哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

GUST『イリスのアトリエ グランファンタズム』ファースト・インプレッション

2006-06-29 | ゲーム
 今日発売のGUST『イリスのアトリエ グランファンタズム』が届いたので、プレイしている。もちろんメーカー直売(GUSTショップ)で購入だ。今のところ4時間ほどやって第2章まできているので、ここまでの簡単な感想を。

 普通に面白いです。時々ビジュアルが妙にきれいだったりする他は、派手なところもなく、普通のRPG+アトリエ的調合をやっているだけなのだが、動作は軽快だし(まあ、ポリゴンとか使ってないし)バランスは取れてるし、小さいながらサプライズがちりばめられているし、かなり好印象。アイテムなど、いろいろ探して集めて錬金してという過程が楽しい。わかりにくいところもほとんどない。雰囲気としては、ちょっと古めのRPGをやっているという感じで、シナリオに派手さを求める人にはあまり向かないかもしれない。今のところ、主人公たちは冒険屋+錬金術師で、冒険をしてお金やアイテム、経験をためているという感じだが、イリスのエルスクーラリオという願いをかなえる魔導書に力が宿りはじめて、これからどうなることやら、という感じ。まだ、事件の始まりの段である。
 GUST作品は、後半で話が壮大になっていくにしたがって、全体を流れるほのぼの雰囲気との妙なギャップが埋められなくなっていくので、作品評価はまだまだ考えられないが、重ねて言えば、今のところかなりの好印象。あと、付け加えていうなら、ニュアンス的にちょっとエロっぽいやもしれません。

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あかべぇそふとつぅ『その横顔を見つめてしまう~A profile完全版~』

2006-06-27 | ギャルゲー
 あかべぇそふとつぅ『その横顔を見つめてしまう~A profile完全版~』をコンプリート。これは2005年度に『車輪の国 向日葵の少女』で話題をかっさらったるーすぼーい氏がシナリオを担当していたのでやってみたのである。『車輪の国』は私もけっこう楽しんでやったのだが、この作品一番の大ネタでうまくだまされなかったので、結果的に満足できず、あまり好きな作品ではなくなってしまったという経緯がある。あと、『その横顔』は同人ソフトの『A profile』という原作のリメイク版であるが、こちらはやっていないので、今回のレビューで比較とかはしない。

 で、『その横顔』なんだが、う~ん。見るからにプレイヤーをひっかけようとしている気ありありなので、警戒してしまって素直に読み進められない。この辺はるーすぼーい氏が伏線でひっぱっていくタイプだと知っているせいもあるが、もっとさりげなく演出することもできたのではないかと思う。話のまとまり具合については『その横顔』のほうが勝ると思うが、やはり『向日葵の少女』で切り開いた境地には及ばない。その境地というのも、筆者には伏線を使った大ネタというよりも、かっこいい(完璧超人!)主人公を(とりあえずは)描ききったという印象が強いのであるが。
 『その横顔』の話を解説してしまうと、問題アリな女の子(たち)をあくまで人を信じ続けようとする主人公が救っていきながら、自分も変わっていく、という話。ただし、結局のところ、主人公も女の子たちも最初から良い人だったという、実は大騒ぎするほど変わっていないじゃん、的なところもある。とうか、平板な話の中に無理に伏線を張ろうとしている感じで、のめり込みにくいしわかりにくいところもある。るーすぼーい氏に非凡な才能があるのは感じられるのだが、それが中途半端な感じで、私が読んでしまうとむしろアダになってしまうという感じか。それに何より、主人公が何か隠している、というのが露骨に表れている点は、なんとも気持ち悪いかもしれない。『向日葵の少女』にも、主人公が何か隠している、という大ネタがあったが、この方面を大成するにはもう一味何かほしい。
 るーすぼーい氏には、熱血な話など他にも武器があるが、一気に名前を広めた『向日葵の少女』の後で、純粋な新作をどう出してくるのだろうか。あかべぇそふとの次回作には参加しないようだが、とにかく次回作が待たれる。

