Takahiko Shirai Blog

記録「白井喬彦」

朝日「記事捏造問題」はどうなったのか?

2005-05-16 20:40:53 | 国内
先日、朝日新聞の若い配達員が、「そろそろ朝日新聞、またとってくれませんか」と声を掛けてきた。

そういえば、今回の朝日による記事捏造問題では、朝日側がとった態度の悪さに驚き、すっかり印象を悪くした。こういう恥知らずのやり方をする新聞は到底購読を続けるわけにはいかないと思い、1月下旬以降、月極め購読をやめていたのだった。

NHKが制作途中の番組を改編したかどうかは別の問題だ。NHKは強烈な権力志向を発散していたあの海老沢勝二が会長をしていた公共放送なのだから、あるいは、政権与党に尾を振るような番組改編などのことがあったかもしれない。だが、そのことはまた別の問題である。

その後、安倍晋三氏と中川昭氏には、NHKに対して圧力を掛けた事実がないことが明らかにされた。もっとも、両氏の言葉だけでは潔白が照明されたとはいえないかもしれない。だが、一般国民が受けた心証では安倍氏も中川氏もともにほぼ潔白と感じられた。

従って、問題の記事は誤報であったか、あるいは捏造であったわけである。そればかりか、記事を書いた本田雅和記者(朝日新聞社会部副部長)は、かなり思い込みの多い、杜撰な取材をしていたことも明るみに出てきた。加えて、記者会見をしたNHKの元局長に対し、本田記者が「話し合いをしたい」と密かに申し入れてきた事実も明るみに出た。こんな不可解な行動が明らかにされたのでは、朝日にはもう勝ち目はないだろうと思われた。

安倍、中川両氏は、朝日に記事の訂正と謝罪を要求した。もし朝日が両氏に反論するなら、第三者にも納得できるしっかりした証拠の提示が必要である。朝日はそれを拒否し、取材源の守秘を理由として「だんまり」を決め込んでいる。朝日のそういうやり方は、暴力団員が仲間をかばうために黙秘するのと何ら変るところがない。

私の家系は、祖父以来3代続けて朝日の愛読者であった。また、私は過去半世紀以上朝日の愛読者であったことを誇りとしてきた。昭和初期に朝日で花形記者として活躍した縁戚の者もいた。そういう立派な先達が私の縁戚にもいたことを、私は密かな誇りとしてきた。だが、このところ、朝日の偏向記事には正直いって辟易していた。朝日はもはやイデオロギーを唱えるだけの新聞になり果てたのか。

朝日はそのイデオロギーから、安倍、中川両氏の政治的抹殺を狙ったのか。そのために、わざと際どい記事を流すという、「暴力団の拳銃」紛いの禁じ手、「捏造記事」という紙の弾丸を発射したのか。この冒頭で私が「朝日は態度が悪い」といったのは、つまりは、こういうことであったのだ。

今回、「asahi.com」で改めて問題の記事を調べてみたら、2005年1月12日当時の記事に改変されている箇所が見つかった。

まず見出しが、「NHK番組に中川昭・安倍氏「内容偏り」 幹部呼び指摘」から「中川昭・安倍氏「内容偏り」指摘 NHK「慰安婦」番組改変」と変っていた。「(NHKの)幹部呼び」は取り消したらしい。

また、NHK番組制作局長(当時)の発言から、「番組が短くなったらミニ番組で埋めるように」という箇所が削除されていた。これは本田雅和記者の取材が杜撰であったことを認めたことか。

末尾の「憲法21条」と「放送法3条」の引用も消えていた。泥仕合の中で、「言論の自由」など、いまやどうでもいいのか。


朝日新聞(asahi.com) 2005年1月12日当時の記事の姿
NHK番組に中川昭・安倍氏「内容偏り」 幹部呼び指摘
2005年1月12日 08:52

 01年1月、旧日本軍慰安婦制度の責任者を裁く民衆法廷を扱ったNHKの特集番組で、中川昭一・現経産相、安倍晋三・現自民党幹事長代理が放送前日にNHK幹部を呼んで「偏った内容だ」などと指摘していたことが分かった。NHKはその後、番組内容を変えて放送していた。番組制作にあたった現場責任者が昨年末、NHKの内部告発窓口である「コンプライアンス(法令順守)推進委員会」に「政治介入を許した」と訴え、調査を求めている。

