哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

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小川一水『老ヴォールの惑星』

2006-04-29 | 小説
 最近、なんとなく私的SFブーム。一時期はミステリーっぽいものを読むことのほうが多かったが、やっぱり自分はSF寄りの人間だったのかもと思う今日この頃。スタニスワフ・レムやカート・ヴォネガットなど、文学とSFの間を横断しているような作家も好きだし。

 さて、小川一水だが、今までに筆者は『復活の地』だけ読んだことがある。この小説は、映画化できるほどの大傑作長編で、筆者もけっこう楽しんだのだが、大時代的なテイストが少し肌にあわなかった。もっとも、作品の設定として関東大震災を用いたらしいので、そのせいかもしれない。『老ヴォールの惑星』もそんな大時代的なテイストが少しあったが、これは特に気にするほどでもなかった。この小説は中篇集なのだが、サバイバル物が多い。このテーマについては『復活の地』の影響が強いのかもしれない。楽観的過ぎず、悲観的過ぎず、話の最後に立派なオチがある点など、ヒマつぶしに読むにはうってつけの本だと思う。普通におもしろく、読み始めたら没入しやすいし。筆者は、条件付で『幸せになる箱庭』という一編が一番おもしろかったと思う。
 だが、この大時代的なテイストは小川一水に特有のものか、SFに不可避なものなのかは私的には考えてみたいテーマ。小川一水の文体自体がちょっと大時代っぽいのはある。しかし、SF自体に科学による人類・社会の進歩(進化)という大前提をもっていることは決定的な要素だろう。筆者のやっている「社会学」では、社会の進化というのは、バカにされるだけの考えだし。たとえば、N・ルーマンが社会の進化というのは、端的に社会に複雑な秩序が作られることで、どの社会が良くて悪いかということは問題にしない(社会学の対象にしていない)し、してはいけないくらいのなのである(文化差別になるし)。つまり、人類・社会の進歩(進化)という概念自体が近代に特有のもので、進歩(進化)という一直線的な運動が信じられなくなった今のポストモダン社会では、古く感じられて当たり前なのである。それでも、SFは技術や知識の積み重ねという一直線の運動を前提にしなければ、ありえないジャンルである。果たして、ポスト・モダンなSF小説とはいかにあるのだろうか。その答えをほとんど出しているのが、先述のスタニスワフ・レムやカート・ヴォネガットだろう。そのうちまたSF小説を読んだら、話の続きをしようかと思う。

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