Takahiko Shirai Blog

記録「白井喬彦」

訳詩者「矢野峰人」について

2005-05-16 09:55:08 | 文学
私が愛してやまないペルシャ詩人オマル・カイヤームの『ルバイヤート』。その珠玉ともいえる自由奔放な英訳 Edward Fitzgerald "Rubáiyát of Omar Khayyám, The First Edition(1859)" を、矢野峰人が香高く和訳した『四行詩集』(1935)。一昨日から、この和訳詩を毎日二歌ずつ鑑賞していくこととした。

以下は、詩人にして英文学者、峰人 矢野禾積博士の略歴と、矢野峰人若き日の作詞として知られる三高行春哀歌「静かに来たれ懐かしき」である。まずは「行春哀歌」から...


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静かに来たれ懐かしき
(三高 行春哀歌)

矢野峰人作詞


序詞
われらがはなやかに美わしかりし青春の響宴は、かくもしずかに、またかくもあわただしげに尽きなんとす。
友よ、さらに新しき盃をもとめながら、われらとともにうすれゆく日のかげにこの哀歌を声ひくく誦せん。
静かに来たれ懐かしき
友よ憂いの手を取らん
曇りて光る汝が瞳まみ
消えゆく若き日は嘆く

われらが影をうかべたる
黄金こがねの盃つきの美酒うまざけ
見よ音もなくしたたりて
におえるしずくつきんとす

げにもえ分かぬ春愁の
もつれてとけぬなやみかな
君が無言のほほえみも
見はてぬ夢のなごりなれ

かくも静かに去りゆくか
ふたつなき日のこのいのち
うえたる暇もひそびそと
薄るるかげのさみしさや

ああ青春は今かゆく
暮るるにはやき若き日の
うたげの庭の花むしろ
足音もなき「時」の舞

友よわれらが美き夢の
去りゆく影を見やりつつ
離別わかれの酒を酌みかわし
わかれのうたにほほえまん


文献所在先
矢野峰人(やのほうじん、明治26年(1893)~昭和63年(1988)

 詩人、英文学者。岡山県久米郡大倭村(現・久米町)の生まれ。本名禾積(かづみ)。

 幼くして父母に死別、母方の祖母と祖父の手によって育てられた。小学校時代より、「翠峰」と号して投書。岡山県立津山中学に入学、国語教師松山白洋の影響を受け、『文章世界』に投書し、蒲原有明の選に入ったのをはじめ、『中学世界』『秀才文壇』『ハガキ文学』などに投書、児玉花外、人見東明、河井酔茗、三木露風らの選を受けた。一時、『スバル』の社友となり、また北原白秋の『邪宗門』、三木露風の『廃園』を愛読して、深い影響を受けた。

 津山中学校卒業後、上京、正則英語学校に入学。大正元年(1912)9月三高一部乙類(英文)に無試験入学。厨川白村、島文次郎、エドワード・クラークらから英語を、成瀬無極、茅野蕭々、片山孤村から独語を学んだ。回覧雑誌『楯』の同人となって詩を寄せ、鯖瀬(岡本)春彦と親交を結んだ。とくに2年生の時に作詞した『行春哀歌』は広く愛唱されて、今日に及んでいる。

 大正4年(1915)9月、京都帝大英文科に入学、上田敏の指導を受け、その没後はクラークの指導を受けて卒業。卒論は『人間および詩人としてのシェリイ』。

 詩集『黙祷』(大正8年(1919)4月)を刊行し、学匠詩人としての第一歩を記し、京大大学院に入学。特選給費生となり、新たに厨川白村の指導を受けた。研究題目は「十八世紀以後の英詩」。

 大正10年(1921)結婚、妻安子は哲学者大西祝の次女。同年4月大谷大学教授となり、12月アルス泰西名詩選の一冊として『シモンズ選集』を刊行。大正11年(1922)4月三高講師となり、大正12年(11923)9月関東大震災のため鎌倉で不慮の死をとげた厨川白村の遺骨を迎えて京都に帰り、三高教授となる。

 大正15年(1926)台湾総督府より英国に留学を命じられ、同年9月オックスフォード大学に学び、ロンドンの宿にイェイツを訪問。フランス、イタリアを旅して、翌年アイルランドに渡り、イェイツの「塔」の家に客となり、グレゴリー夫人らに会い、更にケンブリッジ大学に学んで、昭和3年(1928)帰朝。その間、大正15年(1926)『近代英文学史』を第一書房より刊行、とかく無味乾燥に陥りがちな文学史研究に新生面を開き、青年読者に大きな影響を与えた。

 帰朝後直ちに台北帝大教授となり、昭和10年(1935)7月『アーノルドの文学論』により京都帝大より文学博士の学位を授けられた。文政学部長となり、その間、訳詩集『しるえっと』(昭和8年)、詩集『幻塵集』(昭和15年)、『影』(昭和18年)を台湾の日孝山房より、『近英文芸批評史』(昭和18年)を全国書房より刊行した。

 昭和22年(1947)5月帰国、同志社大学教授となり、台湾時代からの研究を一本にまとめた『蒲原有明研究』(昭和23年)刊行。また、『人文学』第3集(昭和25年9月)に『「文学界」と西洋文学』を発表、後にこれを単行本として刊行し、『文学界』の研究に画期的な業績を挙げ、更に『日本現代詩大系』の編集にたずさわる。

 昭和26年(1951)4月、東京都立大学教授となって東京に移住、続いて同大学総長に選ばれる。文学的自叙伝『去年の雪』(昭和30年)を刊行、とくに昭和34年(1959)12月に刊行した『波斯古詩 現世経』2巻は多年てがけてきたオマー・カイヤムの『ルバイヤット』の翻訳で、その決定版ともいうべき名訳である。

 昭和36年(1961)4月、東洋大学教授となり、続いて同学長となった。

 その学風は、先師上田敏の流れを汲み、詩人としての鋭い直感と綿密な実証との見事な結合よりなり、多くの英文学関係の著書の他、『新・文学概論』(昭和36年)、『鉄幹・晶子とその時代』(昭和48年)などがある。

参考文献 

『矢野禾積博士還暦記念論文集 近代文芸の研究』(昭和31年、北星堂書店)
『英語青年』(1988年10月号、矢野禾積(峰人)氏追悼)
父と共に(矢野玲子)/弔詞(島田謹二)/矢野峰人先生と世紀末文学(工藤好美)/詩人としての矢野先生(森亮)/矢野さんのポエジー(篠田一士)/魅力的なご老人(佐伯彰一)/矢野峰人先生のこと(奥井潔)/飛紅萬點愁い海の如し(井田好治)/矢野峰人先生(富士川英郎)/矢野禾積先生のこと(早乙女忠)

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