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『ALWAYS 三丁目の夕日』「家族の方へ―」

2006-06-25 | 映画
 『ALWAYS 三丁目の夕日』(以下、『三丁目の夕日』と略す)を観た。原作がマンガであるせいもあるだろうが、映画的というよりも、妙に漫画的な戯画化された映画だったと思う(例えば堤真一の「雷親父?」は、妙にキレた感じの怒り方をしたが、これは漫画的な表現からもさらにズレていた気がする)。世間では、映画賞で軒並み賞を獲った人気作だが、正直、私はあまりほめたくはない、と思っている。それにはいくつか理由があるが、まずはそのノスタルジーの中途半端さがあげられるだろう。この映画では、オレンジがかった色合いが映像の基調となりタイトルの『夕日』ともかけられ、音楽も当時のヒット曲がかけられ、さまざまな次元から「ノスタルジー」への志向がうかがえるが。その「ノスタルジー」は少なくとも筆者が共感できるものではなかった(もちろん、筆者がその時代の空気を知らなかったせいもあるだろうが、1958年を舞台にしたこの映画の観客のいかほどが、その空気を知っていたのだろうか)。それに優れた「ノスタルジー」とは、恩田陸作品のように、知らないはずの風景へのノスタルジーというデジャヴ的なもの、というあくまでも「虚構:つくられたもの」としての「ノスタルジー」のことだと私は考えている。私たちが「ノスタルジー」と語るとき、まるでそれを語りうる基盤としての「過去」が(現在に?)存在しているかのように思われるが、実際にあるのは「過去への志向」だけなのである。
 そして「ノスタルジー」を語るための重大な要素として、この作品では「家族」があげられて、「やっぱり家族だ」みたいな雰囲気が全体に漂っている。が、この映画の舞台となった年の5年前に、「尾道から東京に出てきた老夫婦が自立・結婚した子供たちに邪険に扱われて、結局死んだ息子の嫁だけがまともに付き合ってくれた」という「家族解体」を描いた小津安二郎の『東京物語』(1953年)が公開されていたことを考えれば、作中の1958年時点ですでに「家族の神話」は解体して(しかかって?)おり、まして現在という時点からすれば、明らかに社会認識において後退している、と指摘されても仕方ない(そして、戦後たった8年しか経たない頃に「家族解体」を描いた小津安二郎を私は「化け物」と恐れるしかないのだ。たまたま今日の『旅の香り』という番組で尾道特集が組まれ、その中で『東京物語』が「家族の素晴らしさを描いた」とかなんとか紹介されていたが、それはどんな誤解だろうか? もっとも、冷たい身内よりも温かい他人こそ家族だ、と言えなくもないだろうが、さすがに苦しいように思う。筆者は「家族」に、生活世界における共同の単位、という簡潔な定義を与えておきたい)。
 さらに(もうここまで来ると『三丁目の夕日』を楽しんで観た人には不愉快で仕方ないだろうが、私の意見を必ずしも真に受ける必要はない、と断っておく。ただし筆者としては、コメント全体についての責任はもつつもりである)、『三丁目の夕日』のキャッチコピーは「携帯もパソコンもTVもなかったのに、どうしてあんなに楽しかったのだろう」というものであるが、作中で人物たちはテレビ(東京タワー)や冷蔵庫などの新しい技術や製品をやたらと喜んでいたが、キャッチコピーとは矛盾していないのだろうか。どうにも中途半端な印象を受ける映画である。
 他にも、方言など堀北真希の演技はあまりよくないのではないかなど、気にかかる点はいくつかあるが、これ以上は作品への誹謗中傷にしかならないので、止めておく。総評としては、結局のところ何も表しきれず、何にもなりきれなかった映画ではないか、と私は思う。作品全体にどこかズレた感じが漂うのである。この映画の観方をあえて考えるとするならば、この映画は一つの時代に対するパロディであり、描かれていることは基本的にウソである。だから、そのウソをウソと自覚しながらも、家族はないよりはあったほうがいい、社会の共同性はないよりはあったほうがいい、という作品に対してメタ視点から注釈を自覚的に差し挟み、作品を宙吊りにしながら相対化して観ることである。というか、端的に『東京物語』を観ることを勧める。

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WALKMAN NW-E005

2006-06-23 | グッズ
 SONYのWALKMAN・NW-E005を一昨日から使っている。もともと使っていたHDD・WALKMANの調子が悪くなってしまったので、SONY STYLEの下取りサービスがキャンペーンをやっているのでこれに出し(とは言え、調子が悪いのをどのくらいの値段で下取りしてくれるのかはわからないが)、新品ゲットというわけである。
 NW-005はメモリータイプのポータブルオーディオであるが、これを買ったのは主に下の三つの理由により。
①安い。筆者が買った2Gのモデルで、定価17800円。1Gのモデルは12800円だが、これはまったくディスプレイのないiPod shuffleと1000円ほどの差しかない。
②軽いしかさばらない。本体だけなら22g。しかも後述するクリップをつけると、WALKMANのリモコンから先だけを扱うようなものである。
③新型WINDOWSの"Vista"は、512M以上のUSBメモリを接続すると、これを動作高速化用の補助メモリとして使用できるため、USBメモリとしても使用可能なポータブルオーディオがほしくなった。
(次点)WMAとAACファイルのサポート。私はWMAの192Kbpsと可逆圧縮で音楽アーカイブを作っているので、変換なしにファイルをWALKMANに移せると時間がかからなくて助かる。
とまあ、こんなところである。③の理由については、今回買ったWALKMANでちゃんと作動するかはわからないが。
 三日使ってみてまず気になったのは、付属のミュージックボックス兼転送ソフトのSonic Stage CPの使いにくさ。私のPCのパワーにも問題があるのかもしれないが、動作が重いのと、転送の際にほんとうはそんなはずないのに転送不可の音楽ファイルがいくつか出てしまう点。それと、WALKMAN本体のUSB端子から続く部分が太すぎるため、私のPCのUSB接続部にどうしても引っかかってしまう。しかたなく、USBハブを通じてつないでいる具合である。あとは、本体のディスプレイ部が一行しかないため、曲を探したりするときにはけっこう面倒。なので、いっそWALKMANに入れる曲はお気に入りのものに限り高音質で入れてしまい、ディスプレイを見なくてもある程度出したい曲を出せるようにしようかとも思っている。なおディスプレイは光量の弱くなりがちな有機ディスプレイなので、晴天の屋外だとかなり見づらい。
 良い点は、何よりもその気軽さ。私は1980円の別売りクリップをつけて、シャツのポケットに引っ掛け、ショートコードのイヤホンをつないで聴いていると、もてあまし気味だった前のHDD・WALKMANよりもかなり手軽である。確か前のモデルにはクリップの別売りオプションはなかったはずだが、これはいい。ただし、本体と比べ、ぼってとして厚みのあるただの白い部品なので、あまり人に見られたくない。これはちょっとどころではなく、ツメが甘いのではないかと思う。多少高くなってもいいから、クリップ部と同じチタンを使ってほしかった。あと、音質は、もちろんイヤホンや音楽ファイルの圧縮の程度によるが、良好なほうだと思う。音質に関して特に気になるようなことはない。
 というわけで全体としてみれば、多少のツメの甘さはあるが、エントリーモデルとしては申し分ない製品だと思う。それに、イマイチなデザインの多い(と思う)ポータブルオーディオ業界の中では、すっきりしてかなりいいデザインではないだろうか(趣味による、気に入らなければ仕方ない)。なによりも、持ち歩くときの気軽さを私は気に入った。ちょっとソニーの回し者っぽいコメントになってしまったが、ポータブルオーディオをこれから買おう/買い換えようかなと思っている人には、十分に勧められる製品だと思う。

