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哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

島尾敏雄『死の棘』

2009-03-07 | 小説
死の棘 (新潮文庫)
島尾 敏雄
新潮社

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「いったい、どういうのかしら/あなたのきもちはどこにあるのかしら。どうなさるつもり? あたしはあなたには不必要なんでしょ。だってそうじゃないの。十年ものあいだ、そのように扱ってきたんじゃないの。あたしはもうがまんはしませんよ。もうなんと言われてもできません。十年間もがまんをしつづけてきたのですから、爆発しちゃったの。もうからだがもちません。見てごらんなさい、こんなに骸骨のようにやせてしまって。あたしは生きてはいませんよ。生きてなどいるもんですか。でもあなたにめいわくはぜったいにかけませんからね。誰にもわからないようにじぶんを処分するくらいのことはあたしにできます。あたしはそのことばかりずっと研究していたようなものだわ。あたしはあなたを解放してあげます。そのあとであなたは好きなようにその女とくらしたらいいでしょ」(P6-7)

 島尾敏雄の『死の棘』を読んだ。と言っても、知らない人が多いかもしれない。僕も、高橋源一郎先生が「昭和(戦後?)で一番」かなんかとベタ褒めしていたので読んでみたのである。小説の内容は、完全な私小説。正直なところ、進行中の事件について並行して私小説を書いて掲載していた作家の考え方というのはよくわからない。良い悪いの問題ではなくて、私生活で小説の中でこんな風に振舞ったら面白いだろうな、という演技の要素が入ってしまうのではないかと思ってしまうのである。だから、私小説というノンフィクションに近い小説のジャンルのはずなのに、そもそも描くべき私生活の方がフィクション的であり、フィクションについてのノンフィクションという妙な構造になってしまうのではないかと思うのだが。

 さて、この小説であるが、救いようのないことが救いようのないまま決着らしい決着もなく600ページほども続く、ある種の地獄のような小説である。作家である主人公の不貞(不倫)と家庭を顧みなかった年月をずっと耐えてきた妻が、主人公の日記を盗み読んだのをきっかけに、神経に異常をきたし(率直に言えば、ほとんど発狂し)夫とその過去を追及しはじめるのだが、追及すれば追及するほど夫からは不貞の事実が明らかになり、しかもそれでも夫は隠しごとをし、また追及され明らかにされるという繰り返しが延々と続く。途中、不貞の相手から逃げるため住居を何度か変えたり、不貞の相手が乗り込んできたり、妻をついに精神病院に入院させたり(電気ショックまでされている)と、これでもかというどろどろの地獄を読者は見せつけられることになる。しかも、その描き方も当然ながらうまくて、こちらがいたたまれなくなるほどありのままを見せている。比喩や描写も秀逸で、不貞について「その時は羽ばたき、後には腐り落ちた行為」(うろ覚え)とかぐっと迫る文句をところどころに置いている。よくもこれだけ、人間性についてどぶさらいをした小説を書いたものだと思う。むろん、いい意味で。

 というわけで、一言で言えば、この世の地獄について描いた、地獄のような小説。正直、かなりの読書経験を積んだ文学マスターがまだまだ俺をうならせる小説はあるのか、とか言いながら読むかという難度。だいたい村上春樹から文学に入り、小説は英米ベースの僕には荷が重かった。それでも、我こそはという猛者はぜひチャレンジしてほしい。

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エラリイ・クイーン『ドルリイ・レーン最後の事件』

2008-11-26 | 小説
ドルリイ・レーン最後の事件 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリイ クイーン
早川書房

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 エラリイ(エラリー)・クイーンがバーナビー・ロス名義で発表した『ドルリイ(ドルリー)・レーン』四部作の最後、『ドルリイ・レーン最後の事件』を読んだ。確か、同じ早川文庫版の『Xの悲劇』か『Yの悲劇』の解説に、『ドルリイ・レーン』シリーズは全体で一つの長編でもあるということを書いてあったはずだが、この最後作を読んで、それが本当のことだということが分かった。世間では最高傑作である『Yの悲劇』だけ読めば良し、という風潮があるそうだが、今までの三作は『最後の事件』の犯人とその謎解きを際立たせるための伏線であるとのこと。四作すべてを読まねば、全く『ドルリイ・レーン』シリーズを語ることはできないのである。具体的には、『Xの悲劇』でドルリイ・レーンという魅力的な探偵を初登場させ、『Yの悲劇』でミステリー界に残る意外な犯人を描き、『Zの悲劇』でもう一人の探偵役であるペイシェンスを登場させ、『最後の事件』でなぜドルリイ・レーンが自らの探偵稼業に幕を引かなければならなくなったのかを描いているという意味で、四部作がそれぞれ「起・承・転・結」を成しているのだ。これらは、一連のシリーズというよりも、ドルリイ・レーンという探偵の一つのサーガだと言っても大げさではないと思うのだ。

 サム元警視の元に、異様な風体の男がある封筒を預かってほしいという依頼を持ち込む。奇妙に思いながらも、報酬につられて引き受けてしまう。それに引き続いて起こったのは、博物館で元刑事の警備員が行方不明となり、貴重なシェイクスピア本のすり替えという事件。事件のあまりの奇怪さにサム元警視たちはお手上げになり、ドルリイ・レーンが招かれるものの、二転三転する展開にさらに彼らは惑わされていく。そして、その事件の行き着く先は…。

 この小説の解説にも触れられているが、実はちゃんと解決していない謎が結構残っている。また、殺人が起こるのも物語の終盤であり、『Xの悲劇』や『Yの悲劇』のような本格ミステリとは趣が違っている。しかし、最後のペイシェンスの推理とその結末は衝撃であり、四部作を読み切った人は大きな衝撃を受けることだろう。もし興味と時間のある人なら四部作を全部読みとおしてほしい。他のミステリーでは味わうことのできない衝撃を受けること請け合いである。絶対に『最後の事件』だけで読まないように!

