Takahiko Shirai Blog

記録「白井喬彦」

北朝鮮、短距離ミサイル発射

2005-05-01 23:40:32 | 国際
今回の北朝鮮のミサイル発射は訓練だったのか、テストだったのか。まあ、たいしたものではなかったのはよかったが、日本政府の対応にはどうも問題がありそうに感じられる。このぶんだと、本当にミサイル攻撃をされたとき、日本は十分な対応ができず、東京は火の海になるのではあるまいか。

今回の北朝鮮のミサイル発射が、もし彼らが日本政府がどのような対応できるかを調べようとする意図であったら、今頃、彼らは、「ははん、日本のミサイル防衛力はこの程度のものか...」と呟いているのではあるまいか。

テレビの天気予報のように画面に地図を表示して、発射地点とその時刻、着弾地点とその時刻などと、数分以内に国民に向けて手際よく説明することはできないのだろうか。地震発生の報道と同程度に重要だと思うのだが。


朝日新聞
2日前に実験失敗、北朝鮮ミサイル発射 韓国政府筋
2005年05月02日19時54分

 北朝鮮が1日、同国北東部から日本海に向け短距離ミサイルを発射した問題で韓国政府筋は2日、「北朝鮮は29日にも同地点からミサイル発射を試みたが、失敗したようだ」と述べた。1日の発射は29日の失敗を受けた再実験と見られるという。その上で同筋は「発射は定期的な訓練の一環」との見方を示した。

 一方、6者協議の韓国首席代表を務める宋旻淳(ソン・ミンスン)・外交通商次官補は2日、聯合ニュースに対し「発射されたのは射程100キロ前後の短距離ミサイルで、核を搭載できるものとは差がある」と述べた。次官補は北朝鮮の核実験について「実験が行われるであろうことを示すいかなる兆候もつかんでいない」と語った。


産経新聞(共同配信)
北朝鮮ミサイル発射情報 米軍連絡、日本海着水か
2005年5月1日 21:44

 北朝鮮が日本海に向けて短距離のミサイル1発を発射した、との情報が1日午前に米軍から防衛庁に入っていたことが分かった。複数の政府筋が明らかにした。情報は1日午前8時すぎに同国東部沿岸から発射し、日本海に落下したという内容。米軍早期警戒衛星などに基づく情報とみられ、同庁が首相官邸、外務省などに緊急連絡するなど一時、緊迫した。政府は事実関係の確認作業を進めているが、防衛庁幹部は1日夜、「これ以上の確認の手段はない」と語った。

 政府筋は「発射されたとしても極めて射程は短い」との見方を示している。射程が100-200キロの地対艦ミサイル「シルクワーム」改良型か短距離弾道ミサイル「スカッド」より小型の弾道ミサイルの可能性が高い。防衛庁が詳細を調べている。

 関係閣僚らには1日午前8時半ごろ内閣官房を通じ(1)午前8時10分にミサイル発射(2)同15分に日本海に着水(3)緊急の場合、閣僚の全員出動もあり得る-との内容が伝えられた。

 総務省などには「北朝鮮が弾道ミサイルを発射した」と伝えられ、一時、混乱した。北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議の早期再開を求める日米両国へのけん制か、ミサイル開発の一環との見方も出ている。

 昨年6月にも北朝鮮が短距離ミサイル1発を発射したとの情報が米軍から防衛庁に伝えられたが、政府は最終確認していない。(共同)

限定核戦争は現実化しつつある

2005-05-01 23:35:04 | 国際
共同通信の記者は、「多くの非核保有国は米国に核兵器の先制不使用を公約、条約化するよう求めているが、方針はこれを真っ向から拒否する内容だけに、2日からの核拡散防止条約(NPT)再検討会議にも暗い影を落としそうだ」と書いている。

だが、北朝鮮の核ミサイル攻撃に対抗するには、低威力小型核兵器を先制攻撃に使うしかないのではあるまいか。自衛隊は低威力小型核兵器など使うことはないかもしれないが、在日アメリカ軍が使わなければ、北朝鮮からの核ミサイル攻撃を防ぐことはできないであろう。

