哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

高橋源一郎『虹の彼方に』

2007-02-27 | 小説
 高橋源一郎が初期に書いた、三作目の小説『虹の彼方に』を読んだ。高橋源一郎というのは、一般向けにはそれほど知られていないが(何せ一般向けな小説を書いていない)、文学好きには有名な名物小説家/文芸評論家である。書く小説は、日本の文豪やウルトラマン、あられちゃんなどなど、様々な実在の(?)人物が登場する、引用に満ちたもので、話の筋も割とでたらめ(?)な、わかりにくいポストモダン小説、アヴァンギャルド小説である。何を隠そう、僕はこの作家が好きで、デビュー前に書いた小説をデビュー後に2番目の小説として発表した『ジョン・レノン対火星人』は僕の好きな日本近代文学の5位くらいには入ってきそうな勢いである。ま、実はこの影響を受けて大学の卒業制作の小説を書いたら(まあ、『ジョン・レノン…』ほどわかりにくくないが)、見事に失敗してしまったという、ちょっと僕にとっては恥ずかしい思い出がありもするのだが。

 で『虹の彼方に』だが、引用を駆使して、意味の消去、無意味の羅列によって軽い宙に浮くような楽しさをもたらそうとしている小説に読める(ただし、哀しみは、ある)。まあ、正直「意味に抵抗」しているので、理解はしづらいし解説も書きにくい(解説の矢作俊彦も逃げている)。だから端的に「印象」として感想を書くなら、ちょっと楽しいしちょっと苦しい。また、読む意味がないとは感じない。変な小説。高橋氏自身が最近になって書いた「あとがき」のような文章には、若い高橋氏が「全世界」を書くつもりで書き、失敗すべくして失敗したというような旨が書かれている。これを読むと、なるほど、とちょっとうなずいてしまうところはある。具象的なことを書いて「全世界」を書ききるのは容量などの物理的な制限によって不可能であるが、高橋氏の一見意味不明な文章、つまり「抽象絵画」のような一見意味のない文章ならば、迂回しながら、それでも実はショートカットとして、「全世界」の記述に漸近できるのではないかというような気がする。ふむ、「抽象絵画」のような、とは我ながらうまい言い方のような気がする。あるいは、現実にすでに存在するものから、そのエッセンスを取り出してきて過剰に表現するという意味では、「印象派絵画」に近いかもしれない。実際に高橋氏の小説の雰囲気は「印象派絵画」の明るく軽やかなイメージに近い感じもする。
 「意味」ではなく「印象」、少なくとも僕は高橋氏の小説をある程度までこう定義づけて良いように思う。高橋氏はそんな稀有な小説を描ける作家だが、まあ、一般受けしないのは当然という気はする。何せ、ついてくのがちょっと大変。好きなんだけどなあ。

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青山ユニマット美術館『ミレー、コローとクールベ展』

2007-02-27 | 展覧会
 青山ユニマット美術館に『ミレー、コローとクールベ展』を見に行ってきた。というのも、朝から日本で二番手の広告代理店の筆記試験があって、その帰りに渋谷のビックコンタクトでコンタクトレンズを買い、その後に青山まで歩いていって見たという次第なのである。

 『ミレー…展』と言っても、青山ユニマット美術館自体割と小さな美術館であることもあって、小さな美術展だった。青山ユニマット美術観の展覧スペースはビルの2、3、4階にあって、一度4階まで上がってから下りながら絵を見ていくことになるが、『ミレー…展』は2階のみ。20点くらいの展示だろうか。3、4回は常設展示らしいシャガールなどの絵が展示されている。どちらかといえば、『ミレー展』よりもピカソや藤田のある常設展示のほうが豪華な感じもするが、『ミレー展』もなかなか。静かで適度に写実的な絵が並び、私なぞはギュスターヴ・クールベの『シヨン城』が気に入り、絵葉書を買った。常設展ではユトリロという画家の絵が気に入ったが、残念ながらこちらの絵葉書はなかった。

 大通りからちょっとわき道に入ったところにある、大きな画商屋のようなたたずまい(それでも外装内装ともに、新しいだけあってとても綺麗だ)の美術館だが、人もそれほど多くないし、シャガールの幻想的な雰囲気に浸るには良い美術館である。規模が大きくない変わりに、展示されている絵にもつまらないものはなく、解説が充実していて良い美術館。大美術館の広々したスペースはもちろんいいが、こういう美術館はもっとあって良いと思う。
 しかしまあ、今でこそ平日の昼間に美術館を見に行っていられるけど、就職したらなあ、という憂鬱はぬぐえない。まあ、有給でもとって見に行くかなあ。

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2004年以降のアニメ/ゲーム・バトルロワイヤルものについて

2007-02-26 | ギャルゲー
 『舞-HiME 運命の系統樹 修羅』をやっていて気になったのだが、『舞-HiME』(アニメ原作は2004年の放送)シリーズを始め、TYPE-MOONの『Fate』シリーズ(2004年~)、『ローゼンメイデン』シリーズ(アニメは2004年から、マンガは2002年から)と、2004年以降のアニメやゲーム作品で、犠牲を伴った召喚によるバトルロワイヤルものが目立っている。さらにバトルロワイヤルに勝者には願いをかなえる力が与えられるというところまで一緒である。『舞-HiME』では、自分の大切な人の命と引き換えにチャイルドという化け物を召喚し(チャイルドが死ぬと大切な人も死ぬ)バトルロワイヤルを繰り広げる。『Fate』ではサーヴァントという英霊を召喚するのだが召喚中は魔力を消費し、ヘタをするとサーヴァントにマスターが殺されてしまうこともありえる。『ローゼンメイデン』シリーズでは、ローゼンメイデンという生けるアンティークドールの活動を維持するにはマスターたるミーディアム(ただし、この名称は原作のマンガでは登場しないらしい)が体力を消費する。しかも、どれも召喚されたものは基本的には召喚者よりも強い、というところまで一緒である。
 とまあ、こんなことに気づいたので、なんで2004年に出された作品にこういうモチーフが多いのか調べてみた…のだが、あっさり答えが見つかってしまった。とりあえず、Wikipediaで調べたのだが、リンクで辿った『仮面ライダー龍騎』の項でまんまの記述を発見したのである。これらの作品のモチーフは確かに2002年に放映された『仮面ライダー龍騎』に影響されている。『龍騎』は僕は見ていないので、概要しか知らないのだが、13人のライダーがモンスターを召喚しながらバトルロワイヤルして(ちなみに、モンスターに食われてしまうライダーもいたと思う)、勝ち残ったものの願いが叶えられるという、まんまなモチーフである。『ローゼンメイデン』のマンガ原作以外の作品の2004年発表というのは、2002年にこれを見て、企画し、2003年いっぱいくらいで製作したということなのだろう。これを知って、安易なのかなあとか、年代ごとの作品のテーマやモチーフの趨勢にはちゃんと波があるんだなあとか思ってしまったのだが、少なくともこれらのモチーフが優勢になっているということは、時代にマッチした要素が何かしら存在したということなのだろう。
 考えてみれば、現代ほど人の成功/失敗がゼロサムゲーム(ゲーム参加者全体の利益と損失の和が0になる)であると社会通念になった時代はないのかもしれない。一方で、すべてを手に入れたように極大の成功を収める人がいれば(たとえば、最盛期のホリエモンや小泉前首相)、一方ですべてを失って犯罪や自殺に走る人もいる。しかも、その成功/失敗を決めるゲームに参加するには、社会資本や文化資本などの元手と、それに対するさらなる投資(僕が言っていることに一番近い例を挙げれば、株式売買だろう)が必要である。まあ、とにかく何らかの投資(という犠牲)をして会社なりホームページなりの、自分とは違うものだけれど自分の延長的なアバター(要は自分の分身)を立ててなんらかのゲームに参加する、ということが極めて制度化されているという気はする(極端な例を挙げれば、裁判の弁護士)。逆に言えば、何らかのアバターを立てられず、自分の体力や容姿などをそのまま売る(しかない)者は、アイドルやタレント、スポーツ選手のように極端な社会的な人気を得るか、土方の作業員やトラックの運ちゃんのようにあまり良い目で見られない(もっとも、アイドルの場合は、「プロデュース」として、アイドルはプロデューサーのアバターになっている気もする)。
 とまあ、かように犠牲を伴った召喚ものバトルロワイヤル賞品つき、というのはかなり時代にマッチしたモチーフを扱っているような気がするのである。たぶん、これらの製作者は現代社会への批評、などということは特に考えてないと思うのだが、それにも関わらず、現代社会の特徴を作品に「いつのまにか」内包してしまうという傾向性には興味深いものがある。エンターテインメントだから/だけど、という理屈を超えて、単に「そうなってしまう」という端的な事実性。果たして、それをどう扱い観察するのか、しないのかというのは考えるにたるテーマではないか。とまあ、ちょっと社会評論ぽい締めになりました。