 今回の事態は、番組編集についての外部からの干渉を排した放送法上、問題となる可能性がある。

 この番組は「戦争をどう裁くか」4回シリーズの第2回として、01年1月30日夜に教育テレビで放送された「問われる戦時性暴力」。00年12月に東京で市民団体が開いた「女性国際戦犯法廷」を素材に企画された。

 ところが01年1月半ば以降、番組内容の一部を知った右翼団体などがNHKに放送中止を求め始めた。番組関係者によると、局内では「より客観的な内容にする作業」が進められた。放送2日前の1月28日夜には44分の番組が完成、教養番組部長が承認したという。

 翌29日午後、当時の松尾武・放送総局長(現NHK出版社長)、国会対策担当の野島直樹・担当局長(現理事)らNHK幹部が、中川、安倍両氏に呼ばれ、議員会館などでそれぞれ面会した。

 中川氏は当時、慰安婦問題などの教科書記述を調べる研究会「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」代表、官房副長官でもあった安倍氏は同会元事務局長だった。

 関係者によると、番組内容の一部を事前に知った両議員は「一方的な放送はするな」「公平で客観的な番組にするように」と求め、中川氏はやりとりの中で「それができないならやめてしまえ」などと放送中止を求める発言もしたという。NHK幹部の一人は「教養番組で事前に呼び出されたのは初めて。圧力と感じた」と話す。

 同日夕、NHKの番組制作局長(当時)が「(国会でNHK予算が審議される)この時期に政治とは闘えない。番組が短くなったらミニ番組で埋めるように」などと伝えて番組内容の変更を指示したと関係者は証言。松尾、野島両氏も参加して「異例の局長試写」が行われた。

 試写後、松尾氏らは(1)民衆法廷に批判的立場の専門家のインタビュー部分を増やす(2)「日本兵による強姦や慰安婦制度は『人道に対する罪』にあたり、天皇に責任がある」とした民衆法廷の結論部分などを大幅にカットすることを求めた。さらに放送当日夕には中国人元慰安婦の証言などのカットを指示。番組は40分の短縮版が放送された。

 このいきさつを巡り、NHKで内部告発をしたのは、当時、同番組の担当デスクだった番組制作局のチーフ・プロデューサー。番組改変指示は、中川、安倍両議員の意向を受けたものだったと当時の上司から聞き、「放送内容への政治介入だ」と訴えている。

 一方、中川氏は朝日新聞社の取材に対し、NHK幹部と面談したことを認めた上で「疑似裁判をやるのは勝手だが、それを公共放送がやるのは放送法上公正ではなく、当然のことを言った」と説明。「やめてしまえ」という言葉も「NHK側があれこれ直すと説明し、それでもやるというから『だめだ』と言った。まあそういう(放送中止の)意味だ」と語った。

 安倍氏は「偏った報道と知り、NHKから話を聞いた。中立的な立場で報道されねばならず、反対側の意見も紹介しなければならないし、時間的配分も中立性が必要だと言った。国会議員として言うべき意見を言った。政治的圧力をかけたこととは違う」としている。

 番組内容を事前に知った経緯について両議員は「仲間から伝わってきた」などとし、具体的には明らかにしていない。

 NHK広報局は「(内部告発に関しては)守秘義務がありコメントできない。番組は、NHKの編集責任者が自主的な判断に基づいて編集したものだ」としている。

 〈憲法21条〉 (1)集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。(2)検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 〈放送法3条〉 放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、または規律されることがない。



朝日新聞(asahik.com) 2005年5月17日現在の記事の姿

中川昭・安倍氏「内容偏り」指摘 NHK「慰安婦」番組改変
2005年01月12日

 01年1月、旧日本軍慰安婦制度の責任者を裁く民衆法廷を扱ったNHKの特集番組で、中川昭一・現経産相、安倍晋三・現自民党幹事長代理が放送前日にNHK幹部を呼んで「偏った内容だ」などと指摘していたことが分かった。NHKはその後、番組内容を変えて放送していた。番組制作にあたった現場責任者が昨年末、NHKの内部告発窓口である「コンプライアンス(法令順守)推進委員会」に「政治介入を許した」と訴え、調査を求めている。