制御技術が急速に進歩していることを反映して、兵器のハイテク化・精密化も急速に進んできている。核兵器についても、1発の核爆弾で数十万人の殺戮をするという大量破壊、大量殺戮を目的としたものではなく、例えば、金正日と取り巻きの数人だけを狙うというような限定的核兵器が開発されつつある。そうした核兵器は、先制攻撃に使わなければおよそ意味がない。そもそも戦争の姿が劇的に変わりつつあるのだ。


産経新聞(共同配信)
米軍文書、先制核使用の選択肢明記 北朝鮮やテロ組織に対抗
2005年5月1日 20:07

 「ならず者国家」やテロ組織が大量破壊兵器を使い、米国や日本などの同盟国を攻撃する危険が迫った場合に、在日米軍を傘下に置く太平洋軍など各地域統合軍の司令官が、ブッシュ大統領に戦術核兵器の使用許可を要請できるとの方針を統合参謀本部が策定、先制核攻撃の選択肢を温存していることが1日、最新の米軍文書などから明らかになった。

 北朝鮮やイランなどによる生物・化学兵器攻撃の脅威への対抗策。実際の核使用には大統領の承認が必要だが、米軍が朝鮮半島など東アジアや中東での有事を念頭に「限定核戦争」のシナリオを堅持している実態をあらためて示した。

 多くの非核保有国は米国に核兵器の先制不使用を公約、条約化するよう求めているが、方針はこれを真っ向から拒否する内容だけに、2日からの核拡散防止条約(NPT)再検討会議にも暗い影を落としそうだ。

 文書は、米軍制服組の最高機関である統合参謀本部の命令に基づき、3月15日付で作成された「統合核作戦のためのドクトリン」(草案)。2002年に一部が公表された米核戦略「核体制の見直し」を下敷きに、地域統合軍などの司令官向けにまとめた「運用指針」となっている。

 米軍は冷戦後の1991年、アジア、欧州配備の地上戦術核や空母、潜水艦搭載の戦術核を撤去したが、文書は既に米本土に戻した海上型戦術核について「有事に備え、配備可能な状態にしてある」と明記。現在も横須賀や佐世保、沖縄に寄港している攻撃型原潜に核弾頭「W80」を再搭載できる状態になっていることも判明した。

 また地域統合軍司令官が核使用許可を要請できる事例として;

(1)敵が米国や同盟国に大量破壊兵器を使用したり、使用を企てている
(2)敵の生物兵器攻撃が迫り、核兵器だけが安全に生物兵器を破壊できる
(3)大量破壊兵器を貯蔵した地下拠点を攻撃する

-などを挙げた。

 統合参謀本部当局者は「文書は草案段階」としながらも「陸海空軍が横断的に作戦を遂行するために用意された」と言明した。(共同)


朝日新聞
被爆者らニューヨークを行進 反核デモに4万人
2005年05月02日11時09分

 5年に1度開かれる核不拡散条約(NPT)再検討会議が2日から始まるのを前に、大規模な反核デモが1日、米ニューヨークで行われ、約4万人(主催者発表)が参加した。参加者は「ただちに核廃絶を!」「ノーモア ヒロシマ・ナガサキ」と気勢を上げた。

 世界の平和NGOの連合体「アボリション(核廃絶)2000」が主催した。秋葉忠利・広島市長が会長を、伊藤一長・長崎市長が副会長を務める「平和市長会議」の加盟市長らを先頭に、被爆者や多くの日本人を含むNGOメンバーが国連本部からセントラルパークまで約3キロの道のりを横断幕やプラカードを手に練り歩いた。

 秋葉市長は「核兵器は地球上のガン」。伊藤市長は「みんなの声をNPT会議に集めよう」と呼びかけ、大きな拍手を浴びた。

gooブログのエントリー・エディタ

2005-05-01 20:57:10 | プログラミング
私がブログを始めてから、今日(5月1日)でようやく2ヶ月目に入った。日数ではまだ25日にしかならないが、さまざまな経験を積むことができたと思っている。これまでにブログにエントリーする上で気付いたことが幾つかある。

