哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

BOSE "Triport" VS SONY"MDR-F1"

2006-04-30 | グッズ
 今日は、趣向を変えて。
 BOSEの"TriPort"(TP1BB)(2万円弱)を買った。もともとSONYのオープンエアー型ヘッドフォン(MDR‐F1)(定価2万5千円)を使っていたのだが、音質に迫力がなかったので、クローズド型のヘッドフォンとして狙っていたのだ。で、現在具合を確かめているのだが…思っていたほどグッとくるものがない。「良い」んだけど、「素晴らしい」というほどでもないのだ(もっとも、PCで圧縮した音楽ばかり聴いて、256kb/mの音と66kb/mの音の差をろくに聴き分けられない筆者にこんなことを言う資格があればの話であるが)。
 わかりやすいので、TriPortをMDR-F1と比較してみよう。音質的には、MDR-F1が音を拡散させ、音の輪郭がぼやけ、低音が弱いに対し、TriPortは音を圧縮させ、音に強度があり、低音にも強い。一般的な、オープンエアー型とクローズド型の違いだと思っていい。つけごこちは、MDR-F1が軽くソフトで音量にも関わらず、かなり長い間つけていても苦痛にならないが、TriPortもだいたい同じような特性をなぞっている。クローズド型のわりに軽いしソフトだが、音量は小さめにしないとけっこう疲れる。音量さえ調節すればこちらもあまり疲れない。MDR-F1は耳にマグネシウムのスピーカーを当てている感じなので涼しげだが、TriPortはパットがしっかりしているので、暑苦しくない程度に温かい。
 …と、づらづら比較してみたが、実はそこまで違わないのではないかと思う。あえて決定的な違いを見出そうとすれば、MDR-F1は著しく音が漏れてしまうので外出しながら使えないが、TriPortは音が漏れにくいので電車の中でも使いやすい、という程度か。音質の違いでヘッドフォンにこだわるなら、家の外に音がもれないことが条件だが、スピーカーにこだわったほうがよっぽど良いと思う。タイムドメインのスピーカーなどは、2万円弱でかなり良いらしい。今筆者が使っているのは、やはりBOSEの2.1chデスクトップスピーカー(3万円程度)だが、低音に強いというほか、そこまで音が良いとは思えない(というか、BOSEはけっこう力任せな音作りをしているのではないかと思えてきた)。BOSEのこのスピーカーは、PCに接続して使う分には、スペースもほとんどとらないし、よく出来たスピーカーではあるのだけど。
 結局であるが、音漏れの問題でスピーカーが使えないという人には、TriPortはコストパフォーマンス的に、それなりにおすすめして良いのではないかと思う。これ以上のランクのヘッドフォンだと、平気で5万、10万とするが、よほどのオーディオマニアでなければ意味がないからだ。そこそこに音楽を楽しめれば良いという人には、TriPortはベストチョイスとさえ言っていいのかもしれない。ただし、筆者のように過剰な期待をしなければ、という注釈もつくのだが。ちなみに、MDR-F1も現在は2万円程度と安くなり、聴いてて全然疲れない、そこそこの音質のヘッドフォンなので、だらだらと音楽などを聴き続けたい人にはおすすめできます。

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小川一水『老ヴォールの惑星』

2006-04-29 | 小説
 最近、なんとなく私的SFブーム。一時期はミステリーっぽいものを読むことのほうが多かったが、やっぱり自分はSF寄りの人間だったのかもと思う今日この頃。スタニスワフ・レムやカート・ヴォネガットなど、文学とSFの間を横断しているような作家も好きだし。

