
右目の精密検査のため昨日眼科クリニックに行きました。
その結果ですが、右目の視野はガタガタ? 右目の視野の左上、時計で言うと9時から12時の部分がほとんど見えていないようです。左目は問題なし。そのような状態ですが視力検査では右目が良くて1.0は見えているようです。
先日、生まれて初めて眼科に行き、昨日が2度目の眼科。もう一度行って眼圧を測り、3回の平均値を見て点眼薬が処方されるようです。緑内障は進行していても自覚症状はまったくありません。しかし、放置しておくと失明につながります。
歳を取ったら検査してもらうのが良いのかも分かりませんね。

先日紹介したこの本をやっと読み終えました。
昭和20年8月6日の原爆と、同年9月17日の枕崎台風に立ち向かった、広島市江波山気象台の台員たちの奮闘ぶりを書いた本です。そこに書かれていることが、たとえ少しでもあの日を経験している者には生々しくて、ついつい感情移入してしまい読み進めることが出来なかったのです。
原爆の閃光の直後、その閃光を中心に白い光の輪のようなものが、グワッ、グワッ、グワッ、と言う感じで全天に広がりました。しかし、光の輪が全天に広がったと言うことは聞いたことが無いので、あれは幻覚だったのかも、と言う思いもありました。しかし、、、、、、、、
あの朝、自分は、閃光を感じてハッとして顔を上げ、北の空に白色の朝顔の花のような光幕がサーッと超スピードで円形に広がっていくのを見た。次の瞬間には、眼前近くでマグネシウムを大量に焚かれたような閃光と熱を感じ、咄嗟に至近弾を受けたものと思って椅子をはねのけ床に身を伏せた。
気象台の北勲技手の証言です。この証言を読んで、ここに書かれている光幕が、タカ長の見た光の輪のようなもので間違いないと思いました。6歳の子の記憶としてはシッカリとした記憶です。他にも細かな記憶があります。
この本には原爆の後に黒い雨が降り、八幡川の水が黒くなったと言う表現もありますが、その八幡川を遊びにしていたタカ長の記憶に、川の水が黒くなった記憶はありません。子どもの記憶ってそんなものなのでしょう。

記憶と言えば、隣のお姉さんの顔をどうしても思い出すことは出来ません。記憶に残っているのは可愛がってもらったと言うことだけです。
広島市の女学校に行っていたお姉さんは、あの日はどこかへ動員されていて、原爆の犠牲になったのかも分かりません。誰からもお姉さんのことは聞かされていないのです。まわりの人が、お姉さんのことを話さないように気配りしていたのかも分かりません。
他に子どもがいない家だったので、タカ長のことを弟のように可愛がってくれたのだと思っています。お母さんがキレイな人だったので、お姉さんもキレイな人だったはずです。しかし、表情のことなど何一つ思い出すことが出来ません。
この本を読むことで思い出した6歳の記憶。その中には、女の人にほのかなものを感じるようになる前の、とても重い記憶もあるのです。