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今週の『コードギアス 反逆のルルーシュ』

2007-02-25 | アニメ
 また、いろいろと話が動いてきました。が、面白いのはなんといってもロイド伯爵とその周辺。ニーナさんもロイド伯爵の弟子になりそうな勢い。もしそうなれば、ニーナがユーフェミア副総督に会う機会も出来そう。ロイド役の白鳥哲さんは声優としては富野監督に見出され、『ブレンパワード』や『無限のリヴァイアス』で姉弟関係のトラウマあり、かつ自問型の主人公を好演していたが、最近は脇役キャラで光り輝いている。なんでも、白鳥さんが監督した映画が海外の映画祭で受賞を受けたらしいし、そのうち落ち着いたらぜひ見てみたい。

 黒の騎士団は、規模の拡大を機に組織図を書き直し、本格的に軍隊みたいになってきた。カレンさんなどはゼロの親衛隊に配属されて、ときめいている(笑)。この心酔っぷりは、後にゼロの正体がルルーシュだとバレたときに事件になるかなあ。しかし、ディートハルトがゼロに対し意見したり、あまり一枚岩でもない模様。ディートハルトは返り咲きを狙って、独自にブリタニア側のスパイとして活動しているのかと思いきや、本気で報道・記録バカ。その割には手口があざとい。というか、ゼロはカレンさん以外に、あまり人望を集めていないような気もする。
 今回の一番のポイントは、ブリタニア皇帝とシュナイゼル第一皇子だろうか。ブリタニア皇帝がテレパス交信みたいなことをしていたけれど、ひょっとしてC.C.と? シュナイゼル(かその部下)は謎のナイトメアでいきなり拡散ビーム(輻射波動?)を放つが、あの意図は? シュナイゼルだが、ブリタニア皇帝の言葉や、コーネリア側と黒の騎士団側との技術力のバランスを考えれば、自分でナイトメアの設計もできる、パプティマス=シロッコのような人物だろうか。ブリタニア皇帝がジャミトフ・ハイマンだとしたら、結構当てはまるような気がする。案外、シュナイゼルはゼロの正体とかC.C.やギアスのことなど、ほとんど知っているのではないか。
 最後に気になるのは、スザクは後にはゼロの黒の騎士団側につくのかなあ、ということ。少なくともブリタニア皇帝やシュナイゼルが上にいる限り、スザクが望むようなエリア11の改善は見込めそうにない。ユーフェミアがスザクを専属の騎士にすることは、イレヴンに希望を与え不満をそらす同化政策として歴史上少なからずあったことなので、占領政策としてはかなり有用だと思うのだが、ブリタニア貴族にはやたら評判が悪い(もっとも、ユーフェミアがそこまで打算を働かせたようには見えず、報われないスザクへの個人的な共感だろうが)。さすがにゼロとスザクが簡単に和解しても面白くないので、ブリタニア本国、エリア11(コーネリアら)、黒の騎士団の三すくみのなかで、スザクはエリア11側についたりしそうだと思う。その前にまあ、来週はあの状況でゼロやスザクたちがどう生き残ったのかという説明が大変そうだけど。

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CIRCUS『舞-HiME 運命の系統樹 修羅』

2007-02-24 | ギャルゲー
「想い人……。なんだか、甘いような、切ないようなその響き。俺も、誰かに想われるような人生を歩めているだろうか」


 CIRCUSの『舞-HiME 運命の系統樹 修羅』を攻略。2、3ヶ月ぐらいかかったかな、長いよ。

 原作アニメとの主な違いは、新任教師で媛伝説を研究する新任教師の主人公が登場したり、原作とは登場人物が少し変っていたりするところ。まあ、それ以上に違うのは、原作のテンポのいい展開と比べると、割と普通のギャルゲーな雰囲気の点。
 評価は、まあまあ、というところかな。取り立てて面白いわけではないが、原作アニメがテンポ重視で謎の解明など設定の点で甘かったのに対し、『系統樹』は謎の解明が充実している。シナリオも、評判の良いなつきシナリオをはじめとして、ギャルゲーとして良くできている。僕が好きなのは、なつきシナリオ、深優シナリオ、朔夜シナリオ。なつきシナリオは、本作の中でもっとも劇的な展開があり、深優シナリオは星詠の舞から外れるものの物語の骨子がよくできている。朔夜シナリオはラストが納得できないと評判がよくないんだけど、星詠の舞で負けたHiMEたちに償うという意味ではまあ、悪くない結末だと思う。それに、OPの『阿修羅姫』などに表されるような作品全体のテーマ、他人の犠牲を引き換えにしなければ守れない大切な人、というモチーフをもっとも忠実になぞっていたのも朔夜シナリオだったと思う。
 ツボは、超ツンデレキャラになってしまった、なつきか。変態教師と不良少女のからみは笑いと微笑と失笑を誘う。しかし、なつきはあんなに弱いキャラクターだったかなあ。『舞-乙HiME』の中盤の次回予告で、シズルが「ナツキはヘタレなんが可愛いんや」とか言っていたけれど、それを地でいっている気がする。キャラクター自体の原作からの再現度は高いんだけど、作品自体の雰囲気の違いで、はて、と疑問符がついてしまうところもある。まあ、プレイヤーの代理たる主人公が物語や戦闘に影響を与える必要があるので、HiMEがただ強い、というのでは主人公の存在感が薄れてしまうのだろう。しかしこの主人公、ヘタレでもない代わりに、イマイチだよなあ。

