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Takahiko Shirai Blog

記録「白井喬彦」

私が描いたパソコン画(11)

2005-05-22 12:56:51 | 美術・音楽
「道化師 それは私だ」は孤高の画家ルオーが残した言葉である。

ルオーにとって道化師とは何か。「道化師、それは私だ、それは我々だ...ほとんど我々すべてだ、ということをはっきり悟ったのです」、また「私は、言うべきことすべてを、しかも完全な形で、道化師と彼の夢の中に要約してみたいと思っています」と彼は語っている。つまり、道化師とはルオーにとって、人間の象徴に他ならないのである。(北九州市立美術館

今回の作品は「私が描いた」と言っては語弊がある。ルオーの「道化師」に額縁を付けたに過ぎない。だが、下の画像をクリックしていただくと、動的要素を導入して精神性を追求した作品をご覧いただくことができる。動的要素については、我国の天平壁画などをイメージして制作したものである。




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道化師
Georges Rouaut
1938年、46.3x32.2cm、油彩・麻布
北九州市立美術館 所蔵




平凡社「世界大百科事典」(CD-ROM版)
ルオー(Georges Rouault、1871-1958)

フランスの画家。パリに生まれ、少年時代にステンド・グラスの工房で徒弟修業。1890年画家を志し、翌年エコール・デ・ボーザール(国立美術学校)に学び、マティスと知り合う。ローマ賞に2度失敗。1898年、エコール・デ・ボーザールでの師 G. モローの遺贈した美術館の初代館長となる。1903年、サロン・ドートンヌの創立に参加。初期には社会の不正義への怒り、人生の悲しみを、娼婦、裁判官、道化、郊外の貧しい人々などのテーマに託して、青を主調として描く。1906年より画商ボラールと専属契約を結び、彼の薦めによって版画連作を試みる(「ミゼレーレ」、「悪の華」、「流星のサーカス」など)。中期の油彩は色彩が豊かになり、透明感のある色彩が厚いマティエールの底から、ほとんど精神的といえるような輝きを生みだす。「聖顔」などの宗教的主題が、風景、道化、古き王たちなどと並んで主題の中核をなし、初期の絶望と罪の表現から、次第に恩寵と救いの世界へと到達していく。1945年、フランス東部オート・サボア県アッシー(Assy)の教会(1950献堂)のためにステンド・グラスを制作。真の意味で現代における唯一の宗教画家であり、フォービスムの周辺にあって、同じように大胆な色彩と激しい筆触による表現性を求めたが、方向はまったく異なり、孤高の表現主義的世界を生み出した。

私が描いたパソコン画(10)

2005-05-18 03:38:43 | 美術・音楽
私の書いたパソコン画(4)」で、友人Y.S.が飛騨高山を旅して、その折に撮った「宮川中橋畔の桜」の写真を送ってきてくれたことを書いた。

その写真から、杜牧の7言絶句「江南春」が連想され、そこで私は烟雨に煙る山村の川畔風景をパソコン画にしたのだった。

昨日またその友人Y.S.が、そのときの旅で撮ったという「白川郷全景」と題する写真を送ってきてくれた。写真はまさに桃源郷というのがぴったりを思える美しい風景だったので、私はすっかり食指を動かし、早速パソコン画にしてみることにした。

それではまず、友人Y.S.が撮った「白川郷全景」の写真からご覧いただこう。


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白川郷全景(撮影; 友人Y.S.)



さて、この写真を元にして、幾つかのパソコン画技法を利用し、油絵というべきか、水彩画というべきか、とにかく人の手で描いた風な絵にしていくわけだが、遠景ばかりのこの写真は、あまりにも箱庭然としてあくまでも細かく、マウスで描くにはどうしても限界がある。極めて難しい素材だった。

そこでマウスを使うのは最小限に止め、もっぱら手を使わない画像処理技法を多用したわけだが、そうするとどうしても元の写真とはあまり違わないない雰囲気の絵になってしまうのだった。

