どこかの記事に「日本人と犬は立入禁止」と書かれていたようなおぼろげな記憶があったので、今日(2005年5月27日)改めてインターネットの検索エンジンにキイワードを「日本人+犬+立入禁止」と入力して調べてみたら、韓国「中央日報」紙のコラムが出てきた。
有名なエピソードを持つこの種の看板(「○○○と犬は立入禁止」)は、現在の韓国ではあちこちに見られるそうで、沸き上がる韓国のナショナリズムにおもねる「商魂ナショナリズム」らしい。
このコラムでは、「恐らく、民族主義を売りものにし売上げを伸ばしたい、という商魂が更に大きく働いたのではないか、と思われる。考えてみれば、韓国メディアの報じ方も似たようなものだ」と寸評している。韓国のジャーナリストは、自分たちが報じている報道内容が大衆の気分に迎合した要素があるという問題点に気づいてはいるのだ。(もっとも、この問題点は日本のジャーナリストにもいえることだ)
一方、「鬱陵島から独島(引用者注;竹島)へ向かって出発するハンギョレ号の乗船口に「日本人立入禁止」という大きな看板が設けてある」そうだ。ここで「日本人立入禁止」という看板を掲げるのは「商魂ナショナリズム」というものではないだろう。
でも、この情景が写真入りで報じられると、現在の韓国大衆は喝采して喜ぶ。大衆の喝采を呼ぶためにこうしたニュースを作るのは、ジャーナリストといえども「日本人と犬は立入禁止」の看板を掲げる商人と変るところがないと、このコラムニストはやや自嘲気味に書いている。(日本のジャーナリストにもいえることだ!)
中央新報
【中央時評】「日本人と犬」立入禁止?
2005.05.01 18:55:48
一昨日のことだ。『向かいあって闘う女』の著者クォン・ミョンア氏が、独島(ドクト、日本名・竹島)の話のついでに、自分で撮った写真1枚を見せてくれた。
新村(シンチョン)のある酒場前に掲げられた「日本人と犬、立入禁止」という警告板の写真だ。日本人の友だちと一緒に飲むため、適当な店を探す途中、警告板を見てしまったということだから、2人が同時に感じたはずの当惑さを分かるような気がする。
しかし、その酒場だけではないらしい。多くの日本人観光客が訪ねる弘益(ホンイック)大入り口のブティック街には、親切にも日本語で「日本人と犬、立入禁止」との案内文が貼ってある、というのが同氏の伝言だ。実は「立入禁止」の文法は、それほど新しいものではない。
上海租界外国公園の入口に掲げられた「中国人と犬、立入禁止」、1968年までロンドン大前のパブに堂々と掲げられていた「アイルランド人と犬、立入禁止」、米南部の商店前に掲げられていた「黒人とペット、立入禁止」などの警告板は、それが「帝国」の文法であることを示している。
商人が「立入禁止」との警告板を設ける際、それが帝国の文法だとの点に気付いていたかどうかは分からない。旧帝国を見つめる、それら旧植民地の人々の視線に、帝国への欲望が盛られていたのか、または、帝国への痛快な報復の心理が働いていたのかも、確認できる方法がない。
恐らく民族主義を売りものにし売上げを伸ばしたい、という商魂がさらに大きく働いたのではないか、と思われる。考えてみれば、韓国メディアの報じ方も似たようなものだ。
鬱陵島(ウルルンド)から独島へ向かって出発するハンギョレ号の乗船口に「日本人立入禁止」という大きな看板が設けてある写真を撮って電送した有力通信や、その写真を受け取って堂々と掲載した主要日刊紙の見方が、それら商人よりマシなものとも言えない。
非常に単純な質問一つだけでも、それらの商業的民族主義は、すぐにその薄っぺらな底をあらわしてしまう。日本の独島領有権主張に懐疑的な見方を示し、「新しい歴史教科書」の日本民族主義を批判し、日本の右傾化に反対する日本人も、立入禁止の対象だろうか?4年前に「新しい歴史教科書」の採択率を0.039%にすぎない、微々たるものにひきおろした日本の良心的な市民も、立入禁止の対象なのか?
私がこの警告板に戦りつする理由は、さらに根本的なところにある。単一の「日本国民」を作る、という「新しい歴史教科書」の目標から分かるように、日本の民族主義者は、すべての日本人を統一された意志を持った、一つの日本人にすることに全力をあげている。
ところが、この警告板は、日本と日本人の複数性を否定し、すべての日本人を一つにくくり、単一の日本国民を目指す日本右派の目標に、反射的に寄与しているのだ。韓国の反日民族主義が、右傾化を主導する日本の民族主義と敵対的な共犯関係になるのは、こうした脈絡からだ。
要するに、韓国の民族主義と日本の民族主義は、すべての韓国人と日本人を、単一の意志をもった集合体に想定するとの点から、民族を「単位」で私有するコードを共有しているのだ。それが危険なのは、誰かを評価する際、その人が行なった行為の意図や結果を問題視するのではなく、その人がどの民族に属しているのかを、評価の基準にするからだ。
単に日本人だとの理由だけで、特定の店で酒を飲めなかったり、服を買えなかったりする、といったレベルにとどまるならば、ささいなこと、と受けとめられるかもしれない。問題は、対立が激化するとき、そのささいさが、ジグムント・バウマンが「範ちゅう的殺害」と定義付けたジェノサイド(集団殺害、genocide)につながるとの点だ。
すべてのユダヤ人の胸にダヴィデの星をつけさせたとき、ホロコーストはすでに始まったのだ。被害者になんの過ちもないのに、単にある民族に属しているとの理由だけで殺され、また加害者は、そうした理由から、集団虐殺を正当化するならば、あまりにも恐ろしいことではないだろうか。
有名なエピソードを持つこの種の看板(「○○○と犬は立入禁止」)は、現在の韓国ではあちこちに見られるそうで、沸き上がる韓国のナショナリズムにおもねる「商魂ナショナリズム」らしい。
このコラムでは、「恐らく、民族主義を売りものにし売上げを伸ばしたい、という商魂が更に大きく働いたのではないか、と思われる。考えてみれば、韓国メディアの報じ方も似たようなものだ」と寸評している。韓国のジャーナリストは、自分たちが報じている報道内容が大衆の気分に迎合した要素があるという問題点に気づいてはいるのだ。(もっとも、この問題点は日本のジャーナリストにもいえることだ)
一方、「鬱陵島から独島(引用者注;竹島)へ向かって出発するハンギョレ号の乗船口に「日本人立入禁止」という大きな看板が設けてある」そうだ。ここで「日本人立入禁止」という看板を掲げるのは「商魂ナショナリズム」というものではないだろう。
でも、この情景が写真入りで報じられると、現在の韓国大衆は喝采して喜ぶ。大衆の喝采を呼ぶためにこうしたニュースを作るのは、ジャーナリストといえども「日本人と犬は立入禁止」の看板を掲げる商人と変るところがないと、このコラムニストはやや自嘲気味に書いている。(日本のジャーナリストにもいえることだ!)