この経験に基づき、gooブログのエントリー・エディタに絞って気付いたことを述べることにしたい。

まず、この gooブログのエントリー・エディタは、HTMLを十分使いこなせないと、その機能を100パーセント活かすことができないという代物である。つまり、gooブログのエントリー・エディタは、従来のテキスト・エディタと機能上あまり大きな違いがない。そのため、ユーザーはテキスト・エディタにHTMLを書いていく要領でエントリーを書き上げなければならない。

HTMLを知らない人が果たしてうまく使いこなせているのかどうか、これは大いに疑問であろう。おそらく、フォントの種類、サイズ、形状(太字、イタリックなど)、あるいは文字色などを変えるなどという文字装飾はほとんどやれないだろう。また、行の左寄せ、右寄せ、中央配置、両端合わせなど、あるいは行間空け、段落ごとのインデントなどという文字列装飾についてもまったくやれないのではないか。もちろん、箇条書、表枠などの操作ともまったく無縁だ。HTMLを知らない人の場合、ただひたすら標準テキストを入力するだけということになってしまうのではあるまいか。

フォントについては[FONT]ボタンが用意されている。だが、このような貧弱な機能では、HTMLを知らなければ活用することはできない。一方、HTMLを知っていれば、HTML文を書いていけばよいのだから、こんなボタンはもともと必要がないのだ。

画像貼付用の[IMG]ボタン、リンク作成用の[URL]ボタンも用意されている。しかし、これらも[FONT]ボタンと同様に、HTMLを知らなければ活用できない。その一方で、HTMLを知っていれば、HTML文を書いていけばよいのだから、こんなボタンは必要がない。

せめて、"Microsoft Outlook Express"に付属しているメール・エディタ程度まで、HTMLの各種機能をビジュアル化させるよう、機能拡充を図る必要があるだろうと思う。参考のためにいうと、"Microsoft Outlook Express"付属のメール・エディタには、フォントの種類、サイズ、形(太字、イタリック、下線付)、文字色、段落書式、番号付箇条書、番号なし箇条書、段落下げ、段落上げ、左寄せ、右寄せ、中央配置、両端揃え、水平線挿入、リンク挿入、画像挿入などが用意されている。"Microsoft Outlook Express"付属のメール・エディタにはこのように数多くのビジュアル機能が用意されている。それでもまだ表枠機能がないなどといった問題点が指摘されているのである。

このように、gooブログのエントリー・エディタはHTMLを使えないユーザーにとってはまことに不便極まるエディタである。だが、それならば、HTMLが使えるユーザーには満足できるかといえば、これがまたそうではない。

gooブログのエントリー・エディタは、ユーザーが入力したHTML文をそのままアップロードするわけではない。ある種のHTMLタグは削除すつ一方、別のある種のHTMLタグを新規に付加したりする。

つまり、 goo側ではユーザーから受け取ったHTML文を改めて独自処理する。だから、ユーザーの意図通りにエントリーが表示されない現象がしばしば見受けられるのである。このような欠陥が生じた理由は、gooブログのエントリー・エディタがHTMLに手馴れたユーザーとHTMLに不馴れなユーザーの双方に対応しようとした結果、虻蜂取らずになったからだろうと推測される。

これはプログラム開発ではしばしば遭遇するケースだ。gooブログを運営しているNTTには早急に改善に向けて取り組まれることが望まれる。

私のブログも2ヶ月目に入った

2005-05-01 14:58:48 | Weblog
私がブログを始めてから、今日(5月1日)でようやく2ヶ月目に入った。日数ではまだ25日にしかならないが、さまざまな経験を積むことができたと思っている。これまでにブログにエントリーする上で気付いたことが幾つかある。それらを思い出すまま、前後脈絡なくここに書き留めておくことにしよう。

まず、私自身にとっては、何のためにブログをやるのかということがもっとも重要であるように思える。けれども、ブログを初めて25日経っても、このことはまだはっきりとは掴めないでいる。

ブログは確かに極めて便利な仕組みではある。自分の頭脳の中もすっきりとしてくる。未知の人々との有益なコミュニケーションも増えてきたように思われる。けれども、まだブログ本来の機能を使いこなしていないと自分自身感じられ、何のためにブログをやるのか、ということについてすっきりと表現できる心境にはなれないでいる。