 さて、小川一水だが、今までに筆者は『復活の地』だけ読んだことがある。この小説は、映画化できるほどの大傑作長編で、筆者もけっこう楽しんだのだが、大時代的なテイストが少し肌にあわなかった。もっとも、作品の設定として関東大震災を用いたらしいので、そのせいかもしれない。『老ヴォールの惑星』もそんな大時代的なテイストが少しあったが、これは特に気にするほどでもなかった。この小説は中篇集なのだが、サバイバル物が多い。このテーマについては『復活の地』の影響が強いのかもしれない。楽観的過ぎず、悲観的過ぎず、話の最後に立派なオチがある点など、ヒマつぶしに読むにはうってつけの本だと思う。普通におもしろく、読み始めたら没入しやすいし。筆者は、条件付で『幸せになる箱庭』という一編が一番おもしろかったと思う。
 だが、この大時代的なテイストは小川一水に特有のものか、SFに不可避なものなのかは私的には考えてみたいテーマ。小川一水の文体自体がちょっと大時代っぽいのはある。しかし、SF自体に科学による人類・社会の進歩(進化)という大前提をもっていることは決定的な要素だろう。筆者のやっている「社会学」では、社会の進化というのは、バカにされるだけの考えだし。たとえば、N・ルーマンが社会の進化というのは、端的に社会に複雑な秩序が作られることで、どの社会が良くて悪いかということは問題にしない(社会学の対象にしていない)し、してはいけないくらいのなのである(文化差別になるし)。つまり、人類・社会の進歩(進化)という概念自体が近代に特有のもので、進歩(進化)という一直線的な運動が信じられなくなった今のポストモダン社会では、古く感じられて当たり前なのである。それでも、SFは技術や知識の積み重ねという一直線の運動を前提にしなければ、ありえないジャンルである。果たして、ポスト・モダンなSF小説とはいかにあるのだろうか。その答えをほとんど出しているのが、先述のスタニスワフ・レムやカート・ヴォネガットだろう。そのうちまたSF小説を読んだら、話の続きをしようかと思う。

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『BLACK LAGOON』(アニメ)

2006-04-27 | アニメ
 原作マンガのファンなのだが、なんとなく見逃していた『BLACK LAGOON』をはじめて見た。…今まで(2、3回くらい)見ていなかったのがもったいないくらいいい出来だった。全体的にクオリティが高く(TVアニメではトップクラスといって差し支えないだろう)、原作の雰囲気に忠実作りこんである。脚本もテンポがいい。光線などの演出が良く効いている。…文句のつけどころがないんだが…。ガンアクション好きには、たまらないだろう。というわけで、遅まきながら、『BLACK LAGOON』はかなりお勧め。

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『涼宮ハルヒの憂鬱』(アニメ)

2006-04-25 | アニメ
 『涼宮ハルヒの憂鬱』の作画がすばらしいことに気づいた。今日の話だけでも、背景に、写真か?と見間違うような、いい画があった。気になって調べてみたら、アニメーション製作の京都アニメーションって、その道じゃクオリティの高さで有名なところだったらしい…、筆者うかつ。
 さて、今日の話はインチキベースボールの話だったが、前半はキョンの突っ込みが小技ながらも適切に打ち込まれていて、けっこう笑えた。SOS団の部室で、団員がみんなガヤガヤやってるところなんかは、けっこう楽しいのだ。一方で、本番のベースボールは、そこまでおもしろくなかったような。チアガール姿(ナース姿もだが)やハルヒの満面笑顔など、萌えカットは満載だが(といっても、筆者はあまり萌えを解す人間ではない)話としてはイマイチ。キョンの一人芝居みたいになっている。ハルヒの心根一つで世界が滅亡にさらされ、キョンたちが真剣になってしまうと、笑えないし、設定として明らかに間違っている感じがする。うーん、やっぱり『ハルヒ』世界は初期設定の時点で間違っていると言いたい。

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『トップをねらえ2!』「第5話 星を動かすもの」

2006-04-25 | アニメ
 前回、第4話で大きな展開を迎えた『トップをねらえ2!』である。あらすじについては、特に語ることもないので、簡単な所感だけを。
 うーむ、このシリーズ天文学的な(一応、SF的と言っておく)数字の描写についてはすごいし、アクションもすごいのだが、筆者はあまりおもしろいとは思えない…。例えば、一話で宇宙怪獣に引っ掛けられたまま大気圏外に飛び出したノノが生きているのは、筆者は「ギャグ」なんだとそのときは思ったが、コメンタリーを見たらノノは実はロボットだったと。筆者が鈍いだけかもしれないが、気づかないよ!他にもノノの本当の正体とか、ロクに伏線も張られていないのに、ででん、と出してしまうのは、作品のつくりとして不親切だろう。
 一方で、前作『トップ1』から実はつながっているのだ、という作品の出し方は悪くないのだが、その方法がこなれていなかったのではないかと筆者は思う。さらに、全6話の構成では、詰め込みすぎているのではないかという印象もある。全13話とかだったら、フラタニティの細かい話とか、伝説化した銀河中心殴りこみ艦隊の話とか、盛りだくさんの設定を生かす機会もあっただろう。基本的に、映像ばかりを押し出し過ぎている感じなのだ。
 次回は、超巨大ノノに期待?あるいは、出てくるかガンバスター?とは言え、『トップをねらえ!』の第5・6話を上回る迫力は期待できないのかもしれない…。クオリティはめちゃくちゃ高いんだけどなあ。

