Takahiko Shirai Blog

記録「白井喬彦」

ブログを始めて30日経った

2005-05-06 15:53:03 | Weblog
ブログを始めてちょうど30日経った。始めたのは4月6日だったから、今日は31日目ということになる。

これまでに、「ブログを始めた」、「ブログを始めて10日経った」、「私のブログも2ヶ月目に入った」と書き綴ってきたので、これらに続くシリーズとして「ブログを始めて30日経った」を書くことにする。


日本のウェブログの歴史

宋楚瑜の訪中

2005-05-06 14:00:20 | 国際
陳水扁総統にとっては、連戦の訪中より宋楚瑜の訪中のほうが不気味かもしれない。「搭橋之旅」と称する旅程を西安にある黄帝稜から始めるというのも、日本人には殊更興味深いことではある。西安といえば、連戦の故郷ではなかったか。確か連戦の祖母は西安の生まれで、台湾生まれの祖父が西安を訪れて結ばれたのではなかったか? 連戦自身も幼いとき西安で暮したことがあったのではないか。

宋楚瑜は連戦への対抗策として旅程に西安訪問を組み入れたのか。連戦が始皇帝陵なら、自分は黄帝陵というわけか。一方、宋楚瑜の故郷は湖南省湘潭市だが、湘潭市の郊外である韶山区韶山衝は毛沢東の故郷である。毛沢東の故地を訪ねることは話題にはならないのだろうか。

宋楚瑜に同行している側近の鐘栄吉氏が、「やや実務的な内容を話し合うことになるだろう」と述べたのは、お土産のことかもしれない。連戦のお土産はパンダと台湾産果物を大陸に無税で輸出できるようにしたことであった。台湾産果物の無税輸出は国民党の得票に繋がるのだろう。親民党も似たようなことを考えているのか。


中国情報局
親民党主席の大陸訪問「陳・総統の特使ではない」
2005年5月6日 12:43:14

 台湾の第2野党、親民党の宋楚瑜・主席は5日午後、陜西省・西安市に到着し、「搭橋之旅(橋を架ける旅)」を開始。6日午前には黄帝稜(漢族の始祖とされる伝説上の皇帝「黄帝」を祀る墓)などを訪れた。宋・主席に同行している鐘栄吉氏は「大陸訪問を西安から始めたのは、黄帝稜を参拝することで、我々もその子孫であり、同じ中国人だということを強調したい考えに基づくものだ」と説明している。新京報が伝えた。

 鐘氏はまた、北京で予定されている宋・主席と胡錦涛・中国共産党総書記(国家主席)との会談について、「やや実務的な内容を話し合うことになるだろう」と述べた。さらに「我々は陳水扁・総統の特使ではない」と強調した上で、「大陸側との協議で決定した重要事項は、将来的に実現させる」とした。

 宋・主席と胡・総書記との会談は11日または12日のいずれかに行われるものとみられているが、具体的なスケジュールは発表されていないもようだ。

 一方、陳・総統の政治母体である民進党は、宋・主席の大陸訪問について「言論の範囲は、先の連戦・国民党主席の訪問時のものを超えるべきではない」と強い調子で警告。「宋・主席の両岸関係に関する見解は、陳・総統との合意とはかけ離れたもので、宋・主席の一方的な意見にすぎない」としている。

 陳・総統と宋・主席は今年2月、両岸関係改善などに関する10項目で合意。4月30日には電話会談を行い、陳・総統は、胡錦涛・総書記に宛てたメッセージの伝達を依頼したとされているが、具体的な内容は明らかにされていない。(編集担当:恩田有紀)


共同通信
台湾第2野党主席が訪中 陳総統「仲介」に期待
2005年5月5日18時48分

 【北京5日共同】 台湾の第2野党、親民党の宋楚瑜主席は5日、中国の胡錦濤・共産党総書記(国家主席)の招きを受けて陝西省の西安入りし、9日間の訪中を開始した。13日まで南京、上海、北京を訪問、12日には胡主席と会談する可能性も指摘されている。

 先に台湾の第1野党、国民党の連戦主席が訪中したばかりで、中国は相次ぐ野党トップの受け入れで独立志向の強い民主進歩党・陳水扁政権に揺さぶりをかける狙いだ。親民党は2月、中台関係改善について民進党と合意しており、宋氏には、陳総統と中国指導部の「仲介役」も期待されている。