「これでも絵なの? 写真じゃないの?」とおっしゃる向きもあろうかと思うが、そこのところはご勘弁願いたい。


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白川郷遠望


パソコン画にもかかわらず、上に掲載した作品は写真からそれほど離れていないようにも思われた。そこで、中景部分に点在する家屋を中心に、それらの輪郭線を強調させて描き直してみた。



白川郷遠望
(輪郭線強調版)



私が描いたパソコン画(9)

2005-05-17 18:09:38 | 美術・音楽
ギリシャ、サントリーニ島のイオの教会である。

海の色は一色だけのように見えるかもしれないが、実は色の微妙に異なる細かい横線を無数に描き込んである。パソコン画でも細かい筆致で表現をすると、色の深みが増してくることがあるようだ。

640×480ピクセルの大きさにして描いていったら、最後に丸屋根上の十字架を描くとき、ピクセルの限界にぶつかった。そのため、十字架の縦横の白線はほぼ1ピクセルの幅で描いている。

パソコン画では、もし細部まで描く箇所があるなら、「ピクセルの限界」というものがあることに注意を要する。1ピクセルの幅では、陰を付けたりする余地がなくなってしまうからだ。


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ギリシャ・サントリーニ島の教会

私の写真美術館(7)

2005-05-17 15:39:39 | 美術・音楽
いずれも大阪と札幌の超高層ホテルの個室の窓から撮影した。

このような高い位置から俯瞰で撮った写真からは、音が聴こえてこない感じがする。まるで密閉されたカプセルの中にいるような不思議な感触を感じる。


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ユニバーサルシティの日没



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札幌の白い山並み

私が描いたパソコン画(8)

2005-05-12 21:40:40 | 美術・音楽
旧満州で育った方の故郷訪問記のサイトを開き、何気なく見ていたら、次の写真に出会った。


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元の写真はピントがよく合っておらず、変り映えのしない写真でもあったが、満州の夕陽はこんなだろうかと、何か私の心に響くものがあった。

戦前、おそらく1939年当時、満鉄のアジア号でハルビンまで往復する旅行をしたことのある亡き母が、私にたびたび語ってくれた言葉を思い出した。

「満州の夕陽って、じっと見ているだけで泣けてきて...」

それとともに私には、若い頃、歌声喫茶などで皆と一緒に歌った「北帰行」のメロディーが浮かんできた。そういうさまざまな思い出のイメージを元にして描いたのが次の作品である。車窓の情景を表現するためアニメGIF動画技法を用いて制作した。

もちろん、作詞作曲の宇田博が、1941年5月のある日、満鉄の車中から見たであろう風景を想定している。旅順高等学校を放校処分となった宇田は、当時実家があった奉天(現、瀋陽)に帰ろうとしていた。

おそらく、宇田は進行方向左側の座席にひとり腰掛け、沈んでいく赤い夕陽を見ていただろう。これまで私は地平線に沈んでいく夕陽を想定していたが、上に掲げた写真では、潅木林が黒い影となって連なっている。


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北帰行

(旅順高等学校寮歌)
作詞/作曲:宇田 博


  1. 窓は夜露に濡れて
    都すでに遠のく
    北へ帰る旅人一人
    涙流れてやまず

  2. 建大 一高 旅高
    追われ闇を旅ゆく
    汲めど酔わぬ恨みの苦杯
    嗟嘆干すに由なし

  3. 富も名誉も恋も
    遠きあくがれの日ぞ
    淡きのぞみはかなき心
    恩愛我を去りぬ

  4. 我が身容るるに狭き
    国を去らむとすれば
    せめて名残りの花の小枝
    尽きぬ未練の色か

  5. 今は黙して行かむ
    何をまた語るべき
    さらば祖国わがふるさとよ
    明日は異郷の旅路
    明日は異郷の旅路


宇田博は新京(現、長春)に設立された建国大学予科に入学したが、素行不良で放校となり、東京に帰って旧制第一高等学校に入った。だが、ここでも退学処分となった。そこで宇田は再び満州に戻り、設立されたばかりの旅順高等学校に入ったのであった。