ブログを始めた当日(2005年4月6日)、私は「ブログを始めた」というエントリーを書いた。その中にも書いた通り、私はブログを「自分のペースメーカーとして役立てることにしたい」と考えていた。決してコミュニケーションを活性化するためだけにブログを始めたわけではなかった。

その後、私は4月15日に「ブログを始めて10日経った」というエントリーを書いた。そこに「日記」というものがIT技術によってどのように進化してきたかについて私なりの考え方を書いた。その箇所をここに再び掲載しておこう。

ブログを始めて10日経った からの抜粋
パソコンの出現以降、日記はワープロソフトで書くものと考えられていた時期が長かった。その頃の日記は、一ヵ月分を一つの文書ファイルに纏めて保存していたものだった。その頃はまだハイパーリンク機能などなかったし、たとえあったとしても、自分のパソコンの中のディレクトリー構造が整備されていなかったから、ハイパーリンク機能などを使いこなせるものではなかった。だから、文書ファイル形態のその頃の日記は、機能的に見て「紙の日記帳」とほとんど変わりなかったといえよう。

その後、電子メールが普及してくると、日記は電子メールの形態にしておくのがもっとも便利だということがわかってきた。その日の日記を一つのメールに書き上げ、自分自身に宛てて送信しておく。受信した自分自身のメール(日記)は、一つのフォルダに集めて保存しておくのだ。日付は本文の中に書き込むが、それとは別に送受信時刻を表わすタイムスタンプが自動的に打たれる。

日記をHTMLメール形式で書くと、写真やイラストを入れることも自由自在だ。写真やイラストばかりか、音声ファイルなどのさまざまな種類のファイルをメールに添付させることもできる。しかも、HTML形式のメールではこれらのデジタルデータはメール本体の中に取り込まれ、これらさまざまな種類のデジタルデータの保存庫の代用にもなる。また、検索についても、多様な検索項目についてきめ細かく検索することができ、しかも至って容易なのである。

しかしながら、メールの形態にした日記にも弱点がないわけではない。電子メールにはメールから他のメールへというメール相互間ハイパーリンクがやれないという大きな欠陥がある。昨日の日記の記述のリンクを今日の日記中に貼っておきたいと思っても、そういうことはできない。個々のメールを指定する位置情報が存在しない。これがメール形態の日記の最大の欠点ということになるだろう。

ブログの機能はウェブの機能そのものである。だから、あるエントリーから別のエントリーへという相互間ハイパーリンクが自由自在にやれる。従って、昨日のエントリーの記載のリンクを今日のエントリー中に貼っておくことができる。その反対に、今日のエントリーの記載のリンクを、遡及して過去のエントリーの中に貼り込むことさえできる。こうして、人間の思考経路に従い時間軸上を自由自在に行き来して、思考や行動におけるフィードバックやフィードフォワードが自在にできるわけである。

つまり、ブログという形態の日記に到達して初めて、これを「ハイパーダイアリー」と呼ぶことができるようになったのではあるまいか。ブログには確かに他者とのコミュニケーションを惹起してくれる機能も備わっている。けれども、自分自身の思考と行動を時間軸上で動的に結びつけてくれる「ハイパーダイアリー」の機能のほうに私はより大きな魅力を感じる。だから、コミュニケーションを活発化させるためだけに自分のブログスタイルを変えるわけにはいかないと思っているわけである。

ここでは、紙に書かれた日記 → ワープロ(ワープロソフト)で書かれた日記 → 電子メールに書かれた日記 → ブログ(ハイパーダイアリー) という私自身の日記における歴史的変遷遷があることを紹介している。これはIT技術の進歩により、古来からの日記というものの上に突然もたらされた変化であった。

私はハイパーリンク(Hyper Link)という機能を、これまでの日記に新たにもたらされた諸技術の中でもっとも重要なものと位置付けている。将来ハイパーリンクを超えるもっと重要な技術が生まれてこないとは限らない。けれども、いまのところはハイパーリンクがブログにおけるもっとも重要な技術であろう。ブログではすべてのエントリーに自動的にトラックバックURLが付けられるので、相互関係を縦横に組み立てていくことが可能となる。