「彼は潔く立ち去れり。負い目はすべて支払いずみと聞く/されば、われらの神よ、彼へのご慈悲の与えられんことを/では、われわれの再会の日まで――ドルリイ・レーン」(P481-482)

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エラリイ・クイーン『Zの悲劇』

2008-11-25 | 小説
Zの悲劇 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリイ クイーン,エラリイ・クイーン
早川書房

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「ヒュームさん、わたしみたいな女が何を考えたって、どうってことはないでしょう」
「やあ、どうも。いまの言葉は、あなたを怒らせるつもりのものじゃなくて、その木箱についての意見を聞かせてもらいたいのは、実際の気持ちなんです」
「じゃ、申し上げますけれど」わたしはきっぱり言ってのけた。「あなたたちの目は、ふし穴同然ですわ!」(P73)

 ドルリー・レーン四部作の中では、唯一の失敗作ともいわれる『Zの悲劇』を読んだ。まあ、失敗作といわれるのも仕方なくて、犯行のトリックも犯人の動機も、これでいいんかいな、という残念な感じは否めないのである。まあでも、ドルリー・レーンらしい論理性は保たれているのだが。
 ただ、この小説では先立つ『Xの悲劇』と『Yの悲劇』とは大分趣が異なっている。先の二作が三人称で描かれたのに対し、『Zの悲劇』にはサム警視(警察は引退しているが)の娘であるペイシェンス・サムが登場し、彼女の一人称で物語が進むのである。また、彼女が推理の一部を引き受けている。お転婆という言葉が似合うが、これはこれでなかなか面白い活躍を見せてくれる人物である。対し、我らがドルリー・レーンは前作から10年(?)ほどの年月が経ったせいで、すっかりおじいさんとなっている。前作までは60台なのに40台に見えるという壮健な身体を保っていたのに対し、すっかり老いこんでしまったところがなんとも残念。名探偵もよる年波には勝てないということか。推理力は衰えていないようだが。

 警察を退職したサム警視は、ヨーロッパを巡りながら勉学に励んでいた娘のペイシェンスと、自ら開いた事務所で働いていた。そんなサム警視のもとに、自分の仕事上のパートナーを調べてほしいという依頼が舞い込む。さっそく、依頼人のもとに泊まり込みながら調査を始めるが、そこに地方の選挙に関わる殺人事件が起こる。そこで挙げられた容疑者は出所したばかりのアーロン・ドウという男だったが、ペイシェンスは独自の推理からアーロンは犯人でないと考え、ドルリー・レーンとともに推理を進めていく。

 失敗作とは言ったものの、中盤くらいまでは結構面白かった。というのは、犯罪が地方の選挙や政治や陰謀に関わっていて、そういうサスペンス的な部分が面白かったのだ。途中の死刑のシーンも描写がリアルで印象的だったし。が、結局のところ犯罪は、それらとは関係なく、トリックらしいトリックがあったわけでもなく、消去法で犯人を当てるだけというだけで、ミステリーに必須の、謎解きの最後の盛り上がりはほとんどなかったかも。まあ、続く『ドルリー・レーン最後の事件』でも語り手となるペイシェンスの登場など、『最後の事件』の伏線として読むのが良いのか。

「ペイシェンス、わたしはいまのあなたの言葉で、あなたが一万マイル以内にいるかぎり、殺人の罪はおかさぬことに決めましたよ。あなたの頭は鋭い! で、その結論はどうなります?」(P186)

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アイザック・アシモフ『鋼鉄都市』

2008-11-18 | 小説
鋼鉄都市 (ハヤカワ文庫 SF 336)
アイザック・アシモフ
早川書房

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ロボット三原則
「第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
 第二条 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし与えられた命令が第一条に反する場合はこの限りではない。
 第三条 ロボットは第一条および第二条に反するおそれのない限り自己を守らなければならない」

 アイザック・アシモフがSFミステリーというジャンルを確立した傑作、『鋼鉄都市』を読んだ。原題は”THE CAVE OF STEEL”というもので、直訳すれば「鉄の洞窟」くらいのものだが、『鋼鉄都市』という邦訳はいまいちな気がする。というのは、この小説は、人類の発展史の側面をもっていて、人類が鉄の洞窟を出て、再び宇宙に旅立つというモチーフがあるからである。まあ、作中で描かれているシティの様子もなかなか興味深いので、「都市」を全面に出すのも悪くない気がする。

 地球人類が、かつて宇宙へ植民し再び地球にもどってきた”宇宙人”(スペーサー)に管理されかけている時代。地球の各都市は、ロボットを労働力として導入しながらシティと呼ばれるドーム都市で厳格な管理社会を形成していた。そんな折、スペーサーの殺人事件が起こり、地球とスペーサーの関係を揺るがす事態が発生する。刑事であるベイリは警視総監に呼び出され、スペーサーの作ったロボットのパートナー、R・ダニールの手を借りながら事件に立ち向かっていく。しかし、シティにはロボットへの反感が広がっており、ベイリ自身もあまりによく出来たロボットであるR・ダニールに不信の目を向けながら、凸凹コンビの捜査は続く。
 
 トリックがものすごくシンプルなので、ミステリー好きにはうっかり勧められない小説ではある。しかし、アシモフの描く未来都市やロボットの姿が興味深く、やはりSFとしてはよく出来た小説だなあと感心せざるを得ない。この小説の画期的な点は、(いろいろなところで紹介されているが)ロボット三原則という上記の法則をロボットを描く際の小道具として導入したことに尽きる。というのは、それまでのロボットや人造人間を描いた物語というのは、人間が被造物に脅かされ滅ぼされるという「フランケン・コンプレックス」に基づいたものがほとんどすべてだったのだが、アシモフはロボット三原則を導入することで、このすでに陳腐化していたモチーフから距離を取ることに成功したのだ。他にも、この「ロボット」シリーズはアシモフの「ファンデーション」シリーズに接続したりと、何かと作品外の要素の多い本である。

 でまあ、繰り返すことになるけれど、やはり純粋にミステリーとしてはいまいち。トリックがいまいちなのと、探偵役が失敗ばかりしていること、ミステリーとしては余計なモチーフが多すぎるなど。だから、やはりユートピアでもないディストピアでもない、「科学的な」SF小説という点で評価すべきだし、その点については名作という評価はゆるぎないものだと思う。言ってみれば、古き良き時代のSFの鏡である。
 ロボット関連の知識や技術は、この本が書かれた1979年とは隔絶した感すらあり、実際にロボット工学や認知科学の発達で多少当時とは事情が違っているのではあろうが、まだ古びていないのである。