旅順に腰を落ち着けた宇田は、早速、文具屋の娘サッチャンと親しくなり、1941年5月5日の開校記念の休日、サッチャンと映画を見に行った。その帰りに一緒に酒を飲み、したたか酔っ払って終バスで帰るところを教官に見つかった。翌日、「飲酒」、「異性交際」、「門限違反」という校則違反で即時放校となった。

学寮を追い出された宇田は一週間旅館に泊り続け、鬱々たる気持をこの「北帰行」に込めたという。歌詞にある「建大 一高 旅高」とは、建国大学(満州帝国国立)、第一高等学校、旅順高等学校のことで、いずれもいまは存在しない。

それにしても、この歌が「旅順高等学校寮歌」だったとは面白い。旅順高等学校は1940年~1945年の5年間しかなかった高校だから、あるいは卒業生の心の中だけに生きた幻の寮歌なのではあるまいか。

作詞作曲の宇田博は、戦後、東京大学を出て東京放送(TBS)に入り、常務となったそうである。私が歌っていた頃、この歌はまだ「作詞作曲;不詳」だったように思う。小林旭がこの歌を歌っているが、私たちとはかなり異なる歌い方だった。歌詞も一部手が加えられていたが、これは「建大 一高 旅高」では一般に通じないからやむを得ない。

私が描いたパソコン画(7)

2005-05-08 20:57:41 | 美術・音楽
5月10日には母の命日がやってくる。

遥か昔のことだが、母が亡くなった朝、テッセンの花が咲いた。

母が丹精していた鉢植で、入院してからは、私が枯らさないよう大切にしてきた。見事な花を咲かせたのに、母は見ることができなかった。

この絵は、このほど友人T.S.が送ってくれた写真から描いたものだ。この写真を眼にしたとき、母が亡くなった朝のこと、そして、古い自作の句などのことまで、澎湃として蘇ってきた。



母が逝く 今朝テッセンの花が咲く  喬彦




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テッセン(鉄線)の花(1)




テッセン(鉄線)の花(2)

私が描いたパソコン画(6)

2005-05-04 00:34:02 | 美術・音楽
明日は子供の日だから、勢いよく泳ぐ鯉のぼりをお目に掛けよう。

この「鯉のぼり」という作品は、「私が描いた描いたパソコン画」といえるかどうかわからない。

相模原市水郷田名の高田橋を飾る1200尾の鯉のぼりを撮ってきた写真から切り抜いた鯉のぼりの画像を、青い画面を背景にしていろいろな速度で左右に動くようにしただけだからだ。「描いた」というより、むしろ「コラージュした」といったほうが適切な表現だろう。

パソコン画というものはそうしたものだ。パソコン画で「描く」という言葉は、「頭の中に描く」という意味だ。描くための手段は無限にあり得ると思ってよい。


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こいのぼり



私が描いたパソコン画(5)

2005-04-27 15:34:29 | 美術・音楽
友人 Y.S が撮ってきた中国桂林の風景写真を元にして描いた。元の写真は目の覚めるような青空の下の桂林だったが、空を白いまま残したら水墨画風になった。現代の中国人画家たちが描く色彩入りの水墨画だ。

パソコン画というと、和紙に墨で描くときのような滲みなどはとても出せないだろうと思う人が多いだろう。だが、透明度を適切に設定してやれば、かなり滲みに近いものが出せる。この絵はそういう技法の問題にチャレンジするために取り組んだ実験的作品である

パソコン画の場合は何事も過剰になりがちだ。だから、滲みの技法も、むしろできるだけ抑えるようにしなければ、作品全体として自然な感じにはならない。

パソコン画には、パソコン画だけしかない独自の世界がある。その一方で、在来の絵画の世界に寄りかかった作品もあるように思われる。

また、桂林の風景はどうかわからないが、在来の絵画の世界に寄りかかった実風景もあるのではないか。おそらく、「記号化された風景」というものがあるのだろう。「富士山」なんか記号そのものじゃないか。だから「○○富士」、「△△富士」なんかがあるのだ。

というわけで、滲みはパソコン画の世界では記号のひとつと考えればよい。


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桂林風景

私が描いたパソコン画(4)

2005-04-26 22:40:47 | 美術・音楽
飛騨高山を観桜旅行してきた友人 Y.S がメールで送ってきた写真は、ちょっと時代離れした山村の長閑な小川の情景をとらえていた。


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飛騨高山 宮川中橋畔の桜
(撮影; 友人Y.S.)