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秋田禎信『愛と哀しみのエスパーマン』

2006-06-22 | ライトノベル
「そもそもなんであんたみたいな人間的にヒョロいのが私に話しかけて良いわけよ誰が許可出したのもしかしてあんた自身ちょっと冗談は笑える程度にしておいてよね勘違いもここまでくると犯罪よなんか劣化ウラン的なものでしこたま撃たれても死にそーにないわよその図々しさにしても生きていたって仕方ないでしょ本当になんか未練あんのあんたなんてこのまま生きていたってパンツ盗むくらいしかできそうにないじゃん親戚中にパンツ配って盗撮でもして台所の隅で野菜屑でも齧りながらひそひそこそこそと……ってあんたのこと言ってるのに決まってるでしょ図々しい!(あと1ページ罵詈雑言が続く)」『愛と哀しみのエスパーマン』

 秋田禎信の『愛と悲しみのエスパーマン』を読了…まあ、マイナーといやマイナーである。秋田氏自身は『魔術師オーフェン』シリーズで、一世を風靡したライトノベル作家なので、知っている人は多いだろう。私は、秋田氏の『エンジェル・ハウリング』シリーズがこれまで読んだライトノベルの中でも五指に入るほどに好きなので、このシリーズを終えてのクールダウンとしての『エスパーマン』を読んだのだ。
 冒頭、主人公はいきなり女の子に告ってフラれ、その哀しみが原因でエスパー能力に目覚めてしまう。しかも、そのエスパー能力は主人公が哀しければ哀しいほど強力になるという厄介なもの。そんなおりに、世界征服をたくらむ悪の科学者が商店街を襲撃して…。しかも、実は主人公をフった女の子は、主人公のことが好きだけど、素直になれないので(ツンデレ!)つい罵詈雑言(コメント最初の引用を参照)を言ってしまう、と。
 この小説で何が際立っているかというと、数人のサブキャラクターと、ヒロインの罵詈雑言、秋田氏の副詞を多用する特徴的な文体ということになるだろう。お話としてとくに目新しいもの、目を見張るようなものはないが、全体にそこはかとなくキャリアを積んだ作家の"芸"みたいなものが見て取れる(罵詈雑言については、秋田氏の右に出るものはいまだかつて見たことない)。そんなわけで、値段文の元はとれるが、特に勧めるほどではない小説かもしれない。うーむ、やっぱり秋田禎信には、早くハードな大作の新シリーズをやってほしい。

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谷川流『涼宮ハルヒの憤慨』

2006-06-21 | ライトノベル
 発売日からは、大分経ってしまったが、『涼宮ハルヒの憤慨』について簡単に。
 私としては、これまでになく『ハルヒ』シリーズを素直に楽しんだように思う。TVシリーズのおかげで、キャラクター像が構築されたおかげか、あの語り手=キョンの地の文とセリフの区別の明示されない、めんどくさい文体をかなり中和して読めた気がする。それ以上に大きいのは、もう『ハルヒ』シリーズには期待もツッコミもしないで読めるようになったからではないかと思う。というのは、そもそもこのシリーズの、ハルヒがほとんど神で、それになぜか気に入られているらしいキョンという、とんでもなく開き直った設定には、読者も開き直って読むしかなく(もっとも、「萌えー」とか言っているのは別だが)、私もよ・う・や・く八巻目にして、その術を心得たということである。ようするに、何も考えず、「ふーーん、そうなんだ、うんうん」と黙って書かれていることを受け入れろ、ということである。ただまあ、クライマックスに向けて、ということなのか(もっとも、この人気シリーズを作者も角川の編集部もやすやすと手放すとは思えないが)、伏線もちらほらと張られている。『ハルヒ』シリーズの終わりを想像してみると、「この私」と「世界」を短絡につなぐ、つまらない終わりかたしか思い浮かばないなあ。一巻からして、キョンがハルヒにキスをして、世界の危機が回避されたとかって話だったし。谷川流はもう一つのシリーズの『学校を出よう』のほうが面白いらしいから、そちらを読まねば評価しきることはできないが、このままだと一発屋のまま終わりそう?ラノベは新陳代謝早いしね。

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『モーターサイクル・ダイアリー』

2006-06-20 | 映画
「僕らのような者が皆さんの代弁者にはなれませんが、今回の旅でより強く確信しました。無意味な国籍により国が分かれていますが、南米大陸は1つの混血民族で形成されているのです。ゆえに偏狭な地方主義を捨てて、ペルーと統一された南米大陸に乾杯しましょう」(『モーターサイクル・ダイアリー』)

 『モーターサイクル・ダイアリー』を視聴。この映画は、若き日のエルンスト・チェ・ゲバラが友人と2人で一台のバイクに乗って旅をし(といっても、中盤でバイクは壊れる)、南米の現状を知って、帰ってくる、という「行きて帰りつ」の物語。エルンストは、南米の強大な不平等や差別の状況を見て、(明言はされていないが)共産主義を目指すことになる。現実に、共産主義は資本主義に負けてしまったわけだが、この映画を観ると、共産主義が要請されたのだって、至極全うな理由や必然性があったのだとわかる。
 全体的に見れば、よくできたロードムービーだと思う。しかし、それ以上に印象的なのは、南米の人々の群像である。旅先で出会うそれぞれの人々のエピソードはそれほど濃厚でもなく、ただ写真のように映されただけの映像が並べられただけだったりする。しかし、その歳月と苦難を重ねた彫りの深い顔と濃い表情は、明示されたメッセージ以上に、我々になにかを訴えかける。筆者としては、普段テレビでもなかなか見られないような、南米の雰囲気が伝えられたのもよい。おもしろい、とは言わないが、良い映画。