「人間の人間としての能力を持ったロボットを造ることはできないのだ。まして、よりまさったロボットは無理な話だ。審美感とか、倫理感とか、信仰心を備えたロボットも造れない。電子頭脳は、唯物主義から一インチでも出ることはできないのだ。/そんなことはできない相談なのだ、ぜったいにできないのだ。われわれの脳を動かしているものがなにかを理解しないかぎり、できない。科学が測定できないものが存在するかぎりできない。美とはなにか、あるいは、美とは、芸術とは、愛とは、神とは? われわれは永遠に、未知なるもののふちで足踏みしながら、理解できないものを理解しようとしているのだ。そこが、われわれの人間たる所以なのだ」(P287~288)

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矢作俊彦『ららら科学の子』

2008-09-29 | 小説
ららら科學の子 (文春文庫)
矢作 俊彦
文藝春秋

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「絶対的な絆。何の損得勘定も絡まずに、世界中が敵に回っても、自分の傍にいてくれる人間の絆。それを、かつて子供だったわたしはこの二人に見ていた。
 だが、彼らは、そんなものをあてにはしていなかった。そんなものでお互いを縛ることはなく、ともに生きてゆくために、ただ必要な努力を続けているだけだった。――誰に求められたわけでもなく、自分自身の誇りとして。だからこそ、彼らは一緒にいられたのだ」(P450)

 矢作俊彦の『ららら科学の子』を読んだ。以前に、福田和也からの評価が高くて知ったのだが(右っぽい福田氏が、よく全共闘をテーマに書いたこの小説を評価したものだと思いもするけど)、最近(?)文庫になったのを知って読んだのだ。

 舞台は現代。全共闘時に警官に対し殺人未遂を犯した主人公は、文化革命時代の中国に高飛びする。しかし、折しも中国も大混乱を迎えており、主人公は片田舎に飛ばされ、そこで妻を娶り、30年の時を過ごすが、ついに蛇頭のルートを通って、世紀を超えた東京に帰ってくる。かつて、SFとして夢想された社会の中で、彼は何を見るのか…。

 久しぶりに小説らしい小説を読んだ気がする。ドルリー・レーンのシリーズもちょっと違うしなあ。人の情念と思想が絡み合った小説というか。この小説のポイントとしては、中国に渡航し30年前から時間が止まっている主人公が、現在の東京の風景を見ることで、旧東京と現東京の風景の中にギャップが出来、現東京の姿が逆照射されるところがあげられる。30年前ではとても信じられなかったことが起こっている一方で、以前から変わっていないような気のするところもあり、主人公は二つの東京の姿に幻惑される。その中で、全共闘とは何だったのかなど、かつての彼の姿を反省するのだ。その一方で、社会批評も秀逸であり、考えさせるところが多い。
 社会や都市の描き方もすばらしいし、蛇頭ややくざまがいの企業が出たりなど、ハードボイルド的な雰囲気も手伝って、ぐいぐいと読み進んだ。エンターテインメント系も含めて、これだけ続きが気になる小説もしばらくなかったような。
 ただ、ちょっと気になったのが、タイトルに引用されている『鉄腕アトム』や『ウルトラマン』など、30年前のサブカルネタがたくさん登場するのだが、この位置づけがちょっと腑に落ちないところがある。30年前に夢想された未来世紀の姿として引用されているのか、人間のようで人間でない存在として、「異邦人」である主人公と重ねられているのか。あるいは、この年代の人が読めば、時代の雰囲気を濃厚に感じ取ったりするのかなあ。まあ、理解しきれないけど、面白いポイントである。
 個人的には、2000年代の日本文学としては、阿部和重と並んでかなりツボ。雰囲気が似ているところもあるから(年は20くらい違うはずだが)、阿部和重が好きな人なら、特に読んでみるといいと思う。

「彼は少女を見て頷いた。帰るところはどこにもない。あのとき、そんな場所は失われていた。ロボット法を犯した少年ロボットと同じ、たまたま一回きりのことを、それと気づかずやり遂げていた。あの嫌な臭いのする貨物船の後部デッキで”東京流れ者”を口ずさんだとき、彼は故郷(クニ)を捨てたのだ。ちょうど映画館が暗くなる瞬間のように。(P504)

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エラリー・クイーン『Xの悲劇』『Yの悲劇』

2008-08-30 | 小説
Xの悲劇 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリイ クイーン,エラリー・クイーン
早川書房

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Yの悲劇 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリイ クイーン,宇野 利泰
早川書房

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「あなた方おふたりの、犯罪とその刑罰を見る態度には、多くの演出家が戯曲とその解釈についておかす誤りと同一のものが見受けられます」(『Xの悲劇』P244)

 ミステリーでは古典で最高傑作の部類に入るだろうと思われるエラリー・クイーンの『Xの悲劇』と『Yの悲劇』を読んだ。これに『Zの悲劇』と『ドルリー・レーン最後の事件』を合わせて、ドルリー・レーンものという一つのシリーズをなすミステリー小説シリーズである。
 言うまでもなく、このシリーズはドルリー・レーンという探偵が主人公のミステリーである。彼は60を越える難聴を理由に引退したシェイクスピア劇役者であるが、読唇術を身に着け40代に見えるほどの若々しく壮健な肉体を維持しながら、エリザベス朝時代を模したニューヨーク郊外(?)の城に隠遁している。その彼が、なぜだか解決困難な事件に興味をもち、警察に特別の権限をもらって探偵稼業をするという探偵小説だ。このようなレーンの来歴から、作中の重要なシーンでレーンが登場人物の変装をして探りを入れたりすることが、特にこの探偵の特徴である。