 音楽は、普通、というかつまらない。OPのALI PROJECTとか挿入歌の妖精帝国とかEDの美郷あきがなければ辛かったところ。グラフィックは、デザイナーが複数いて、それぞれ違う特徴の絵を描くせいでまとまりがないが、平均以上。声優は、原作の声優をそのまま移行させているだけあって豪華。
 まとめて言えば、原作のゲーム化として、十分及第点な内容。しかし、ギャルゲー界全体で見ると、『Fate』シリーズとか強烈な作品がたくさんあるせいで、かすんでしまうのは致し方ない。

 とりあえずシナリオのお勧め攻略順。

1、舞衣シナリオ
2、命シナリオ
3、なつきシナリオ
4、静留Other Story
5、深優シナリオ
6、碧シナリオ
  奈緒シナリオ
7、朔夜シナリオ(作品のグランドエンド的なものは、舞衣か朔夜シナリオ)
0、他のOther Soryは適当に。

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『WILD ARMS the Ⅴth Vangard』戦いを終えて…

2007-02-23 | ゲーム
 『WILD ARMS the Ⅴth Vangard』で、最強の隠しボス、ラギュ・オ・ラギュラを倒した。ただし、宝箱を全部取っていないのでブラックボックスを倒せるわけではないし、コンプリートッ!とはいかないものの、まあいいかと。

 『Ⅴ』だけど、『Ⅳ』と比べると結構好評で、『WILD ARMS』シリーズの面目を保てたどころか、株を上げたようである。前に書いたとおり、僕は作品全体の明快さから、『the Ⅳth Detonator』のほうが好きなのだけど、まあ普通は『Ⅴ』の方を評価するわな。やり応えがあるし、ストーリー的にも高度なことをやっている。オープニングテーマとヒロインに水樹奈々を起用して、一般受けもいい。うーん、たぶん僕に『Ⅴ』の少年マンガっぽい乗りが合わなかったのかな。まあ、ぐたぐた言ってても仕方ない。


付録:ラギュ・オ・ラギュラの倒し方。
前提:お勧めバッジ(全員)
    シェリフスター
    ミストローク
    やぎのぬいぐるみ
    デュエルキャスト(天のミーディアム装備者)
   全員レベル100
   ホーリーベリー・フルリヴァイヴを20個以上、アンブロシアも数個。

 まず、ラギュの1兆度およびマイナス一兆度の直撃を食らえば全滅なので、これへの対策が第一。
耐え方:
 1、最も基本的なのは、一兆度およびマイナス一兆度の予備動作として「赤黒い…」と「青白い…」が出たときに、対応するレイポイントに移動し、ダメージを軽減する。これなら瀕死近くにはなるけれど、HP全快ならば耐えられる。ただしこれを確実にするに、レイポイントを確保しなければならないので、必ずキャラを置いておく。また、ラギュのレイチェンジで赤と青のレイポイントのどちらかがなくなってしまったら、天と月のレイチェンジで再出現させる。「赤黒い…」「青白い…」の動作をされたら、その色のHEXにいないキャラはなるべく、その色のHEXへと移動する(まず、間に合わないが)。
 2、最も理想的なのは、月のインビジブルで絶対防御を張る。ただしこれはタイミングが難しいので必ずしも当てにならない。しかし、これで三人全員分防御できたときにはちょっと爽快。
 3、あくまでセーフティーとして、やぎのぬいぐるみの一度だけ戦闘不能回避を使う。

戦い方:
1、主力は天(のミーディアム装備者)のハイ・ブラストと剣のハイ・クラッシュ。特に前者はデュエルキャストで2万以上のダメージを期待できるので、終始戦闘に参加。
2、3人目としては、運がお勧め。ミスティックでホーリーベリーやグレートアップルを使い、回復および補助(回復役は、アイテムが充実していれば全体回復のFPが少なくて済む運の方が海よりも使い勝手が良いし、反応も上)。また、ラギュに対しては、なるべくスロウダウンをしかけて手数を減らす。こうしないと、最悪には「赤黒い…」(「青白い…」)→「一兆度」(「マイナス一兆度」)を間隙なくうたれる。
3、一兆度以外の攻撃については、ミストロークでダメージを最小限に抑えられるはず。ただし、食らった場合にはすぐに回復したほうがいい(赤/青属性HEXに入っても耐え切れなくなるため)。なお、戦闘不能になった場合にはすぐにフルリヴァイヴで蘇生。できれば赤/青のレイポイントで。
4、コンビネーションアーツやガーディアンは基本的に使わない。FPをミスティックやインビジブルでを常に使えるようにするため。
5、一番怖いのは、ラギュにレイポイントを押さえられた上で、レイチェンジを使われ赤/青のレイポイントが消えること。このときには、とにかくレイチェンジを使いまくって、再出現させると同時に、ラギュをレイポイントから追い出す。
6、レイポイントを抑える上では、剣の移動制限解除や海のジャンプを最大限活用する。

 これだけやれば、運が悪くない限り50パーセント以上の勝率はあると思う。

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人間と社会の「コドナ化」、あるいは文学の遺体損壊

2007-02-21 | Weblog
 まあ、ボロボロの内閣への突っ込みを連続して書くのもあんまり芸がなくてヤなのだが、政治問題うんぬん以外に気になったことがあるので書いてみる。

