霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

祈り

2012年09月24日 | 心霊現象
今日はこの「祈り」について、私の経験をば、少しお話いたしましょう。
この漠然とした「もの」、つまりこの行為によって何がどうなるか、という結果は、私達の手にはない、と申し上げておかねばなりません。
祈りの行為は、よかれとして発露する心のやむにやまれない行いですが、はたして「聞き届けられるか」というと、決してそうではないと申し上げねばなりません。
ましてや「神」に祈るという行為は、神に祈るべき内容である事が第一条件になります。
言い方は悪いが、下世話な内容で祈った「祈り」は、自分勝手であり、ご利益であり、まあ神の心を
こちらに向かわせる、つまり神を振り向かせるほどのものか・・・。
ここが、祈りの分岐点になりましょうね。

今までの記録、つまり守護霊の「祈ってくれ」という希望は、何をもってその行為を意味付けたか・・・。
霊界に通じる祈りが、「神」に通じる祈りということになりましょう。
後でお話するいま一つの祈りは、神に祈っているようではあるが、実は「呪い」だということですね。
この「呪い」、つまり「呪詛(じゅそ)」は行動をおこせば起こすほど、それが積みあがって「悪霊」の作用(のり移り)さえ受けていかざるをえないという、悲惨なことが結果としてもたらされる
怖さを忘れてはなりません。(私の「鬼の様」はまさしくその事の証明です)


祈りとはあくまでも「実践」の世界であれば、よく例えられる例として「トンネル掘り」のようなものであると言われる。
岩盤に穴を開け、開通するまでは何も見えず、何時開くという保証もない。
怠ければそれだけ遅れ、途中事故などアクシデントが起これば開通のメドも狂ってくる。
毎日毎日同じ行為を繰り返しては、「その日」を信じてひたすら行為を続ける。
トンネル掘りは形ある世界での行為であり、現在の位置がどこかも今の科学をもってすれば分かる。
しかし、こと「祈り」は霊的な行為であり、形なき世界での変化を願っての「神」にむけての事で
あれば、今何処にいて、何処に向かって正しく確かに掘り当てているか、という確信がその都度
つかみにくい。それが「祈り」の行為の裏にある「おぼつかなさ」であり、「不信」に陥る「落とし穴」である。

120日間の祈りを提示された親子を、思い出してほしい。(金将軍の件です)
霊界、それも守護霊のたっての願いだった「祈り」は、親子にしてみれば、かいもく見当さえつかず、やみくもに仏壇に向かって条件をみたす行為以外の何物でもなかったかもしれない。
だからこそ、118日以前の何事も起こらない日々を積み重ねる行為(祈り)を落胆し、失意
のドン底の中で迎えていたのだ。(もうやめよう、神を信じるのも霊能者をたよるのも・・・と)


私がいつも思い出す童話、アンデルセンですかねぇ(イソップかもしれない)その中で、「白鳥の王子」(11羽の白鳥の王子?)というお話。
兄を魔法で白鳥に変えられ、その魔法を解くには野に出て、トゲの多い蔓(つる)を刈り取り、それで上着を編む。それを着せれば魔法は解ける、と妹は聞く。その間誰とも口をきいてはいけない、と条件がつく。彼女は魔法をかけた二人目の妃(魔女)の目を盗みながら、ひたすら上着を編む。
いつしか10枚が出来た。
最後の一枚を編みながら、彼女は『魔女狩り』の一人とされて処刑場まで運ばれる。
その牛車に乗せられながらの時間も惜しんで、編み物を続ける。魔女は火あぶりの刑だ。
足元に火がつけられて、ようやく11枚が完成した。と、その時11羽の白鳥がどこともなく飛んで
来て、彼女が空に放つ上着をまとうと、元の王子の姿になった。
悪い妃(魔女)は退治され、その後も12人の兄妹は幸せにくらしました・・・。
と、まあこんなあらすじだったかと。

そしてもう一つ。
似たような話で「走れメロス」。
これはみなさまご存じでしょうから、ここでは省略しますが。

こんな話を聞くとね、信じるという事がいたって難しいと気が付くのです。
先日お話をいたしました「ノア」も、全くそうです。
一回しか聞いていない「神の声」を、120年間も信じ続けるんですから・・・。
信じるだけじゃない、常識では判断できない事、つまり雨さえ降らない日照り続きに、方舟をそれも
山のてっぺんに造る・・・。普通やりますかねぇ。だから彼は、神からみて「たった一人の義人」だったのでしょう。


