長から死罪(切腹命令)を言い渡されたのは5月30日あたりと書きましたが、江戸時代以前の史料ではこの裁定が出たのはどうも5月27日だったとするものが有るようです。
 ところで長曾我部元親が信長へ恭順する意を示した書状が本能寺の変前である5月21日付けで残っている事は既に知られています。(石谷家書状)
 この書状が何故残っているか?について、以前の記事で書いたのですが、「仮に斎藤利三経由で信長に届いたとしたら、四国進軍を中止するつもりが仮に信長に無かったのだとすればおそらくその書状を破り捨てたはず」と思えるのです。
 なので四国進軍を止めようとしない信長を斎藤利三が仮に「裏切り者呼ばわり」に近い言い方をしてそれが斎藤利三へ信長から切腹裁定が出たとすれば、その書状は残っていないはずではないのか?となるのですがこの点について考えて見ました。
 考えられる一つのケースに過ぎませんが、それは「長曾我部元親がこの書状を複数作成し、それを異なるルートで送った」、と言うものです。
 信長への恭順を示す書状であればそれは誰かの手に渡って内容を知られても別に悪いはずはなく、それどころかこの恭順の意を示しているにもかかわらず信長が四国進軍を止めようとしないのならそれだけ信長の大勢の人達にとって悪い印象となるので、かえって長曾我部氏には有利となったかも知れません。
 なのでこの書状の一つが残っているのはわからなくも無いようにも思えます。
 ただ疑問点がまだ残っていて、それはこの書状が信長宛ではなく斎藤利三宛てである事です。
 どういう事かと言えばそれは、「長曾我部元親がこの書状を多数バラ撒く情報戦を展開する場合、信長宛にした方が良いのではないか?」と考えられるからです。
 長曾我部元親は一体どうして斎藤利三宛てにしたのでしょうか?
 それまで窓口だった斎藤利三が散々苦労した為、顔を立ててあげようと長曾我部元親が考えたのでしょうか?
 それとも信長宛で書状を送れるような関係では既に無く、取り付く島もない状況だったのでしょうか?
 この謎が本能寺の変を解き明かす一つの鍵ではないか?と思えなくもないのですが、少なくとも言えるのは、この書状が5月21日付け、それが仮に斎藤利三に届いたとしたらおそらく5月23日~5月25日あたり。
 それを斎藤利三が直接か間接で信長に伝えたとしたら5月24日~5月27日あたりかも知れず、仮にその書状に対して信長が全く歩み寄ろうとしない事に対し、斎藤利三が何か(つまり裏切り行為だとか)を信長に言ってしまい、それに対しての信長が斎藤利三へ死罪(切腹)を裁定したのだとすれば、確かに辻褄は有って来ますが、真相はどうだったのでしょう。