 今回の事態は、番組編集についての外部からの干渉を排した放送法上、問題となる可能性がある。

 番組は「戦争をどう裁くか」4回シリーズの第2回として、01年1月30日夜に教育テレビで放送された「問われる戦時性暴力」。00年12月に東京で市民団体が開いた「女性国際戦犯法廷」を素材に企画された。

 ところが01年1月半ば以降、番組内容の一部を知った右翼団体などがNHKに放送中止を求め始めた。番組関係者によると、局内では「より客観的な内容にする作業」が進められた。放送2日前の1月28日夜には44分の番組が完成、教養番組部長が承認したという。

 翌29日午後、当時の松尾武・放送総局長(現NHK出版社長)、国会対策担当の野島直樹・担当局長(現理事)らNHK幹部が、中川、安倍両氏に呼ばれ、議員会館などでそれぞれ面会した。

 中川氏は当時、慰安婦問題などの教科書記述を調べる研究会「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」代表、官房副長官でもあった安倍氏は同会元事務局長だった。

 関係者によると、番組内容の一部を事前に知った両議員は「一方的な放送はするな」「公平で客観的な番組にするように」と求め、中川氏はやりとりの中で「それができないならやめてしまえ」などと放送中止を求める発言もしたという。NHK幹部の一人は「教養番組で事前に呼び出されたのは初めて。圧力と感じた」と話す。

 同日夕、NHKの番組制作局長(当時)が「(国会でNHK予算が審議される)この時期に政治とは闘えない」などと伝えて番組内容の変更を指示したと関係者は証言。松尾、野島両氏も参加して「異例の局長試写」が行われた。

 試写後、松尾氏らは(1)民衆法廷に批判的立場の専門家のインタビュー部分を増やす(2)「日本兵による強姦(ごうかん)や慰安婦制度は『人道に対する罪』にあたり、天皇に責任がある」とした民衆法廷の結論部分などを大幅にカットすることを求めた。さらに放送当日夕には中国人元慰安婦の証言などのカットを指示。番組は40分の短縮版が放送された。

 NHKで内部告発をしたのは、当時、同番組の担当デスクだった番組制作局のチーフ・プロデューサー。番組改変指示は、中川、安倍両議員の意向を受けたものだったと当時の上司から聞き、「放送内容への政治介入だ」と訴えている。

 一方、中川氏は朝日新聞社の取材に対し、NHK幹部と面談したことを認めた上で「疑似裁判をやるのは勝手だが、それを公共放送がやるのは放送法上公正ではなく、当然のことを言った」と説明。「やめてしまえ」という言葉も「NHK側があれこれ直すと説明し、それでもやるというから『だめだ』と言った。まあそういう(放送中止の)意味だ」と語った。

 安倍氏は「偏った報道と知り、NHKから話を聞いた。中立的な立場で報道されねばならず、反対側の意見も紹介しなければならないし、時間的配分も中立性が必要だと言った。国会議員として言うべき意見を言った。政治的圧力をかけたこととは違う」としている。

 番組内容を事前に知った経緯について両議員は「仲間から伝わってきた」などとし、具体的には明らかにしていない。

 NHK広報局は「(内部告発に関しては)守秘義務がありコメントできない。番組は、NHKの編集責任者が自主的な判断に基づいて編集したものだ」としている。

国土交通省 「JR西日本脱線事故」発表資料

2005-05-16 16:36:53 | 国内
JR西日本福知山線脱線事故に関する国土交通省のマスコミ対策は、矢継ぎ早やに打ち出す諸政策をも含めて水際立った水準といえるものだった。インターネット公開状況を見ても、なかなかしっかりしている。マスコミばかりを相手にしているのではなく、国民に対して報告しているという姿勢が感じられる。

このような国土交通省の熱い姿勢と比較すると、JR西日本の姿勢はお粗末の限りだ。JR西日本の幹部が記者たちに怒号で糾され、しどろもどろで謝罪している姿がテレビで放映されたが、そういうのを見るともはや怒りを通り越して痛々しささえ感じられた。

だが、テレビ映像の中の幹部職員とは別に、JR西日本のウェブサイトhttp://www.jr-odekake.net/ )を見てみると、それはもうあまりにも寒々しいもので言葉を失った。社長の謝罪の弁が通り一遍の言葉で載っているだけで、それ以外に事実を少しでも明らかにしようとする姿勢がまったく認められない。そういうことを喋ると、司法の場で不利になるとでも思っているのだろうか。