 とりあえず、本日の朝日新聞の四面などを参照していただきたい。
 要は小泉元首相が安倍首相たちに、「鈍感力」という言葉を持ち出して「どうせ何をやっても批判はでるんだから、支持率の低下など気にするな」と激励したという話だ。問題はこの「鈍感力」という言葉、今月出版された渡辺淳一のエッセイ集のタイトルらしいのだ。まあ、とりあえず高い支持率を背景に改革(?)を強行したあんたが言っても、説得力がないぞ、と。それに、世論の支持率低下だけではなくて、自民党内でも批判の声が上がっているぞ、と。でまあ、「鈍感力」がどうして気になったかというと、安倍首相は首相に成り立ての頃に、『美しい国へ』という新書をだして、「美しい日本の私」として大江健三郎のノーベル賞授賞式での演説「あいまいな日本の私」を批判しているのですね。寡聞にして僕はどちらも読んでいないのだが(つまり議論の精度が甘くなっているので、差し引いて読んで欲しい)、要は大江健三郎は文学者らしく、日本の近代化はまだダメみたいなことを言ったのに対し、安倍首相は「いや、日本は実はこんなに良い国なんだ」ということを言ったのだと思う。でまあ、僕は思ったのである、この内閣はノーベル賞を取った日本における数少ない世界レベルの作家(もっともノーベル賞も怪しいところがあるが)の意見に耳を貸さず、渡辺淳一がごとき通俗作家の言葉を用いるのかと(実は、渡辺淳一の本も一冊も読んだことないのだが、僕が好きな作家の高橋源一郎が『失楽園』を1ページ読まずにボロクソにダメ出ししている。曰く、常套句ばかりだとか、よくわからん説明調の文章がいきなり現れるとか。福田和也なども含めて、まともな文芸評論家の意見では、渡辺淳一の評価は概して悪い。なぜか山田詠美は、渡辺淳一と「冬ソナはセックスがないからダメ」と対談していたが)。
 今は「文学が死んだ」とか言われて、確かにあんまり元気がないし人気がないわけだけど、よりによっては首相や元首相が大江健三郎を批判し(別に、大文学者だからといって批判するな、というわけではないけれど)が渡辺淳一を引用するというのは(あと、テレビでは、時々渡辺淳一が「文壇の大家」みたいに紹介されるが)、あんまり。文学の遺体損壊みたいなもんである。まあ、確かに大江健三郎の小説に「美しい」という表現は似つかわしくないけど(そういう問題じゃない…)。
 
 付け加えて言えば、人間と社会の「コドナ化」というテーマにおいて、小泉政権というのは分水嶺だと思うのだ。というのは、知ってのとおり、小泉首相はお祭り好きで、自民党をぶっこわすと音頭をとり、荒川静香が金メダルを取ればまっさきに電話をし、各界の著名人(!僕はこの言葉が嫌いだ)の多数招待してお花見大会を開き、荒川静香を連れて『トゥーランドット』を見に行ったり(ちなみにこのとき、あまりのパフォーマンスとしてのあざとさに、観客がみな小泉元首相にブーイングを送ったという。ちなみに、この事件は朝日新聞を含め、メジャーなメディアでは報道されなかった)と、やることが子供じみていたのだが、これが受け入れられてしまった。これは批判的な知識人の正しさという権威を、子供じみた楽しみの追及するという快楽が諧謔しひっくり返してしまった瞬間だと思うのである。これは道化の所業だ。

 なおも付け加えて言えば、小泉元首相は「格差なんてどこにでもある、小沢党首が言っているのは現実を見ていない共産主義の妄言」みたいなことを言っているらしいが、これも問題。格差は確かにどこにでもあり解消しきることはできないし、もし本気でやろうとすれば暴力を伴ってしまうようなものではある。しかし問題は、今現に格差が存在する、ということ以上に、格差が次の世代での格差を生むという、格差スパイラルとでも呼べるような構造が社会に出来上がっていること。メジャーなのは、「上流」の家庭が子供の教育に金をつぎ込みよい学校、良い大学に行かせ高い社会的地位を維持するのに対し、「下流」の家庭では教育に金を出せないので技能や知識のいる社会的地位の高い職につけないという、経済=教育格差である。あるいは、経済状況によって人付き合いが変わるという、人脈格差など、経済が核となって他の格差につながり再び経済に格差が生まれるという例には暇がない。こうした、格差が格差を生むという構造がある限り、小泉元首相の言葉は猛烈な暴言である。というのは、あなたたちは下流なのだからそのまま良い生活ができないず生きていけということである。果たして、下流としてあまり良い生活ができないままでいることを押し付けられた人は、この国で生きていきたいと思うだろうか。元首相、あるいは首相としては、たとえ「下流」の人だろうと、その人たちの生活を預かっているという義務があるのではないだろうか。たとえどんな政策を取るにせよ、こんなことは言ってはいけないのである。
 かように、最近は言葉の問題が多い。この前柳沢厚生労働大臣は、「国語が得意ではない」とかいって答弁を逃げたが、とりあえず政治家が「美しい日本語」を使えないのである。ほんと、文学は死んでしまった。

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人間と社会の「コドナ化」/内閣、学級崩壊

2007-02-20 | Weblog
 2月18日のコメントで、「コドナ化」というテーマを出したので、それについて補足したい。
 「コドナ」という言葉は、依然どこかで読んだのだが、誰かが奈良美智の作品、不機嫌な顔の子供がタバコを吸っている絵、を評するときに、オトナともコドモとも言えない「コドナ」が奇妙な魅力を放っているうんぬんという言葉を使ったのを持ってきたのである。この人は「コドナ」という言葉を奈良美智の作品の評価にのみ使っていたのだが、私はこの言葉を面白いと思い、社会や人間の現状を記述するための言葉として転用している。というのは、社会と人間の幼稚化(オトナの子供化)と、「コドナ」の水準まで落ちてきてしまった大人たちの振る舞いを真似た子供たちの「大人(ただしコドナ)化」(コドモの大人化)の二つの意味である。前者の例としては、とりあえずホリエモン(と小泉元首相)を、後者の例としては、とりあえずやたらとお金にセコい子供たちを挙げておきたい。

 まあ、いい年大人がオタクカルチャーに夢中になったりしていることをはじめとして、今の社会は総じて幼稚化している。行き当たりばったりな死傷事件が横行したり、「怖かったから」という理由でひき逃げしっぱなしだったり、偽装がバレれば他人のせいにし、給食費も支払わない。とにかく、責任(感)を伴わないという意味、あるいは自分の欲望に対する屈託のなさという意味で「幼稚」なのである。子供も子供で、こんなオトナたちを見て育ってきて、集団でホームレスを襲って殺人強盗などをしているなど、社会学者の宮台真司先生の言葉を借りれば、「社会の底が抜けている」。
 ただ、この社会の幼稚化というのは、なるべくしてなった結果だと言える。というのは、高度成長期の後期から、消費を加速するために、広告やキャッチコピーなどの手段(「欲しいものが欲しいわ」)で、資本が人々に「あなたたちはまだ足りない、まだまだ足りない」というメッセージを注入し続けた結果、人間と社会に「永遠の成長(ビルドゥングロマンス)」という幻想が与えられてきたからである。このため、人は「成熟(した大人)」という「諦め」を含んだ人間像を忌避するようになった。そのため、社会の中で人がやりたがらないような「汚れ役」をあえて引き受けるような人々が少なくなってきた(現在においては、「成熟した大人」が汚れ役を引き受けてしまったがゆえ、つま弾きにされている姿をちらほら目にする。とりあえず、上にも下にも迎合しない中間管理職を見よ)。常に、何かが足りないという飢餓感を抱え、消費に駆り立てられ追い立てられているがゆえ(最近では、「感動」消費への駆り立てがメジャーだ)、こらえ性がないし、ルールを知らない。また、自分の欲望を邪魔する相手には容赦がないし(たとえば万引きを注意したら、「あんたに関係ないでしょ、邪魔しないでよ」とった感じ)、一度方向が決まれば反省したりすることがない。

