哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

村上龍『イン ザ・ミソスープ』「サバイバルの論理」

2006-05-25 | 小説
「…人間は想像する、あらゆる動物のなかで、想像力、を持っているのは人間だけだ、他の大型獣に比べて圧倒的に非力な人間が生き延びていくためには、想像する力が必要だった、危機を回避して生き延びていくためには、予測、表現、伝達、確認、などが絶対に必要で、それを支えるのは想像力だ、われわれの祖先は、ありとあらゆる恐怖を想像して、それらが現実になるのを防ごうとした、だから、現代の人間たちにもそういう想像力が残っていて、それが、ポジティブに発揮されれば、芸術や科学を生むし、ネガティブに発揮されるとそれは必ず恐怖や不安や憎悪という形になって、われわれ自身に帰ってくる…」(本文p262)

 村上龍の「インザ・ミソスープ」を読了。普通におもしろい小説だった。話としては、倍黒人向けに歌舞伎町のアテンドをしている青年が、一人の変なアメリカ人の客を取ったところから、その客の妙な性愛へと引き込まれていく…、というような話。大塚英志は、小説の作り方を教えるときに揶揄をまじえながら、村上龍の小説は物語の構造としてうまくできている(「文学」といってもそんな大それたものではない)、といい、高橋源一郎は、現在の小説家のなかで文章の一番の天才は村上龍だ(小説の内容については、ほぼノーコメント)といっている。この小説も、村上龍一流の「哲学」(歴史、生物、社会…)というかウンチクが披露されるわけだが、筆者はこれがけっこう好きだ。なんだか、いろいろと大げさに表現されている気がするかもしれないが、少なくともこうした切り口から現代の状況を語れるのは村上龍しかいないのは確かなので、貴重ではある。小説としては、十分楽しめるもの。読め、とは言わないが、読んでいい小説だと思う。

 もともとロクに大学にも通わなかった村上龍が、最近ではやたらと職業的なコミットメントを説いている。いかにも凡庸といわざるをえないが、これは村上龍の主張が、筆者が「サバイバルの論理」と読んでいるもので貫かれているからだと考えている。村上龍の論理の始点にして支店には「サバイバル」ということが据えられていて、それが最重要点として全体を規程しているということだ(たまにプライドが優先されるが)。だから、「サバイバル」せず、ただ単に状況に流されながら生きている人間や甘えている人間が許せないのだ。この倫理は、言ってみれば、かっこいい。まあ、せめてかっこいいというのは良いのだけれど、この論理はどこか空回りしているように感じられもするんだけどなあ。

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戯画『この青空に約束を―』

2006-05-24 | ギャルゲー
 戯画の『この青空に約束を―』を、遅まきながらコンプリート。実によくできたギャルゲーだった。特に大掛かりな仕掛けこそないものの、細部までこだわりがあって楽しいのだ。

 舞台は、過去に大企業の誘致をしたため一時的に反映した島で、今ではその勢いも衰えている。主人公は、その島の高校に通う学生で、同級生や教師など女の子5人と一緒に学園の寮で暮らしている。けれどもsのうちの教師を除く4人は、その学年の終わりに島を出て行ってしまうことが決まっている。物語は、この寮に新たに一人の女の子が加わるところから始まる。

 シナリオライターの丸戸史明氏の趣味か、映画などのパロディネタが満載。長距離走のゴールで『ロッ○ー』のテーマとか、砂浜で「ゴール」は不吉だという『A○R』ネタとか。特によかったのは、さえちゃんルートの『12人の怒れる教師』。元ネタにかなり近い形で再現されていて、ひとりずつ意見を変えていくところなど、けっこう熱かった。
 シナリオの質については、概して平均点が高い。じっくりと長い話を作るのではなく、むしろざっくりと細部を切り落とすことでテンポのよいシナリオを作っている。その中でも、海己のシナリオとエピローグの『約束の日』はかなり濃厚に描かれていて涙腺が緩む。なによりも楽しいのが、主人公を含めたつぐみ寮の住人たちのチームワーク。こいつら最高だよ!と思わずにはいられない。ありえないほど楽しい青春の日々。主人公が、バカでかっこよくて才能があって、でもなさけないところもあって、モテないわけがない。そして、すごいぜ主人公!という場面がいくつもある。ありえないものばかりなんだけど、だからこそものすごく楽しい。
 何か新しいものがあるというわけではない。でも、凡庸な形式の中での完成度を限界まで高めた作品。だから素直に楽しむことができる。まさに良作。

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町田康『きれぎれ』

2006-05-21 | 小説
 町田康の芥川受賞作である表題作を含む短編集『きれぎれ』(他、『人生の聖』所収)を読了。…最近、小説の読書ペースがものすごく遅くなってる。もともと速いほうではなかったが、最近小説を読む時間自体がとれず、まさに激減状態。小説を読むことは、単なる趣味でも実益でもなく、ライフワークのようなものなので、まずいなあと思いつつ。

 さて、『きれぎれ』と『人生の聖』である。特に物語がどうのこうのというのではなく、文体くらいに話を絞ろうとおもうので、まとめて扱ってしまっても問題はない。やはり特徴的なのは文体である。いっけんめちゃくちゃに見えるが、その実一寸の隙もないくらい「出来上がった」文体である。前に紹介した『くっすん大黒』ではまだ物語に頼っている部分があって、読後の感想は「ちょっと変わっているけれども、生真面目なほどの日本文学」であったけれども、『きれぎれ』は、まったくといっていいほど町田康のオリジンで形成されている。はっきりいって、何を書いているのかよくわからないところがあるが、別にそんなことはいいのである。単純な文体の快楽、妙、粋というようなものが、そこに存在しているからである。解説の池澤夏樹にならって、ある部分を引用してみよう。