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『燃えよ!ドラゴン』

2006-06-16 | 映画
「覚えておけ。
 敵は人間の心が生み出した幻影にすぎない。
 それにとらわれては相手の真意を見抜けん
 幻想を打ち砕けば、敵を倒せる」(『燃えよ!ドラゴン』より)

 一昨日の『死亡遊戯』に引き続き、ブルース・リーの『燃えよ!ドラゴン』を観賞。この映画は、世界的な名言"Don't Think! FEEL!"を残した作品。あらすじとしては、妹の仇でもある少林寺を裏切った格闘家が、自分の帝国としている島で格闘技大会をするので、参加してぶっつぶす、という単純なもの。まあ、話だけ見ればB級のアクション映画である。しかし、この映画が単にそう言って切り捨てられないのは、ブルースのマーシャル・アーツにおける武闘と哲学が二つ一組のものとして要点を担っているからである。端的には、最初に引用したセリフがこの作品を武闘においても哲学においても貫く、テーゼとなっているからである。もっと言えば、このテーゼのために映画を作ったようなものなのである。このセリフの哲学的側面については、これを語ればそれで済むのだが、武闘的側面については、映画を直接参照のこと。筆者はあまりになんのひねりもなく表現されているので(失礼)、笑ってしまった。何はともあれ、独特の掛け声とパフォーマンスで、敵をバッタバッタと倒していくブルースのアクションは見もの。堪能されたし。

「心を空にしろ
 形を取り去り無になれ
 水のように」(ブルース・リー)

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『フルメタル・パニック!』(アニメ版)

2006-06-15 | アニメ
 『フルメタル・パニック!』のアニメ版を視聴。全26話で、原作の『戦うボーイ・ミーツ・ガール』『疾るワン・ナイト・スタンド』『揺れるイン・トゥ・ザ・ブルー』+αをカバーした内容となっている。アニメ化としては、良質なほうだと思う。あらすじとしては、中東の紛争地帯で育ち、ミスリルという世界中の紛争を抑止しようとする組織に所属している、相良宗介という主人公が、日本の女子高生である千鳥かなめを護衛する任務を受けることから始まる。かなめは、自分では築いていないながらウィスパー度と呼ばれる、現代科学を超えた知識を引き出すことのできる特殊な人間だったのだ。彼女は、彼女の能力を狙うテロリスト組織とミスリルの戦いにいやおうなく巻き込まれ、いつしか宗介との間に信頼が芽生えていく…。
 原作を読んだのが3年以上前になるので、話を思い返しながら素直に楽しめた。それに、リアルロボット・アニメとしても、けっこう良作な方だと思う。原作自体、AS(アームスレイヴ)というロボットを現行の兵器体系の延長に位置づけているだけあって、もろSFという感じではない、乾いた感じの戦闘を楽しめる。が、である、主人公宗介のASアーバレストや敵の特殊なASにはラムダ・ドライバという精神力を物理的な力に変えるトンデモ兵器が搭載されていて、通常のASではそれに太刀打ちできない、という設定が作品を単純なヒーロー物(この作品自体、B級アクションを意識しているが、まさにB級的な設定として)にしてしまう。筆者はごりごりと戦力の削られていく消耗戦のような戦闘をリアルなものだと、とりあえずは思っているので、この設定はあまり好きではない。ミスリルの母艦が潜水艦(とはいえ、かなりトンデモものな潜水艦だが)だったり、地味にいい設定を作っているだけあって、ラムダ・ドライバのヒーローのための設定というのは、いただけないのである。
 ロボット・アクションとしては、良いほうではあるが、それでも足りない感はある。よかったのは、『ボーイ・ミーツ・ガール』という回の宗介とガウルンの対決で、アーバレストが後ろ跳びしながら、ショットガンを乱射するシーンがかなり気に入ったが、それ以外は、特に出色のシーンもなく。最終回『イン・トゥ・ザ・ブルー』の宗介とガウルンの一騎打ちにしろ、こういうときにこそ、ラムダ・ドライバを(使うとしたら)使うべきなのに、まったく使わない。最終回にこそ、派手に戦うべきなのに、それがないというのは、原作がそうだからしかたないのかもしれないが、なんのためのラムダ・ドライバの設定かと思ってしまう。全体としては、テンポ良く、笑うことのできる楽しい作品なのだが、あまりロボットアニメを期待しないほうがいいのかもしれない。最近リアル・ロボット物が少ないだけに(ガンダムシードシリーズは、設定のオンパレードの、ただのトンデモアニメだと思っている)、需要は大きいのであるが。

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ブルース・リー『死亡遊戯』

2006-06-14 | 映画
 何かとネタになることの多い、ブルース・リーの『死亡遊戯』を観た。ネタの例としては、『Kill Bill Vol.1』でブライドが『死亡遊戯』でブルース・リーの着ていた黄色いスーツを来ていたことなど。

 Wikipediaで調べてみたのだが、『死亡遊戯』は、急死したブルースがアクションシーンだけ撮っていたフィルムを、そっくりさんを使ってドラマシーンを足して作ったという変則的な映画であるらしい。話としては、汚い手を使って全世界の役者を牛耳っているプロダクション(?)がブルースに自分たちの傘下に入るように言ってくる。ブルースはそれを断ったせいで暗殺されかけるが、なんとか一命を取り留める。葬式(この葬式は、ブルース・リーの本物の葬式の映像を用いているらしい)など、死んだふりをしたブルースはやがて、悪のプロダクションに反撃していく。
 いざ悪の本部で闘うシーンは、塔を一階ずつ上っていって、ひとりずつ敵を倒していくという有名なもの。シナリオは普通の勧善懲悪ものだが、重要なのは、ブルースのファイトシーンだろう。最近のワイヤーアクションほど派手ではないが、ルールばかりのスポーツよりもガチンコに見えて、迫力がある。というか、けっこうえげつない感じもしたり。とりあえず、ブルースかっこいいなあ、と。 