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『ユメミルクスリ』

2006-04-24 | ギャルゲー
 rufのギャルゲー『ユメミルクスリ』をコンプリート!間に何度も中断を挟んだから、かなり(1ヶ月以上?)時間がかかってしまった。
 話としては、「限りなく透明に近いブルー」な俺が、いじめを受けている女の子/対人関係に異常に臆病な女の先輩/ヤクでキメまくっている年下の女の子に出会って、それぞれの悩みを解決しながら、自分の存在の薄さをも救っていくというもの。企画が田中ロミオなだけあって、人と人との間に起きうる葛藤をガシガシと書いている。それぞれの修羅場シーン(特にあえかシナリオは…)なんか、ぐえっと読むほうがうめき声を出してしまうくらい、苦しいものがある。そして、それを乗り越えた分の晴れやかさもあった。イラストもきれいだし、十分良作と言えるギャルゲーだったと思う。
 で、だが、あんまりヒロインは良いとは思わなかったんだが、攻略対象ではない義妹の綾がかなりいい味を出していた。主人公にからかわれ、反撃する様がなんとも良い。特に、あえかシナリオエンディングの、お父さんが綾の気持ちを代弁するシーンは(笑)。

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押井守『立喰師列伝』

2006-04-23 | 映画
 押井守の『立食師列伝』を見た。この作品は、一旦、実写としてとった映像(あるいは写真)を独特の編集・加工を通して、一種の「アニメ」として構成した映画だ。しかも、「役者」は、川井憲次などの押井作品をさせてきたスタッフばかりで、他、沖方丁や乙一などの若手作家を起用している。ただ、「役者」とは言え、実際に演技をしていると言うわけではなく、撮影した写真に編集の段階で動きをつけているだけであり、声もナレーションばかり多い。
 さて、評価なのだが、前衛的な映画作品としては、非常におもしろい試みをしている(多分、追随してくる人はいないし、押井監督本人ももうやらないとは思うが)。が、である。全体的にやたらと説教くさくて、ちょっとつらい。話としては、架空の犯罪者(と一応言っておく)である「立食師」の研究を軸に、戦後の日本史をなぞるかたちで、思想的に追っていく。その「思想」のあり方が説教くさいのである。基本的にコメディだが、笑えるのも、「ガン○ム」や「立つんだ、ジ○ー」などのオタクネタばかりで、それはいろんな意味でヤバイんじゃないかと内心突っ込んでしまう。この辺りは、監督の意図を疑わざるをえない。
 さて、問題は押井監督作品の「説教」くささである(本作にも「説教」という言葉についての解説がある)。あまりはっきりとは言えないが、多分、押井作品には、アニメなどのジャンルに対する批評性がありすぎるのである。むしろ、ジャンルに対する批評で作品自体が成り立っているとさえ言えるかもしれない。この批評性とは、「現在の状況の中で作られたこんな作品」であり、「こんな作品を作る俺とは何か」という作品に対して、本来コンテクスト、システム理論的に言えば「環境」に当たるものが、作品の中に折り込まれて(再参入して)いるのである(とは言え、批評性のない作品はまず存在しないし、あったとしても駄作だろう)。だから、押井作品は安心して没入することが出来ない。没入したと思ったとたん、作品の「外」にある、コンテクストに観客が差し戻されてしまうのである。これは、ロボット・アニメを「娯楽」として、見ている間はそこに没入してもいいけど、そのあとは「現実」に帰ってくださいよ、という富野作品とは対照か、あるいは作品外の現実への帰還という態度をより純化させたものだと言える。結果として、押井作品は、観客にとって「おもしろくない」、つまり「説教」くさい作品になってしまうのである。正直に言えば、筆者も、素直に楽しめた感じ(心地よい疲れ)が、観賞後ほとんどしなかったのである。
 あとは余談。沖方丁や乙一などを役者(とは言いがたいが)として起用するのはやめてほしい。彼らには、それぞれ独特の才能があるのは確かだが、甘やかしてほしくはないと思う。どんなかたちであれ、押井監督が彼らに「お墨付き」を与えてしまうのはどうかと(若手作家同士の交流などを狙ったのかもしれないが)。なお、筆者のように20代の人には、かなりわかりづらい内容があった。新左翼系団体の内ゲバなど。筆者は、北田暁大先生の『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読んでいたおかげで助かった。これから見る人がいたら、こちらの本を読んで予備知識をつけていくことをおすすめします。