「やはりこの王国の現実の民草というものは大多数が愚民で、口当たりのよい言説はなんでもこれを食らい、紋切り型のロマン、月並みのファンタジーに酔い痴れる馬鹿豚が多く、あの船が馬鹿馬鹿しい、と思う人は実は少なくて、そういうことを云っていると偏屈と嘲られ嗤われ、孤独と絶望のなかで窮死するも知らんのだ、と思うからで、しかし馬鹿馬鹿しいものはやはり馬鹿馬鹿しいし、それに第一、あんな船を素敵などという馬鹿豚新田富子を妻にしたらどうなるんだろうか? 家庭内はありとあらゆる紋切り型・月並みの展示会場と化し、テレビを見て二人で笑い、近所のレストランで愚劣ランチ、珍乱弁当を食べるのだ。俺は絶対にそんなのは厭だ」

と、こういう具合である。
 なんでこんな文体が要請されたかといえば、現在の文学の行き詰まり、閉塞感を挙げねばならないだろう。まあ、端的には文学をどうやればいいのか、誰もが迷走している感がある。そのために、村上春樹や龍なんかは社会的なコミットメントをそれぞれの方法で説き、よしもとばななは不倫ネタばかりを再生産し、などなどの状況があるのだが、ある意味では文学のネタは単純なはずだ。すなわち、文学は文学を書けばいいのである。文学は文学を書けばいい、という言明は単純なトートロジーで、「文学」という主語は「文学」という述語から何の規定を受けていないため、論理的には無意味である。だが、その無規定性、無意味さこそ文学の一つの強みであったはずである。文学は文学である、だから文学である限り何をやってもよい。何をやってもいいとなれば、なにが文学を特徴付けるかといえば、結局のところ言語であり文字である。文学は何をやってもいい、ただしその媒介でありツールであるところのものは、つねに言語である。だから、文学をやるときの王道(ここで王道というのは、その周りには無数のわき道がありうるからである)は言語を鍛えること、ということになる。
 そういうわけで、『きれぎれ』の何がすごいかというと、この作品では言語であり文学であるところのものしか書いていないからなのである。言葉がすごい、ただこれでいいのである。
 が、である。町田康流の文学が、文学という領域においてメジャーになれるかというと、まずなれまい、とは思うのである。もし、この方向を突き詰めていったならば、きっとほとんど誰にもわからないような小説になってしまう。それは、文学者たちには受け入れられるものかもしれないが、より多くの圧倒的に多くの一般読者にはついていけないものになる。それはそれで、文学を貧困にさせてしまう。だから、『きれぎれ』は新しさと理解不可能の間、微妙なバランスの上に立つ小説だと、筆者は思う。はたしてその後町田康はどこに向かったのか/これから向かうのかを見てみたくはあるが、しばらくは町田康を離れ、他の小説を読んでいたいと思います。

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今週のアニメ一言(?)コメンツ

2006-05-20 | アニメ
『ひぐらしの鳴く頃に』
 おもしろいのではあるが、そろそろ萌えキャラが突発的に凶キャラに変貌するというパターンには飽きてきた。果たして、あんな謎だらけの状況にいかなるミステリー的解決を行うか、ということが気になって仕方ない。だが、あまりにも状況が謎過ぎて、まったく推理ができない(泣)。ミステリーの楽しさというのは、ミスリーディングも含めて推理の楽しさにあるのだが、その回路の働きようがないわけだ。これで完璧な解決起こしたら、まさに『神』なのだが、そこまで期待していいものやら…。

『ARIA The NATURAL』
 今回のシリーズは、猫が影の主役っぽい。前のシリーズに比べ、怪しい雰囲気を漂わせた回が多いが、今回はその中でも際立った回だった。しかし今のところ、微妙、としか判断できない。『ARIA』の良さは、そのほんわかした雰囲気だと思っているが、そことの関係が見出せないのだ。果たして、ほんわかの中に回収できないものとして怪しさを提示するのか、それとも怪しさをほんわかの中に引き込んでしまうのか。今後の展開によって、評価の変わりそうな回。

『Fate/stay night』
 お気に入りキャラのキャスターが死んでしまい、これで筆者の好きな『Fate』キャラ、ライダーどキャスターは双方成仏に。ただ、ライダー実は生きていそうな気もしているのだけれど。桜も救出され、最終決戦時に、実は生きていたライダーとともに桜参戦→原作では達成し得なかった、『Fate/ataraxia』につながるグランドフィナーレ(聖杯で全員黄泉がえりとか)。やはり、原作をなぞるよりも、何か新しいものを作ってほしい。

『スクール・ランブル二学期』
 主役は姐さん! 清水香里のドスの効いた演技が冴える。まあ、この姐さんの立ち位置は、陰謀をめぐらし裏から話を支えている、作中『絶対者』の位置にある。よくあるパターンといえなくもない。というか、あまり書くことがない。

『涼宮ハルヒの憂鬱』
 キョンのツッコミがさえていて、そこそこ笑える回だった。だが、おもしろくもないハルヒ由来のとんでも現象とか、キョンの長門に対する青臭い感想とか、勢いがそがれる。とんでもとか、電波とか、非日常系とか呼ばれるこのシリーズだが、実はものすごい凡庸なテーマでやっているだけ、ということを、もっとみんな指摘してもいいと思うんだが、逆にそんなことは当たり前すぎて言う気にもならないのか。私的な感想でしかないけど、『ハルヒ』(特に原作版)はあまり認めたくない。なんでかって、全然オリジナリティがないからなのである(もっともライトノベルのオリジナリティなど追求していったら、どこにもないわけであるが)。

