Takahiko Shirai Blog

記録「白井喬彦」

モンゴル国と中国

2005-05-22 19:41:18 | 国際
5月12日に書いた「連戦・宋楚瑜訪中の意外な効果」の中で、中国各地でおこなわれた先日のデモ中に、「反日プラカードに混じって「外蒙古を併合せよ!」と書かれたプラカードがあったことを見逃すわけにはいかなかった。内モンゴルばかりか、外モンゴルをも中国領土だとするのが、愛国主義教育を受けた現代中国人の心情なのだろうか」と記した。

このプラカードの「外蒙古」とは、かつては「モンゴル人民共和国」と呼ばれていた現在の「モンゴル国(Mongol ulus、《英》The State of Mongol、Mongolia)」のことだ。1992年、モンゴルはそれまでの社会主義憲法を捨てて民主憲法を採用し、国号も「モンゴル国」と改めた。

反日デモに参加した中国の若者たちは、その「モンゴル国」を中国に併合せよと要求していたのだ。あの激しいデモの矢面に立たされた日本政府は大変だったが、モンゴル政府当局にとっても、反日に併せてモンゴル併合要求まで出てくるという事態は由々しいことではなかろうか。

しかも、中国の若者たちは正式国名ではなく「外蒙古」などと呼んでいた。「外蒙古」は中国では慣用されているのか。私たち日本人も「中国」、「韓国」などといっているから下手なことはいえない。けれども、「内蒙古自治区」に対して「外蒙古」というわけだから、いかにも「外蒙古」は中国領土だと主張しているようにも聞こえる。歴史的にみると、「外蒙古」は18~19世紀を通してずっと清の版図に入っていたのだ。

1696年、清の康熙帝はみずから外征し、ジュンガル王国のガルダン・ハンを大敗させ、その王国の地を清の版図に加えた。清朝はモンゴル王公やラマ僧などを保護して封建領主化させた。そのため、モンゴル遊牧民たちは彼ら封建領主の搾取を受け、古来からの遊牧社会の基盤を崩壊させていった。また、19世紀に入ると漢人商人が大量に進出し、モンゴルの地全域に商業網を張り巡らした。彼らは商業のみならず、金融高利貸資本としても浸透していった。「内蒙古」、「外蒙古」という地理的概念が成立したのは清朝時代といわれている。

一方、「モンゴル国」という現在の国号は、我国の外務省が使っている日本語だが、我国の外務省が国号を「○○国」とするときは、いったいどういう政治形態を指しているのだろうか。あるいは、民族としての「モンゴル」と国家としての「モンゴル」を区別するため、後者を「モンゴル国」としているだけだろうか。

なにしろ、モンゴル国の人口は僅か240万人であるが、その一方で、中国国内にはおよそ480万のモンゴル系の人々がいる。しかも、そのうちの340万人ほどは「内モンゴル自治区」に住んでしている。「モンゴル民族」と「モンゴル国」はまったく別物なのだ。

我国の場合、正式国号は「日本国」だ。だが、例えばマレーシアの場合、単に「マレーシア」と呼ばれていて、「マレーシア国」とは呼ばれない。マレーシアは連邦国家であるが、同時に立憲君主制国家でもある。元首である「マレーシア国王」は、西マレーシア9州のスルタンたちの互選で選ばれるが、国王選挙に関与しない州もあるらしい。要するに、国号に政体まで表現するのが難しいのだ。

その点、モンゴルの場合は日本と同じように「モンゴル国」としているわけだから、その政治形態は日本人にもわかりやすい。

そこでモンゴル国の政治形態である。元首は直接選挙で選出される任期4年の大統領だ。立法機関は一院制で、「国家大会議」と呼ばれる議員76名の議会である。そして、内閣は我国と同じような議員内閣制だ。

1996年6月実施された総選挙では、民族民主党と社会民主党を機軸とする民主連合が大勝し、1921年のいわゆる「モンゴル人民革命」以来ずっと政権の座にあった人民革命党が下野した。しかし、このとき誕生した民主連合政権は安定することがなかった。2000年7月の総選挙では野党の人民革命党が政権を回復し、新首相にエンフバヤル人民革命党党首が指名された。

2001年5月、大統領選挙がおこなわれ、与党の人民革命党の推薦するバガバンディ大統領が再選された。2004年6月の総選挙では祖国党と民主連合の祖国・民主連合が躍進し、人民革命党との大連立政権が形成された。だが、2005年に入ると、この年実施される大統領選を睨んで、祖国・民主連合の一部が院内の人民革命党会派に合流する動きが見られ、人民革命党会派が多数議席(76議席中61議席)を占めるに至っている。

