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哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

疋田智『自転車の安全鉄則』

2009-03-15 | 
自転車の安全鉄則 (朝日新書)
疋田 智
朝日新聞出版

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 先日に引き続き、疋田智の本。要は『それでも自転車に乗る7つの理由』と同じ要旨のことが書かれている(というか、コピペしたんじゃないかと思うくらい言い回しまで似ている部分がある)。それでも、要点の違いは「7つの理由」がメルマガの記事をまとめたライブ感(一昔前の話だが)のある章もありつつ、基本的には自転車にまだ乗っていない人に勧めるタイプの本であったのに対し、『安全鉄則』はすでにある程度自転車に乗っている人や、これから自転車関係の政策を考える人と、これから自転車はどうしていこうか、と考えるタイプの本で、使用前/後くらい違う。特に『安全鉄則』は、できれば官僚のみなさん読んでください、というスタンスで書かれているので、『7つの理由』のような昭和軽薄体的な文体は使われていない……と思いきや、だんだん文体が崩れてきているのだけど。どちらにせよ雰囲気はやや硬くなっている。そして、この本の要旨は一点、「自転車は車道通行、そして左側通行」ということである。なぜこれだけのことが、一番重要なのか、くどくど説明している。
 が、一方で『自転車の安全鉄則』という題名からすると、ちょっと残念な点がある。というのは、おそらくタイトルに興味を持って買った人のある程度は僕と同じ物足りなさを感じるのではないかと思う。というのは、すでに自転車で車道の左側を走っている人が、それでも危ないなと思うシーンをどう切り抜けたらいいのか、ということがあまり書かれていないのである。なるほど、ミラーをつけたり、必要なときは歩道を自転車を引いて歩けばというアドバイスは書かれている。が、たとえば自転車はトンネルや橋の上の車道を走っていいのかとか、二段階右折のこととか(恥ずかしながら今調べてみたら、自転車は「全ての」右折で二段階右折をしなければならないとのこと。あと気になるのは、T字路の右折方法とか)、具体的に自転車は車道をどう走ればいいかという方法についていまいち勉強にならないのである。というのは、自転車は軽車両だが原付とも交通規則が違い、独特の規則があるはずなのだが、免許がないせいもあってその規則についてはほとんど知られていない(その最たる例が、自転車の歩道走行の原則化)。その知られていなかった自転車の規則について知りたいと思い、僕はこの本を買ったのである。
 日本の自転車関係の法律や社会的認識、あるいは自転車道について夢を語るのも必要なことだが、まず今ある日本の自転車の仕組みを使いきるための啓蒙をこの本には期待したかった。誰でもいいから、そういう本を出してくれないかな。慣れてくると、サイクリングロードを走るのとは違うスピード感があって、車道で車に混じって走るのも、結構楽しいものだし。