『エアギア』
 都市の背景が丁寧で美しい。都市とか空間などは、この作品の隠れた主人公ではないだろうか。エアトレックの爽快感は、都市の重たさや閉鎖感への苛立ちの裏返しとも取れる。都市という垂直に伸びた空間がなければ、エアトレックで走る空間自体が存在しないわけだし。今回は、まあ終盤へ向けての中継ぎといった印象。原作のマンガは大暮維人氏の画力で書かれるアクションが一つの魅力だが、残念ながらアニメはアクションが全然生きていない。そうなれば、もうグダグダになってしまうが…。果たして、小中千昭脚本は、それを乗り切れるのか。

『BLACK LAGOON』
 あれだけ銃をぶっぱなしても、すっきりしない話もあるのだなあと。最後にダッチがレヴィに「お前は、なにをしてもすっきりしない」とか言うが、印象深いセリフだった。この話は全体的に皮肉が効いていて、どんな理念よりもお金が強いという(一応の)テーマが示されている。金は現実的である。だが、金だけ集めても仕方ない、というのもまた確かである。はたして、レヴィはこのシリーズの最後に、どこにたどり着くのだろう?ロックに説教されておわりという気もしないではないが。

『.hack//Roots』
 なかなか動かなかった物語が、ようやく動き出したという印象の回。でもいまいち面白みがない。ウイルスコアや矢じり状のマーク、オーバンなどなど謎は示されているけど、それがどう絡み合うのかというヒントが出されないと、単にもったいつけれいるような印象が無きにしも非ず。それに物語の謎を際立たせるには、一見反対に見えるがもっと人間関係のドラマを描かねばならない。やはり、イマイチ感が抜けない…。

『機神咆哮デモンベイン』
 新番組。今回は、キャラクターやロボット、設定などの顔見せ程度。第一話を見る限りクオリティは高く、原作の評判は良く、脚本は黒田洋介なので、おもしろくないわけがない。今期はロボットアニメが少ないので、そういう意味でも期待。しかし、もともとエロゲーという、言ってみれば反社会的なジャンルが原作のアニメ(『Fate』『ダ・カーポ』など)があたり前になってきたが、こうみるとエロゲーというのも、別にそれほど特殊なジャンルでもなかったのかなあ、と考えたりする。もともと同人サークルや小さな会社のゲームがヒットして、それがアニメを作ってDVDを売る会社(ジェネオンとかのことだが、なんと呼べばいいのだろう?)に吸い取られるようにしてアニメ化されて販売されているのだが、これって言ってみれば子供的なもの(楽しみ)が大人的なもの(資本)に利用されている、と言えないこともない。確かに、おもしろいゲームがアニメ化されるのはファンにとって喜ばしいものだが、本当に素直に喜んでいいかというと、ちょっと迷うところもある。ただ、体よく金を払わせて踊らされているというだけなのかもしれない。サブカルチャーは、元来資本に回収されないからその位置価を発揮するのだが、現在では、積極的に資本に回収されることで、その位置価を維持している。それはもう作品でもなんでもなくて、端的な「商品」なのではないかと。とはいえ、もちろんその「商品」の中で頑張って「作品」を作っている人たちは当然いるわけで、事態は複雑である。とりあえず筆者としては、「商品」と「作品」の間の緊張を保つために、かつてなら「芸術至上主義」とでも呼ばれたかもしれない、論理を片隅に置くこと。そのためには、ダメなものはダメ(地雷は地雷?)と批判していくことが必要なのではないかと思う。まあ、そんなこと多かれ少なかれみんなやってることだし、肩ひじ張って主張することでは全然ないのであるが。

『ザ・サード 蒼い瞳の少女』
 今まで見ていなかったシリーズを『デモンベイン』のついでに観てみた。ちなみに『デモンベイン』と『ザ・サード』はWOWOWのノンスクランブル放送なので、BSが観られるひとなら誰でも観ることができる。クオリティも高く、普通に良くできたアニメ。原作を(もう四年も前だが)読んでいたことがあるので、原作の微妙にセンティメンタルな雰囲気や登場人物の心理をうまく再現していることがわかる。とは言え、もともとアクションが重要な作品。アクションがなかった今回だけでは、評価を決めかねてしまう。来週は、ブルーブレイカーとの対決があるのでとりあえず期待。ただし、ブルーブレイカーは、原作のロボットなイメージからパワードスーツっぽいイメージに変わったので、原作イメージのブルーブレイカーがけっこう好きだった筆者としては、ちょっと残念な感も。

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『千と千尋の神隠し』「名前と顔と」

2006-05-19 | アニメ
 ずっと観よう×2と思いつつ、なぜか敬遠して全然観る機会のなかった『千と千尋の神隠し』をようやく観た。

 …いや、普通に名作だし。なんとも良い感じで素直に楽しめる。千尋のキャラクターと舞台の設定ですごく引き込まれる。つーかあの世界観『かみちゅ!』じゃん、とか思ってしまったが、『神隠し』のほうがずっと先なんだよなあ。それに、風呂屋(?)という舞台を用意したこちらの「神の国」のほうが勝ちかな、とは思う。
 この作品では、名前や顔が道しるべのようなものとされているが、作品内の描写だけだと、どういう意味をもっているのかよくわからん。固有名の還元不可能性とか、その辺の話なのかなとも思うが、なんとも言えない。それに、この作品で楽しむべきポイントは親と子など大人と子供の関係だろうと思う。事件の発端はと言えば、千尋の話を聞かない両親だし、魔法使いのばあさんと赤ちゃんの関係も、物語のポイントになっている。
 当たり前のように、映像が美しく、声優の演技も、まああんなもんかなと思う。休日の昼間にでもぼーっとみて、まったりするべし。