トラックバックという仕組みは他者のブログとの関連を付けるためのものらしいが、私は自分自身の過去のエントリーとの関連を付ける上で役立てている。そもそも日記とは過去の自分と現在の自分との間のコミュニケーションなのだから、トラックバックという機能についてもそういう役立て方が自然なのだろうと思う。他人とのトラックバック・コミュニケーションは過去の自分を超えたところにあるのだ。

しかしながら、今回改めて「ブログの歴史」を読んでみると、ブログは電子掲示板(BBS)から発展してきたものらしい。ブログが日記から発展してきたものではないことは、私も当然そうだろうなと思っていた。だが、電子掲示板(BBS)からどうして個人が運営するブログに向うことになったのか。ブログを個人の日記とする考え方にはどこか無理があるのか、そのあたりのことについては私もこれからもっと深く究明していきたい。

それにしても、人はなぜ日記など書くようになったのだろう。そして、せっかく書くのに、その日記を他人に読ませたがらないのはなぜだろう。書いているときは他人には読ませたがらないが、いずれは他人にも読ませたいから書いているのではないか。

そこでブログのことになるが、ブログだとなぜ他人に読ませたがるのだろうか? ブログ発祥の経緯が電子掲示板(BBS)に由来しているからだろうか?

メーデーに思う

2005-05-01 13:20:02 | 国内
2005年5月1日になった。今日はメーデーであるが、日曜日でもある。若い人々は、今日一日、どのような過し方をするのだろうか。

私たちが若かった頃は労働組合の力が強く、組合員にはメーデー参加が義務付けられていたものだ。メーデーには春闘が絡むことが多かった。メーデーがどんな盛り上りになるかはベースアップの金額と結びついていた。組合員たちは一斉休暇を取ってメーデーに参加し、職場には管理職だけが残っていた。

更に遡れば、1952年には皇居前広場で「血のメーデー事件」があった。初めのメーデー会場であった神宮外苑から繰り出したデモ隊が皇居前広場を目指し、これを阻止しようとした警官隊が拳銃や催涙弾などを使ったので、デモ側に2人の死者と大勢の負傷者が出た大事件となった。確か、警官がデモ隊に拳銃を向けて狙撃している報道写真が残されていたと記憶している。

そのとき、デモ隊が掲げていたプラカードには「講和条約反対」というのが多かったという。その頃のメーデーは政治集会の色彩が濃厚だった。デモはいつも革命気分だったのだ。例えば、その後の「日米安全保障条約破棄」を目指した安保闘争(1960)などは、例年のメーデーの拡大版だったといえるだろう。1965年以降の「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)などの活動となると、例年のメーデーの形とは少々違ってきていたかもしれない。

私には1955年のメーデーのデモ行進に初めて加わった経験があり、そのときのことが忘れられない。私は大学に入学したばかりだったが、その3年前の「血のメーデー」はこんな雰囲気だったのかと思いながら、横の人と手を繋いで横列を作って歩いた。「ジクザク行進は違法だ」と大声で注意する者がいてコントロールも効いていたためか、整然とした行進だったと記憶している。大勢の私服警官が私たちを取り巻き、写真を撮り続けていたのが印象的だった。

今回、上海などの反日デモに参加した若者たちはどんな気持だったのだろう? テレビ映像で見る限り、みな一様に屈託ない平和そうな表情だった。ペットボトルを領事館に投げ込む姿も、まるでスポーツでもやっているような感じだった。現在の中国の若者たちには、反日デモもスポーツイベントなどとそう違わないのではないか。反日活動に身を張っているような突き詰めたところは微塵も感じられない。

改めて史料を当ってみると、「対日平和条約("Treaty of Peace with Japan")」は、1951年9月8日、サンフランシスコ市内のオペラハウスで調印され、翌年の1952年4月28日に発効したと記されている。つまり、「血のメーデー」とは、講和条約(対日平和条約)が発効して我国がようやく被占領状態から脱した直後(条約発効4日目)、初めておこなわれたメーデーであり、最初の騒擾事件だったわけだ。警官隊にしても、占領軍の指示を受けずに独自行動をとった最初のケースだったのである。

当時のデモ側と警察側の双方には、戦後日本を律していくべき原点を我々がここに規すのだといった、張り詰めた思いがあったのではなかろうか。どちらにも、それぞれに身を張っているようなところが感じられるのである。