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疋田智『それでも自転車に乗り続ける7つの理由』

2009-03-12 | 
それでも自転車に乗り続ける7つの理由
疋田 智
朝日新聞社

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 最近、自転車にはまっている。直接の理由なら、2年ほど前ちょっとバイトでお金が余ってた時期に、そういや俺自転車持ってないなと、ブリヂストンのアビオス・プレイヤーというちょっとしたスポーツバイク(と言っても、クロスバイクとも呼べないものだが、重心が低かったり初心者用にいろいろ工夫されていて、入門用としてすごくちょうどいい)を買って、自転車で走る愉しみを覚えたからだ。で、最近ではバイト先(だいたい13~14キロ離れた二か所)に自転車通勤しているからちょっとした自転車ツーキニストだ。ちなみに四月からの就職先(正確には研修先)は自転車通勤ダメとのこと。残念。
 自転車ツーキニスト? 耳慣れない人も多いかもしれない。要は文字通り自転車で通勤する人のことである。おそらくなんとなく見かける人も多いだろうが、最近増えている。その自転車ツーキニストという言葉を作ったのが、この本の著者疋田智である。ちょっと自転車に興味をもった人なら、日本人で唯一近代ツール・ド・フランスを走った今中大介氏と並んでまず覚える名前になるだろう。そしてこの本は、その疋田氏の戦いの軌跡を追った本である。
 自転車は歩道を走るものだと思っている人は多いのではないだろうか。僕もそうだった。というか、ときどき自転車で車道を走る必要のあるときは、むしろ申し訳ないとすら感じていた。違うのである。「自転車は車道を走るべきものなのである」。自転車はれっきとした軽車両なのだから。法律にもちゃんと書いてある。だがこれまで、「やむをえないときは、自転車の歩道通行を認める」という例外が拡大解釈され、歩道を低速で走ることに特化した軽快車、いわゆるママチャリが幅を利かせ、日本での自転車とはこういうものというイメージを作り上げてきた。
 先ほど、この本は「戦いの軌跡」を追ったものと書いた。たかが自転車に大げさな、と思われるかもしれない。が、これは誇大表現ではなく、氏や自転車乗りたちはまさに闘っているのである。何と? 日本とである。というのは、まず第一には、この本に記されている通り、警察が「自転車は歩道を走るもの」という、間違ったイメージを追認し、推奨するような法案を提出しようとしたとき、彼らは文字通り戦った。警察とは言うまでもなく権力機構であり暴力装置であり、何よりも官僚組織である。その組織に自転車乗り達は戦い、一応の勝利を得たのである。そして、第二には、ママチャリを中心とした日本の間違った自転車文化。自転車はもっと速くもっと遠くへ移動でき、場合によってはかなりの程度、車や電車などの移動手段の代替をできるポテンシャルをもった移動手段であるにも関わらず不当にスポイルされ、居場所を与えられずにきた。そうした、自転車についての間違ったイメージとの戦いである。これはつまり、マスコミとの戦いでもある。
 かように、現在の自転車事情・文化を批判し、戦い抜いた今までの軌跡がこの本には記されている。そしてこの戦いは自転車に乗らない人にも関係ないばかりではなく、戦利品をもたらしさえするのである。
 というわけで、この本は多少くどいところもあるが自転車にある人ならだれでも共感して読める本だと思う。というか、自転車から日本の交通事情を見た評論としては、知的な興奮すら呼ぶものとなっている。オランダなどの自転車先進国(というか欧米の国は自転車についてどこも進んでいる)などの例も面白い。まあしかし、この本を読んでみるのも良いが、クロスバイクでも買ってみたらどう?とちょっと提案したい。相場は大体6万円くらいからである。ブリヂストン、アビオス・プレイヤーなんかちょっと変わったフレームをしてかっこいいし、小気味よく走るよ。ただ、あまり見かけないけど。一方、すでにスポーツ自転車に乗り始めている人には、この本を読んでちょっと勉強するのも面白いよと、勧めてみたいのである。

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ニクラス・ルーマン『社会の教育システム』

2007-12-25 | 
社会の教育システム
ニクラス ルーマン,Niklas Luhmann,村上 淳一
東京大学出版会

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P126)ところで、知識とは何か? 社会理論から出発しても――近代社会を「知識社会」と銘打ってみたところで――役に立つ知識概念は見つからない。認知的/規範的の区別や、認知的/情緒的の区別は、十分でない。規範的なものの側にも情緒的なものの側にも、知識が含まれているからである。結局のところ、規範を〈知る〉こと、自分自身の感情を〈認識する〉ことも必要なのだ。従って、知識は、全く一般的に無知から区別するか(この区別はあまり役に立たない、人はほとんどすべてのことを知らないのだから)、より具体的な区別を試みるとしても、情報(無知から知識への突如の移行)から区別するしかない。/こうした(知識の定義の)不定性は、さまざまの機能システムがそれぞれ独自の知識概念を用いていることと関係するかもしれない。学術は、吟味された知識、虚偽ではないかとテストされた知識だけを、承認する。マスメディアは、もっぱら情報を理解するための前提として、知識を運ぶ。教育システムにとって、知識はつねに個人の知識であり、その意味で、経歴にチャンスを与える形式、または、知識が欠ける場合にはチャンスを閉ざす形式である。