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『サムライチャンプルー』

2006-05-18 | アニメ
 一味も二味も違う侍アクションアニメ『サムライチャンプルー』全26話を視聴。
 このアニメシリーズは『カウボーイ・ビバップ』の渡辺信一郎が監督をしているだけあって、毎回趣向が凝らされ、小粋な脚本で、クールな音楽が楽しめる、まさにエンターテインメントという感じだ。各話ごとのクオリティが高くて、視聴者をあきさせない。一方で、ひまわりの匂いのするお侍を探す、という全体を貫くストーリーについては、特にどんでん返しがあるわけでもなく、凡庸な印象しか受けなかった。そのせいか、全話見終わったときにも、あまり感慨がなかったのである。
 筆者が特に気に入ったのは23話『一球入魂』。野球をテーマにしたバカネタの話だが、大いに笑った。シリーズ中にはいろいろな話があるので、どんな人でも一つくらいは気に入る話が見つかるのではないかと思う。脚本以上に、この作品の魅せ方は演出なのだが。
 ま、ふつうにお勧めのアニメシリーズです。

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藤原正彦『国家の品格』「どこにもない、ユートピア」

2006-05-17 | 
 最近売れていると言う藤原正彦『国家の品格』を家族が買ってきたので読んでみた。藤原氏は現役の数学者で、経歴等を読む限り、海外でけっこう活躍しているらしい。が、そのせいで、この本全体に数学者の文系かぶれ的な怪しさが漂っている。
 この本の主な主張は、論理批判であり、情緒の擁護である。もともと西欧で生まれアメリカに受け継がれた論理至上主義とでも言うべき考え方が、昨今の世界情勢を見る限り行き詰ってきたので、その代わりに情緒や形、美的感覚を中心とした国づくりをしようという話である。論理の行き詰まりの説明には、硬いところではクルト・ゲーデルの「不完全性定理」、やわらかいところでは世間一般の論理的思考のいかがわしさまで、いろいろなレベルで論じられて(?)いるが、中学生でもわかる程度にまとめられている(論理、というのがその始めには不当にも、正しいかわからない「仮説」からはじめなければならない、というくだりにはそれなりの説得力があった。その仮説が情緒により決められるというのは、話として飛躍しすぎだが)。たとえば、人を殺してはいけない、ということが論理的に根拠付けられないように、結局論理というのは限界があるのだから、論理的な説明をするよりも「ダメなものはダメ」と端的な禁止をしなければならない、ということだ。そのとき「ダメ」と言える根拠というのが、情緒などの非論理的なものだということである。
 だが、果たしてこの本は本当に「論理批判」として機能しているのだろうか?筆者のよく使う言葉を用いれば「誤爆」ではないだろうか?本書の主張である「論理一本ではダメなので、情緒を基盤にした国づくりを」とは、極単純ではあるが、それゆえに純粋な「論理的」思考ではないだろうか。それに、論理では片付かない問題ばかりあることなど、むしろ現在の世の中では常識に属してはいないだろうか。ある意味では、国のエリートに近づけば近づくほど、慣例や伝統(?)に縛られた考えかたをしているくらいである(官庁や役所、読売新聞の会長などを見よ)。また、この本で堀江元社長の批判がなされているが、堀江氏の(当時の)新しさとは、慣例や伝統など情緒的なものを下らないものとし、徹底的に自己功利型のスタイルを貫いたことである。言い換えれば、そういうものを本気でつぶそうとしていた。そうした堀江元社長にとっては藤原氏の考え方などは、どちらにしろつまらないものでしかないわけだ。だから堀江元社長が墜落した現在、藤原氏がいくら堀江元社長を批判したとしても、「ざまあみろ」というだけで、本当の批判にはならないのではないかと思う。こうした意味で、藤原氏は「痛いところを突く」ような批判はできておらず、「誤爆」としての批判をしている。そして、誤爆した対象は論理の代替としての「情緒」の重要性を主張する、自分自身の「論理」なのだ。
 なお、この本では「国民はアホなので、真のエリートを養成し国の舵取りを任せるべきだ」、という主張もなされている。その真のエリートとして新渡戸稲造などパトリオシズム(祖国愛)の人が挙げられるわけだが、どう考えても安易な回顧主義だという印象はぬぐえない。真のエリートに政治を任せるということは、いわゆる哲人政治になるわけだが、果たしてどこにそんな便利な人がいるのだろう?そもそもその哲人の選び方はどうするのだろうか?もしも、選挙制ならばもとの木阿弥である。世襲制なら王政だし、試験制ならば官僚制などなど、およそ今まで捨てられてきた、あるいは今ある政治制度の例しか思い出せない。問題は、どうやってエリートを養成するかではなく、どんな政治形態であれ、いかに権力をもたせるに足る人を選ぶかなのである。だから、筆者は今の政治を肯定したいとは思わないが、少なくとも政治形態を変える必要はないと考えている。(ただ、政治に緊張をもたせるために、一度でいいから民主党に政権を移してみたいとは考えている)
 結局のところ、藤原氏の主張は、時代の風潮に乗っかり出るべくして出たものだと言えるが、あまりに純朴素朴なので、実質的には無力であると断言する。せいぜい、「心ある」人が藤原氏の主張に共感し、「義憤」をなだめるくらいである。気持ちはわからなくもない。だが、藤原氏の主張は、藤原氏の意見に耳を傾け、共感する人にしか影響を及ぼさないのだ。藤原氏は、今の若者は本を読まないと嘆いているが、読まないからして藤原氏の意見にも触れることがなく、影響を受けないのである。これでは「誤爆」以前の「空回り」である。
 では、こうした硬軟の思想全体が「空回り」している状況をどう打開すべきか?残念ながら、打開できるという希望をもつことはかなわないように思う。だがせめてできることがあるとすれば、思想の内容的な充実を保ちながら、思想全体をその語り口からして「おもしろく」することだと思う。そうして、思想のソフト面でのアクセシビリティ(接近可能性)を高めること。それが何かになるなど、我々はもはや希望することもかなわないが、それでもまあ、やらないよりはマシではあるのだろう?

