奈良ホテルは、明治42年に「関西の迎賓館」として奈良公園内に誕生したでつ。
すべての今日を祝福する百年のおもてなし。
大和の街並み、明治に贅を尽くし建てられ、要人たちを迎え入れたこのホテルには、 今も華やかな時間が流れているでつ。
そして…
記憶の残る旅には、素敵な料理やスイーツ、世界より選りすぐったワインで、大切な人との旅の時間を演出するでつ。
関西の迎賓館と云われ、国賓・皇族の宿泊する迎賓館に準ずる施設となっているでつ。
本館の建築には、東京駅や日本銀行本店などを手掛けた建築家 辰野金吾氏が担当し, 雅な大和の街並みとの親和性も高く、
瓦葺き建築で、内装は桃山風の豪奢・華麗な意匠で、重厚感溢れ、和洋折衷の美しい佇まいは今も変わらず魅力的。
建築後は、時代にも翻弄された歴史があり、ただどの時代の人たちも変わらず、このホテルを残そうという思いは、
今に引き継がれているでつ。
奈良ホテルの歴史は…
奈良ホテル建設の契機は、日露戦争の勝利に始まり、ホテルの歴史は営業主体から見ると五つの時代に分けられるでつ。
日露戦争に勝った日本には来遊する外国人が急増。
そのため政府は全国の主なホテル・旅館経営者を集め、必要な保護特典を与える旨の発表。
これを受けて、関東では大倉喜八郎さんが帝国ホテル創業、関西では西村仁兵衛さんが都ホテル創業して活動を起こしたでつ。
明治39年、西村さんは眺望に恵まれた高畑町飛鳥山を坪1円で買収し、翌年の明治40年に都ホテルなど4ホテルを統合した大日本ホテル株式会社を設立。
奈良ホテルの建設は鉄道院がおこない、鹿鳴館の建設費用の約2倍である35万円がかけられたるでつ。
建物新築に際しては、古建築との調和を保持すべしとの県議会決議に従い和洋折衷様式を採用、周囲の景観との調和した見事な建物ができあったでつ。
明治42年10月17日、奈良ホテルは開業しました。
日本はこの時期、第一次世界大戦、満州事変、第二次世界大戦、そして敗戦と激動の時代を迎えるでつ。
一方、奈良ホテルは鉄道院の手厚い庇護の下、俗世間から離れた最も華やかな時代を過ごすでつ。
国営で利潤に追われることがなく、宿泊客は高等官以上又は資本金一定額以上の会社の重役の原則が厳格に守られ、
空室が沢山あっても満室とお断りすることがよくあったでつ。
従業員の待遇は、当時18歳の女子客室係の給与が32歳の住友金属に勤める兄の給与と同額。
良家の子女が行儀見習として勤める例が多かったでつ。
迎賓館時代ともいえるこの期の奈良ホテルは、賓客を迎える度に改装。
奈良ホテルを訪れた世界的著名人としては、大正11年にエドワード英国皇太子、アルベルト・アインシュタイン、昭和12年にヘレンケラー女史、
各皇族方や当時の首相の多くも来館。
昭和期に入ると次第に軍事色を帯び、満州国皇帝、ドイツナチス党幹部、イタリアファシスト党幹部の来館が相次ぐようになるでつ。
戦時中、空襲警報があるとドラを鳴らして客に知らせ、防空壕に逃げ込んだとのこと。
鉄道院は終戦直前の昭和20年5月に運輸省に変遷したでつが、同年12月に奈良ホテルの財産を財団法人日本交通公社に貸し付け、営業も委ねたるでつ。
こうした中、奈良ホテルは米軍に接収される事になるでつ。
米軍に接収された奈良ホテルは、米軍の中尉から少佐クラスを長に5~6名程度のスタッフが常駐し、日本人従業員は米軍の労務員として米軍の管理下に置かれたでつ。
接収当初、米兵は食事の際にもショットガンを携えて警戒していましたが、そのうち日本人従業員とも仲良くなり、奈良ホテルは楽しいレクリエーション施設となって
いくでつ
米軍接収期間中、米兵の管理は厳格になされていたようで、奈良ホテルは明るく健康的な所だったでつ。
従業員達は、米兵の残り物とはいえ、ちゃんとした食事ができ、給与も世間一般よりは良かったでつ。
米軍スタッフも日本人従業員に気遣って催しを開いたりしていたそうで、当時若かった従業員達の多くは、楽しかった時代と。
昭和30年代の日本は高度成長の時代を迎えるでつ。
ホテルにも日本人客が増え、昭和39年には東京オリンピックにより外国人客も増大。
ホテルの営業も上昇。
昭和40年代には万博に備え改築、純粋リゾートホテル型からシティーホテル型へと変身。
万博の年は活況を呈し、国王、王女、大統領夫人など貴賓客の来館だけでも週に2~3回はあるような有様。
株式会社奈良ホテルの火急の仕事は、新館の建設。
昭和58年8月に工事が始またでつが、半地下方式であることや、非常に高いグレードを狙ったため、総工費は24億円と、客
室65室の増築工事としては極めて高価なものとなったでつ。
株式会社奈良ホテルを最初に訪れた著名人は、オードリー・ヘップバーン。
株式会社奈良ホテルとしての営業開始日の前日、昭和58年3月31日にお越しになり、ビューティフル、ワンダフルを連発してお褒めくださったでつ。
平成7年1月に起こった阪神淡路大震災によりホテルにも大きな被害があったけど、幸い骨組みには影響はなかったでつ。
明治の建物の強さを改めて実感したものでつ。
教会で結婚式を挙げたいというカップルにお応えするため、チャペルの建設。
平成10年以降はレストランやバーの新設、ホテル収蔵絵画展の開催などをおこない、平成18年からは客室のリニューアルなどを含む改装計画が立てられ、
計画の締めくくりである料理場の改装は平成20年9月に完成。
平成21年創業100年記念イヤーの2月には所蔵する絵画20点の絵画展を開催。
平成22年は奈良県全域を舞台に平城遷都1300年祭が開催され、奈良県全域が活況を呈した年であり、当ホテルにとって次の100年へ向けての第一歩を記す特別な年となったでつ。
そこでまず取り組んだのが、調度品の一つとなっていた大正11年製スタンウェイピアノの修繕。
およそ半年を費やした修繕後にはボディーカラーはラッカー仕上げのマホガニーレッドに戻され、往時の輝きを彷彿とさせるもの。
平成25年8月には同年6月から進めていたラウンジ「ザ・バー」の改修工事が終わり、バーとほぼ同じ時期に工事を始めた本館和室2部屋は10月、
パークサイドツインルーム「天平」「飛鳥」に生まれ変わったでつ。
この年の11月に施行された建築物耐震改修促進法に基づき、平成27年には新館と旧館の接合エリアとなるロビーや宴会場から補強工事に着手。
平成27年4月、改装された大宴会場「金剛の間」と新設した屋上テラスガーデンを報道陣に公開。同年12月4日、館内の日本料理店「花菊」を地上階へ
移転・新装オープン
翌年の平成28年、移転した「花菊」のスペースを隣接する新館宴会場「大和の間」の一部として拡張。
大規模なビジネスユースなど幅広い宴会需要に対応可能な宴会場が誕生。
明治、大正、昭和、平成、令和と受け継がれてきたでつ。
一度は宿泊したいでつ。
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