こういう寒々としたウェブサイトを見せられると、深々と頭を下げて謝罪していた幹部の姿がウソっぽく感じられる。「頭を下げてりゃ、そのうち問題は通り過ぎてくれる」と思ってるじゃないかと言いたくなる。


国土交通省


西日本旅客鉄道(株)福知山線
における列車脱線事故について

国土交通省

  1. 事業者名   西日本旅客鉄道株式会社
  2. 事故種別   列車脱線事故
  3. 発生日時   平成17年4月25日(月)9時18分頃
  4. 場所      福知山線 尼崎駅~塚口駅間(兵庫県尼崎市)
              第1新横枕踏切(だいいちしんよこまくらふみきり)(第1種)手前付近
  5. 列車      宝塚駅発 同志社前駅行 快速第5418M列車(7両編成)
  6. 死傷者数   死亡者107名、負傷者460名(4月30日 17:30現在)
              ※関係機関により240名救出。
  7. 概況    

    1. 列車は、207系7両編成のうち、前5両が脱線。自動車と衝撃している模様。前2両が列車進行方向左側のマンション1階部分に衝撃。
    2. 乗客は、約580名(西日本旅客会社㈱からの情報)
    3. 現地は、右カーブ(曲線半径300m)で時速70キロ以下の制限箇所
    4. 運転士は23歳、経験11ヶ月。車掌は42歳、経験15年9ヶ月
    5. 当該列車は、事故直前の停車駅の伊丹駅において、停止位置を約2両(40m)行き過ぎて停止し、その修正のため、伊丹駅を約1分30秒遅れで出発し、塚口駅の通過は約1分の遅れで運転していた模様。
    6. マンション(脱線し衝突した建物)の居住者に負傷者なし


  8. 国土交通省の措置事項
    <p>【4月25日】
    • 近畿運輸局に「福知山線事故対策本部(本部長:運輸局長)」を設置(9時40分)、ただちに担当官2名を現地に派遣。
    • 本省に「福知山線事故対策本部(本部長:大臣)」を設置(9時45分)。
    • 第1回対策本部を国交省本省で開催(10時45分)、大臣、岩崎政務官、鉄道局長及び担当官2名を現地に派遣。なお、岩崎政務官については、救出作業終了まで現地で対応(28日)。
    • 航空・鉄道事故調査委員会委員等7名を現地に派遣
    • その後、岩崎政務官を派遣し引き続き現地で対応。
    • 第2回対策本部を国交省本省で開催(20時00分)。
    • 臨時大臣会見(20:26)。
    • 西日本旅客鉄道株式会社に対して鉄道輸送の安全確保に関する警告書を発出するとともに、全ての公共交通事業者に対して安全対策の徹底について通達を発出。

    <p>【4月26日】

    <p>【4月28日】

    <p>【4月29日】

    <p>【4月30日】

    <p>【5月1日】

    <p>【5月2日】
    • 北側大臣による輸送安全総点検の実施状況等に係る現場視察(鉄道関係)
      • 東京地下鉄株式会社(電車区及び車掌区)
      • JR東日本株式会社(東京総合司令室)
      • 東武鉄道株式会社(電車乗務区及び車掌区)

    • 航空・鉄道事故調査委員会発表資料(17時)

    • 第4回対策本部を国交省本省で開催(19時)

    <p>【5月6日】
    • 北側大臣による輸送安全総点検の実施状況等に係る現場視察(鉄道関係)
      • 南海電鉄株式会社(車両基地)
      • 阪急電鉄株式会社(乗務区)


    <p>【5月7日】

    <p>【5月9日】

    <p>【5月10日】
    • 大臣会見
    • 参議院国土交通委員会(10時)
      • 大臣が参議院国土交通委員会において、これまでの取り組みについて中間報告

    <p>【5月13日】

(別添)
右レール白い粉(6両目後高車・7両目前台車間)
右レール白い粉(6両目後高車・7両目前台車間)
左レール白い粉(7両目前後台車間)
左レール白い粉(7両目前後台車間)
排障器(4両目後方右側)
 