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本田透『電波男』

2006-06-13 | 
 本田透の『電波男』を読んだ。まあ、何かといわれている本ではある。本としては、ブラックユーモアのつもりで読めば、とりあえず楽しめるのではないかと思う。それに筆者は、本田透の主張にある程度賛同してもいいくらいだ。
 この本では、『恋愛資本主義』という、恋愛を媒介に資本を循環させようとするシステムを批判し、そのオルタナティヴとしてオタク文化を挙げる。『恋愛資本主義』システム下では、競争としての恋愛が奨励されているため、いわゆるブサイクな人は、恋愛弱者として、その恩恵を受けることができないからだ。愛を受け取ることのできない個人は、恋愛を奨励するシステムの中で、疎外され続ける。しかし、実際には『恋愛資本主義』システム内でも、ファッションとして、あるいはセックスを求めての恋愛しか行われておらず、このシステムの中には、そもそも愛が存在しない。それに対し、『恋愛資本主義』システムに疎外された他者であるオタクは、『萌え』という妄想を介した脳内恋愛により、愛を得ることができるうんぬん。
 本田氏が『恋愛資本主義』を批判する論旨については、状況認識の過度の単純さを除けば、かなりうなずけるものだと筆者は思う。思えば、容姿というきわめて偶然的なもので、まるで人の価値が決まるかのような価値観は批判されてしかるべきだろう。とは言え、このシステムを批判する者としてのオタクというのは、あまりにも強引なもっていきかただ。少なくとも筆者には、オタクが社会の中で重要なプレイヤーになる像というのは、思い浮かばない。以下は、筆者のコメント。
 恋愛資本主義においては、まるで恋愛が究極の救済であり、万人が享受できるものと提示される。しかし、実際においては、恋愛は競争過程に他ならないため、競争からあぶれるものが出てくる。このあぶれものに対し、無関心どころか不寛容なのは、恋愛が万人のためにある、という前提と矛盾しているではないか、という論理的な欠陥をわれわれは指摘・批判できる。何も、この世からあまねく孤独を救済できないから、恋愛資本主義がダメだと言っているわけではない。恋愛資本主義が、「恋愛は万人にある」「孤独は排除すべき恥である」というイメージを植えつける一方で、孤独や疎外を積極的に作り出すシステム、もっと言えば、孤独や疎外という犠牲を誰かに押し付けねば維持不可能なシステムだからこそ問題なのである。これは、本質論ではない。ただ単に、言説が内部で矛盾し、破綻しているではないかという指摘・批判なのである。
 本田氏は、オタクを『恋愛資本主義』を批判する者としてみるが、一方でオタクこそ二次元のかわいい女の子(男の子)しか見ないではないか、と批判することは可能だろう。それにそもそも、本田氏の措定する、恋愛資本主義対オタク世界、イケメン対キモメン、DQN(暴力男)対オタクという二項対立構造は、それほど自明のものではない。となれば、『電波男』という本自体、本田氏の妄想の産物(「他者」がいない)と批判されても仕方ないのである。。
 それに筆者としては、オタクはニッチな趣味だから面白いのであって、本田氏が妄想するようなオタクが天を取った社会などは、オタク趣味は至極つまらないものになっているだろうと思う。ある意味では、オタク趣味が社会的には後ろ指をさされる背徳的なものだからこそ、淫靡な快楽として、享楽できるのである。
 では、オタクはどうすればいいのであろうか。筆者に言わせれば、簡単である。つまり、オタクは二次元と三次元の両方での戦いという、『二重の闘争』を経験しなくてはならない。どちらかが、現実なのではない、どちらもが現実なのだ。最大の復讐とは幸福になること、というのと同様に、闘争とは「好むと好まざるに関わらず自らを楽しむ」ことなのである。現実の恋愛を批判したければ、ギャルゲーのほうが楽しいと言えばいいのである。ギャルゲーを批判したければ、現実の恋愛のほうが楽しいと言えばいいのである。そして、両方を楽しめれば、それに越したことはないのである(ほんとか?)。まあ、結局のところ、趣味や嗜好の問題ということになるのであるが。

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今週のアニメ一言コメンツ

2006-06-10 | アニメ
『ひぐらしのなく頃に』
 「祟り殺し編」が始まり、なお混迷を深める『ひぐなく』。最初の章では、玲奈が事件の中心で、次の章では、魅音が事件の中心だったから、今度は、小学生2人のどちらかか両方かな。今回は、玲奈がお社様の祟りにこだわるというところにポイントがあったが、果たしてどんな解決があるのやら。

『ARIA The NATURAL』
 えーーーっと、どんな話だったっけ?このシリーズいい雰囲気なんだけど、続き物でもなく、特徴的な展開があるのでもないから、話を忘れてしまう…。ああそうだ、藍華とアリスが灯里をストーキングする話だった(笑)。人形劇屋なんかが出てきてノスタルジックな話で、いつもながらいい話だったけど…。いくらなんでも、社会や人間に期待しすぎかなあ、という気もする。『ARIA』には、悪い人が出なくて、それがいい雰囲気を作っているのだけれど、逆に言えばもし一人でも悪人が出てしまえば、世界観自体が崩れてしまう…。だからこその「ヒーリング・アニメ」。もっと作品世界の中に異物を挿入してもいい気はするんだけど、どうかなあ。

