「…人間は想像する、あらゆる動物のなかで、想像力、を持っているのは人間だけだ、他の大型獣に比べて圧倒的に非力な人間が生き延びていくためには、想像する力が必要だった、危機を回避して生き延びていくためには、予測、表現、伝達、確認、などが絶対に必要で、それを支えるのは想像力だ、われわれの祖先は、ありとあらゆる恐怖を想像して、それらが現実になるのを防ごうとした、だから、現代の人間たちにもそういう想像力が残っていて、それが、ポジティブに発揮されれば、芸術や科学を生むし、ネガティブに発揮されるとそれは必ず恐怖や不安や憎悪という形になって、われわれ自身に帰ってくる…」(本文p262)
村上龍の「インザ・ミソスープ」を読了。普通におもしろい小説だった。話としては、倍黒人向けに歌舞伎町のアテンドをしている青年が、一人の変なアメリカ人の客を取ったところから、その客の妙な性愛へと引き込まれていく…、というような話。大塚英志は、小説の作り方を教えるときに揶揄をまじえながら、村上龍の小説は物語の構造としてうまくできている(「文学」といってもそんな大それたものではない)、といい、高橋源一郎は、現在の小説家のなかで文章の一番の天才は村上龍だ(小説の内容については、ほぼノーコメント)といっている。この小説も、村上龍一流の「哲学」(歴史、生物、社会…)というかウンチクが披露されるわけだが、筆者はこれがけっこう好きだ。なんだか、いろいろと大げさに表現されている気がするかもしれないが、少なくともこうした切り口から現代の状況を語れるのは村上龍しかいないのは確かなので、貴重ではある。小説としては、十分楽しめるもの。読め、とは言わないが、読んでいい小説だと思う。
もともとロクに大学にも通わなかった村上龍が、最近ではやたらと職業的なコミットメントを説いている。いかにも凡庸といわざるをえないが、これは村上龍の主張が、筆者が「サバイバルの論理」と読んでいるもので貫かれているからだと考えている。村上龍の論理の始点にして支店には「サバイバル」ということが据えられていて、それが最重要点として全体を規程しているということだ(たまにプライドが優先されるが)。だから、「サバイバル」せず、ただ単に状況に流されながら生きている人間や甘えている人間が許せないのだ。この倫理は、言ってみれば、かっこいい。まあ、せめてかっこいいというのは良いのだけれど、この論理はどこか空回りしているように感じられもするんだけどなあ。
村上龍の「インザ・ミソスープ」を読了。普通におもしろい小説だった。話としては、倍黒人向けに歌舞伎町のアテンドをしている青年が、一人の変なアメリカ人の客を取ったところから、その客の妙な性愛へと引き込まれていく…、というような話。大塚英志は、小説の作り方を教えるときに揶揄をまじえながら、村上龍の小説は物語の構造としてうまくできている(「文学」といってもそんな大それたものではない)、といい、高橋源一郎は、現在の小説家のなかで文章の一番の天才は村上龍だ(小説の内容については、ほぼノーコメント)といっている。この小説も、村上龍一流の「哲学」(歴史、生物、社会…)というかウンチクが披露されるわけだが、筆者はこれがけっこう好きだ。なんだか、いろいろと大げさに表現されている気がするかもしれないが、少なくともこうした切り口から現代の状況を語れるのは村上龍しかいないのは確かなので、貴重ではある。小説としては、十分楽しめるもの。読め、とは言わないが、読んでいい小説だと思う。
もともとロクに大学にも通わなかった村上龍が、最近ではやたらと職業的なコミットメントを説いている。いかにも凡庸といわざるをえないが、これは村上龍の主張が、筆者が「サバイバルの論理」と読んでいるもので貫かれているからだと考えている。村上龍の論理の始点にして支店には「サバイバル」ということが据えられていて、それが最重要点として全体を規程しているということだ(たまにプライドが優先されるが)。だから、「サバイバル」せず、ただ単に状況に流されながら生きている人間や甘えている人間が許せないのだ。この倫理は、言ってみれば、かっこいい。まあ、せめてかっこいいというのは良いのだけれど、この論理はどこか空回りしているように感じられもするんだけどなあ。