 宋氏は西安の空港で「台湾独立に反対する。われわれ(中台)は一つの家族と同じであり共存共栄を目指すべきだ」と訴えた。


中国情報局
宋・主席:「橋を架ける旅」に出発、胡宋会談も
2005年5月5日 10:41:42

 台湾の第2野党である親民党の宋楚瑜・主席一行が5日午前、中国共産党の胡錦涛・総書記(国家主席)の招きに応じ、「搭橋之旅(橋を架ける旅)」と題する大陸訪問へ出発した。13日に台湾へ戻る予定。新快報が伝えた。

 宋・主席一行は、5日9時過ぎに台北市に近い中正国際空港を出発した。また、国民党の馬英九・台北市長なども見送った。香港経由で現地時間15時に陝西省・西安市入りし、陝西省共産党委員会との晩餐会に出席する。6日は中華民族の始祖とされる伝説上の帝王・黄帝を祭る黄帝稜を視察、夕方に江蘇省・南京市に到着する予定。

 7日は午前中、中山陵(国民党創設者である孫文の霊廟)を参拝し、江蘇省中国共産党委員会の歓迎会に出席。夕方、上海市入りし、上海市中国共産党委員会の晩餐会に出席、黄浦江などの観光スポットを巡る。

 8日は海峡両岸関係協会(海協会)の汪道涵・会長を訪問し、午後、湖南省・長沙市入り。湖南省中国共産党委員会の歓迎会に出席する。

 9日は湘潭市で知人との面会などをし、10日午後、北京入りする。北京滞在中は、胡・総書記との会談や、清華大学での講演が予定されているが、正式な日程は明らかになっていない。

 また、中国国民党主席と親民党主席が相次いで大陸を訪問したことを受け、外省人を支持基盤とする新党も訪問を計画しており、早ければ6-7月にも実現する見通し。新党は、中国との統一を基本理念とし、「一つの中国」という理念の下、「平和的統一こそが台湾海峡に安定と平和をもたらす唯一の道である」と主張している。

 なお、外省人とは、1949年以降、国民党とともに中国全土からやってきた人々を指す。(編集担当:齋藤浩一)


中国情報局
宋楚瑜(Song Chuyu)
2005年5月5日 10:50:17

 台湾の政党である親民党の主席。1942年6月、湖南省の生まれ。1949年、軍人であった父親とともに台湾に移る。

 1970年代から、総統府秘書、代理新聞局長(広報部長)などを歴任。1988年に国民党総統の蒋経国氏が死去した後は、宋美齢氏などと中心とする元老派(保守派)と対抗して、李登輝・国民党主席の誕生に尽力した。

 国民党にあっては、李・主席の次の世代の指導者として実力を増し、普通選挙の結果、台湾省長に就任。支持率は60%と圧倒的だった。

 しかし、李・主席は1996年に国民党副主席として連戦氏を選び、みずからの後継者とする意思を明確にした。自己主張がそれほどない連戦氏に対して、宋楚瑜氏は強い個性の持ち主であるため、「宋楚瑜氏が後継者になったのでは、自分の影響力が薄れる」という李登輝・主席の政治的判断があったなどとされている。

 さらに李登輝氏は96年12月、省長及び省議員の制度を「凍結」した。これにより、それまで中国の正統政府であることのシンボルとして、台湾に存在した全国の「省長」「省議員」が姿を消した。李登輝氏は「仕事の効率化のため」としたが、一般的には「大陸離れ」の推進だと解釈され、さらに台湾省長を務めていた「宋楚瑜おろし」の狙いがあるともされた。

 この省長制度の実質的撤廃により、宋楚瑜氏の「李登輝離れ」、ひいては「国民党離れ」が決定的になった。宋氏は2000年3月18日の総統選挙に個人の名義で出馬。落選はしたが、当選した陳水扁氏の得票率39.3%に対して、宋楚瑜氏の得票率は36.8%と善戦。また、国民党候補の連戦氏は得票率が23.1%と低迷し、宋楚瑜氏は古巣の国民党候補に大きく水をあけた。

 総選挙直後の3月31日、宋楚瑜氏は台湾第二の野党となる親民党を結成した。親民党の政治的立場のバックボーンとなっているのは、宋氏の掲げる新台湾人主義だ。党是としても「中華民国・台湾」を維持、発展させることを謳っており、中国共産党及び中華人民共和国政府が唱える一国二制度とは一線を画しているが、独立には反対する立場を貫いている。(編集担当:如月隼人)