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壁井ユカコ『キーリⅨ 死者たちは荒野に永眠(ねむ)る』

2006-05-14 | ライトノベル
 ずっと追いかけてきたライトノベルシリーズがついに完結(といっても発売されたのは先月)。感慨深いなあ。
 “まわりくどい性格の少女と面倒くさい性格の男がくっついたり離れたりする話であり、人生くたびれた男が生きる意味を取り戻す話”。もともと囚人惑星だった星が舞台だが、大きな戦争とかが起こったせいで地球との連絡や行き来ができなくなっており、今はその戦争が終わって数十年。その戦争で作られた不死の兵士の男と、幽霊を見ることのできる女の子が主人公であり、あとは戦争で死んだ兵士の例が乗り移ったラジオ。この三人が旅をしながらいろいろな目にあうというのが、基本的な話。不死兵士であるハーヴェイの毎回の傷つきっぷりが素敵。けっこうグロい描写もあり。テイストとしては、荒廃した惑星の中に希望を見つけていく、旅物語だろうか。あまり激しい物語ではなく、安心して読める小説である。
 最終巻である今回は、惑星の首都である教会の本部に乗り込み、女の子・キーリが父親と再会したりという話。首都では、まあ、すごいことがいろいろと起こる。もともと、旅の一行のデコボコっぷりやすれ違いが良いシリーズだったが、今回ではハーヴェイとキーリがラブラブ状態で、ちょっと勢いが足らない感じ。でも、終わりまで読むと、これ以上ないくらいきれいにまとめたなあ、と感心してしまう。読者の期待を、ある意味きれいに裏切った良いラストだと思う。これまで追ってきた人には、ほんとうに感慨深い終わり方だった。
 私的には、このシリーズのベストはⅤとⅥ巻の「はじまりの白日の庭」。ある街での短い小話と長い話が収められていて、それぞれちょっとずつ気の利いた話となっている。特に、ラストで花火が打ちあがり、キーリが祈るシーンでは、それまで何気なく読んできた話が、ググッと押し寄せてきて、涙腺が緩んでしまった。こういう感慨を描ける作家はなかなかいないので、壁井さんにはこれからもぜひぜひ頑張ってほしい。
 なお、壁井ユカコ入門としては、今のところ1冊だけ出ている『カスタム・チャイルド』がお勧め。たぶんこれからシリーズ化されるのだろうが、一本の完結した話として良くできている。筆者としてはためらいなくお勧めの作家なので、まだ読んだことのない人はとりあえず一冊、手にとって観てください。

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今週のアニメ一言コメンツ

2006-05-14 | アニメ
『ひぐらしの鳴くころに』
 原作を知らないから、展開を掴むまで戸惑ったが、要するに、いったん事件が起こる前まで時間が巻き戻り、前回までの章編では描かれなかった場面・物語が展開するよう。前回までの謎はお預けされたということ。お預けされた謎も気になるが、今回の双子の謎も気になる。毎週気になる、良い連続アニメだ。

『ARIA The NATURAL』
 30分と思えないほど密度の濃い、良い話だった。いやいや、『ARIA』シリーズの中では一番気に入った話かもしれないし。キャラクターもアリスが一番好みだし(爆。テーマはアリスの閉塞しがちな人間関係について。勇気の出るいい話。

『Fate/stay night』
 ちょっと、原作と展開が変わったっぽい。というか、でないと作品における桜の意味がない。今後、どう原作から離陸していくのか(していかないのか)に期待。

『スクール・ランブル 二学期』
 ありがち、といえばありがちなドタバタ演劇モノ。そこそこ笑えたけれど、ちょっと押しが足りない気も…。

『涼宮ハルヒの憂鬱』
 今回気になったのが、冒頭やフェリー(?)のシーンで、立っていた白い帽子とワンピースの女の子(だっけ?)。原作にいただろうか。まあ、水着メインの回。今回はミステリーの事件編なのに、次回が解決編ではない、という妙な凝りっぷり。放送順から時系列がランダムになっているようだが、作品全体が見えたとき、なにか意味があるのだろうか。実はけっこう視聴者の作品を見る目を要求する作品かもしれない。

『エア・ギア』
 シムカを演じる田中理恵の声がはまり過ぎ。それに対し、主人公イッキの声にパンチが足りなくて、微妙にヘタレっぽい。原作を読んでいるから、展開がだいたいわかるが、おそらく一クールの短いシリーズでどう連続アニメとしてのオチをつけるのだろうか。

『BLACK LAGOON』
 相変わらず光と影の色の妙がすごい。作品のクオリティは今期のアニメで一番高いのでは。こちらもどうオチをつけるのかが気になる。エンディングへの入り方とエンディング自体がかっこいい。

『.hack//Roots』
 この作品の大きな謎は、『キーオブザトワイライト』と呼ばれる幻のアイテムの存在と、それに関係すると思われている主人公・ハセオであるが、なんだかろくでもないオチがつきそうなのが怖い。なかなか展開が進まないなあという印象。今回「リアル」の世界の流星が話のネタになっていたが、もっとザ・ワールドの外にあるリアルの世界について言及して、作品に「現実/仮構」という差異を投入したほうがおもしろくなりそうなのだが。そういう意味では、前回の『.hack//SIGN』はけっこう良く出来ていたと思うのだが。今後に期待。

