高橋源一郎が初期に書いた、三作目の小説『虹の彼方に』を読んだ。高橋源一郎というのは、一般向けにはそれほど知られていないが(何せ一般向けな小説を書いていない)、文学好きには有名な名物小説家/文芸評論家である。書く小説は、日本の文豪やウルトラマン、あられちゃんなどなど、様々な実在の(?)人物が登場する、引用に満ちたもので、話の筋も割とでたらめ(?)な、わかりにくいポストモダン小説、アヴァンギャルド小説である。何を隠そう、僕はこの作家が好きで、デビュー前に書いた小説をデビュー後に2番目の小説として発表した『ジョン・レノン対火星人』は僕の好きな日本近代文学の5位くらいには入ってきそうな勢いである。ま、実はこの影響を受けて大学の卒業制作の小説を書いたら(まあ、『ジョン・レノン…』ほどわかりにくくないが)、見事に失敗してしまったという、ちょっと僕にとっては恥ずかしい思い出がありもするのだが。
で『虹の彼方に』だが、引用を駆使して、意味の消去、無意味の羅列によって軽い宙に浮くような楽しさをもたらそうとしている小説に読める(ただし、哀しみは、ある)。まあ、正直「意味に抵抗」しているので、理解はしづらいし解説も書きにくい(解説の矢作俊彦も逃げている)。だから端的に「印象」として感想を書くなら、ちょっと楽しいしちょっと苦しい。また、読む意味がないとは感じない。変な小説。高橋氏自身が最近になって書いた「あとがき」のような文章には、若い高橋氏が「全世界」を書くつもりで書き、失敗すべくして失敗したというような旨が書かれている。これを読むと、なるほど、とちょっとうなずいてしまうところはある。具象的なことを書いて「全世界」を書ききるのは容量などの物理的な制限によって不可能であるが、高橋氏の一見意味不明な文章、つまり「抽象絵画」のような一見意味のない文章ならば、迂回しながら、それでも実はショートカットとして、「全世界」の記述に漸近できるのではないかというような気がする。ふむ、「抽象絵画」のような、とは我ながらうまい言い方のような気がする。あるいは、現実にすでに存在するものから、そのエッセンスを取り出してきて過剰に表現するという意味では、「印象派絵画」に近いかもしれない。実際に高橋氏の小説の雰囲気は「印象派絵画」の明るく軽やかなイメージに近い感じもする。
「意味」ではなく「印象」、少なくとも僕は高橋氏の小説をある程度までこう定義づけて良いように思う。高橋氏はそんな稀有な小説を描ける作家だが、まあ、一般受けしないのは当然という気はする。何せ、ついてくのがちょっと大変。好きなんだけどなあ。
で『虹の彼方に』だが、引用を駆使して、意味の消去、無意味の羅列によって軽い宙に浮くような楽しさをもたらそうとしている小説に読める(ただし、哀しみは、ある)。まあ、正直「意味に抵抗」しているので、理解はしづらいし解説も書きにくい(解説の矢作俊彦も逃げている)。だから端的に「印象」として感想を書くなら、ちょっと楽しいしちょっと苦しい。また、読む意味がないとは感じない。変な小説。高橋氏自身が最近になって書いた「あとがき」のような文章には、若い高橋氏が「全世界」を書くつもりで書き、失敗すべくして失敗したというような旨が書かれている。これを読むと、なるほど、とちょっとうなずいてしまうところはある。具象的なことを書いて「全世界」を書ききるのは容量などの物理的な制限によって不可能であるが、高橋氏の一見意味不明な文章、つまり「抽象絵画」のような一見意味のない文章ならば、迂回しながら、それでも実はショートカットとして、「全世界」の記述に漸近できるのではないかというような気がする。ふむ、「抽象絵画」のような、とは我ながらうまい言い方のような気がする。あるいは、現実にすでに存在するものから、そのエッセンスを取り出してきて過剰に表現するという意味では、「印象派絵画」に近いかもしれない。実際に高橋氏の小説の雰囲気は「印象派絵画」の明るく軽やかなイメージに近い感じもする。
「意味」ではなく「印象」、少なくとも僕は高橋氏の小説をある程度までこう定義づけて良いように思う。高橋氏はそんな稀有な小説を描ける作家だが、まあ、一般受けしないのは当然という気はする。何せ、ついてくのがちょっと大変。好きなんだけどなあ。