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赤坂真理『ミューズ』

2006-04-23 | 小説
 今回は、至極簡潔に。
・『ミューズ』は赤坂真理が野間文芸新人賞を受賞した小説。
・母親に内緒でモデルのバイトをやっている女子高生が、歯の整形先で出会った妻子持ちの歯医者に恋をしかける。
・女子高生は、実は母が宗教の教祖みたいなことをしていて、過去の儀式とその失敗の経験から、セックスについて罪悪感をもっている。
・女子高生は、歯医者との恋愛とセックスを通じて、罪悪感を突破しようとするが、失敗してしまう。
・やたらとエロいが、女子高生は最後まで処女である。
・女子高生は「ミューズ」である。
・おもしろくない。
・なぜなら、女子高生は傲慢な被害者であり、そのように生きることをためらっていないからである。
・幸せになりたいなら、自分を大切に扱う一方で、自分をモノのように扱うことも必要である。

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青山真治『ユリイカ』(映画)「いつか終わるのかもしれない…、終わりなどないかもしれない…」

2006-04-23 | 映画
 『地獄の黙示録』も3時間22分と長かったが、『ユリイカ』はそれを上回る3時間37分…。こんなに長いとは知らなかったので見ている間は、終わらないんではないかと思ってしまった。
 お話としては、あるバスジャック事件で何人かが殺された中で生き残ったバスの運転手とある兄妹が、生きにくさを乗り越えながら魂を再生していくというもの。
 …というと、よくあるトラウマ‐回復ものと受け取られそうだが、本作の特徴はその徹底さである。作品全体がセピア色のモノトーンに沈められ、兄妹は全編を通して失語状態でほとんど話すことはない。作品全体が、暗い、というか沈んだ雰囲気をもっていて見ているとなんとなく息苦しい。
 さて、では長さと沈んだ雰囲気で作品に何がもたらされたかというと、一つの突破である。物語の始めにあるバスジャック事件で、運転手と兄妹は「偶然」に生き残った。周りの乗客がどんどん撃ち殺されていって、自身も銃を向けられながら生き残った(というより、単に死ななかった)のはただの偶然で、それ以上ではない。世界の未規定性(さまざまな事象や行為が根拠付けられないということ)が暴かれるという暴力的な経験を主人公たちはもっている。それゆえに、「なぜ人を殺してはいけないのか、死ぬなんんて大したことではないのではないか」というテーゼに苦しむのである。社会学者の宮台真司は「魂とは存在の交換不可能性のことである」とかなんとか述べているが、まさに主人公たちは「誰が死んでもおかしくなかった」状況で、自分の存在が交換可能な、かけがえなくなどない、ものであることを知ってしまったのである。その苦しみとは、まさに生きている限り果てしがない。その苦しみは、時が経ち薄れることはあっても、「未だ癒されぬ痕」として、生涯なくなることはない。その苦しみの果てしなさを表現するために、作品の端的な長さが必要されたのである。つまり「まだ終わらない…、まだ終わらない…」という風に。これが、2時間前後のパッケージ化された映画(別にパッケージ化が悪いと言っているわけではない。富野由悠季監督は「1時間半を超える映画は(娯楽として)犯罪だ」みたいなことを言っていたが、それはそれとしてわかるのだが、やはりケースバイケースだろう)なら、単に良く出来た映画として、消費されるだけかもしれない。これは、長さと沈んだ雰囲気を通じて、観客も苦しまなくてはならない映画なのである。
 しかし、ツラい。トラウマには一応決着がつくのだが、結局救いらしい救いが提示されることもない。それでも、そんな人生を受け入れて生きていく強さを見せたのは、まさに宮崎あおいの演技の賜物。じっくり根気よく見てほしい映画である。