【参考】
朝日新聞(人民日報)
中国国民党の連戦主席、西安訪問
2005年05月01日

 中国国民党の連戦主席は4月30日、北京を離れ、大陸訪問第3の目的地である西安へ向かった。西安訪問は南京や北京とやや異なり、「思い出の旅」としての色がより濃い。

 連主席は昼食後、母校である後宰門小学校を訪問。歓迎式典では、民族衣装に身を包んだ小学生20人が賀知章の詩「回郷偶書」を読み上げ、60年前の学友を歓迎した。

 45分ほど滞在した後、連主席は秦始皇帝兵馬俑博物館を訪問。呉永館長の案内で、6千余りの兵馬俑を直に参観し、大いに見聞を広めた。さらに博物館側の最高の厚遇により、修復区で兵馬俑に直接触れ、輝ける中国の歴史に感じ入った。修復区は少数の専門家にしか開放されておらず、これは極めて尊い厚遇だという。

 5月1日には、市内にある祖母の墓を参拝する。

子供の世界のインターネット

2005-05-06 12:31:44 | Weblog
次に掲げる2枚の写真は、いずれも私の孫たちのゴールデンウィーク中の情景だ。

上下の写真は、撮影場所は地球半周ほども離れているけれども、フランスにいるほうの孫が見てるのは、もう一方の孫が淡路島を訪れた翌日のことだ。まあ、即日の情報交換といてもよいであろう。

デジタルカメラで撮った写真をフランスまでインターネットで送信している。だから費用はまったく掛っていない。フランスにいる孫が見ているプリントアウトの左上に、淡路島の滑り台上のもうひとりの孫の写真が見えている。

私の子供の頃は、遠方に住む従兄弟たちとはついつい縁遠くなってしまったものだったが、現在の従兄弟同士は遠く離れていても濃密な付き合い方ができている。

子供たちの世界には、こうしてインターネットがどんどん入っていく。本人たち自身がインターネットをやっているわけではない。けれども、時空を超えて情報が入ってきていることに戸惑いはまったくない。彼らは当り前のこととして知らず知らず受け入れている。

翻ってジャーナリズムの世界に思いを馳せると、この子らが大人になったとき、果たしてどうなっているだろうか。新聞も、テレビも、はたまたインターネットそのものも、現在とは大きく異なった機能が求められているのではないだろうか。これらメディアの各々の姿もまた、大きく変ってしまうのではなかろうか。


サイエンス「三題噺」

2005-05-06 09:43:53 | 科学・技術
中国でも韓国でも反日運動は収まってきたようだ。やはり両国とも反日運動の背景には官主導の要素が濃いのだろう。官といっても外務部とか外務省などというわけではなく、国内政治のことばかり考えていればよい政府機関が、反日、仇日、侮日、蔑日を煽っているのだろう。それは日本側の状況を見ればよくわかることだ。

話題ががらりと変わるが、サイエンスの世界でも心躍るようなニュースが飛び込んできている。

その第一のものは太陽系外の惑星の映像が初めて得られたというニュースだ。惑星系の中心となる恒星が太陽と比べて大きく違っているなら、その惑星の表面の状態も太陽系の諸惑星とはずいぶん違ったものとなるのではないか。

「写真撮影に成功した」というのではなく、「画像を捉えることに成功した」というのはどういうことか、私にはよくわからない。いずれサイエンス雑誌などで詳しいことがわかるだろう。

第二は、肉食から草食へ進化途中の新種が発見されたというニュース。私には「えっ! 肉食恐竜のほうが早かったの?」と思った。何となく肉食動物より草食動物のほうが先にいたような先入観を持っていたが、そういえば哺乳類だって「夜行性食虫性原始哺乳類」というくらいだから、肉食哺乳類のほうが先だったのだ。

最後はサイエンスといっても考古学のニュースだ。APの写真を見てびっくりしたのは、ミイラを入れた棺の小さいこと。こんな小さなサイズで大丈夫だったのだろうか。

それにしても、装飾が見事だ。


朝日新聞
太陽系外惑星、初の画像確認 欧米の共同観測チーム
2005年05月06日


撮影された太陽系外惑星(左下)
=欧州南天天文台提供、AP

 欧州南天天文台(ESO)は、太陽系外惑星の画像を捕らえることに成功したと発表した。木星よりも大きな惑星で、ESOは「太陽系外惑星の画像だと確認された初めての例だ」と説明している。