なぜ祈るのか?と問われれば・・・。
そこに必ず目的がある。成就したい目的が。
そして、祈りというものが、人にだけ与えられた行為でもある。
その内容が良い悪いは別として、一人一人の事情と、心情がある。
祈りの基本やお手本みたいなものは、世にたくさんある。
「神学」などというもので学ぶ「祈祷学」なるものは、きっと優等生的お祈りになるのだろう、が
私はそんな企画品のような祈りは知らないし、またした事がない。
ただ「祈り」の形、あるいは基本はある。
電話の掛け方を知らなければ、電話で話は出来ない。
誰にかけるのか、まずダイヤルを回す行動をとらなければ、つながらない。
その前に、掛ける相手の「電話番号」を知らなければならない。
これが「祈る」という行為の前に、心に決めておく内容でしょうね。
誰に祈るんですか? 何を祈るんですか? 何日続けるんですか?
最小限度は、このくらいは決めていないと・・・ね。

「神」(神様)、あなたに祈ります。
守護霊である「あなた○○様」に祈ります。
と、まあ私の場合は相手をまずはっきりとさせ、お名指しでお呼びをします。
これが「ダイヤル」をまわした事になる。
あとは内容。おおざっぱに事の次第を説明する。
自分はこう思う。ゆえにこうなってほしいと希望する。が、これはあくまでも私の願いです。
もし、間違っていたら、私がわかるように諭(さと)し、説明が欲しい。
時間がない急を要する時は、「三日」で知らせてくださいと祈る。
(私が鬼に変化していく様を知らされたのも、これに入る)

祈る期間中には、読む本、会った人、見た絵、人の会話等々、どこかにヒントが隠されている。
私の場合はTV映画の中での、一人がはいた台詞の中に「答え」があった。
ぶれない的・焦点がいかに大切かが、ここで分かる。祈りがぶれない限り、必ず答えは分かる。
「これだ!」ってね。祈った人にしか察知できない「答え」が、このようにして来る。
もはや霊界がない、とは言えなくなる。その時ほど自分を見てくれている「目」を感じる。
それが「神」か、「守護霊」かいずれでも歓喜にむせる。
そうして実践の積み重ねの中から、「祈りの極意」を自分で見出していく。

時々は、そんな型にはまった祈りなぞしていられない時や場面がある。
その時は瞬時に心が飛ぶ。そして言葉も「機関銃」のように出てくる。
感謝であれ、恨みであれ、電車の中であれ、道路を歩く時であれ・・・である。
そんな時は決して止めない。自分の祈り(叫び)から、何かを掴み取る。
口は機関銃のように言葉を吐くが、心は一つの何かを教えようとする。
出来れば人ごみは避けた方がいい、が仕方がない時は心の中でやるしかない。
「それってさぁ、おかしくない?・・・」と、自問自答が始まる時だ。
(自問自答から、間違いが正される時がある。血気怒気には充分に注意されたし)



一生に一度でいい、「わたしって、誰?」と聞いてみてほしい。
何が一番したいの? 今が満足? ・・・・と。
年をとって、時間もお金もたっぷりあるからではなく、「心」がわたしにつぶやく、あるいは叫ぶ
一番自分にとって「旬」な時にこそ、心を確かめ、「あなたは、どこに繋がれたいの?」と聞いて
みてほしい。
自問自答も「祈り」なんです。
見えない糸でつながれている「人間」の正体、言い方が悪ければ「人間の本質」がきっと見えて
くるはずです。

「祈り」は本来、心(魂・霊)が「霊界」あるいは「神」を、その存在をふくめて潜在的に知っているという現れに他なりません。
もうすぐそう遠くない時代には、それがあたりまえのようになっていくでしょうね。
つい最近知って、驚いたことがあります。
縫い物って糸で縫う、と普通思いますよね。それにミシン。糸を使いますよね。
ところがね、特殊なミシンでは糸を使わないそうですよ。
何で布を繋ぎ合わせるか?
皆様『超音波ミシン』ってきいたこと、ありますか?
これぞまさしく「神の技」。「デサント社」の知恵と技術が成功した日本人の誇り高き技術力。
事は「北京オリンピック」から始まった。
水泳選手はほとんどが「スピード社」の水着を使い、勝負をしかけてきた。
日本の水着界は、完敗した。
「スピード社」に負けるな!
その結果、「世界に負けない水着」として発表された「デサント社」の水着は、布を糸を使わない
方法でつなぎ合わせる機械(ミシン)を発明した。
それが『超音波ミシン』だった。
超音波が布を合わせていくのだ。だから軽い。
この水着から「世界記録」が生まれていく。


とまあ、布と布を超音波で合わせる時代なんですよ。
だからね、神様くらい(失礼)、霊界くらいその在り様を現在に明らかにするくらい、もうそこまで
来ていますよね。(とまあ、こうなりたいものですがね)
希望をもってまいりましょう。