 『Xの悲劇』は、ニューヨークの満員電車の中で目撃者がいないまま株式仲買人が奇妙な凶器で殺害されるという事件からはじまる一連の犯行とその解決が描かれる。なんとこの事件でドルリー・レーンは、警察に事件のあらましを聞いただけでその最初の事件の犯人が分かってしまうのだが、犯人は分かっているんだけど以後の惨劇を防ぐために警察にはその正体を教えないという思わせぶりな態度をとる。どちらかと言えば、犯人や犯行方法のうんぬんよりはドルリー・レーンの意図の方が気になる推理小説である。作中、レーンは大きなミスをするものの、最後まで読めばレーンがどうしてそんな思わせぶりな態度をとり続けたのか納得せざるをえない。圧縮感があって確かにいい推理小説だった。

 一方の『Yの悲劇』は、あるニューヨークの富豪一家「きちがいハッター家」で主人の自殺と子供が毒入りの飲み物で命を落としかける、マンドリンで未亡人が殺害されるという事件から始まる非常に奇妙な惨劇である。奇妙な殺人現場に意図の見えない犯行、ドルリー・レーンが迫られる倫理的な決断など、いわゆる推理小説のイメージに沿いながらも、探偵が事件を華々しく解き明かすというラストからは外れた、オチがすごい。実はこの事件でも、ドルリー・レーンはかなり最初の方で犯人の正体に気付いているのだが、いやそんなはずはない、もしそうだとしたら何か条件があるはずと、その正体の裏打ちのために駆け回るのである。ここは『Xの悲劇』でほとんど終始余裕を見せ続けた人物と同じとは思えないくらい狼狽している。それでいて、なぜあんなにも奇妙な犯行が行われたのか(なぜマンドリンが凶器に選ばれたのか)など、明晰な論理性によって事件を解き明かすのはさすがと言わざるを得ない。ただ、この小説の裏テーマというものは、今となってはちょっと古い気がするのも確か。というか、探偵という一個人が勝手にしてもいいような判断ではないような。さすがに、「クイーン問題」という言葉を生んだ作者の探偵である。

 解説によれば、日本のミステリー小説ランキングによれば、『Yの悲劇』は高い確率で1位を取るだろうと言われる人気作である。しかし、アメリカでは『Xの悲劇』の方が人気が高いらしい。なるほど、レーンの態度も含め、比較的淡々とした『Xの悲劇』に対し、怪奇趣味を盛り込んだ『Yの悲劇』の方が味は濃い。けれど、僕はドルリー・レーンという人物を一冊のもとに、彼自身が身をささげたシェイクスピア劇の登場人物と同じように、普遍の人物として描いた『Xの悲劇』ほうが好きだなあと思う。同じく解説では、『Yの悲劇』だけ読めばドルリー・レーンものはOKという風潮を嘆いているが、なんといっても『Xの悲劇』から読んでいただきたいと思う。『Xの悲劇』で比較的オーソドックスな探偵ものをやった一方、『Yの悲劇』でそこから逸脱するというギャップもまた魅力的なのだから。さらに言えば、ドルリー・レーンものは続く『Zの悲劇』『ドルリー・レーン最後の事件』も併せて、4冊で一つの長編という側面をもっているものなので、あと2冊も読みたいと思う。

「それにちがいない、あらゆる事実が、それを指向している……それでいて、クェイシー、そんなことは、ありえんのだよ!」『Yの悲劇』(P245)

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殊能将之『ハサミ男』

2008-07-20 | 小説
ハサミ男 (講談社文庫)
殊能 将之
講談社

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「殺したければ殺せばいい。いろんな男と寝たければ寝ればいい。家族と話したくなければ話さなければいいし、義理の姉とセックスしたければすればいい。単純なことだ。何かをしたいけれどできない、何かを実行したいけれど許されない、と言って苦しんだり、悩んだり、あるいは逆にひそかに楽しんだりするのは、愚か者のすることだ。やりたいことをやればいいんだよ。自分の責任においてね」(P346)


 ミステリーとしては何かと評判のいい『ハサミ男』を読んだ。まあいわゆる叙述トリックで騙すタイプのミステリーだ。うまく騙されたくて読んだけど、どうだろう。

 あらすじ。
 年ごろの頭の良い少女を殺し、その死体にハサミを突き立てることを至高の愉しみとする連続殺人犯、通称”ハサミ男”が第三の獲物を定め、綿密な殺害計画のためにストーキングを行っていたところ、当の獲物が”ハサミ男”の手口とまったく同じ方法で殺害され、”ハサミ男”自身はその第一発見者となってしまう。偽の”ハサミ男”が捜査される中で、本物の”ハサミ男”は自分に累が及ばないため、独自の捜査を始める。

 前述したとおり、叙述トリック系のミステリである。が、正直あまりうまく騙された感じが僕はしなかったなあ。叙述トリックのネタがバラされる章でも、「え、あー、うん、そう」という感じでどうも「ころっ」と感がないというか。僕が叙述トリックを警戒していたせいもあるのかもしれないけど。

 なるべくネタバレしない範囲で語っておくと、この小説は”ハサミ男”の視点と警察の捜査の視点が交互に提示される。一方で、”ハサミ男”がかなり奇妙な人物で”医師”という独立した人格を備えていたり、また被害者にも不思議な性行があったりで、てっきり”ハサミ男”と被害者の各々の行動の動機にトリックが隠されているのかと思いきや、そうではなかった。というか、動機に関しては最後まで明らかにされないまま、上述の叙述トリックと犯人逮捕について終盤でスポットライトが当たり、そのまま終わってしまったのだ。正直、僕は叙述トリックうんぬんよりも、”ハサミ男”や被害者がどんな人物かに興味があった(正確には、トリックと人物の動機は一緒のものだと思ってた)ので、これらが特に明らかにされないまま終わってしまったのは拍子抜け。筆者の社会批評的な視点も面白かったので、期待していたのだが。まあ、冒頭に引用した文章を真に受ければ、そんなことを考えること自体迂遠だということかもしれない。

 大まかにいうなら、ミステリ好きの人が叙述トリックに騙されて読みたいタイプの小説だと思う。だから、僕のようにミステリーに特に思い入れにない人は、あんんまり…という感じになるかもしれない。うまい小説だとは思うけどね。