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『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』

2006-05-12 | アニメ
 TSUTAYAの半額キャンペーンを機に、これまで見向きもしなかった『0080』を観てみた。観なかった理由としては…地味だからかなぁ。それに、スパロボとかのせいで、あらすじも結末もみんな知っている。それに視点が小学生のアルというのも、ぱっとしない。

 で、感想なのだが、これほど美化されていない戦争アニメも珍しい。『0083』のような盛り上がりとはまったく別の方向に向かっているが、けっこうおもしろい。始めはアルの能天気さにイライラさせられるが、だからこそ後半の残酷な展開が引き立っている。サイクロップス隊のメンツをはじめ、キャラクターもそれぞれ立っている。モビルスーツ戦はあまり派手ではないが、それを補うくらいケンプファーとNT-1アレックスのデザインがいい。
 このアニメで、一番残酷なのは、戦争をかっこよくて楽しいものと考えている子供たちだろう。結局アルは戦争の残酷さを知って、涙を流すのだが、それを取り巻く友達たちは、アル自身も少し前まで同じだった気持ちで、戦争はまた来てたのしくなる、とアルを見当違いの仕方で慰めようとする。確かに、そういう気持ちというのは、映画やアニメで「戦争」を消費している筆者にも言えるのかもしれない(もっとも自衛隊に入りたいとか傭兵になりたいとは思わないが)。そういう意味で『0080』ちょっと変わったロボットアニメの良作。

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『舞-HiME』

2006-05-10 | アニメ
 今更ながら『舞-HiME』を最後まで見た。うーむ、圧巻。よくここまでやったなと素直に感心する。
 さて、『舞-HiME』はサンライズ初の萌えアニメと銘打たれている。が、しかし、最後まで観た視聴者は、みんなこの自称に突っ込みを入れるだろう。確かに、女の子がたくさん出るが、ほとんど戦闘がメインで、後半を過ぎたあたりから鬱展開どころか、修羅場ばかりが続く。というか、これだけ修羅場を描いたアニメはまずない。萌えアニメなのに、メインヒロインの舞衣が怖い。命と本気で対立したときなど、製作者は舞衣のキャラクターを捨てたと本気で思った。後半では、ヒロインはみんな多かれ少なかれ狂っていて、その表情がまさにキている。動画スタッフの渾身の画と声優のやはり渾身の演技がものすごい迫力だ。全体を通せば萌えもなくはないのだが、狂気のほうがずっと多いアニメだったと思う。が、そんなぎりぎりの状況だからこそ、最終第二話の舞衣となつきの友情などは、ほろりとさせる良い場面だった。その他、この作品は女の子同士の友情がなかなかよく描かれていて、その点にはかなり好感がもてる。
 そして、この作品を支えたのは、数ある名演技のなかでもやはり舞衣役の中原麻衣だろう。この人は『symphonic rain』や『ひぐらしの鳴く頃に』(アニメ版)の中でも、狂気のある役を見事に演じている。にもかかわらず、その声の優しさと繊細な演技で、キャラクターの可愛らしさを逃していない。ひょっとしたら、ヘタに中原以外の声優が舞衣を演じていたら、作品内での舞衣の求心力がなくなって、作品自体が空中分解してしまっていたのではないかとさえ思う。そのほか、この作品のキャスティングは、なつき役千葉妙子、静留役進藤尚美など、『神』である。
 さて、この次の作品として、三月に終わった『舞-乙HiME』が作られたのだが、『舞-HiME』と比べると、明らかに印象が弱い。もっといえば、『舞-HiME』の二次創作くさくさえある。こちらも、それなりにおもしろかったのだが、『舞-HiME』の修羅場ばかりの展開というオリジナリティーと比べると、いかにも弱いのだ。現在製作されているOVAでは『舞-HiME』と『舞-乙HiME』の関係をもっと描かれればうれしい。
 『舞-HiME』は、私的には、殿堂入りの作品だが、最終回は…さすがに殺しっぱなしはまずいし、ああするしか作品の体裁(萌えアニメ)を保てなかったとはいえ…やはりぬるい。かといって、あやふやに終わってしまうのも、やはりよくない。私的には、最終第二話のあの熱さと引き返せなさがこの作品のベスト!これから『舞-HiME』を観る人には、胃袋のキリキリいうような展開をぜひ楽しんでほしい。
 …今度CIRCUSから、アドベンチャーゲーム版『舞-HiME』の完全版がでるらしいから、買ってみようか。

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CIRCUS『水夏AS+』

2006-05-07 | ギャルゲー
 大学院の授業のゼミ発表のレジュメ作成が、かなりやばいので、更新が滞りがちの上に、内容もちょびっと。

 『水夏AS+』をコンプリート。このゲームは、全四章の本筋とおまけにいくつかの外伝がついている。総じて、中の上から上の下くらいで、割とレベルが高い。読んでいる途中伏線が張りまくられているのがわかり、その伏線が最終章で全部明かされるものと思いきや、謎が謎を呼びつつ、いくつかは回収されたけど、結局すっきりしない感じが。四章はけっこう複雑で、解釈が分かれそうなものだが…。
 私的に気に入っているのは、2章のうち、後から追加された、若林美絵シナリオ。全体的に、『死』の香り漂う、暗めなシナリオが多い中、やはり暗いところがありつつも一番明るいテーマを扱ったさわやかな話だと思う。あと、読んでいて一番謎が気になったのが3章。これは、最後にネタが割れる前に、ネタに気づいてしまった(たいしたネタではなかったが…)が、それまではかなり引き込まれる設定だった。いろんな意味で移植の話として、一応の評価はしておきたい。
 今となると、グラフィックなどで多少の古さを感じはするが、今でも十分やるに耐える作品。シナリオライターが「闘っている」感じがする点は評価が高い。