中央新報
【中央時評】「日本人と犬」立入禁止?
2005.05.01 18:55:48
一昨日のことだ。『向かいあって闘う女』の著者クォン・ミョンア氏が、独島(ドクト、日本名・竹島)の話のついでに、自分で撮った写真1枚を見せてくれた。
新村(シンチョン)のある酒場前に掲げられた「日本人と犬、立入禁止」という警告板の写真だ。日本人の友だちと一緒に飲むため、適当な店を探す途中、警告板を見てしまったということだから、2人が同時に感じたはずの当惑さを分かるような気がする。
しかし、その酒場だけではないらしい。多くの日本人観光客が訪ねる弘益(ホンイック)大入り口のブティック街には、親切にも日本語で「日本人と犬、立入禁止」との案内文が貼ってある、というのが同氏の伝言だ。実は「立入禁止」の文法は、それほど新しいものではない。
上海租界外国公園の入口に掲げられた「中国人と犬、立入禁止」、1968年までロンドン大前のパブに堂々と掲げられていた「アイルランド人と犬、立入禁止」、米南部の商店前に掲げられていた「黒人とペット、立入禁止」などの警告板は、それが「帝国」の文法であることを示している。
商人が「立入禁止」との警告板を設ける際、それが帝国の文法だとの点に気付いていたかどうかは分からない。旧帝国を見つめる、それら旧植民地の人々の視線に、帝国への欲望が盛られていたのか、または、帝国への痛快な報復の心理が働いていたのかも、確認できる方法がない。
恐らく民族主義を売りものにし売上げを伸ばしたい、という商魂がさらに大きく働いたのではないか、と思われる。考えてみれば、韓国メディアの報じ方も似たようなものだ。
鬱陵島(ウルルンド)から独島へ向かって出発するハンギョレ号の乗船口に「日本人立入禁止」という大きな看板が設けてある写真を撮って電送した有力通信や、その写真を受け取って堂々と掲載した主要日刊紙の見方が、それら商人よりマシなものとも言えない。
非常に単純な質問一つだけでも、それらの商業的民族主義は、すぐにその薄っぺらな底をあらわしてしまう。日本の独島領有権主張に懐疑的な見方を示し、「新しい歴史教科書」の日本民族主義を批判し、日本の右傾化に反対する日本人も、立入禁止の対象だろうか?4年前に「新しい歴史教科書」の採択率を0.039%にすぎない、微々たるものにひきおろした日本の良心的な市民も、立入禁止の対象なのか?
私がこの警告板に戦りつする理由は、さらに根本的なところにある。単一の「日本国民」を作る、という「新しい歴史教科書」の目標から分かるように、日本の民族主義者は、すべての日本人を統一された意志を持った、一つの日本人にすることに全力をあげている。
ところが、この警告板は、日本と日本人の複数性を否定し、すべての日本人を一つにくくり、単一の日本国民を目指す日本右派の目標に、反射的に寄与しているのだ。韓国の反日民族主義が、右傾化を主導する日本の民族主義と敵対的な共犯関係になるのは、こうした脈絡からだ。
要するに、韓国の民族主義と日本の民族主義は、すべての韓国人と日本人を、単一の意志をもった集合体に想定するとの点から、民族を「単位」で私有するコードを共有しているのだ。それが危険なのは、誰かを評価する際、その人が行なった行為の意図や結果を問題視するのではなく、その人がどの民族に属しているのかを、評価の基準にするからだ。
単に日本人だとの理由だけで、特定の店で酒を飲めなかったり、服を買えなかったりする、といったレベルにとどまるならば、ささいなこと、と受けとめられるかもしれない。問題は、対立が激化するとき、そのささいさが、ジグムント・バウマンが「範ちゅう的殺害」と定義付けたジェノサイド(集団殺害、genocide)につながるとの点だ。
すべてのユダヤ人の胸にダヴィデの星をつけさせたとき、ホロコーストはすでに始まったのだ。被害者になんの過ちもないのに、単にある民族に属しているとの理由だけで殺され、また加害者は、そうした理由から、集団虐殺を正当化するならば、あまりにも恐ろしいことではないだろうか。