モンゴルというと、大相撲では幕内だけでも、横綱朝青龍、関脇白鵬を初め、前頭には、旭天鵬(3枚目)、朝赤龍(8枚目)、安馬(9枚目)、旭鷲山(9枚目)、時天空(15枚目)など、大勢のモンゴル出身の関取たちがいる。だから、彼らの祖国の地として、モンゴルのことがテレビなどで紹介されることが多く、私たち日本人にはなじみ深い。だが、私たちはモンゴルの政治制度などについてはほとんど何も知らないし関心も薄い。

いま「東アジア・サミット」が話題になっている。日中韓3ヶ国とアセアン10カ国(インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ブルネイ、ベトナム、ラオス、ミャンマー、カンボジア)がこの構成国と想定されており、この他に、インド、オーストラリア、ニュージーランドが参加する見込みと伝えられている。

ところで、モンゴルはここに含まれていなくても問題ないのだろうか。中国の経済的属国の扱いをされているような心配はないのか。(ここまで2005年5月22日記)

注目されていた大統領選の結果は、人民革命党から出馬した国民大会議議長のエンフバヤル氏の勝利であった。従来路線が継承されるのか。(2005年5月23日追記)


朝日新聞
モンゴル大統領選、「中国」争点に投票
2005年05月22日19時28分

 バガバンディ大統領の任期満了に伴うモンゴル大統領選挙が22日、投開票された。一党独裁を放棄した90年の民主化後、4回目となる。国民大会議(国会)の最大勢力である人民革命党の党首、エンフバヤル国会議長(46)を、民主党のエンフサイハン元首相(49)が激しく追い上げる展開となった。だが、候補者間に政策の差はほとんどなく、モンゴルに対して影響力を強める中国との関係が争点となった。

 ジャルガルサイハン共和党党首(45)とエルデネバト祖国党党首(45)も立候補した。23日朝にも結果が判明する見通しだが、半数を獲得した候補がいない場合、6月5日までに上位2候補による決選投票が行われる。

 同国は1人あたりの国民所得が約600ドルで、伝統的な牧畜と鉱業以外にめぼしい産業は育っていない。各候補は総選挙の時と同様に、国民生活向上と市場経済発展を訴えた。そこで浮上したのが、経済的な結びつきが強まる中国との関係をどうするかだった。

 中国は経済成長のため周辺国との安定した関係を維持する戦略から、モンゴルとの関係発展をはかってきた。胡錦涛(フー・チンタオ)国家主席が就任後初の外遊先の一つにモンゴルを選んだり、無償資金協力を続けたりしている。また、中国はモンゴルにとって最大の貿易パートナーで、モンゴル人の利用する生鮮食品や日用品のほとんどは中国産だ。

 中国産品の普及で、モンゴル国民の暮らしぶりは向上した。しかし、モンゴルが清朝の間接支配など長らく中国の影響下にあったことや、中ソ対立でソ連側に立ったことなどもあって、モンゴル人の嫌中感情は根強い。

 一方で、出稼ぎや商売のためモンゴルに長期滞在する中国人は増え続け、今では1万2000人と外国人の6割を占める。ウランバートル市内には中国語の看板も珍しくなくなった。「ソ連の『16番目の共和国』といわれたモンゴルが『第2の内モンゴル自治区』になりかねない、という危機感が国民に広がっている」(ウランバートルの外交官)

 大統領は外交面で大きな権限と責任があるため、エンフバヤル氏が「中国とのハイレベルの関係は貴重で維持しなければならない」と話すなど、各候補とも表向き、対中政策をめぐる発言は慎重だ。しかし、国民の対中感情は無視できず、エンフバヤル陣営でも幹部が内輪の集会で「本当は日米との関係を強化するが、中国を刺激するのはまずい」と有権者をなだめたという。

 選挙戦が終盤に入ると、劣勢が伝えられる候補ほど、中国についての発言が過激になってきた。ジャルガルサイハン氏は「モンゴルは食べさせてもらうために中国に依存している。このままだと独立が保てない」、エルデネバト氏は「中国からの食糧輸入を食の安全保障という点から見直す必要がある」などと訴えた。

 一方、各候補は「中国の台頭」と、来年がチンギス・ハーンによるモンゴル帝国建国から800年であることを踏まえて、「国を愛することがなければ、国を発展させることはできない」などとそろって愛国心の強化を呼びかけた。

 モンゴルでは昨年6月の総選挙で、社会主義時代から与党だった人民革命党が過半数割れし、民主党を軸とする野党連合と初の連立内閣(エルベグドルジ首相)を9月から組んでいる。


