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快気分析

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仕組みとアプローチ -  本能寺の変 信長が家康を堺、京都、大阪に行かせた理由

2018-05-11 08:58:29 | 明智光秀
 信長が家康を京都、大阪、堺の順に行かせた理由は、甲州征伐に赴いた主な武将を行かせて、襲撃者がいないかどうかなど、信長自身の防御の為のセキュリティチェックの意味も有った、と言う点は今月9日の記事で書いた通りですが、その裏付けともなりえる事が有ります。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89#%E7%9B%B4%E5%89%8D%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%8A%B6%E5%8B%A2

5月29日、信長は中国出陣の準備をして待機するように命じ、小姓衆をつれて安土より上洛した[96]。その際、茶道具の名器38点[97]を携えており、6月1日、近衛前久を主賓として茶会を開いた[49]。京都滞在は5日間の計画で、先に淡路で信孝の閲兵に向かうと伝えられていた[98]。

引用終了

 淡路から先は毛利攻めの後詰めで西に向かう予定だったのか、それとも堺や四国へ行くんつもりだったのかは予定変更も含めて多々考えられると思われますが、少なくとも信長は京都、大阪を経由する予定だったと見て良いようです。