『涼宮ハルヒの憂鬱』
 シリーズを締めくくるべく、原作一巻の内容を三回くらいでやるよう。今回は、長門の戦闘シーンがけっこう凝っていて、なかなか変わったアクションを見せてもらった。ああいう戦闘シーンがもっとあればなあ、と願ってしまう。

『エア・ギア』
 みんなで大ジャンプしているシーンが気持ちよかったが、アクションシーンが哀しいほどグダグダで、いまいちエアトレックのすごさが伝わってこない…。

『BLACK LAGOON』
 闘うメイドさん。もっとも、さすがにあのメイドに萌える人はいないと思うが。ロックも言っているが、ターミネーターだし。とにかくガンアクションとカーチェイスが素晴らしい。全編これアクション。OVAかと思うようなクオリティだよ。

『.hack//ROOTS』
 キー・オブ・ザ・トワイライトはとりあえず見つからず、逆にオーバンが捕らえられてしまう結果に。そして、オーバンの右腕が、謎としてクローズアップされるも、謎が深まったというよりも、謎が別の位置にもちこされただけのような。それ以前に、やはり戦闘アクションシーンがグダグダなのだが。アニメはシナリオが重要だが、それ以前に、ちゃんと動画を作れなければ、アニメというアイデンティティが喪失してしまう。

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恩田陸『黒と茶の幻想』

2006-06-10 | 小説
―そう。俺はこの目を知っている。決して自分の求める愛を得られないと知っている目。
―そう。この目は昔からよく知っている。これは、俺自身の目だ。愛されることを知らない人間の目なのだ。(文庫版下巻P164より)

 恩田陸の『黒と茶の幻想』を読了。傑作、傑作。ミステリーのような、旅物語のような、群像劇のような、愛憎劇のような。とにかく、物語を読む楽しみを味わえる本だった。といっても、『六番目の小夜子』や『真昼の月を追いかけて』のような超盛り上がりの展開はなかったが、それだけに説明不足な部分がなく、きれいな終わり方をしていたと思う。恩田陸の作品は、結末次第で作品全体の質が大きく分かれてしまうので、ここは重要である。
 ある大学以前からの友人たちである、男女四人(男2人女2人)は30代後半になって、ある島(モデルは屋久島)に旅行する。その三泊四日の旅行の中で、主人公たちは「美しい謎」を提示し合い、解決し合いながら、島の森を散策する。その中で、過去の辛い経験を思い起こしたり、新しい何かを見つけ出したりしていく。
 あらすじを語ってもあまりぱっとしないのだが、それはこの作品がエンターテインメントに似つかわしくないほどに、何も起こらない話だからである。その一方で、語られていること自体はとても深い。これは恩田陸の衒学趣味にもよるものだが、主人公たちが話していることが、けっこう興味深く楽しめるのだ。それに主人公たちの友人関係は一筋縄ではいかず、隠し事をし合いながらも、それがお互いのためと大人の関係をむすんでいるところも面白い。章ごとに語り手が変わることで、それぞれの友人関係に何があるのかが明かされるのだ。私的にとてもよかったのは、第三章の蒔生の語り。「人でなし」である、蒔生のつかみどころのない生き方は、筆者にも当てはまりそうで(もっとも蒔生ほど万能ではないが)、筆者には珍しく語り手に共感した。あと、『麦の海に沈む果実』の主要な登場人物であった、憂理のその後が語られることも、ファンにはポイントが高い。
 と、ずらずら言ってみたが、どうにもこの小説についてちゃんと語った気にならない。なぜかと考えれば、この作品には、わかりやすい意味での作品の核というものが存在しなくて(あったとしても「ノスタルジー」とかいう、あいまいな言葉になってしまう)、全体から同じように魅力が発せられているようなのだ。物語のどこが面白いとかいう問題ではなく、物語を読むこと自体が楽しいという感じ。これぞ、恩田陸である。当たり前のことだが、物語を読むことは楽しいのである。この単純なことを教えてくれる作家として、筆者は恩田陸を無二の作家だと思っている。

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Flying Shine『CROSS † CHANNEL』

2006-06-09 | ギャルゲー
 今回のうろ覚えギャルゲーレビューはFlying Shineの『CROSS † CHANNEL』を取り上げる(もっとも、これはまだ二回目で前回取り上げた『最終試験くじら』からかなり間が空いてしまったが)。もちろん『CROSS † CHANNEL』はギャルゲー史上に燦然と輝く超名作!なので、このBlogを読むような人でまだやっていないという人は、こんな文章を読まず中古屋にでも行って買ってプレイしたほうがいい。間違いない。数ある名作の類にもれず、けっこうアンチもいるが、ギャルゲーに興味があるなら、どちらにしろやらなければならない、と言っていいほどの作品である。『Fate』シリーズのシナリオライターである、奈須きのこ氏でさえ、「越えられない壁」と呼んでいる。それにこの文章はネタバレだらけで、すでにプレイした人にゲームを思い出しつつ読んでもらうことを想定している。