排障器(4両目後方右側)
排障器(4両目後方右側)
枕木の破損状況
枕木の破損状況
枕木の破損状況
枕木の破損状況

JR福知山線脱線事故

2005-05-16 12:11:38 | 国内
107人の死者を出す大惨事となったJR福知山線の脱線事故(2005年4月25日午前9時18分頃発生)は、急カーブの箇所をスピードを落とさずに走行したことが直接原因というのが、現在のところもっとも有力な見方である。この箇所は時速70キロに制限されていたが、事故車の事故直前のスピードは時速100キロを大幅に超えていたことが搭載されていた運転記録装置に記録されていた。

JR快速電車が脱線転覆し線路脇のマンションに激突したJR福知山線の事故現場=2005年4月25日午前10時5分、兵庫県尼崎市で共同通信社ヘリから

改めて伊丹駅から尼崎駅までの鉄道路線の地図を調べてみると、伊丹駅を発車すると、運転手のスピードアップを誘いそうな直線軌道が何キロも続いていく。ところが、あと2キロ足らずで尼崎駅という地点で、制限時速70キロの急カーブにぶつかるのだ。

従って、この路線の運転手は、急カーブの手前何キロかの地点から、計画的に徐々にスピードを落としていく運転が求められる。だが、伊丹駅でオーバーランし、1分30秒の遅れを取り戻さなければならないとあせっていたであろう若い高見隆二郎運転手(23歳、死亡)にとっては、この直線区間をあっという間に通り過ぎてしまい、スピードを落としていくタイミングを失してしまったのではなかろうか。

あくまでも私の想像ではあるが、ある時点でスピードを落とす操作に入らなければならなかったのに、別のことがしきりに彼の頭を過ぎっていたため、その操作に入るのをすっかり忘れてぼやっとしていた。ふと我に返り、「はっ!」と気付いて、慌ててスピードを落とす行動に入ったが、ほぼその瞬間に事故へと突入していったというのがその実態だったのではなかろうか。

このあたりの運転状況については、「JR福知山線脱線事故で、事故を起こした快速電車が現場カーブ手前の直線区間を制限速度(時速120キロ)を超える126キロで走行し、108キロまで減速後、カーブ手前数十メートルの地点で非常ブレーキをかけていたことが、(5月)7日、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会などの調べで分かった」(産経新聞)と報道されている。

高見運転手はやはり直前に非常ブレーキをかけていたのだ。しかしながら、極端な非常ブレーキ操作により、一両目と二両目の車体は大きくバランスを崩して左傾してしまった。その結果、右側の車輪がレールから浮き上がり、かえってブレーキの効果を妨げることとなった。スピードが落ちなかった車輌は、浮き上がるようにして軌道の左側にそれていき、半ば空中を飛行するようにしてマンションに突っ込んでいった。

つまり、スピードを下げるタイミングに「遅れ」があったことが、次々と最悪の事態を誘発していった事故といえるのではなかろうか。伊丹駅から事故現場までの長い直線区間の走行と、その区間における運転手の心理の相関関係を調べる必要があろう。


訳詩者「矢野峰人」について

2005-05-16 09:55:08 | 文学
私が愛してやまないペルシャ詩人オマル・カイヤームの『ルバイヤート』。その珠玉ともいえる自由奔放な英訳 Edward Fitzgerald "Rubáiyát of Omar Khayyám, The First Edition(1859)" を、矢野峰人が香高く和訳した『四行詩集』(1935)。一昨日から、この和訳詩を毎日二歌ずつ鑑賞していくこととした。

以下は、詩人にして英文学者、峰人 矢野禾積博士の略歴と、矢野峰人若き日の作詞として知られる三高行春哀歌「静かに来たれ懐かしき」である。まずは「行春哀歌」から...


静かに来たれ懐かしき ←クリックしてください



静かに来たれ懐かしき
(三高 行春哀歌)

矢野峰人作詞


序詞
われらがはなやかに美わしかりし青春の響宴は、かくもしずかに、またかくもあわただしげに尽きなんとす。
友よ、さらに新しき盃をもとめながら、われらとともにうすれゆく日のかげにこの哀歌を声ひくく誦せん。
静かに来たれ懐かしき
友よ憂いの手を取らん
曇りて光る汝が瞳まみ
消えゆく若き日は嘆く