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スタンリー・キューブリック『アイズ・ワイド・シャット』

2006-04-23 | 映画
 『アイズ・ワイド・シャット』は、わが敬愛するスタンリー・キューブリックの遺作。同氏は、この作品の公開を待たず亡くなりになった(合掌)。
 同作のあらすじを簡単にまとめるなら、結婚生活にだれてきた夫妻があるパーティでの出来事をきっかけにいさかいを起こしてしまう。それ以来奇妙な事件に巻き込まれるが、そのことで夫婦仲は回復する。「行きて帰りし」という物語の形式。
 全編がセクシャルなものに彩られていて、そもそも夫婦のいさかいもお互いに浮気心があるか無いかという議論に端を発していて、事件の最中も夫は女の裸ばかり目にする。そして、作品最後になる妻の言葉も「ファッ○しましょう」という言葉だったりする。まあ、夫婦の媒介項にセックスがあり、重要だと言う話である。事件の全貌じたいは最後まではっきりしなくて、そんな中で重要なのは「ファッ○」なのである。それでいて、作中の中では、女の体は端的なモノのように撮られ独特のエロティシズムを放っている。例えば、死んだ女の裸を動かすと、全身の脂肪が弾力のあるゆれ方をしたりとか。スタンリー・キューブリックの映画全般に言えることだが、全体的に異質な質感のあるフィルム。なんとも言いいがたい。というのは、キューブリックの映画はその質感こそ特徴的で、それというのは語りがたいものだからだ。ある意味、イカれている。
 ただ一つ、言わねばならないのは、キューブリック以外の誰が、女の裸をこんな風に撮ったか、ということだ。ある意味、これがこの映画の全てである。

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PS2版『スーパーロボット大戦OG』が出るらしい…

2006-04-21 | ゲーム
 まあ、タイトルのままの話なのだが、だんだん「スーパーロボット大戦」て何かわからなくなってきた。いや、むしろ自社デザインのロボットやキャラクターを出してゲームを作るのが普通で、いろんなアニメからロボットやキャラクターを集めてきてゲームを作るのが特殊すぎるのか。筆者は当たり前のようにGBA版『OG』も『OG2』もやっている、スパロボ好きなので当然買うが、なんか納得しづらい。うまく踊らされている気がする。『ゼノサーガ』がPS2の『エピソード3』を売るために、『エピソード1・2』をDSで出したが、スパロボも来るDS『OG3』を売るために、同じ商法を取ったということか。
 筆者的にかなりうれしいのは、清水香里inラミア・ラブレスの声をゲームで聞けるということ。アニメ版『OG』では出番少なかったし。「ならば私は、歩いて次の楽園を探すまでです」とかなんとか言ってシャドウミラーを裏切るあたりの最高にかっこいい場面をぜひとも声付きでやってほしい。
 しかし、シナリオで敵に操られたヒロインを愛の力で助け出す、というパターンを幾度となく繰り返すのはどうだろう。ものすごくアホらしいことをやらされている気がするのだが。ただのメロドラマ!