 とまあ、私はだいたいこんなふうに社会を見ている。だが、よくある消費社会論の焼き直しに過ぎないし、現状の複雑さに対して、何かもっと説明することがあるような気がしてすっきりしないのも確か。こういうのもまた、「消費」のバリエーションのひとつに過ぎないのかもしれないけど。

 最後に、特に社会の「コドナ化」の例を挙げたい。先日、自民党の中川幹事長が閣僚に対し、閣議の際に首相が部屋に入ったら私語をやめ、起立するように、と注意したが、私は学級崩壊のクラスかよ、と突っ込んだよ、ha、ha。閣僚の方々も、そんなことはないと反論しているが、こういう発言が出る時点で、内閣の幼稚さを示唆しているような気がする。しかし、教育再生を掲げる内閣が学級崩壊では、教育の未来は暗いね。内閣支持率が不支持率を下回ったし、安倍内閣もカウントダウンがはじまっている。次の選挙で与党/野党がひっくり返るほどとも思えないし(残念ながら、小沢代表もイマイチ煮え切らない)、ついにローゼン閣下こと麻生太郎首相の、「ローゼン内閣」(!)発足か。自民党は嫌いだけど、これはありかなあ。

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今週の『まなびストレート!』と『ときめきメモリアルOnlyLove』とその他いろいろ

2007-02-20 | アニメ
『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』
 個人的には、これまでのエピソードの中で一番面白かった。特に前半の生徒会メンバーの壊れっぷりがツボ。ちょっとシュール。一方で、みかんが愛光学園の生徒会長さんと話しているときなどは頬が火照ったり、妙に百合っ気のある演出多し。そういや芽生はむっちぃのスカートを脱がそうとしていた。うすうす気づいてはいたけど、このアニメ、ヘンだぞ。あとちょっと良かったのは、花火の描き方。案外アニメではそういうふうには描かれない演出ながらも、なかなかリアルで夏の終わりの風情をかもしだしていた。あとは、固有結界を展開して学園祭の風景を妄想するまなびの姿もちょっと良かったけど、結局なにも起こらず、それだけかよ、という突っ込みは、あった。
 で、先週先々週とまなびが主人公の座から落ちた話が続いていたけど、今回も微妙にみかんが主人公。表向き主人公は見栄えのするまなびだけど、作品テーマ的には主人公はみかん、ということなのかな。
 あと、いまいち立ち位置のつかめない小鳥桃葉。生徒会役員や助っ人でもないのに(役に立ってないし)生徒会室に入り浸りまなびたちとつるみ、ダウナー系かと思えば今回みんなに話しかけまくるがスルーされ、とにかく何なのかよくわからない。そもそもまなびたちの友達なのかも怪しい。たぶんこのアニメは1クール12話だろうが、早く小鳥をキャラ立ちさせるエピソードをつくらないと、最後までなんなのかわからないひとになってしまう。

『ときめきメモリアルOnlyLove』
 前回、四画関係の緊張が高まり、今回も陸君と春日さんは会うなり顔を火照らせたりと、なぞの固有結界を展開している。弥生さんとはそれなりに和解。そして、天宮さんと会えば、逃げ出すなど、よくわからないヘタレの片鱗を見せる(でも陸君の憂いを帯びた顔の作画が妙に出来が良かった)。が、後半になると、犬飼君に諭されあっさり事態を収拾。いきなり、さわやかなエンディングを迎えてしまう。これだけ期待させといてこれはないのでは…、もっと引っ張れよ。あと犬飼君がある意味かっこよすぎ。『スクラン』の播磨拳児と並んで(CVはどちらも高橋広樹)こんな不良いねぇの二強である。しかしホントに、先週のあの盛り上がりはなんだったのか。やはり、主人公がヘタレている方が恋愛ものは面白くなるのか。

『Master of the Epic the Animation age』
 先週あたりから、プロデューサーを名乗る悪役が出てきて、微妙にワラゲッチャーが面白くなった。擬似的な楽屋ネタでもおもしろくなる分には助かるが、オンラインゲームの紹介や説明を兼ねたアニメで、ゲームには出ない(であろう)戦隊もののパロディや巨大ロボットを出すのはどうかと。紛らわしいし、不誠実ではないか。

『SHUFFLE! Memories』
 今回は芙蓉楓編の後編。僕はこのアニメのオリジナルであるアニメ版『SHUFFLE!』を見ておらず、Wikipediaで読んだ情報をもとに推測するしかないのだが、この『Memories』は前作が不評だったのを受けて、そのフォローをするために総集編的に物語を作り直す、というコンセプトかと思っていたのである。前作では、主人公は亜沙先輩と出来てしまったので、本作ではそれぞれのヒロインとのハッピーエンドを用意する、とかいう風に(特に、前作の楓はぶち切れていてやばかったらしい)。しかし、芙蓉楓編後編の蓋を開けてみると、やはり主人公は亜沙先輩とひっつき、楓はぶち切れており(というか、ここまで修羅場とは思わなかった。楓、完全に悪い人。原作のゲームも、苦しい展開は入れずとにかく明るくというコンセプトだと聞いていたが…)、僕はこういう展開は結構好きだが、ファンには許せないだろう内容のものだったと思う。というか、それ以前に、前作を編集しなおした、ただの使いまわしじゃないか、という内容以上のものではなく、連続アニメシリーズとしての、権利に関わってくると思う。重ねて言えば、僕は前作を見ていないため比較が出来ないので、これ以上のことは誤爆になりかねないので控えさせてほしいが、これから『Memories』がどう評価されるのかは、注意したいところ。角川もけっこうあざといからなあ…。