 『CROSS † CHANNEL』の核心はもちろん、田中ロミオ氏のシナリオである。田中氏は、これもギャルゲー史に残る名作である『加奈~妹~』『家族計画』のシナリオを書いた山田一氏と同一人物とされている(本人のコメントがなく確証はないが、ある意味で「常識」となっている)。ペダンティックな趣味に満ち溢れ(哲学的な自我論など、たとえば欲求は自己志向なのに対し、欲望は他者を志向するうんぬん)、ニッチなネタの笑いを提供し(「チヌ野郎」と主人公たちが罵倒され、そのもともとのネタである「チヌ鯛」についてヒロインたちが解説したり)、壮大な物語を語り、プレイヤーを泣かせる(ちなみに、筆者は泣かなかったが)。それに、筆者から見て田中氏が非凡なのは、「ギャルゲー」という形式・演出を批評的に利用したことである。どういうことであるか。まず、あらすじから語ってみよう。
 主人公たち7人(男3人、女4人)はある高校の放送部。その高校は、全国的に実施されているあるテストで高得点を取り、精神的にやばい(狂人に近い)とされている人たちが集められ押し込められているところである。もともと主人公がその部を作ったのは、ほとんどコミュニケーションの成り立たない人ばかりの学生から、比較的まともな人たちを集めて、まともな(≒社会的な)営みを行うため。放送部の活動として、ある日合宿を行ったのだが、その帰りにはさまざまな理由から部は分裂してしまう。そして、合宿を終え帰った次の日、世界からはその7人を除いた人間(動物も)が忽然と消えてしまっている。そして、主人公は、放送部を再びまとめようとするかたわら、世界に呼びかけるべく、先輩に協力して校舎の屋上でラジオのアンテナを作る。ラジオアンテナが作り上げられたそのとき、しかし、彼らはまだ気づいていない。世界は一週間しか続かず、それ以上は再び週のはじめに巻き戻り、彼らのそれまでの記憶が消えているということも。
 あらすじを書いてみると、そもそも設定からして鳥肌ものだと感じる。ある日起きたら、数人の知り合いを残して人間が全部消えているってどうよ。しかも、本編では、この設定が極めて印象的な方法で暴かれる。物語のループ一週目(といっても、本当に厳密に一週目かはわからないが。本編では、数万回ではきかないほどのループの存在が示唆され、我々が一週目だと思っているループはその中のどれでもいい)においては、プレイヤーには一週間のループという閉鎖世界のルールは示されていない。テクストに端々で作品世界についての違和感を感じはするが、せいぜいちょっと人間関係に難ありの設定なんだ、というくらい。そして、ギャルゲーにおいては標準的な形式だが、主要登場人物以外の立ち絵がなく、教室の風景などの背景にも人影がない(もっとも、授業中、昼休み中など、現在では人影のある教室風景の方が一般的だが、人影のないギャルゲーもときどきある。はじめて『CROSS † CHANNEL』をやるプレイヤーは、この作品は「ときどき」のほうなのだろう、と思うはず)。しかし、主要登場人物以外の立ち絵がなく、背景に人影がないという演出を使って、実は本当に人がいないという「フェイク」をやってのけたのは筆者の知る限り、本作のみである。そして、この「本当に人がいない」という事実が明かされるのが、一週目の最後の日、組み上げられたラジオのアンテナと仲間たちを前に、主人公・黒須太一が「生きている人、いますか?」という放送をおもむろに始めるシーンなのである。このゲームをやったことのある読者は、ここでこのシーンの衝撃を思い起こしているはずだ(と思う)。こうしたプレイヤーの思い込み(ギャルゲーの形式や演出への「慣れ」)を「フェイク」に利用した例としては、『Ever 17~out of infinite~』で主人公が鏡を見たシーンと双頭をなしている。
 とまあ、プロローグである一週目がこのように終わり、すぐに人のいない校舎の風景ばかり映し、軽やかで少しメランコリックな響きのテーマが流れるオープニングにつながる、というにくい演出である。
 そして、主人公たちは無数の「同じ」一週間を、例外を除いて記憶が何度も消えながら、すごしていく。主人公はある週では美希と恋愛し、ある週では霧と恋愛し、ある週では冬子と恋愛する…というある意味とっかえひっかえな感じなのだが、全体は一本の物語でありながら、記憶を消されながら一週間をやり直すせいで、恋愛の「排他的な二者関係」という定義にはまったく矛盾しないのだ。ギャルゲーというジャンルは、基本的にそれぞれのヒロインごとに「運命的な」恋愛をするので、あるヒロインとそのルートを選び取った場合には、他のヒロインとルートは結局ありえなかったもの、と切り捨てられる(例えば、『Kanon』で月宮あゆルートを通った場合、美坂栞はご臨終し、川澄舞は魔物との戦いに永遠に勝利しえず、沢渡真琴はただの狐…かな?ひょっとして実は「奇跡」でみんな助かってるのかもしれない)。こうした、一見バラバラの物語、実は一本の物語、という配置は田中氏の次作『最果てのイマ』にも受け継がれている。こうした、ジャンル(この場合ギャルゲー)の形式や演出をいったん取り込んだ上で加工し、従来とは違った意味を付与した形式や演出として差し戻すという営為を、筆者は「ジャンル批評的」な作品作りと呼びたい。つまり、作品(物語と言ったらわかりやすいか)に対して、メタ(上位)レベルにある形式や演出をいったん取り出して加工し、もともととは異なるかたちで作品に挿入しなおすのである(ひょっとしたら、批評家の東浩紀先生は、七月に公刊予定の『動物化するポストモダン2』で『CROSS † CHANNEL』や『Ever 17』を題材に、筆者が「ジャンル批評」と呼ぶものを「メタ・リアル」と呼び、議論するかもしれない。ある一見自明と思われる現実=物語は、実はその上位に位置する、形式や演出といったルールに縛られている。そのルールを現実=物語に取り込むことで、ある特殊な形式をもった作品が生まれる、とか)。
 『CROSS † CHANNEL』においては、主人公は七香という閉鎖世界にはいないはずの少女の序言を得て、ループの例外を見つけ、自分以外のみんなが現実世界に帰る方法を発見し、悲しみつつも自分を除く全員を返したあと、一人で閉鎖世界に残るのである。この過程は、本当に人間関係とは何か、ということを問い詰めるものでいい!主人公は本当に友人たちのことを思うからこそ、彼らと離れてでも彼らを現実世界に返す。もっとも、そもそもなぜ主人公が閉鎖世界へと入り込んでしまう能力を得たのか、という理由付けなどは、いまいち理解・納得できないものではあるが。
 そして、もう一つこの作品に対する賛辞に水を差さなければならないのは恐縮だが、ある意味、人間関係に理想を見すぎているのではないかということだ。しばしば熱烈なアンチが言うとおり、「青臭い」のである。筆者としては、「青臭さ」に嫌悪感はないものの、これだけ作品に批評的な仕掛けを持ち込んだシナリオライターにしては、友人関係についてナイーヴに期待し過ぎるのではないかと思う。より精確には、友人関係とはこうあらねばならない、という理想(のみ?)を書いたのではないか。現在読み進めている恩田陸の『黒と茶の幻想』では、大学時代からの友人たち男二人女二人が40くらいになって旅行しいろいろ話をする、という一見平凡そうな話だが、実は、その友人関係も一筋縄ではなく、内に縫合不可能なさまざまな葛藤や断裂を抱えながら、それでもお互いに認め合い尊敬しあっている、ということを丹念に描いている。中には、本当に相手と自分の関係を思うからこそ、本当のことを言わず、最後まで秘密として隠し続けたりもする(章によって視点が変わるので、前の章で明かされなかった真実が、後の章で他の人の内面の独白として明かされたりする)。ある意味では、アイロニカルな関係として友人関係が描かれているのだ。それに対し、『CROSS † CHANNEL』ではこのアイロニーがない。ヒロインの秘密も全て主人公がすべて見取ってしまうのである。もちろん、結局のところ、主人公=読者が全てを見取ってしまう(作者が意図的に隠してしまうのでなければ)というのは、物語においてもっとも一般的な形式であるのだが(ミステリーもSFもみんな基本的にはそうである)。そして、この主人公=読者(プレイヤー)という関係こそ、ギャルゲーのもっとも基礎にあたる形式・演出のひとつであり、ひっくりかえす甲斐のある盲点なのである。実際に、田中氏も『最果てのイマ』において、主人公=読者(プレイヤー)関係をひっくり返すような「ジャンル批評」的営為を行っている。そして、主人公=読者(プレイヤー)関係を現在もっとも徹底的なやり方でひっくり返したのが『Ever 17』なのである。この二つの作品については、いづれ(いつになるかわからないが)取り上げる。あと蛇足的に言えば、七香の正体が、主人公が物心つく前に死んでしまったお母さんだというのは、いくらなんでも『エヴァ』的な家族ロマンスすぎるよね。