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桐野夏生『グロテスク』

2008-07-08 | 小説
グロテスク〈上〉 (文春文庫)
桐野 夏生
文藝春秋

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グロテスク〈下〉 (文春文庫)
桐野 夏生
文藝春秋

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「わたしの言ったことが、大袈裟だとお思いなのですね。それは間違っていらっしゃいます。女の子にとって、外見は他人をかなり圧倒できることなのですよ。どんなに頭がよかろうと、才能があろうと、そんなものは目に見えやしません。外見が優れている女の子には、頭脳や才能など絶対に敵いっこないのです」(上、P92)

 桐野夏生の代表作『グロテスク』を読んだ。だいぶ前に人に勧められて読み始めたのだが、途中事情で長い中断が入り、今日ようやく読み終わった。でも、再開してからは下巻を2~3日で読んでしまったから、内容も文体も読みやすいし読み進められるものだと思う。

 『グロテスク』は現代の女性の生きにくさを描いた小説、と言うと間違ってはいないが正確でもない気がする。ハーフでありながら容貌に恵まれなかったが、「怪物的」な美貌に恵まれた妹をもち、妹にコンプレックスを抱き続けた女の手記に、彼女の同級生二人、妹、そして妹らを殺したというチャンという中国人の手記が載せられる。描かれるのは、女主人公らの幼少期から40歳までの長期間の物語である。様々な意味で、重層的な大小説と言って過言ない。しかもこの小説は、実際に起こった、名門校をで一流企業に勤めていたOLが夜は娼婦の二重生活を送った末に殺された「東電OL殺人事件」に取材し、90年代の社会を横断するように描くという力の入れようである。
 小説の全体像は、なんらかの意味でエリート(よりすぐり)である女性たちが、エリートである故に怪物と化していくものである。特に下巻では主人公たちが娼婦になり、あるいはなっていく姿を描いていく。昔、どこかの小説かエッセイで「娼婦になりたいと思わない女はいない」という文章を読んだ覚えもあるが、正直男の僕には安易には理解しにくい世界である。男社会に対する鋭い視線も含めて。また、ガンダムの富野監督がこの小説を薦めていて、「萌えアニメとか見て女に幻想を抱いている男は、この小説を見て考えを改めろ」というようなことを言っていたが、これはさすがに別の幻想(実は女はもっと怖い…)ではないかと思う。特に富野監督の場合、趣味がちょっと特殊でいらっしゃるし。
 全体的な印象としては、間違いなく面白い、エンターテインメントの傑作だと思うが、文学的な水準で見てみると、(加藤典洋先生が、この小説か桐野氏の他の小説の書評で書いていたと思うが)雑な感じは否めない。特に第三章の「生まれながらの娼婦」というタイトルは、この小説に時々出る紋切り型の代表である。この小説は、三面記事的な紋切り型の印象をときにうまく利用し、ときに利用し損ねているところがあると思う。そして一流企業に勤めるOLが娼婦との二重生活を送るに至った経緯には桐野氏の大胆な解釈が行われているが、そこまで意外ではない上、解釈自体に僕は疑問を感じざるを得ないところもあった。さらに、第五章の「私のやった悪いこと」のチャンの手記は、脇道ではないかと。しかし、小説のクライマックスにあたる第七章の「肉体地蔵」は、ある意味で一番不快な章であるが、文学としても評価できるのではないかと思う。

 個人的に気になるのは、この小説は単純に言えば男社会につぶされる女たちが描かれているのだが、彼女たちの破滅というのは彼女たち個人の「心の闇」に圧縮されたもので、局所的に止まっていることである。たとえば、ドストエフスキーの『悪霊』は、共産主義革命の機運が「悪霊」と形容され、人を狂わせ社会を覆う様子が描かれているが、『グロテスク』の狂気は局所に止まるのである。おそらく桐野氏の時代診断は正しい。先の秋葉原通り魔事件にしたって、個人の憎悪が暴発したものであり、機運とでも呼ぶべき広がりを持っていない。おそらくは、今後はこうした社会的にはほとんど無意味と言わざるを得ない憎悪が個人の内にたまり散発的に暴発し、それを止める手段は社会にほとんどないという状況になるのではないかと思う。

 ながながと、そしてちくちくと書いてきたが、この小説は傑作だと思う。でももっぱら僕の趣味や考えとマッチしないので、僕にとっては褒め称えるということはしにくい小説だとも思う。やっぱり良くも悪くもエンターテインメント色の強い小説かな。書きたいことは結構あるけど、これ以上書くとこちらの文章の方が破綻してしまうからこのくらいで。

「あなたもあたしも同じ。和恵さんも同じ。皆で虚しいことに心を囚われていたのよ。他人からどう見られるかってこと」(下、P228)

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笙野頼子『笙野頼子三冠小説集』

2008-03-22 | 小説
笙野頼子三冠小説集 (河出文庫 し 4-4)
笙野 頼子
河出書房新社

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「私はあの消費は美徳が一転して省エネに変わったあたりからマスコミの言う事は全部疑い、結局は自分の好きなようにするというのに憧れている。だが所詮はころころ変わる世間の言いぐさに影響を受け、焦りつつ生きる」(P197)

 純文学の守護神にして永遠の新人(裏表紙)であるところの、笙野頼子の『笙野頼子三冠小説集』を読んだ。この小説には、芥川賞を獲った「タイムスリップ・コンビナート」、三島賞の「二百回忌」、野間文芸新人賞「なにもしてない」を一冊にまとめた本である。ちょっと文学をかじったひとなら分かると思うが、この三つの賞はいずれも新人賞で、普通これらの賞をどれか一つ、あるいは二つくらいを獲れば小説家は「新人」ではなくなるのだが、笙野氏の場合なかなか評価が定まらなくて、ついに「永遠の新人」などという純文学者としてはあまりありがたくもなさそうな通称を得ることになってしまったみたいだ。