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先々週と先週の『コードギアス 反逆のルルーシュ』

2007-02-19 | アニメ
 先週は総集編でした。このアニメ、8話ごとに総集編をやるのかな。

 先々週は、珍しくスザクに本格的にスポットがあたっていた。藤堂さんはスザクの師匠筋にあたるみたいで、ランスロットの装甲が剥がされた折に顔を合わせ因縁を確認する。それにしても、ルルーシュのランスロット封じ込め作戦は、相変わらずの強引さ。あんなにうまくハメられるのかな。しかもエース級のパイロットが乗った新鋭機6機(ルルーシュのナイトメアは戦力にならない…)相手に粘れるスザクはどんなパイロットだ。
 ユーフェミアがスザクを自分の騎士にしたのは、ようやく(今更)、という感じでスルー。むしろ気になるのは、シャーリーが記憶を取り戻すような伏線がいくつか描かれていること。さすがに、ストーリーの大筋から脱落することはありえないとはおもっていたけど、どのタイミングで復帰するのかな。あと、ルルーシュのスザクをナナリーの婿に迎える、という計画はどうなるのかな。本編のラストではこれくらいギアスを使わなくても何とかなると言いながら、予告ではギアスを使う気まんまんな感じ。
 ルルーシュが藤堂に「奇跡の責任をとれ」とか言いながら自軍に引き入れるシーンにはグッときたものの、残念ながら前半の「全力で見逃せ」を上回るシーンがないのである。そのためか、展開は毎回のように転換しているもののちょっとダレる。4月からの新番組のCMもはじまったが、『コードギアス』はどんな風に、前半2クールを終えるか。

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2006年のギャルゲー

2007-02-18 | ギャルゲー
 年末に、2006年のギャルゲーを総括したことを年始になったら書く、というような告知をしていたにも関わらずここまで伸びてしまった。

 販売本数がどうだったのかは、私は寡聞にして知らないのだが、2006年に発売されたギャルゲーの中で良い評判になったものを3つ挙げれば、戯画の『この青空に約束を―』とmixed upの『StarTrain』、PULLTOPの『遥かに仰ぎ、麗しの』くらいになるのではないかと思う(ちなみに、後者2つはまだ手をつけていないので、議論の精度が甘いことは念頭にいれてほしい)。これらはいずれも学園物であるが、このことから2006年はギャルゲーがジャンルとして比較的安定していた年だと考えられる。たとえば、『CROSS†CHANNEL』のタイムループものや、『Fate/Stay night』の大魔術大戦バトルロワイヤルもの、『車輪の国、向日葵の少女』の法学的アンチ・ユートピアもののような意欲的な舞台設定をとらなかった代わりに、「青春」や「恋愛」といったギャルゲー的テーマを中心として捉えなおそうというソフトが多かったのだ。たとえば、『この青空に』のスタッフコメントには、
「 主人公・航の『青春は最後のおとぎ話』という台詞が劇中にあるのですが、その言葉通り、『この青空に約束を―』は春から始まるありえないくらいに瑞々しい青春物語です」と書かれているし、『StarTrain』は、苦しさや辛さがあってこその恋愛、というのをテーマに掲げている。また、学園という舞台設定については、「学園」ほど人との出会いが構造化されている場所も少ないし、「恋愛」や「青春」を描きやすいことに加え、単にジャンルとして確立していることが挙げられるだろう。
 よく、ギャルゲーの悪評に「青臭い」という言葉が使われるが、実際のところギャルゲーに関わらずオタク関係のものは青臭いし、もっと言えば幼稚だと言える(「幼稚/成熟」という差異)。むしろ、オタクへの批評は幼稚ではじまって幼稚で終わるような気すらしている。たとえば、精神分析家の斎藤環はオタクを「終わらない思春期」と定義していたと思う。
 しかし、世の中を見てみれば、オタクじゃないからといって、成熟した大人がいるというのは疑わしく、私なぞは奈良美智の不機嫌な顔をした子供がタバコを吸っている絵を持ち出してきて、人がみんな「コドナ(オトナ+コドナ)」化しているのだと観察している(たとえば、母と娘の友達化)。だから、幼稚さというのは、必ずしもオタクの決定的な欠点ではなく、世の中全体の傾向が特に見やすく現れているのだと思っている。
 だからと言って、オタクが必ずしも幼稚さに安住しているというわけではない。たとえば、『CROSS†CHANNEL』の黒須太一や『Fate/stay night』の衛宮士郎のように、自分のため/みんなのため、という葛藤の幼稚さを最後には突破しているように思われる。士郎は「自分の身を省みないで人を助けようとするのは、人としておかしい」みたいなことを凛やアーチャーから言われているが、結局彼は自身の「正義の味方」としての流儀を貫き通してしまう。これだけ見ると単純なヒーローものに見えなくもないが、次作の『Fate/hollow ataraxia』ではギャルゲーのようにループする終わらない日常を描き、悪魔に反応して欲情するという聖女(しかもはいてない)・カレンが登場したりと、『Fate』シリーズ自体が、オタクやギャルゲーの幼稚さを批評した作品に見えてくる。奈須きのこ恐るべし、である。

 というわけで、あまりまとまりなく書いてしまったが、要するにオタクは幼稚さを捨てることはできないだろうが、それゆえに一方ではその幼稚さを突き抜ける作品を作りえもするのだ、ということである。

 まあ、かようなことを置いておくと、2007年は、戯画の丸戸史明+ねこにゃん三部作の『フォセット』ではじまり、あかべぇそふとつぅの『車輪の国、向日葵の少女』のファンディスク『車輪の国、悠久の少年少女』、3月には戯画のBaldr Headチームのファンディスク(というか、『この青空に』や『チアフル』のキャラも登場しているので、事実上戯画全体のファンディスクだと思うが)である『XROSS SCRAMLE』が出るので(これはかなり期待。体験版としてタイムアタックが出ているが、アクションが熱い)、ファンディスクの年になるかもしれない。

