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快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  妙覚寺、二条御新造へ直接向かったと思われる伊勢貞興らの部隊は何を意味するのか

2020-02-05 20:06:23 | 明智光秀
 本能寺の変の際、最初に本能寺を襲撃しその後に妙覚寺、二条御新造へ襲撃に向かった斎藤利三ら明智家方部隊が多かったようですが、しかし伊勢貞興ら(旧?現?)室町幕府奉公衆らの襲撃部隊はどうも妙覚寺、二条御新造へ直接向かったように書かれている史料が殆どのようです。
 何でそうするのか?と言えはそれはどう見ても「本能寺で想定外の抵抗などで手こずった場合に備えて別動隊を予め直接動かす事で織田信忠を確実に討つ為」だったはずと考えられます。
 しかし予め本能寺以外を襲撃すると言う事は「家康以外、つまりの信長か信忠を討つのが目的」と将兵らはわかってしまう可能性が有るわけですが、予め別動隊にして情報隔離していればもしかしてそれはわからなかったのかも知れません。
 そして仮にそれがわかっていたとしても(旧?現?)室町幕府奉公衆らの部隊は「信長、信忠らを襲撃して当然」と意識していた将兵が多かった場合、例え「信長、信忠らを襲撃するのつもり」とわかっても逃げ出す者も殆どいなかったのではないか、とも思えますが実際はどうだったのでしょう。
 
 
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仕組みとアプローチ -  決戦の前、明智光秀はどうすべきだったのか

2020-02-05 00:32:12 | 明智光秀
 本能寺の変の前、明智光秀の使者が高槻城に行った時に高山右近が留守(居留守?)なのに家族や家臣が明智方に加勢するような調子の良い返事をしてそれを鵜呑みにしたのかどうかはわかりませんが、特に人質も取らずに明智光秀は山崎の戦いに突入するしか無かったようです。
 ルイス・フロイスの書き残している通り、確かに明智光秀が人質を高山右近らから取っていれば多少は戦果が違ったのかも知れませんが、しかし一方で荒木村重の反乱の時には、「高山右近が親族を荒木村重方に人質にされているにもかかわらず、信長方へ付いた」と言う事実が有った事から、「例え光秀が高山右近から人質をとっても決め手にはならない」と明智光秀は既に感付いていたのか、とも思えます。
 それで光秀が当時どうすべきだったかについて考えてみました。
 仮にですが明智勢の中から3000名位の将兵が中川清秀の茨木城に「秀吉方からの防御の為に援軍を送る」と言う名目で「占拠」し、退却戦を前提に待ち伏せ拠点を多数設ける戦い方をする方式を採れば、それもしかして残された手段として有ったかと考えています。
 しかしこの戦法でもおそらく明智勢はダメだったのではないかとも考えられます。
 理由は以前にも記事で書いている通りで、明智光秀の知らなかったと思われる「中川清秀と秀吉の間の内誓紙が有った」からです。
 おそらく、ですが仮に明智勢が茨木城を援護の名目で占拠しても「その状況は秀吉に筒抜けになった」はずであり、それならば秀吉勢は別ルート、つまり手薄になっている畿内の北エリアから侵攻したように考えられるのです。
 では中川清秀の近縁である高山右近の高槻城にだけ明智勢を占拠させるならどうだったか?ですが、やはり上記と大して変わりない状況になったのではないでしょうか。
 そして明智勢にとって最後の頼みの綱は筒井順慶だったのでしょうが、その望みも結局は絶たれた、と言うのがあの「山崎の戦い」だったと考えています。
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