 というわけで、一応の論旨はここまで。筆者も原稿用紙10枚以上を一気に書いてしまって、さすがに疲れた。読者によっては、超名作『CROSS † CHANNEL』において語るべきポイントを逃していると感じる人もいるかもしれないが(例えば、『黒須CHANNEL』→『CROSS CHANNEL』→『CROSS † CHANNEL』→『黒須ちゃん寝る』とか、ちょっと謎なラストシーンとか)、筆者としては、語るべきを語ったつもりでいる。最後に、筆者は、エンディングの『CROSSING』が流れて、鳥肌が立った瞬間を忘れられない。曲、歌詞、イラスト、そしてシナリオの余韻が響きあって、グッ!と来てしまった。作品自体を凝縮した、本当にいいエンディング。筆者は姑息ながら、ゲームデータを分解して、MP3にデコードし、いまでも思い出すように聴いている。

♪絶望でよかった 虚無だけを望んだ
 約束と時間と思い出と時間と
 それだけが乾く命を潤す
 きしむ心を優しくつつみこむ
 …

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『かみちゅ!』

2006-06-04 | アニメ
 『かみちゅ!』全話視聴。もともとのTVシリーズはリアルタイムでみていなかったのだが、メディア芸術祭で優秀賞をとったというので気になりDVDを借りて見てみた。DVDシリーズ版では、TVシリーズに加え新録の4話が加わっている。
 ちなみに『かみちゅ!』とは「神様で中学生!」の略。

 あらすじとしては、ある尾道在住の女子中学生のゆりえがある日突然神様になってしまって(神様というのは神道の八百万の神々。ちなみに何の神様か、神様になった理由、神様になった経緯などは一切描かれない)、それを機に周りを巻き込みながらいろいろな騒動を経験する…という話。中学二年生の1年間を描く。
 このシリーズでは、主人公ゆりえの告白が一話にあり(スルーされ)、TVシリーズの最終話(DVDではその後に1話追加される)で再び告白して成就するという、告白に始まり告白に終わるという、ある意味王道の展開を行っている。ほかに特にスペクタルがあったりとかはしない。中学生の友情と恋がゆるゆると描かれ、全体的にほのぼのした雰囲気。のんびりしていて、いいなあと、しみじみ思う。
 演出で特徴的なのは、いろいろな神様や小物のデザインの細かさと、尾道を描いた背景の美しさ、登場人物の動きや表情のこまやかさ。特に、ゆりえの表情はくりくりと動き、顔芸の域に達していると思う。そして、ゆりえがばかっぽくてかわいいのだ。
 何気ないながらも、超良作だと思う。なんというか、味わいがあるのだ。そのせいか、全話見てもまだまだ見たりない、もっと見たいという気がしてならない。続編なり、OVAなりを大希望する!
 あと、DVD版には、本編にオーディオコメンタリーがかぶせてあるバージョンが収録してあって、監督の舛成氏と脚本の倉田氏とゲストの話を聞けるのだが、ゲストにもよるがけっこう面白い。TVシリーズを見た人も、追加された話とコメンタリー目的にDVDを見直すのがお勧め。

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