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NHK『ハゲタカ』

2007-02-17 | Weblog
 NHKの土曜ドラマ『ハゲタカ』の第一回を観た。
 要は、外資ファンドが日本に乗り込んできて日本を買い叩くという話なのだが、その外資ファンドの尖兵が日本の元行員で、彼が日本で銀行に勤めていた頃の先輩行員と対決するというのが作品のフォーマットである。外資ファンドの尖兵が、昔銀行で勤めていたときに貸し渋りによって自殺者が出、彼が日本に再び戻ってきた今、自殺者の娘が彼にジャーナリストとして詰め寄ったりと、小説やドラマらしい味付けがなされている。
 でまあ、今回は不良債権を抱えた旅館を外資ファンドが買い叩いて、という話だったのだが、全体的に演出やBGMがあざとくて、ちょっと萎えた。それに、外資ファンドのプランがきっかけになって、死者が出、主人公の外資ファンドの尖兵がちょっと立ち止まるような情景が描かれているのだけど、今の社会の実情と比べていると、暢気さは否めない。たとえば、消費者金融の借金取立てのために、債権者を自殺するまで追い詰めて、生命保険で債権を回収し、消費者金融の社員がノルマが達成できた、と安堵しているような状況。あるいは、人材派遣会社の社長が「過労死は労働者の自己管理の問題」とかと発言するように、資本家や経営者らにとって、労働者の人死には関与すべき問題の範疇からは外れてしまっている。このドラマで、松田龍平が「金は使うものだ。金に人が使われたら終わりだ」という教訓じみた台詞を言うが、生きるために金が要る現代においては、金のために働かなければどうにもならんのに。
 というわけで、このドラマは甘い。でもまあ、今期期待していたけれど結局見なくなったドラマ『エラいところに嫁いでしまった』や『わるいやつら』、『華麗なる一族』に比べれば、松田龍平が今後どうなるのか気になる(たぶん、ピカレスク風になると思うのだが)ので観ていきたいところである。それに、最近『AERA』などでは、「バブル再来」みたいな記事で、現在の状況が「バブル」そっくりだ、と言いつつバブル期を比較的好評価(あの頃は景気がよかったおかげで、すごいものがたくさんあったうんぬん)したりという風潮が出ているが、僕なぞはバブルはあってはならないバカな時期だと思うので、バブル期の失敗を比較的冷静に見つめているこのドラマには、多少応援したい部分がある。(なんとなく、バブル期を好評価し直そうという動きには、太平洋戦争を見直し戦後史観を打破しようとする、自虐史観反発の動きと似たところがあると思う)
 最後に書いておくと、実はNHKはこの手の「金の教訓」じみたドラマを定期的に作っている。たとえば、『バブル』や『すずらん』で僕の好きなドラマである。これらのドラマでは、経営や株の失敗で登場人物が自殺したり、「加害者」側が刺されるというモチーフが描かれているが、これは『ハゲタカ』も同じ(冒頭のわき腹から血を流す主人公がプールに浮かんでいる場面などは、きっと将来誰かに刺される展開を先取りしているのだろう)。たぶん、これらの教訓を踏まえ、人間やはり地道に人間的に生きていくのが一番、的な結論(NHKイデオロギーと呼びたい)に行き着くのだろうが、これは今では通じないだろう。というのは、今の社会はヘタにまじめに働いたりなぞしたら、過労死してしまう(今日の朝日新聞に、セブンイレブンなどのたくさんの支店をもっている企業で、社員店長が実態は管理監督者でもないのに残業代ももらえず、月300時間超も働き、過労死者も出ていて、労働組合を作っているとかいう記事が出ていた)。僕のような仕事にアイデンティティを持ちたくない人間は、会社を選びつつ、会社の中でうまく立ち回ることが必要なのだろう。起業ブームとか言われるのも、どれだけ生き残れるのか怪しいところだし、早く今の浮き足立った状態をどうにか落ち着けたいところだ。

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今週の『まなびストレート!』と『ときめきメモリアルOnlyLove』

2007-02-16 | アニメ
 このところ、バイト(来年度の学費のため)だの就活だのと死ねるような忙しさなので、更新ペースが遅くなっています。容赦を。

『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』
 今週は、おたふく風邪でもないのに、まなびの出番がほとんどなく、再びミカンが主人公のお話。というか、実は主人公はふつーにミカンなのではないか、という疑問さえ浮上してくる始末である。今回は板野サーカスなどの超演出がない代わりに、今回も(!)際どい位置からぷにキャラたちを攻めるプニエロカット満載である。話は、試験期間中にもかかわらず、むっちぃがソフトボールの大会にいつの間にか負けていたことに気づいたミカンが、むっちぃとの友情の馴れ初めを思い出しつつ、友情を確認するのである。とりあえず、お前ら勉強しろよ!と。生徒会の中で勉強が平均よりもできそうなのは芽生様だけではないか。それに、生徒に小遣いをあげる教師って、未来の学校は色々と変わっているようですな。
 しかしわからないのは、ストーリーでは学園の楽しさや仲間のすばらしさを歌った朗らかな学園ものなのだが、映像面の演出でエロいカットばっかりがんばって作っているちぐはぐさ。毎回観終わったころには結局なにがやりたかったのかがわからない、不条理感に少なからず襲われてしまう…。監督分業制は、今のところアダの部分しか見えない…。あと付け加えるなら、主人公たちの一人ひとりにトラウマ設定があるようだが、その描写が弱く、薄っぺらくみえてしまう。似たようなコンセプトのアニメに、僕の好きな『極上生徒会』があるけど、あれは脚本の黒田洋介の力技が光り、作品全体を下支えしていたんだけどなあ(正確には、あらゆる意味でプッチャンの一人勝ち)。

『ときめきメモリアルOnlyLove』
 こちらは、1クール目でも似た雰囲気のエピソードがあったような、弥生さんが陸君からメールが返ってこないことにひたすら落ち込むという、鬱気味なエピソード。こういうエピソードなら、極力陸君の行動=メールを返せなかった理由の描写を伏せておいて、視聴者には弥生さんと一緒に不安がってもらう、という演出の仕方も考えられるけど、後で理由をバラしたときにとってつけた感じになったりとか、陸君が嘘をついている可能性を考えてしまったりと、ちょっと面倒か。今回は、陸君が弥生さんからの大量のメールと着信を見つけるところで終わったから、来週の展開が見もの。しかし、あのメールと着信はほとんどホラーだよ。
 そろそろ四者関係がいい感じにこじれてきて、性格のねじれた僕にはわくわくの展開である。包丁とかのこぎりを持ち出したり、ベランダに忍び込んだりしなければいいのだけど。

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Steelcase社製 Apt-S チェア

2007-02-11 | グッズ
 Steelcase社のApt-Sというデスクチェアを買った…のだが、場合によっては返品しようかと思っている。

 まあ、今まで使っていたRemexのチェアの座面がヘタってきて、背を後ろに預けるたびにギシギシと鳴っていたので、デスクチェアの買い替えの必要は感じていたのだ。そこで、以前机を買ってなかなか気に入ったメーカーであるGarageのChair TC(¥25000程度ビックカメラ、東急ハンズなどで販売)の購入を考えていたのだが、インターネット通販サイトのASKUL(個人版)を見たところ、Steelcase社のApt-Sチェアを通常5万円程度のものを3万円で売っていたので、これだ!と思ったのである。TCは背もたれの前後と座面の上下しか動かないのだが、Apt-Sは背もたれの前後と座面の上下に加え、背もたれの上下、座面の前後という4段変形!みたいな仕様なので、これはいいだろうと。それに、Steelcase社はチェアの販売数世界一のブランドだそうで、信用がある。それにApt-Sチェアは10万以上もする高級チェアの機能をそのまま残したまま、廉価版として調整したもので、期待もあった。
 かようなわけで、確かに結構いいチェアではあるのだが、ちょーっと僕の要求とは違うかなーという感じで、ASKULに返品しようかと思っている。このチェア、確かに品質がよく、座りやすく、デザインもまあまあで良いチェアである。しかし、体重を支えるのが、左右の太ももから尻にかけての2本の線と腰の一点で(別に、チェアがそういう構造というわけではなく、そこに体重がかかってしまう形状なのである)、僕にしてみるとちょっと落ち着きが悪い。ホイールが良く回ることもふくめて、機動性が良すぎるかなという感じなのである。たとえば、オフィスなど頻繁に立ち回ったりする状況では、座った姿勢から立ち上がったりしやすいし、キーボードも打ちやすいのだが、PCでDVDを見たり、ギャルゲーをしたりと、チェアを静的に使う時間の多い僕としては、なんとなく落ち着かない感じになってしまう。すわり心地が、「包み込む」感じではなくて、「支える」感じなのだ。また、座面の前後や背もたれの上下の稼動も、背の高い人/低い人に関わらず、万人に座りやすいように「調整」できるというだけで、たとえば姿勢を変えたときに追従してくれるという仕様ではない。だから、このチェアのもっとも正しい導入法としては、企業がオフィスに一括して導入すれば、各人が自分の体型に合わせて、かなり自由に調整できるということだろう。繰り返して言えば、このチェアがオフィスにあれば、最高なのだけど。
 そんなわけで、今度ビックカメラに行ったらGarageのChair TCがあれば、座ってみて、そちらの方がDVDを見たりとか、静かに座り続ける用途でよさそうならば、Apt-Sは返品してこちらを買おうかと思う。ASKULは、買って一年以内なら返品可能だそうで(しかし、1年間使った椅子も返品できるのだろうか? その辺りは要相談だと思うが)、支払った金額もちゃんと戻ってくる。送料も購入金額1500円以上なら無料だ。今回は縁がなかったけど、安売りも確かで、実にいいネットショップだと思う。別に僕はASKULの回し者ではないけれど(今のところ、アフィリエイトは導入していないし)。