 さて、この笙野氏だが、僕にとっては小説よりも大塚英志との所謂「純文学論争」の印象が強い、というか小説を読んだことがなかった。まあ、純文学論争はどっちもどっちというか、すでにもっと大きなものに負けてしまっているもの同士の泥かけ試合みたいな印象だが、ちょっと面白い。まあ端的に「文学が読まれない」という現状に問題があるわけだ。
 「タイムスリップ・コンビナート」は読みたいと思っていたのだが、ろくに文庫化もされず、単行本も大学の図書館に残っていなかったので読めなかったのである。笙野自身もこうした自作の現状を憂い、こうして「三冠小説集」というやけくそな名前で文庫を出した、という経緯らしい。

 で、その笙野氏の小説なのだが、正直、難しいし面白くない…。分かっている、これはどちらかと言えば読み手の力量の問題なのだと。たとえば「タイムスリップ・コンビナート」の主人公が見るマグロとの恋の夢について、僕はなんとなくな感じの恋愛という程度に読んでいたのだが、作者のあとがきによると、作者自身でも認識が改まっていて、もともと「源氏物語の姫君が景色に恋しているような恋愛をする」というものから、「宗教感情を伴う自我が、自らの感情を対象化し、神をつくりだす、姫君はそのような経済的、宗教的背景の元で景色に恋したのだ」ということになっている。そして、「要するに源氏物語の作者は唯物史観など知らなくても使わなくても、心と言葉を使って、それも仏教的無常観を以てマルクス主義が関知できぬ部分を書いていたと思うのである」と言うのである。分からNEEEEEEEEEE!!! つか、マルクス主義関係ねえだろ! 「二百回忌」や「なにもしてない」については僕からしても面白いと感じるところがあったけど、「なにもしてない」の最初は世間と自分のズレから象徴的なかぶれを起こしてしまった私の不安を描く喜劇的なタッチのある小説かと思いきや、中盤でかぶれはあっさり直り、その後はとりとめのない感じのエッセイ調の文章が並び、帰省と天皇の戴冠式の様子が並置されたりで、小説がどこへ行くのか見失った。こういう小説をちゃんと評価するには読み直すのが筋なのだろうが、その気力も僕にはない。正直なところお手上げである。

 最近の純文学の売れ無さについては、単純に面白くないからと言えないだろうか。あんまりビッグネーム過ぎるが、夏目漱石、太宰治、三島由紀夫とかの文学は決して読みづらくなく、面白く、それでいて文学性というものを高度に両立していたはずだが、最近の文学はそもそも読めんし分からん。いや、それ以前に、これまでそれなりに真面目に文学を読んできたはずだが、ちょっと諦めてしまいそうだ。どうしよう。

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ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』

2008-03-09 | 小説
不思議の国のアリス (新潮文庫)
金子 国義,ルイス キャロル
新潮社

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「なによ、あんたたちなんて」「あんたたちなんて、ただのトランプじゃない!」(P172)

 『lain』をはじめ、いろいろな作品の元ネタとして引用されている『不思議の国のアリス』を読んだ。うーむ、昔読んだかなあ。今になって読んでいてまったく覚えがなかったから、絵本とかでも読んでいなかったのかも。
 
 アリスという少女が不思議の国に迷い込んで奇妙な体験をするというあらすじは周知の通りだけど、面白いのはそういうお話よりも、主人公のアリスの生き生きとした表情であり、他の奇妙な事物の方だと思う。チェシャ猫なんかはかなり面白いキャラクターだと思うし。あとこの童話には言葉遊びが詰め込まれているのだが、さすがに日本語訳ではそういう楽しみ方は難しい。この新潮社版の訳者は詩人の方で、かなりがんばって言葉遊びを再現しようとしているのだが、やはり苦しい。かなり違うかもしれないが、『ハヤテのごとく』と同じくらいの割合でパロディが埋め込まれているようなものだ。この童話が好きな人なら、そういうパロディを原文から追っていって楽しむこともできるんだろうけど、さすがにそこまでやる気にはならず。
 どうも日本人だと、この童話の楽しさを真に感じることは難しいのではないかとも思うが、先述したとおり様々な作品の元ネタとなっている本作、一読しているとそういう作品の楽しみ方が広がるかもしれない。

 ……ところで、この新潮文庫版のルイス・キャロルの紹介文。「幼い少女たちをこよなく愛し、生涯を独身で通した」――ガチロリコン、本当にお疲れ様でした。

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ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』

2008-03-02 | 小説
伝奇集 (岩波文庫)
J.L. ボルヘス
岩波書店

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「数分で語り尽くせる着想を五百ページに渡って展開するのは労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすことだ」(P12)

 ポストモダン的な作家として有名なホルヘ・ルイス・ボルヘスの代表短編集『伝奇集』を読んだ………すいません、カルヴィーノの『パロマー』を楽しめた僕でも、これはよく分からなかった。電車の中で暇つぶしによめるような小説ではなかったのである。
 傾向としては、悪漢小説だったり、何かの書物についての小説だったりというものだが、それと同時にキリスト教説などについても書かれていて、神秘主義的なところもある。しかも、思考ゲームみたいなところもあるし、まさに伝奇、まさに迷宮である。そして何より、作者は壮大な大嘘をこれらの小説のなかでついていて読者を戸惑わせるのだが、最後の数行までその全貌が明らかにならず、また読者をさ迷わせるのである。けれど、正直難しすぎて、それがどういう種類の嘘なのか、僕にはよく分からんということであった。いつかもっと知性を磨いてから、じっくりと読みたい一冊。読みたいと思う人は、周到な準備をお忘れ無く。

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中井英夫『虚無への供物』

2008-02-20 | 小説
虚無への供物〈上〉 (講談社文庫)
中井 英夫
講談社

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虚無への供物〈下〉 (講談社文庫)
中井 英夫
講談社

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「ぼくのいってるのは、世間ふつうの意味での殺人じゃない。氷沼家のおびただしい死人たちが、無意味な死をとげたと考えるよりは、まだしも血みどろな殺人で死んだと考えたほうがましだということだ。聖母の園事件もそうだが、もし犯人がいないというなら、ぜひとも創らなくちゃいけない。狡智なトリックを用いてわれわれを愚弄し、陰で赤い舌を出している犯人が必要なんだよ。君たちが推理くらべをやったり、誰かれ構わず犯人に見立てたりしたのは、その意味でかと思ったんだが……」(上P377)