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フランシス・F・コッポラ『地獄の黙示録』

2006-04-21 | 映画
 3時間22分…、地獄だった。単純に、長いってのは罪だと思った。
 話としては、ある大尉が、イカレて軍の指揮系統からはずれて、ベトナム人とかを使いながら軍事行動をしている大佐を暗殺しろ、と命令され、その任務の様子を追ったもの。映画の始めのほうには、ベトナム戦争の狂気に満ちた(本当にこんなだったとは思わないが)戦闘が描写され、(不謹慎ではあるが)かなりおもしろい。が、映画が進むにつれ、狂気度が増し、何を言いたいのか、何をしているのかだんだんわからなくなってくる。最後には、戦争というか、ほとんど宗教の話であり、ついていけない。
 筆者が好きなのは、前半のキルゴア大佐(だっけ?)とのくだり。主人公たちは成り行きで、キルゴア大佐の空挺騎兵隊(要するにヘリ部隊だ)の作戦行動に同行するのだが、ヘリを飛ばしながらワーグナーの『ワルキューレの行進』を大音量でかけて機銃掃射する。しかも大佐はサーフィン好きで、戦場にボードを持ち込み、いい波(戦場はベトナムの川岸)だからサーフィンやってこいと部下二人に命令する。部下は時々大砲が飛んでくる川で頑張ってサーフィンをやっている。大佐自身も上半身を脱ぎさっさと戦闘を終わらせてサーフィンをしようと意欲を燃やす…。本当に不謹慎ながら、筆者は笑ってしまった。でも、戦闘の極限状況で(大佐は大砲が飛んできても平然としているが)こういう自分の趣味嗜好に撞着するというのは感覚として結構わかるような気がする。というか、観客としては明らかに不当だが、この映画このシーンまで観て切ってもいいような気がしなくもない(話の流れとしてではなく、単純な労力の問題だ)。
 すごい映画だが、それゆえに人に勧めることができない。まさに「チャレンジャー」向けの映画である。

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小津安二郎『東京物語』

2006-04-20 | 映画
 多分、一般的な評価として、最高の日本映画とされている小津安二郎『東京物語』を見た。
 …とは言うものの、レビューを書きづらいなあ。理由のひとつは、すごすぎるものというのは、往々にして、ここがいい、そこがいい、というような具体的な評価を無化してしまうということ。つまり、各部分が良いから全体が良く、全体が良いから部分が良いと。その連関のなかから一部を取り出して、良いということは、作品自体の良さを述べようとする意図を裏切り、作品自体を矮小化してしまう。もう一つは、映像の文法自体が違いすぎて、比較対象と持ち出しての評価がし難いということ。筆者は、基本的にカラー以後のエンターテインメント性の高い映画(『東京物語』にエンターテインメント性がないというのではない。エンターテインメント(娯楽)の志向性が違いすぎるのである)ばかり見ているので、映画に何らかのスペクタルを求める。が、『東京物語』にはそれがない。それがダメかというと、むしろスペクタルがないからこそすごい。しみじみせつせつとして、私小説風なんだけど、それがいい。ドキュメンタリー性(『少し前に取り上げた『殺人に関する短いフィルム』はこの傾向がある)ともまた違って、筆者はこういう映画をこれまでまったく観たことが無い(ちなみに、筆者の映画についての原風景は『インディ・ジョーンズ』シリーズだ)。
 結論としては、誰もが見たほうがいい映画。世界の映画十指に数えられる映画だし、きわめて現代的かつ普遍的(?)な問題意識ももっている。が、筆者は、この映画についてまともに語れない。完敗しました。(余談だが、デリダやルーマンは、「あることに決定を下せるのは、どこかに決定を下せないものがあるからだ」というようなことを言っていたような気がするが、そういうものなのかもしれない)

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『ジョゼと虎と魚たち』

2006-04-19 | 映画
 一部、不埒な意味で有名な映画でもあるが、周りで結構評判の高い『ジョゼと虎と魚たち』を見た。評判どおり、なかなかいい映画、なんだけど、残念ながら筆者には肌が合わない。テーマとしては、身体障害者との恋愛を持ってきているのだが、妙に美化された「純愛」をもってこないで、ある意味「性欲」を押し出したともいえる、愛情をもってきているあたりは、かなり好感が持てる。あとは、池脇千鶴の役者魂。この映画は、池脇千鶴の一人勝ち、という気もしなくはない。ツンデレキャラだし(この辺の恋愛が何でも乗り越えてしまう(最後は出来なかったが)という価値観は、ある意味ギャルゲー的とも言える。気持ちを確認しあった直後、セックスをはじめてしまうし)。
 だが、うーん、なんか感傷ぶっているという気はする。はっきりいって、この映画のなかに立派な人間はいない。それぞれ理由があるとは言え、世間をスネたり、いい人ぶったり、衝動に走ったり、となんだかな感じの人たちである。そんな彼らに泣いたり、自分を哀れんだりする甲斐があるのだろうか。なんだか盛り上がって、勝手に無理して、自分から足場を踏みはずしているだけとは言えないだろうか。そういう意味で、この映画と、その登場人物たちは「子供」である。大人の条件とは、泣こうが喚こうが、どうにもならない、無力ですらなく空回りしてしまう人生を、なんとかやり抜いていく人格のことだからだ。だから、最後の、主人公のあの涙は、あまりにナイーヴすぎるのである。あれで、もらい泣きしちゃう人もいるのだろうが。私たちがまなざしを向けるべきなのは、むしろ泣くことも無く、淡々と日々を生き続けるジョゼの「泣けない」生き方なのである。