毎日新聞 (2005年5月23日追記)
モンゴル大統領選: 人民革命党のエンフバヤル党首が当選
2005年5月23日 8時23分

 【ウランバートル大谷麻由美】 22日投開票のモンゴル大統領選で、旧共産系の人民革命党から出馬した国民大会議(国会)議長のエンフバヤル氏(46)は23日未明、「得票率が51%を超えた」と発表し、勝利宣言した。対抗馬と目された民主党候補のエンフサイハン氏(49)も敗北を認めた。中央選挙管理委員会は同日中にも開票結果を正式発表する見通し。エンフバヤル氏は、2期8年務めた人民革命党のバガバンディ大統領の路線継承を強調し、政治の安定と国民融和を訴えており、国民が現実路線を選択したといえそうだ。

 モンゴルでは首相に権限が集まり、大統領は名誉職的色彩が強い。社会主義放棄から13年が経過して民主化、市場経済化路線が定着しており、各候補に大きな政策の違いはなかった。中央選挙管理委員会が発表した推定投票率は約70%で、前回の82.9%を大きく下回り、4回目の大統領選に対する国民の関心の低下が表れた。

 昨年6月の国民大会議選挙後、新議会を2分することになった人民革命党と、民主党など中道右派の野党連合・祖国民主同盟による大連立内閣が初めて樹立された。しかし、昨年12月にエンフサイハン氏が民主党首を解任され、同党の新主流派らが野党連合から一方的に脱退し、人民革命党会派に参加するなど政治の混乱が続いた。

 現在の議会構成は、人民革命党会派が62人、祖国民主同盟の残留組である無会派が13人。人民革命党は大統領ポストを引き続き確保したことで、政治基盤を強めることになりそうだ。

 モンゴルでは92年の社会主義放棄から13年が過ぎ、市場経済化が進んでいる。04年の国内総生産(GDP)は前年比10.6%増を記録し、1人あたりのGDPも605.5ドル(前年比18.3%増)となった。しかし、失業や貧困が深刻化しており、投資促進に向けた法整備や国内産業の発展に向けた構造改革を迫られている。

私が描いたパソコン画(11)

2005-05-22 12:56:51 | 美術・音楽
「道化師 それは私だ」は孤高の画家ルオーが残した言葉である。

ルオーにとって道化師とは何か。「道化師、それは私だ、それは我々だ...ほとんど我々すべてだ、ということをはっきり悟ったのです」、また「私は、言うべきことすべてを、しかも完全な形で、道化師と彼の夢の中に要約してみたいと思っています」と彼は語っている。つまり、道化師とはルオーにとって、人間の象徴に他ならないのである。(北九州市立美術館

今回の作品は「私が描いた」と言っては語弊がある。ルオーの「道化師」に額縁を付けたに過ぎない。だが、下の画像をクリックしていただくと、動的要素を導入して精神性を追求した作品をご覧いただくことができる。動的要素については、我国の天平壁画などをイメージして制作したものである。




画像上をクリックしてください


道化師
Georges Rouaut
1938年、46.3x32.2cm、油彩・麻布
北九州市立美術館 所蔵




平凡社「世界大百科事典」(CD-ROM版)
ルオー(Georges Rouault、1871-1958)

フランスの画家。パリに生まれ、少年時代にステンド・グラスの工房で徒弟修業。1890年画家を志し、翌年エコール・デ・ボーザール(国立美術学校)に学び、マティスと知り合う。ローマ賞に2度失敗。1898年、エコール・デ・ボーザールでの師 G. モローの遺贈した美術館の初代館長となる。1903年、サロン・ドートンヌの創立に参加。初期には社会の不正義への怒り、人生の悲しみを、娼婦、裁判官、道化、郊外の貧しい人々などのテーマに託して、青を主調として描く。1906年より画商ボラールと専属契約を結び、彼の薦めによって版画連作を試みる(「ミゼレーレ」、「悪の華」、「流星のサーカス」など)。中期の油彩は色彩が豊かになり、透明感のある色彩が厚いマティエールの底から、ほとんど精神的といえるような輝きを生みだす。「聖顔」などの宗教的主題が、風景、道化、古き王たちなどと並んで主題の中核をなし、初期の絶望と罪の表現から、次第に恩寵と救いの世界へと到達していく。1945年、フランス東部オート・サボア県アッシー(Assy)の教会(1950献堂)のためにステンド・グラスを制作。真の意味で現代における唯一の宗教画家であり、フォービスムの周辺にあって、同じように大胆な色彩と激しい筆触による表現性を求めたが、方向はまったく異なり、孤高の表現主義的世界を生み出した。