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CIRCUS『最終試験くじら』~くじら世界はいかにくじら世界たりえたか~

2006-05-04 | ギャルゲー
 シリーズとして、筆者がこのBlogを立ち上げる前にやった思い入れ深いギャルゲーを(思い出しつつ)レビューしてみる。今回の第一回は、数ある名ギャルゲーを押しのけて、CIRCUSのへっぽこゲーム『最終試験くじら』である。なぜかと言えば、筆者はこのゲームをかなり好きなのだが、世間的には ほとんど評価されていない。そこで、このゲームを拾い上げてみたいのである。以下、ネタバレもありつつ。
 さて、このゲームはオープニングの歌『ディアノイア』(riya)とムービーが素晴らしいことと、内容のへっぽこさで知られている。ヒロインは7人いるのだが、それぞれに対応したシナリオは大体4パターンに分かれる。物語の謎に直接関わらない普通のギャルゲーシナリオが4本(Aパターン、胡桃、仁菜、優佳、美佳)。物語の謎に直面し選択を迫られるシナリオ2本(Bパターン、春香、くじらの少女)。おまけ的ネタシナリオ1本(Dパターン、香倶耶)。一応、分けては見たものの、Bパターンのシナリオにも、くじら世界を続けるか放棄するか、という選択で大分様相が変わってくるし、あくまで便宜的なものだと思ってもらいたい。
 それぞれのシナリオに簡単な解説を。優佳と美佳のシナリオは双子ネタのわりと平凡な学園ものシナリオである。胡桃と仁菜のシナリオでは、物語の鍵になっている「くじら」が、この作品のジャンル「不条理アドベンチャー」の名そのままに関わり、ファンタジックな様相を呈している。春香のシナリオは、一見普通の義妹ものだが、クライマックスで、主人公と春香が主役の劇をやるなかで「くじら」世界の一端が暴かれ、主人公にある選択を迫ることとなる。くじらの少女シナリオで「くじら」世界はどうしてできたのかなど、作品の謎が一応全てわかる、トゥルーエンド的なシメ方をする。その上で、香倶耶シナリオは、あばかれた「くじら世界」観をもとに、ぶっとんだ話になる。プレイヤーはだいたいこの順番にゲームを攻略していくことになる。筆者が気にいったのは、仁菜と春香のシナリオ。順を追って紹介していこう。
 まず、前提。主人公は旅芸人の一座の花形の女形で、ある町に到着する。その街には、宙に大きな一匹のくじらが浮いており、謎の存在ながらも街の名物となっている。
 仁菜シナリオは、ファンタジックな要素に彩られているが、凡庸なギャルゲーシナリオである。主人子は転校早々、体が宙に浮いてしまうという御影仁菜先輩と仲良くなるのだが、彼女が自分の意志で飛ぶことはできないため、自由に飛ぶための練習を手伝うことをかって出る。その練習のなかで、主人公と仁菜は仲良くなっているのだが、仲良くなればなるほど、主人公は仁菜が何かを隠しているのではないかと気づいていく。実は、仁菜は幼い頃に軍の実験で体に「くじらの欠片」を埋め込まれ、そのせいで宙に浮く体質になっていたのだ。しかも、幼い頃に義理の父親(?この辺りは描写があいまいでいまいち良くわからない)に強姦され、「くじらの欠片」の様子を調べるため、毎週病院に通うことが義務付けられているのだが、そこの医師にも強姦されている。そんなわけで、主人公と仁菜は体を重ね愛情を確認しても、その後になって仁菜は、自分は汚れているから睦くん(主人公)とは一緒にいられない、と言って、空に昇りくじらのおなかの中で殻に引きこもってしまう。主人公は、仁菜を追うため、たまたまペットになった子くじら「しろたま」に乗ってくじらのおなかに入り、自分が幼い頃、義理の良心とどうやって家族になったかという話とかをして、一生懸命仁菜を慰め、殻の中から出そうとするのだ。このシーンが、かなりいい。自分の家族への想いや仁菜への想いが詰め込まれていて、本作屈指の名シーンとなっている。本作は、あえて「ご都合主義」なファンタジーに走り、そのエクスキューズ(言い訳、理由付け)として「くじら」を持ち出しているが、くじらのおなかの中で半透明の卵型の殻にうずくまる仁菜に主人公が何時間も何時間も懸命に語りかけるシーンは、ファンタジーのイメージ性がまさに功を奏したシーンだと思う。
 仁菜シナリオが変わった衣装を着た凡庸なギャルゲーシナリオ(凡庸とはつまらないということではない。形式としてよくある、ということだ)だとしたら、春香シナリオは、一見平凡な義妹シナリオに見え、最後に一転ギャルゲーそのものを突き崩すような非凡さを見せるシナリオである。春香は旅芸人一座で衣装関係の仕事を主にやっている、主人公の義妹である。彼女は兄が通う高校にも人見知りなどの理由で当初は通わなかったが、胡桃のおかげもあってある日から高校に通うことになる(余談だが、春香が高校に入った当日の自己紹介は傑作)。そして、主人公と春香の関係はいつしか兄妹のものではなく、恋人同士のものになっていく(他にも、旅芸人一座の中での話など、結構いいエピソードがある)。そんななかで、旅芸人一座の次の出しものとして、主人公と春香を姉妹として(主人公が妹、春香が姉)主役に据えた劇をやることが決まる。劇の練習のさなか何度も主人公は幻覚に襲われる。ついに、劇の初日。その劇はある姉妹が理不尽な親から逃げ出すところから始まる。姉の努力や出会った人の善意でなんとか日々を暮らしていく姉妹。だが、ある日姉は仕事から帰らず、妹は親に見つかり連れ戻されてしまう。帰った家で真実が明かされる。実は姉は何年も前に死んでいたのだ。この劇中劇を演じる中で主人公は、自分が今いる世界(くじら世界)や春香たちが実は自分の幻想の産物であることを悟る。けれど、春香を愛していた主人公は、本当の現実へと還りそうになる意識を幻想の中に向けなおし、春香たちとともに生きることを選択する(このシーンも、「夏に降る雪」というイメージを最大限に利用した名シーン!)。