われらが影をうかべたる
黄金こがねの盃つきの美酒うまざけ
見よ音もなくしたたりて
におえるしずくつきんとす

げにもえ分かぬ春愁の
もつれてとけぬなやみかな
君が無言のほほえみも
見はてぬ夢のなごりなれ

かくも静かに去りゆくか
ふたつなき日のこのいのち
うえたる暇もひそびそと
薄るるかげのさみしさや

ああ青春は今かゆく
暮るるにはやき若き日の
うたげの庭の花むしろ
足音もなき「時」の舞

友よわれらが美き夢の
去りゆく影を見やりつつ
離別わかれの酒を酌みかわし
わかれのうたにほほえまん


文献所在先
矢野峰人(やのほうじん、明治26年(1893)~昭和63年(1988)

 詩人、英文学者。岡山県久米郡大倭村(現・久米町)の生まれ。本名禾積(かづみ)。

 幼くして父母に死別、母方の祖母と祖父の手によって育てられた。小学校時代より、「翠峰」と号して投書。岡山県立津山中学に入学、国語教師松山白洋の影響を受け、『文章世界』に投書し、蒲原有明の選に入ったのをはじめ、『中学世界』『秀才文壇』『ハガキ文学』などに投書、児玉花外、人見東明、河井酔茗、三木露風らの選を受けた。一時、『スバル』の社友となり、また北原白秋の『邪宗門』、三木露風の『廃園』を愛読して、深い影響を受けた。

 津山中学校卒業後、上京、正則英語学校に入学。大正元年(1912)9月三高一部乙類(英文)に無試験入学。厨川白村、島文次郎、エドワード・クラークらから英語を、成瀬無極、茅野蕭々、片山孤村から独語を学んだ。回覧雑誌『楯』の同人となって詩を寄せ、鯖瀬(岡本)春彦と親交を結んだ。とくに2年生の時に作詞した『行春哀歌』は広く愛唱されて、今日に及んでいる。

 大正4年(1915)9月、京都帝大英文科に入学、上田敏の指導を受け、その没後はクラークの指導を受けて卒業。卒論は『人間および詩人としてのシェリイ』。

 詩集『黙祷』(大正8年(1919)4月)を刊行し、学匠詩人としての第一歩を記し、京大大学院に入学。特選給費生となり、新たに厨川白村の指導を受けた。研究題目は「十八世紀以後の英詩」。

 大正10年(1921)結婚、妻安子は哲学者大西祝の次女。同年4月大谷大学教授となり、12月アルス泰西名詩選の一冊として『シモンズ選集』を刊行。大正11年(1922)4月三高講師となり、大正12年(11923)9月関東大震災のため鎌倉で不慮の死をとげた厨川白村の遺骨を迎えて京都に帰り、三高教授となる。

 大正15年(1926)台湾総督府より英国に留学を命じられ、同年9月オックスフォード大学に学び、ロンドンの宿にイェイツを訪問。フランス、イタリアを旅して、翌年アイルランドに渡り、イェイツの「塔」の家に客となり、グレゴリー夫人らに会い、更にケンブリッジ大学に学んで、昭和3年(1928)帰朝。その間、大正15年(1926)『近代英文学史』を第一書房より刊行、とかく無味乾燥に陥りがちな文学史研究に新生面を開き、青年読者に大きな影響を与えた。

 帰朝後直ちに台北帝大教授となり、昭和10年(1935)7月『アーノルドの文学論』により京都帝大より文学博士の学位を授けられた。文政学部長となり、その間、訳詩集『しるえっと』(昭和8年)、詩集『幻塵集』(昭和15年)、『影』(昭和18年)を台湾の日孝山房より、『近英文芸批評史』(昭和18年)を全国書房より刊行した。

 昭和22年(1947)5月帰国、同志社大学教授となり、台湾時代からの研究を一本にまとめた『蒲原有明研究』(昭和23年)刊行。また、『人文学』第3集(昭和25年9月)に『「文学界」と西洋文学』を発表、後にこれを単行本として刊行し、『文学界』の研究に画期的な業績を挙げ、更に『日本現代詩大系』の編集にたずさわる。

 昭和26年(1951)4月、東京都立大学教授となって東京に移住、続いて同大学総長に選ばれる。文学的自叙伝『去年の雪』(昭和30年)を刊行、とくに昭和34年(1959)12月に刊行した『波斯古詩 現世経』2巻は多年てがけてきたオマー・カイヤムの『ルバイヤット』の翻訳で、その決定版ともいうべき名訳である。