撮影者自身は「緑映紅」と書き添えていた。そのメールを受け取った別の友人 N.O. がやはりメールで、杜牧の七言絶句「江南春」を書き送ってきた。


江南春         杜牧
千 里 鶯 啼 緑 映 紅
水 村 山 郭 酒 旗 風
南 朝 四 百 八 十 寺
多 少 樓 臺 烟 雨 中



その写真を画像処理して油絵風にしてみると、ますます明治の油絵といった雰囲気になってしまった。タイトルは「千里鶯啼緑映紅」とすることにしよう。


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千里鶯啼緑映紅
飛騨高山 宮川中橋畔の桜


内藤嵐雪に

沙魚釣りや 水村山郭 酒籏の風  嵐雪

という句がある。

写真の撮影者には「千里鶯啼緑映紅」のほうが頭に閃いたらしいけれど、日頃酒を愛してやまない私は「水村山郭酒旗風」でもよいのではないかと思う。向岸の木陰の下に見える白壁の民家に、「酒旗」を描き加えるとするか。


平凡社「世界大百科事典」CR-ROM版から
杜牧 (803‐852か853)

中国、晩唐の代表的文学者。京兆万年(陝西省)の人。祖父杜佑は宰相を務め、政治制度史『通典』の著者としても有名。太和2年(828)の進士で各州の刺史を歴任し、中書舎人に終わった。

「十年ひとたび覚む揚州の夢,贏(か)ち得たり青楼薄倖の名」と歌う七言絶句『遣懐』によって風流才子の典型とみなされがちだが、剛直な政治姿勢を反映した、現実に対する鋭敏な認識が『阿房宮賦』など多くの作品を貫く。

更に、軍事学にも興味を示し、『孫子』の注釈を残した。

散文の方面では韓愈、柳宗元が復興させた古文に評価を与え、四六文が一般的だった晩唐期にあって異彩を放った。

詩では杜甫を最も尊敬した。「李杜浩浩たるに泛(うか)び,韓柳蒼蒼たるを摩す」という賞賛は、彼の批評家としての炯眼を物語る。殊に七言絶句に優れ、「江南春」、「山行」、「秦淮に泊す」など人口に膾炙した作品が多い。後人は杜甫を「老杜」、杜牧を「小杜」と呼ぶ。

『樊川文集』20巻が伝わる。

碇豊長の詩詞世界」によれば、杜牧のこの詩は平仄から見ると七言絶句と呼ぶには少々問題があるようだ。

また、「南朝四百八十寺」、「多少樓臺烟雨中」などというわけであるから、この詩にはもっと壮大な視野の広がりがあるのかとも思われる。

私が描いたパソコン画(3)

2005-04-25 16:41:26 | 美術・音楽
春の松本城。これは一昨日描いたほやほやの最新作で、Y.I.氏撮影の素晴らしい写真を元にして描いたものである。

松本城は天守閣の下の雑駁な感じの石積が面白く、また、さまざまな色の石が不規則に混じっていて美しいが、版画調の絵ではその面白さ、美しさを表現することは難しかった。



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春の松本城

私の写真美術館(6)

2005-04-21 10:18:36 | 美術・音楽
画像は友人Kが描いた絵から、アニメGIFにしたものだ。使っている音楽は、「戦争は終った(War is over)」というタイトル。でも、ブログでは音は聴こえない。下の画像をクリックして、別の画面で聴いて欲しい。

この作品は、アフガン作戦が終盤を迎え、オサマ・ビンラディンの姿が、あの荒涼たる岩山から消えたころ作った。そういえば、そのころ、ディジーカッターという新型爆弾が使われていた。