 つまり、この作品で描かれている「くじら世界」は実は主人公の幻想の産物で、本当の現実との関係は「現実(作外)/幻想(作中「くじら世界」)」という図式で表せる。その中に、主人公と春香が演じる劇中劇の「現実(姉は死んでいる)/幻想(姉が生きている)」という図式が折り込まれる。『現実(作外)/幻想(作中「くじら世界」<現実(姉は死んでいる)/幻想(姉が生きている>』。こうして、二つの「現実/幻想」という図式の片方がもう一方に再参入したことでくじら世界はひずみ、主人公はそのひずみから今まで唯一の現実だと信じていたくじら世界が自分だけの幻想の産物だったと気づくのである。作外の「現実」に言及するという手法は、その頂点である『Ever17』や多少趣が違うが『CROSS†CHANNEL』『最果てのイマ』という田中ロミオ作品、『Fate/hollow ataraxia』など、プレイヤーの視点(仮構世界に対して超越している視点)を作品に持ち込むことで、『現実/幻想』という差異を移入し、ギャルゲーというジャンルに対する批評性を獲得した作品に特徴的なものである(正確には『最終試験くじら』は、プレイヤーの視点を作品の中に明確に移入まではしていないのだが)。筆者が一度強調しておきたいのは、ギャルゲーに限らず、あらゆるフィクションは、『現実/幻想(仮構)』という差異の図式を基点に成り立っているということである。とは言え、この図式は厳密なものではない。どんなに荒唐無稽な(くじら的な!)フィクションであろうと、それ自体が(それ自体言及不可能な)<現実>を構成するモニュメントなのだから(どんなにフィクションに耽溺したオタクであっても、その存在自体はきわめて現実(実際)的である)。だが、『現実/幻想』という差異自体は取り返しの効かない(フィクションは、あえてなされた嘘だからこそ価値がある)ものである以上、ギャルゲーを含めたフィクションが再生産されるなかで、その度にこの差異図式が構成される。たとえ、フィクションの中で「本当の現実は……である」という言明を繰り返しても、それ自体またフィクションである(あるいは、本物の批評家が「本当の現実……である」という言明をしたとしても、それはせいぜい現実の顔をしたフィクションである。正確には、現実とは仮構をもふくめた「すべて」である(より正確には、すべては幻想であり、現実とは幻想の中に生きる私たちが直接言及できない、「失敗」のようなものである))。
 話が大きくなったが、単純にいえば、ギャルゲーを含めた全てのフィクションが『現実/幻想』という差異図式に根ざしている以上、この差異を作品中に意識的に導入するかどうかで、(あくまで作品形式の話だが)作品のレベルが一段変わるのである。そして、『最終試験くじら』こそは、この差異図式を、これ以上ないくらい素朴に導入した作品なのである。そして、その作品の中で、あえて幻想の中で生きよう、という選択を下したのが春香シナリオなのである。まあ、言ってしまえば、オタクが現実の恋愛をあきらめ、ギャルゲーに没入していくような話なのだが、ギャルゲーというオタク向けジャンルの中には、こういうシナリオはあってしかるべきだし、オタクの試金石とも呼べるシナリオである。少なくとも筆者は、空虚な幻想を捨て、豊かな現実に還れという、それ自体空虚なお題目よりはよっぽど感動した。それに、『愛』は、他の全てを捨て、二人の世界へ…というイメージがついて回るが、主人公の春香への愛はそのイメージにもっとも忠実でさえある。逆に、くじら世界という幻想に引きこもってしまった理由を発見し、その理由であるトラウマを回復し、「現実」へと帰ってしまうくじらの少女シナリオは、せっかく春香シナリオで思い切った選択をしたのにそれを捨ててしまい、筆者にはシラけを感じさせた。これぞ、『マトリックス』以来、使い古され続けたまさに凡庸なテーゼである。
 『最終試験くじら』という作品の評価が悪いのは、筆者が評価するまさにこの点の解釈によるものなのだ。くじらの少女シナリオで、実は胡桃も仁菜も春香も現実には存在せず、せいぜいそのもととなった人がいるのみ、本当にいるのは、くじらの少女のもととなった幼い頃に友達だった女の子だけ、という事実が明かされる。そんなわけで、せっかく大変な想いをして胡桃や仁菜と結ばれても、それは全くの幻想であった、ということが作中で暴露され、プレイヤーがシラけてしまったのである。だが、筆者の視点からすればこれは『最終試験くじら』という作品を貧困にするだけの読み方でしかない。少なくとも、他ならぬ「オタク」にはやってほしくない評価である。オタクこそは、幻想の現実(事実)性をもっともよく理解するのみならず、それを実践している人種だからだ。別に私は「オタク」を積極的に擁護しようとしているわけではない(例えば、オタキングの「オタク=ニュータイプ」論のように)。ただ、『最終試験くじら』の春香シナリオで筆者が受け取ったメッセージ、「幻想の中に生き続けることは、その労力と代償に可能である(許されうる)」に忠実でありたいのだ。

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