 昭和36年(1961)4月、東洋大学教授となり、続いて同学長となった。

 その学風は、先師上田敏の流れを汲み、詩人としての鋭い直感と綿密な実証との見事な結合よりなり、多くの英文学関係の著書の他、『新・文学概論』(昭和36年)、『鉄幹・晶子とその時代』(昭和48年)などがある。

参考文献 

『矢野禾積博士還暦記念論文集 近代文芸の研究』(昭和31年、北星堂書店)
『英語青年』(1988年10月号、矢野禾積(峰人)氏追悼)
父と共に(矢野玲子)/弔詞(島田謹二)/矢野峰人先生と世紀末文学(工藤好美)/詩人としての矢野先生(森亮)/矢野さんのポエジー(篠田一士)/魅力的なご老人(佐伯彰一)/矢野峰人先生のこと(奥井潔)/飛紅萬點愁い海の如し(井田好治)/矢野峰人先生(富士川英郎)/矢野禾積先生のこと(早乙女忠)

中国が大規模海洋調査

2005-05-16 00:41:45 | 国際
中国政府は、建国以来最大規模の海洋総合調査をおこなうことを発表した。だが、今後4年間で予算総額250億円というから、それほど大規模な計画とはいえない。この程度の海洋調査をやらなければ、このところ躍進著しいといわれる中国海軍としても、やがて運用上で行き詰ることになるだろう。

問題は対象とする調査水域だ。また、海洋資源開発などとも関連性がだれだけあるのかだ。内水面や領海内は問題ないとしても、「領海に連なる海域」はどういう考え方になるのか。日本の排他的経済水域まで含めて考えているのか。

日本は海軍を保有しているわけではないが、東アジア海域における随一の海上防衛力を保有している国家である。その海上防衛力が常に有効に機能を果たしていけるように、海洋調査事業も手を抜かないで進めて欲しい。

ところで、海洋調査事業については、ともすれば独立行政法人「海洋研究開発機構(JAMSTEC、Japan Agency for Marine-Earth Science and Technology)」だけに委ねようとするのはいかがなものか?

本来、日本近海の海域における海洋調査といえば、国土交通省所管の「国土地理院 (GSI、Geographical Survey Institute)」が取り組むべき事業ではないのか。

海洋科学や海洋資源開発が重要ではないといっているのではない。我国近海海域は我国国土と同等に考えなければならないといっているのである。そもそも「国土」の英訳は"land"ではなく、"domain"である。この"domain"の語源は"dominium (主人)"というラテン語らしい。つまり、「国土」とは主権と深い繋がりを持つ概念なのだ。

ところが、我国の「国土交通省」の英訳は"The Ministry of Land, Infrastructure and Transport"というのだから、海域主権に関してはどうも意識外らしい。


産経新聞(共同配信)
中国が大規模海洋調査 隣接海域も対象
2005年5月15日 20:49

 15日付の中国各紙によると、中国国家海洋局は14日、1949年の建国以来最大規模の海洋総合調査を昨年から2009年までの予定で開始したことを明らかにした。調査にかける総予算は約20億元(約250億円)としている。

 調査は、中国近海の資源や環境などを総合的に調べ、行政管理や防災、安全保障などの基礎データを整えるのが目的。対象面積は計67万6000平方キロで、内水面や領海のほか「領海に連なる海域」も含めるとしており、日本の排他的経済水域(EEZ)も対象にしている可能性がある。(共同)

訳詩鑑賞『ルバイヤート』(2)

2005-05-16 00:15:13 | 文学
Edward Fitzgerald "Rubáiyát of Omar Khayyám"
矢野峰人訳 『四行詩集』から



   第三歌

とり鳴きしとき門外に

声叫ぶらく「門を開けよ、

ここにとどまる須臾なるに、

去ればかへらぬわれらなり。」




       3

And, as the Cock crew, those who stood before
The Tavern shouted―"Open then the Door!
You know how little while we have to stay,
And, once departed, may return no more."



   第四歌

ふるきのぞみもよみがへる

睦月むつきとなれば幽人も

あくがれゆくか、花しろく

草よみがへる野に山に。




       4

Now the New Year reviving old Desires,
The thoughtful Soul to Solitude retires,
Where the WHITE HAND OF MOSES on the Bough
Puts out, and Jesus from the Ground suspires.