 ミステリー小説でありながら、ミステリー小説であることを否定するアンチ・ミステリーの傑作であり、日本三大奇書の一つとされる中井英夫の『虚無への供物』を読んだ。このタイトルはヴァレリーの死から取られている。

 1955年。洞爺丸沈没事故で両親を失った氷沼家をさらなる不幸が襲う。紅司の死に始まる連続怪死事件「氷沼家殺人事件(ザ・ヒヌマ・マーダー)」が起こったのである。事件に直面した、素人探偵たちがその謎に挑むが、それぞれが衒学趣味を持ち出した推理を披露し合うが、最初の事件の謎も解けぬままに次から次へと新たな事件が起きるのだった。果たして陰惨な事件の裏にいる人物は誰なのか。

 面白い……んだけど、結局解けていない謎がちらほら。一番気になった「第四次元の断面」にしてもはっきりしない。もっともこの小説は、読者が文句を言うことを拒んでいるところがあるので、なんともはや。そもそも、この小説はミステリー小説をかなり読み込んできている人じゃないと楽しめないのかもしれない。僕みたいなクイーンもクリスティも読んでいない読者には、登場人物たちの推理ゲームのノリからして分からないのである。
 確か笠井潔氏が『哲学者の密室』か何かで「虚無よりも虚しき『虚無への供物』の作者に捧ぐ」みたいな献辞を捧げていたと思うけど、そんな皮肉を言いたくなる気持ちは分かるな。「そんなこと言われたって」という何とも言えない感がある。それでも笠井氏自身の探偵小説論「二つの世界大戦を経験し、大量の人間の無意味な表象が生まれた現代社会で、奇妙な状況で人が死に、それを探偵が解読するという二重の意味づけを含んだ探偵小説は、ヒューマニズムからの抵抗となっている」(私的要約)は、この『虚無への供物』から発想を得たのだと思う。そういう意味では、この小説は興味深い社会批評を含んでいると思う。また、かなり遠いが『Ever 17』のネタもこの小説に発想を得ているような気もする。僕的にこの小説で最も面白かったのは、やはり衒学趣味から登場する様々なオカルトチックなモチーフだろうか。すでに原版は50年以上前のものとなっているが、この小説はまだ「生きている」。ただやはり、すでにかなりミステリー小説を読みこなした人にしか、勧められない、というか読んでもらっても意味のない小説だと思う。一度本当にぎゃふんと言わされるミステリー小説を読んでみたいが、なかなかないなあ。

「全部とはいわない、しかし、この一九五五年、そしてたぶん、これから先もだろうが、無責任な好奇心の創り出すお楽しみだけは君たちのものさ。(…)おれには、何という凄まじい虚無だろうとしか思えない。あの薔薇の名に因んだ詩は、何か優雅な意味らしいが、あれをもじっていえば、そんな虚無への供物のために、おれは一滴の血を流したんじゃあない。(…)おれのしたことも、別な意味で、〝虚無への供物〟といえるだろうな」(下P389)

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アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』

2008-01-14 | 小説
幼年期の終り
アーサー・C・クラーク,福島 正実
早川書房

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「われわれは新しい、そしてすばらしいものが生まれ出るのを、助けているのですよ」(P303)
 通学のお供に読んでいたクラークの『幼年期の終わり』を読み終えた。「オデッセイ」シリーズも読んだし、クラークはとりあえずこれでいいかなあと。

 1970年代のある日、アメリカとソ連の宇宙開発競争の激化する時代に、宇宙から巨大な宇宙船がやってくる。やがて彼ら、オーバーロードと呼ばれる存在は、その総督カレルレンが国連事務総長を通することで実質的に地球を支配する。オーバーロードの科学力は絶大で、彼らの影響のもと人類は戦争を放棄し、あらゆる国境が取り払われ、黄金時代を謳歌していく。しかし、オーバーロードはその姿を直接さらすことはなく、人類の間でオーバーロードの目的は推測の域を出ていなかった。果たしてオーバーロードとは何者なのか、その目的は何なのかが疑われるうち、オーバーロードは「今から50年の後に生身の姿を公開する」と宣言する。

 宇宙人とのファーストコンタクトから、宇宙論と人類と地球の滅亡と新たな存在の覚醒が描かれるという凄まじい作品である。『2001年宇宙の旅』を知っている人なら、クラークがかなり似通ったモチーフを用いていると気がつかれるだろう。
 しかし、この小説、原版が1953年出版となっているが、ほとんど古さを感じさせない。その一つの理由は、オーバーロードの存在とその科学力により、人類の科学力が1970年代の水準から今の水準をも飛び越えた超科学の水準に到達してしまったという設定のせいだけど、それにしても古さを感じさせないのだ。この前読んだハインラインの『夏への扉』がやはりレトロ感を漂わせていたのとは好対照である。
 それに、wikipediaにも『エヴァ』への影響について書かれているけど、最近のアニメやラノベにも直接的にか間接的にか影響を受けているものをいくつか思い浮かべた。『ハルヒ』の長門の親玉とか、『ブギーポップ』シリーズとか、『イデオン』とか、ひょっとしたら『グレンラガン』とかいろいろである。

 そういう意味で、50年前に書かれたSFながら、「オデッセイ」シリーズと同じく、ほとんど古さを感じさせないSFとして頭が下がるのみである。それに、ごく単純にいって、これほどスケールの大きな小説を他に読んだ覚えもない。宇宙観や人類観にも見るべきところがあるし、すごい小説だ!としか言い様がない。宇宙スゲー。

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ロバート・A・ハインライン『夏への扉』

2007-12-27 | 小説
夏への扉
ロバート・A・ハインライン,福島 正実
早川書房

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「しかし、ぼくは、ピートに劣らず、こんな哲学には縁がない。この世の真理がどうであろうと、ぼくは現在をこよなく愛しているし、ぼくの夏への扉はもう見つかった。もしぼくの息子の時代になってタイムマシンが完成したら、あるいは息子が行きたがるかもしれない。その場合には、いけないとはいわないが、けっして過去へは行くなといおう。過去は非常の場合だけだ。そして未来は、いずれにしろ過去にまさる。誰がなんといおうと、世界は日に日に良くなりまさりつつあるのだ。人間精神が、その環境に順応して徐々に環境に働きかけ、両手で、器械で、かんで、科学と技術で、新しい、よりよい世界を築いていくのだ」(P334)