 欧州と米国の共同観測チームは昨年4月、南米チリにあるESOの大型望遠鏡VLTで、うみへび座の方向にあり、地球から約200光年の褐色矮星を観測。この褐色矮星の100分の1以下の明るさしかない「赤い物体」を発見した。

 「赤い物体」が水の分子が存在する冷たい星であることや、質量が木星の5倍ほどだということが分かり、惑星であるとの見方が強まった。

 観測チームはハッブル宇宙望遠鏡の画像も分析。「褐色矮星と赤い物体は連動して動いており、互いに重力の関係があるのは明らかだ。惑星に間違いない」と結論づけた。褐色矮星との距離は55天文単位(1天文単位は太陽と地球の距離)ほどだという。

 太陽系外惑星と見られる画像は過去にも撮影された例があるが、惑星なのかどうか議論が分かれている。今年4月にも、米国の天文・宇宙ニュースサイト「スペース・コム」が「欧州の観測チームが太陽系外惑星の画像を捕らえた」と報じて話題になったばかりだ。


毎日新聞
恐竜化石: 肉食から草食へ進化途中の新種 米ユタで発見
2005年5月5日 2時15分

米ユタ大などの研究チームが発掘した新種恐竜の復元模型=ネイチャー提供
新種恐竜の上下の歯の化石(コインは米1セント硬貨)。歯の形状が葉のようで、植物を食べるのに適していたとみられる=ジェームズ・カークランド博士提供

 米ユタ州の白亜紀前期(約1億2500万年前)の地層から、新種の恐竜化石が見つかり、米ユタ地質学調査所などの研究チームが5日付の英科学誌「ネイチャー」に発表した。テリジノサウルス類の仲間で、歯や骨盤の特徴から草食性だった可能性が高く、研究チームは「テリジノサウルス類は肉食恐竜とされてきたが、この新種恐竜は肉食から草食へ進化する途中の存在だったようだ」と分析している。

 研究チームは、頭骨、骨盤、大たい骨など全身の9割の化石を発掘した。全長は約4メートル、体高は約1.4メートルあり、比較的大型だった。上下の歯は木の葉のような形をしており、植物をすりつぶすのに適した形だった。骨盤が幅広く、植物の消化を促進する長い腸を持っていた可能性が高いという。また、2足歩行で、足にはテリジノサウルスの特徴である鋭く長いカギづめがあったが、足自体は太くて短く、餌を捕らえるため機敏な動きをしていたとみられる肉食恐竜とは異なっていた。

 テリジノサウルス類は中国、日本などアジアで白亜紀後期(約9500万~6500万年前)に繁栄した。大きな体とたくましい手足を持つため、鳥類に近い羽毛を持つ肉食恐竜から枝分かれし、別の進化をたどった恐竜と考えられてきた。だが、何を食べているかなどの生態は謎だった。

 真鍋真・国立科学博物館主任研究官は「今回の化石は、テリジノサウルス類の最も原始的な種とされてきた中国の恐竜と同時代の地層から見つかっており、テリジノサウルス類の起源や進化について見直す必要が出てきた」と話している。【永山悦子】


朝日新聞
「最も美しいミイラ」、エジプトで発掘
2005年05月04日06時06分

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カイロ南方のサッカラで3日、2300年以上前のものとみられる色彩豊かな覆いに包まれたミイラを観察するエジプト考古最高委員会のハワス委員長=AP


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AP

 エジプトの考古最高委員会は3日、カイロ南方のサッカラで発見した約2300年前のミイラを公開した。ザヒ・ハワス委員長は声明で「これまでに発見されたミイラの中で最も美しいもの」と語った。

 発表によると、ミイラは金のマスクをつけ、身体部の覆いには、スカラベ(フンコロガシ)や羽を広げた女神など様々な絵が色鮮やかに描かれている。ハワス委員長は「芸術的に非常に高い水準にあり、ミイラの上に描かれた絵の多彩な色などは、これまでのエジプトの博物館にはないもの」と称賛している。

 ミイラは古代エジプト第30王朝のものとされるが、誰のミイラかは今後の調査の課題という。AP通信によると、ミイラは2カ月前にエジプト人チームが、6メートルの深さの穴の底で木製のひつぎに納められているのを見つけたという。