 ちなみに、掲載した写真の補足として。椅子の色が変だが、撮り方が悪かったようで、本当は、多少光沢のある綺麗な黒。肌触りは、キメの細かいチリチリしないジャージのようか。素肌で座っても気持ちがいいくらいの生地。あと、これには取り付けていないが、標準で付属の肘当てがついてくる。こちらも稼動する。

 ちなみに、今まで使っていたRemexのチェアはOFF HOUSEというリサイクルショップに売ったのだが、結構綺麗な品なのに300円。買ったときは2万くらいしたのだがなあ(涙)。

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Windows Vista VS Mac OS Ⅹ

2007-02-10 | Weblog
 最近、Apple(Macintosh)がお笑いコンビのラーメンズを起用して、テレビCMシリーズを展開しているのだが、これが気に入らないのである。
 一応、このCMシリーズの概要を説明しておくと、ラーメンズの片方がMac、もう片方がPC(要するに、Windowsだ)の役を演じて、PCが「ウィルスとかのセキュリティが大変なんだ」とか言うと、Macが「へぇー、そうなんだ、Macだとそんな心配ないんだけどね」とか言って、ミニコントの形で、MacとWindowsの違いを喧伝するというものである。この比較というのは、基本的に正しくて、Macの方がセキュリティが優れている(というか、Mac向けのウィルスがあまり作られていない)、フリーズしにくいなどなどの主張は当たっている。しかし、Windowsもちゃくちゃくとバージョンを重ねてきただけあって、セキュリティもよくなっているし、フリーズも前よりはしなくなった。それに、年末くらいに、Macなら年賀状が作れるんだというCMのバージョンがあったが、これは酷い。Windowsでも普通に年賀状は作れるし、むしろ年賀状ソフトのバリエーションはWindowsの方が揃っている。それに、毎度毎度Macの方がホビー向きで、Windowsは仕事用のようなイメージが伝達されているが、どちらもホビーのための性能はそんなにかわらないし(Windowsだって、ブログくらい作れる!)、ビジネスソフトの数もWindowsの方が数がそろっている。そして、ほとんどのギャルゲーはWindows専用(これ重要!)である。それにMacにはいわゆるテレパソ(PC+テレビ)はなくて、互換性や拡張性も低い。むしろ、ある意味、Macを選ぶのは単に別の意味で「趣味」である。最後に、PCもMacも最近は似てきて、両方ともMicrosogt Office使えると言った後に、でもPCはフリーズしちゃうよねとオチが付くのだが、PC(のOS)もOfficeも作っているはMicrosoft!である。それに、Windows向けのOfficeとMac向けのOfficeはバージョン(と仕様)が違うので、これもミスリード。
 とまあ、別に僕はMac嫌いのつもりはないが、このCMシリーズで、一挙にMacの印象を悪くしてしまったのである。このCM、なんというか、セコくミスリードなのである。たぶんこのCMはWindows Vistaの発売を見越して(もう発売したが)、Macの存在感を高め、また特にパソコンに不案内な初心者をMacに引き込むことを企図しているのだと思う。確かに、Macはこれまでイメージを伝える広告を主に作ってきたので、機能性を訴えて初心者を引きつけるような広告をつくる必要があったのだろうが、そのために引き合いに出されたPC(Windows)との比較があざとい。もっともWindowsにもこれまで面白い広告があったわけではなく(Macは面白ろ広告の宝庫であった)、パソコンを知っている人と知らない人の差が激しすぎる、OSの広告というのはそもそも難しいものなのかもしれないとも思う。
 僕も、以前はMacのノートブックがほしかったりしたが、やはり旗艦のデスクトップ(もっとも、今はノートPCにポートリプリケーターを介してディスプレイ、キーボード/マウス、スピーカーを繋いで擬似デスクトップPCとして運用している。グラフィック関係の性能がツラい)はWindowsにしなくてはならないし、それだと互換性や拡張性の問題でノートもWindowsにしたほうがラクである。Macはデザインも良いが、ハードのデザインは日本の電気メーカーが頑張ってるのと、OSのデザインはVistaが頑張っている(3DフリップやAeroで、ようやくWindowsもMacと勝負できるGUI(Grafical User's Interfaceだっけ? 要するに、画面上のアイコンを操作することでソフトを起動したりできるインターフェースのこと。もっともこれをもともと作ったのはAppleでWindowsはこれをパクったわけだが)ので、デザイン面でのMacの優越性も確言できなくなってきたと思う。まあ、正直Vistaはグラフィック以外ピンとくるものがないわけだが。重いし。
 MacがIntel製のCPUを積んだ時点から、WindowsとMacの決定的な境目(あとは、自作可能/不可能というくらいか)はなくなってきたと思うのである。それなら、どちらを買うかは、あとは単に「趣味」だと思うのだがどうだろう。少なくとも、Windowsの方が使えるとか、Macの方がカッコイイとは、確言できなくなってきている。正直、僕は意地でもVAIOを通すつもりなので(今使っているVAIOノートに、保証期間が過ぎた後になって、衝撃を加えるとbiosがいかれるというアナウンスがあったが、である)WindowsかMacかという選択以前に視野が狭まっているのだけど。まあとにかく、僕としてはラーメンズのいささかミスリードなCMシリーズだけは、早く終わってほしいのである。別に、ラーメンズにも恨みはないが。

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