核拡散防止条約再検討会議

2005-05-22 06:03:15 | 国際
核拡散防止条約(NPT)再検討会議が終ろうとしている。再検討会議は5年に1度開催されることになっているので、次回は2010年ということになる。今回の会議では北朝鮮の条約脱退・核保有宣言への非難は盛り込まれるが、現在纏められつつある最終文書の中では、それがトーンダウンしそうだという。

会議が最終段階に来たところで、北朝鮮とアメリカ政府との不規則接触がおこなわれた。そのため、他の諸国がアメリカと北朝鮮の交渉の行方を見守ろうという姿勢に転じた。

ここへきてアメリカが突然「ニューヨーク・チャンネル」を活用して北朝鮮と接触したことは、6ヶ国協議の主催国であった中国を愕然とさせたに違いない。だが、その中国は会議期間ブッシュ大統領が金正日をえげつない言葉で個人攻撃したことを理由に、「6カ国協議の再開は中国一国の努力だけでは手に余る」と啖呵を切った。

一方、「限定核戦争は現実化しつつある」でも触れたように、今回の再検討会議の課題には「限定核兵器の制限」という重要問題があったはずだ。この限定核兵器制限は、現在のところは兵器のハイテク化を勧めるアメリカを主たる対象と考えていたのであるが、最終文書ではいったいどういう扱いになったのか。

今後、北朝鮮が核実験に踏み切り、弾道ミサイルに核弾頭を搭載するようになれば、アメリカは北朝鮮への攻撃に踏み切る可能性がある。そのとき使われるのは、ピンポイントで地下施設を狙ったりする限定核兵器であろうと考えられている。

こういう事態がやってくる時期はいつ頃なのだろうか。2010年に開催が予定される次回の再検討会議で間に合うのだろうか。


毎日新聞
NPT会議: 最終文書ではトーンダウン? 北朝鮮非難
2005年5月21日 21時10分

 【ニューヨーク会川晴之】 核拡散防止条約(NPT)再検討会議で27日の閉幕時に採択を目指す最終文書について、北朝鮮のNPT脱退や核保有宣言などを非難する文言のトーンが薄まる可能性が出てきた。中国が19日に「6カ国協議の再開は中国一国の努力だけでは手に余る」と明言、金正日総書記の個人批判に踏み込んだブッシュ米政権に柔軟姿勢を求めたからだ。「強い懸念」を表明する文言の明記を求めてきた日本代表団も「中国の立場にも配慮する必要がある」との見解を示した。

 中国は19日の核不拡散委員会での演説で、6カ国協議で中国が果たした役割を強調するとともに、対話による解決を目指す同協議の重要性を改めて強調した。その上で、同協議再開には「特に北朝鮮と米国双方の努力が必要」と指摘した。

 北朝鮮の核保有宣言をめぐっては、国際原子力機関(IAEA)が3月の理事会で、「すべての核開発を検証可能な形で完全廃棄し、できるだけ早期に無条件で6カ国協議に復帰する」ことを求める議長総括を全会一致で採択している。

 日本は、北朝鮮が寧辺の実験用減速炉から使用済み核燃料棒を取り出したうえ、核実験を示唆する発言を繰り返すことを重視。今回のNPT再検討会議でも「強い懸念」を表明し、非難色の濃い文言の採択を参加国に働きかけていた。

 しかし、6カ国協議再開に向けて米国も北朝鮮と接触するなど政治的に微妙な段階にあり、北朝鮮非難を強めることへの各国の支持が得られるかどうか微妙だ。

 高須幸雄・在ウィーン国連代表部大使は「まったく非難色のない文書採択は容認できない」と語り、文言を巡る調整を活発化させる意向だ。

訳詩鑑賞『ルバイヤート』(8)

2005-05-22 00:36:33 | 文学
Edward Fitzgerald "Rubáiyát of Omar Khayyám"
矢野峰人訳 『四行詩集』から





   第十五歌

黄金こがね孜々ししと積みてしも、

湯水ゆみずの如く散ぜしも、

ともに空しきれば

誰か掘らんとねがふべき。




       15

And those who husbanded the Golden Grain,
And those who flung in to the Winds like Rain,
Alike to no such aureate Earth are turn'd
As, buried once, Men want dug up again.



   第十六歌

昼と夜とを戸となせる

この荒屋あばらやを宿として

さだめの時を仮寝しつ

世々の王者ぞ旅立ちし。




       16

Think, in this batter'd Caravanserai
Whose Doorways are alternate Night and Day,
How Sultán after Sultán with his Pomp
Abode his Hour or two and went his way.