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アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』「ツッコめ!あるいは、もっと電波を!」

2006-04-18 | アニメ
 前回と前々回、眠かったせいで見られなかったアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』をはじめて見た。原作のラノベのほうは、バカにしつつも全部読んでいる(イヤな読者だ)。まあ、いろんなとこから要素を寄せ集めてきて、バカ騒ぎしたり、青春してしまったりしている下らなさが、許しがたくもあるのだが、結局のところ、ちゃんと本屋で買って(ということは原作者に印税を払って!)、今まで読んでいるし、これからも読むのだろう(か?)。まあ、現在のラノベの一面を鋭く象徴する作品と言えなくも無い。
 さて、アニメ版のほうだが、結構原作の雰囲気を忠実なぞっていて(萌えエロくて)、アニメとして割と動くし、作画も乱れておらず、見慣れないアニメ会社だが、案外がんばっているなあと、とりあえずの好感(?)をもった。まあ、話の発想のアホさはどうにもならないが。主役格の声も特に違和感無く(長門だけ微妙だが、いかんせん長門のセリフ自体少ないので、判断は保留)、特にキョンの声は原作を読んでイメージしていた声よりもやや低めだったが、それがハルヒへのツッコミに妙に存在感を引き立てていていい感じ。いやいや、キョンに関してはいい声優を引き立てたと思う。原作のわけのわからない比喩や、もっとキレのあるツッコミを投入して、作品全体を引き締めたほうがいいだろう、と言うのが一点。
 もうひとつ。これは先の論点とは少なからず、相反するのだが、もっと電波を!つーか、収集がつかなくなるくらい、めちゃくちゃ電波にしてしまうのもこの作品についてはひとつの手だと思う。たとえば、エンディングでみんなでわけのわからないダンスを思いっきり踊っているのなんか、(原作の雰囲気を壊しかねないが(ハルヒが踊って済むような性格なら話が成り立たない))筆者としてはグっとくるものがあった。原作みたいに、妙にほのぼのしたり、青春しちゃったり、熱く燃えたりするよりも、電波(サイケデリック)に走ったほうがよっぽど作品として魅力が出てくるのではないか。ただ、先のツッコミと並べると、ツッコミというのは、異常(電波)を正常に戻す働きがあるから、基本的に両立しない。だから、ハルヒの電波に対しツッコミつつも、そのツッコミもやはり電波(たとえば、ハルヒの持ち込んだバニースーツにツッコミつつ、エロスを独白してしまうような方向で)というのが、筆者としてはアニメ版『ハルヒ』について理想的なのである。まあ、原作ファンにはバッシングを食らうかもしれないが、せっかく媒体を変えてやるからには、原作に対する批評性を入れてほしいのである。
 さて、グイグイ系の主人公で、ハルヒが逆立ちしても敵わないと筆者が思っているのが、庄司卓『それゆけ宇宙戦艦ヤマモト・ヨーコ』の主人公・山本洋子である。洋子もまた、宇宙のキーパーソンなのだが、なんでそうなのかがひた隠しにされ、今年発売するであろう最終巻で明かされるのである。つーか、洋子にあってハルヒに無いもの、それは信念である。逆境の中で貫くような何かである。そのおかげで、作品内で作品自体を壊してしまうトラブルメーカーのハルヒとは違って、洋子には作品自体を牽引する力がある。ハルヒは力を持たされたが(作者はおそらくそうは描いてないのだろうが、筆者にはそうとしか読めない)、洋子は力を作りだしている。そんなわけで筆者としては、『ハルヒ』好きには『それゆけ宇宙戦艦・ヤマモト・ヨーコ』を読んで、よりディープなオタクネタ、女の子同士の友情、構築されたSF設定、キャラクター造詣の何たるか、を楽しんでほしいのである。

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