オサマは、その新型爆弾で殺されたと思った。でも、まだ生きているという情報もある。ときどき、アル・ジャジーラで声を聴いたりする。

確かに、あのときは、これでもう「戦争は終った」と思った。だが、それからもずっと、戦争は続いてきた。ブッシュの戦争。そして、911 なんて、もう昔の話になってしまった。アメリカ兵とイラク市民たち。大勢の人々が死んでいった。いまでも、何人かずつ死んでいく。

まったく、反戦気分だけでは、とても生きていけない。音楽だけが空しく響く。まるで機銃のように聴こえる。



画像上をクリック


War is over
Mar.13,2002

私の描いたパソコン画(2)

2005-04-17 12:38:10 | 美術・音楽


あさがほは下手のかくさへ哀也あはれなり  芭蕉


【神戸大学名誉教授 堀信夫氏の註】
はかないものに喩えられる朝顔ゆえか、下手が描いた絵にさえ、捨てがたいおもむきがある。門人・嵐雪の絵心への隔意ない褒美句。貞享4年(1687)作句。季語は「蕣」、秋。

この句は門人に与えた「褒美句」ですから、自分で自分の絵に添えてはいけないのですよね。


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私の写真美術館(5)

2005-04-16 10:50:50 | 美術・音楽
芳しくも静謐な、若葉の季節を思わせる、坂本龍一作曲のピアノ曲"Energy Flow"をお楽しみあれ!

この曲は三共のドリンク剤「リゲイン」のコマーシャルソングとして作曲されたものだそうだ。

額縁の中の画像は、友人 H.K が撮影した写真にアニメGIFという技法を施し、若葉がきらめくように画像処理したものである。わざわざ画像処理したほどの効果が、果たして得られているだろうか。


画像の上をクリックしてください
坂本龍一 作曲 Energy Flow
(演奏時間;4分31秒)

私の写真美術館(4)

2005-04-15 00:15:12 | 美術・音楽
桜狩りさくらがり 奇特きどくや日々に 五里六里 芭蕉


【神戸大学名誉教授 堀信夫氏の解説】
桜狩りとなると、五、六里を平気で歩き、我ながら奇特と思う。
花に浮かれる数寄心を持てあまし、かつ自賛する。
貞享5/元禄元年(1688)作句。季語 「桜狩り」春。



写真の上をクリックしてください



河内山本駅近く 玉串川沿いの桜並木
(撮影;2004年4月9日)



祖母の庭はいま花盛り
(撮影;2004年4月9日)

私の写真美術館(3)

2005-04-13 16:56:15 | 美術・音楽
今朝(2005年4月13日)、大阪にいる娘からメールが届いた。

「今、NHKのニュースで、今日から通り抜けが始まったそうです。中継を見る限りでは、まだ三分咲きだそうです。通り抜けは八重が多いので、ソメイヨシノより二週間ぐらい開花が遅いそうです。(後略)」

というわけで、昨年の「通り抜け」の写真を取り出し、「私の写真美術館」にしてみた。昨年の写真では八重桜が満開のようだが、撮影日は4月8日となっている、今年はちょっと遅れているのだろうか。

NHKニュース (2005年4月13日 12:07)
 桜の名所として知られる大阪の造幣局で、恒例の「桜の通り抜け」が始まり、初日から大勢の人でにぎわっています。造幣局によりますと、桜はまだ4分咲き程度で、今週末には見ごろを迎えそうだということです。
毎年、大阪造幣局の「花の通り抜け」が市民に開放される。満開の花陰の道をそぞろ通り抜けていくと、しみじみと「ああ、今年もよくぞいのちを永らえて、この通り抜けの桜を楽しむことができたなあ」という思いになる。今年もそろそろ娘の招きに応じて、花で賑わう大阪の街を訪ねるとするか...。



ことしまた いのち桜を 通り抜け  喬彦



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大阪造幣局通り抜け(1)
(撮影; 私の娘、2004年4月8日)



大阪造幣局通り抜け(2)
(撮影; 私の娘、2004年4月8日)



大阪造幣局通り抜け(3)
(撮影; 私の娘、2004年4月8日)