 『夏への扉』を読んだ。言わずと知れたSFの巨匠ロバート・A・ハインラインの代表作である(と言いつつ、僕は割と最近になってSF小説について調べてから知ったのだけど)。

 ジャンルとしてはタイムトラベルもの。ある理由により、1970年から2000年まで冷凍睡眠によって時代を超えてしまった技術者が様々な疑問を解決するために悪戦苦闘する話。

 SFとしては割とソフト。たとえばクラークの『オデッセイ』シリーズなんかとは、SF的な厳密さについては比べるべくもない。むしろ、ファンタジーがかっても見える作風は、カート・ヴォネガットなんかに近い(オプティミズムとシニシズムの向きが逆だけど)。でも、おもすれー。久しぶりに、ふつーに面白い本を読んだという感じで。前半の事件発生にしろ、中盤からの小さな謎と伏線の展開、後半の解決とロマンチックな余韻と、ストーリーテリングが申し分ない。涼元的に言えば「おセンチ」なSFなのだ。

 1957年にかかれ1970年と2000-2001年を舞台に書かれた本作は、SFとしては、今見るとリアリティに欠けるきらいはあるけれど、とにかく面白い物語である。しかし、冷凍睡眠技術とか、作中で1970年には完成している技術とかが、現実には未だに完成してないんだよな。2000年には不老化の技術とか火星旅行とかも完成しているとされているのに、現実には夢のまた夢。さらに作中で主人公が発明するロボット(というか全自動家事器)なんかも、もう10年は出ないだろう。「オデッセイ」シリーズもそうだけど、情報通信技術を除けば、かつてSFに描かれた未来に、その時代に到達したはずの僕らはまだ来ていないのだ。昔の人は、それだけ科学や技術の進歩を信じていたということ。この小説も、ちょっと皮肉っぽい言い方をすれば、SFというよりも理系ファンタジーみたいなニュアンスを、今となっては感じなくもない。いつか僕らにも「夏への扉」を開くような時代が来るのだろうか?

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柳美里『石に泳ぐ魚』

2007-12-22 | 小説
石に泳ぐ魚 (新潮文庫)
柳 美里
新潮社

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「私は何故水と魚の記憶に囚われているのだろう。私は現在を全て過去の記憶で濾過しなければ受け入れることができないでいる。私の脳内のフロッピイには太古の記憶まで保存されているのだろうか、そこには透明な水の中に一匹の魚が棲んでいる。しかし魚もまた記憶を持っているのだとすれば」(P194)

 評判を聞いて面白そうだったので柳美里の『石に泳ぐ魚』を読んでみた。思えば、どんな小説かは知られていないのに、その訴訟ばかり有名という変な小説である。知らない人のために言っておくと、この小説は私小説で、中に出てくる在日の人の顔に大きなあざがあることを「異様」とかなんとか表現してしまったせいで、作家自身の親友でもあったその人から出版事前差し止めと慰謝料を求める訴訟が起こされたのだ。裁判の結果、出版社と柳氏が敗訴。『石に泳ぐ魚』の原版は差し止められ、今出ているのは改訂版というわけだ。原版については当時の『新潮』に載っているが、僕のいた大学の図書館だと、研究など相応の理由と教授の紹介があってようやく読めるという扱いだったと思う。
 ちなみに、この裁判が行われていたとき、他の作家からの擁護とかはなかったらしい。まあそりゃそうだなとは思う。小説のためとはいえ、親友の顔の腫瘍を「異様」と書くというのは、「小説家」の事情であって、社会的な承認は得られないだろう。その親友にインフォームド・コンセントを取るのを怠った作家の問題ではないか(実は僕にも顔に大きな腫瘍(頬が赤いというだけだが)があるが、人の小説の中に書かれ「キモイ」とか言われたら、そりゃ怒る。自分で言うのも何だが、めんどくさいコンプレックスとかあるのだ。むしろ自分で私小説のネタにしたい)。新潮社文庫版で解説を書いている福田和也氏は裁判の結果について「文芸、小説を、平板な法的論理で裁断しているだけでなく、作家の創作姿勢そのものに土足で踏み込む、きわめて傲慢な判決としかいい様がない」と批判しているけれど、近代社会においては宗教だの芸術が社会の中で特権的な位置に置かることはもはやありえない、というのが(ルーマン流の)現在の社会診断である。

 でまあこの小説についてなのだが、正直苦しい。奇しくも福田氏がどこかで、「大衆小説は人を気持ちよくさせるが、純文学は違う、むしろ気持ち悪くする」とかなんとか言っていたが、それを素でいっている。決して長い小説ではないし、文章はとてつもなくうまいのに(あるいはだからこそ)、苦しい。窒息しそうな小説だ。作家は魚とか水を連想させる言葉をしばしば使っているが、思えばこの窒息感を適切に表した比喩だと思う。他、小説中、見事としか言い様がない、形容や比喩がたくさん登場するが、多すぎてくどい気も。いや、文章はめっちゃうまいのだが。

 主人公はかつての柳氏自身である劇作家。劇の脚本を書きながら、演出家と反同棲の生活を送っている。彼女は在日二世で韓国語は使えない。在日の家族、劇団の仲間、今は韓国に住んで彫刻家の卵をやっている在日で顔に大きな腫瘍を持った友だち、その他の人たちとの関係が描かれる。果たして小説がどこに行くのかわからず、目眩を覚える。

 なんかエロいし、グロいし、疲れる…。しかし、すごいし良い小説だよなあ(特に今の文壇で受けそうなという意味では)。個人的には、ネットウヨクと衝突しているのかすれ違っているのかわからない、いわゆる「在日」の人たちのイメージを獲得出来て良かった。彼(女)らは、要は日本にも韓国にも居場所がないのかあ。つれー。一言で感想を述べれば、鬱るんです。真面目に文学をやりたい人は必読。その他の人には、まちがっても勧めらんねえ。

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