哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

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押井守『立喰師列伝』

2006-04-23 | 映画
 押井守の『立食師列伝』を見た。この作品は、一旦、実写としてとった映像(あるいは写真)を独特の編集・加工を通して、一種の「アニメ」として構成した映画だ。しかも、「役者」は、川井憲次などの押井作品をさせてきたスタッフばかりで、他、沖方丁や乙一などの若手作家を起用している。ただ、「役者」とは言え、実際に演技をしていると言うわけではなく、撮影した写真に編集の段階で動きをつけているだけであり、声もナレーションばかり多い。
 さて、評価なのだが、前衛的な映画作品としては、非常におもしろい試みをしている(多分、追随してくる人はいないし、押井監督本人ももうやらないとは思うが)。が、である。全体的にやたらと説教くさくて、ちょっとつらい。話としては、架空の犯罪者(と一応言っておく)である「立食師」の研究を軸に、戦後の日本史をなぞるかたちで、思想的に追っていく。その「思想」のあり方が説教くさいのである。基本的にコメディだが、笑えるのも、「ガン○ム」や「立つんだ、ジ○ー」などのオタクネタばかりで、それはいろんな意味でヤバイんじゃないかと内心突っ込んでしまう。この辺りは、監督の意図を疑わざるをえない。
 さて、問題は押井監督作品の「説教」くささである(本作にも「説教」という言葉についての解説がある)。あまりはっきりとは言えないが、多分、押井作品には、アニメなどのジャンルに対する批評性がありすぎるのである。むしろ、ジャンルに対する批評で作品自体が成り立っているとさえ言えるかもしれない。この批評性とは、「現在の状況の中で作られたこんな作品」であり、「こんな作品を作る俺とは何か」という作品に対して、本来コンテクスト、システム理論的に言えば「環境」に当たるものが、作品の中に折り込まれて(再参入して)いるのである(とは言え、批評性のない作品はまず存在しないし、あったとしても駄作だろう)。だから、押井作品は安心して没入することが出来ない。没入したと思ったとたん、作品の「外」にある、コンテクストに観客が差し戻されてしまうのである。これは、ロボット・アニメを「娯楽」として、見ている間はそこに没入してもいいけど、そのあとは「現実」に帰ってくださいよ、という富野作品とは対照か、あるいは作品外の現実への帰還という態度をより純化させたものだと言える。結果として、押井作品は、観客にとって「おもしろくない」、つまり「説教」くさい作品になってしまうのである。正直に言えば、筆者も、素直に楽しめた感じ(心地よい疲れ)が、観賞後ほとんどしなかったのである。
 あとは余談。沖方丁や乙一などを役者(とは言いがたいが)として起用するのはやめてほしい。彼らには、それぞれ独特の才能があるのは確かだが、甘やかしてほしくはないと思う。どんなかたちであれ、押井監督が彼らに「お墨付き」を与えてしまうのはどうかと(若手作家同士の交流などを狙ったのかもしれないが)。なお、筆者のように20代の人には、かなりわかりづらい内容があった。新左翼系団体の内ゲバなど。筆者は、北田暁大先生の『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読んでいたおかげで助かった。これから見る人がいたら、こちらの本を読んで予備知識をつけていくことをおすすめします。

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