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快気分析

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仕組みとアプローチ -  高山右近は明智光秀の使いが来た時に留守(居留守?)だった なのに何故?

2020-02-02 12:09:10 | 明智光秀
 山崎の戦いの前、明智光秀は高山右近を味方に取り込もうと使いを送ったものの、どうやら高山右近は留守だったようで家族や家臣らが変わって「明智方に味方する」と言う調子の良い返事をしたと旨の事がルイス・フロイスが残した書物に書かれてようです。
 それで明智勢はこれで安心し油断して詰めを甘くした為、高山右近と近縁に中川清秀は秀吉方としてしかも先鋒として明智勢と戦う事になりました。
 では当時の高山右近が何故留守だったのか? ですが、江戸時代以前の史料によるとどうもタイミングとしては尼崎などに来ていた秀吉に会いに行っていたように思えます。
 しかし明智光秀の使いがいつ来たのかについてはわからず、これも定かではありません。
 もしかするとですが、既に秀吉方に加勢すると決めていた高山右近は居留守を使った可能性もゼロではないと思えます。
 この可能性について、何故か明智光秀は深追いして確認しようとはしていないのか?とやや疑問に思えてしいます。
 このあたりの状況は謎に満ちており、例えば中川清秀にも加勢を働きかけた記録が何故残っていないのか、そして大山崎あたりが決戦の場となるなら高槻城や茨木城は退却戦の為の捨て城に近いものとなるはずで、ならば高山右近や中川清秀らには代わりの所領や城を予め約束した、その為には光秀も出向いて交渉したはずなのですが、そうした記録が現時点では確認できていません。
 これらの状況が仮に実際だったすると、明智光秀はおそらく高山右近や中川清秀を味方にする事は(味方が離反しないようにする為に口には出せないが内心は)ほぼ諦めていたて、せめて仏教徒の筒井順慶だけでも見方にと働くかけていたのか、或いはもしかするとですが筒井順慶を味方に取り込もうと必死でそちらに気を取られていたのかも知れません。
 ルイス・フロイスの書物には光秀が敗北したのは高山右近から人質を取っていなかったからと言う旨の事が記されていますが、高山右近は家族、親族を人質に取られても服従しない事は荒木村重の反乱の時の例が有るので光秀は高山右近に関しては人質が決めてにならない事を知っていた可能性があります。
 しかしいくら高山右近が加勢しないとはうすうすわかっていても明智光秀が禁制を敷いていた大山崎の町を(いくら前日からとは言え)ああも露骨に占拠までするとは考えておらず、せいぜい高槻城や茨木城で秀吉方に寝返る程度かと光秀は油断していたのでしょうか。
 明智光秀が仮に予め巧妙な退却戦と籠城戦を計画していた場合、少なくとももう少しは時間稼ぎができたはずで、その間に上杉氏、北条氏、旧武田氏方の残党、長曾我部氏(これらの勢力は実際に逆襲攻勢に出ました)、更には高野衆、雑賀衆や伊賀衆の残党など様々な反織田勢が一斉蜂起して或いは明智勢は足利義昭を強引に上洛させて勝てた可能性もゼロではないと思っています。
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