 ルーマンの入門書として勧められていた『社会の教育システム』を読んでみた。なるほど、ルーマンが自分で書いた本としては大分読みやすく、しかも訳者の方の注釈が丁寧で、ルーマン初学者にとっては大変良い本だと思う。一応、馬場靖雄著『ルーマンの社会理論』やゲオルク・クニールら『ルーマン社会システム理論』を読んで、機能分化社会などのルーマンの基本的な社会観や一通りのルーマン語を抑えておく必要はあるけれど。

 ルーマンが逝去したのが1998年でこの本の原本が出たのが2002年ということで、この本はルーマンのまさに最後期の論考というわけである。議論としては完結しているようだけど、引用の記述が完結していなかったりすることに、その死の間際という片鱗が見られる。
 ルーマンが自分の社会システム理論を組み立てていく過程は、その用語の導入に基づいて区切られることがしばしばある。たとえば、「オートポイエーシス」概念を取り入れた主著『社会システム理論(諸社会システム 一般理論の試み』の時点で、ルーマンの前期と後期を分けるというやりかただ。そしてあえてもう一つ挙げるならば、『社会の芸術』で取り上げた「メディア/フォルム」という区別概念の導入をもって、最後期と考える分け方である。
 この「メディア/フォルム」という区別は、『社会システム理論』にも登場しなかった概念だけあって、これまであまり注目されたり省察されることはなかった。しかし、大黒岳彦氏が『〈メディア〉の哲学』で注目したとおり、今後のルーマン研究において、無視できない概念になることは確かだろう。というか、この区別を用いることでようやく「社会システム理論」ないしルーマン理論はその本領を発揮できるのではないかと、僕も思っているところである。残念ながら、大黒先生の論考は「メディア/フォルム」の概念を徹底的に考察しようとして、ルーマン自身からルーマンを批判するという、「内側から食い破る」機制を採用してしまったために、よく分からない方向に行ってしまったが(『〈メディア〉の哲学』は良い本だと思うけど、ルーマンを越えてという大黒先生独自の論考はちょっと…)。
 でまあ、何を言いたいかというと、このルーマンの独自の「観点」そのものである「メディア/フォルム」の概念の説明が「社会の教育システム」には章を割いて、まとまってわかりやすく書かれているので、最後期のルーマンについて知りたいという人には、大変良い本なのである。それに、ルーマンの本にしては割と薄めなのも初学者には助かる。教育社会学に興味の無い人にも、ルーマン入門書として是非読んで欲しい本である。ドイツの教育事情や教育の変遷など、想像しにくい部分もあるが、訳者の方が最低限フォローしてくれているし、とりあえず読み通せる本だ。
 あと、ルーマンの教育論は結構紆余曲折しているのだけど、その理論的苦闘について知りたい人には、石戸教嗣氏の『ルーマンの教育システム論』をおすすめしたい。『社会の教育システム』は『ルーマンの教育システム論』に描かれた理論的苦闘の結論である。

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奥村隆『他者といる技法』

2007-11-17 | 
他者といる技法―コミュニケーションの社会学
奥村 隆
日本評論社

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 最近、修論研究が忙しくてそっちの関係の本や論文ばかり読んでいる。そんなわけで、今日紹介する本は社会学の一応専門書。

 僕が時分の研究の途中経過を発表したところ、他大の方に『他者といる技法』を紹介してもらった。僕がやっている、メディア言説の分析ツールとしてこの本に載っている「動機の語彙」という概念を使ってみてはどうか、という話だ。まあ、この概念がほんとうに僕の研究に使えるかは、今のところ何とも言えないんだけど、専門書のわりに身近に引きつけて書いてあって、内容も興味深く良い本だった。
 特に良かったのは、僕はあまり知らなかったブルデュー関係の話。リスペクタビリティを要求される場面、たとえば高級レストランなどでは、人により三つの振る舞い方がある。まず、そういう場面に慣れている人、つまりそこでの振る舞い方を知り実践できる人はウェイターなどの視線をかわす「余裕」を見せる。一方、全くそういう場面を全く知らない人、つまり振る舞い方も実践の仕方も知らない人は、気にせず自分の(粗雑な)やり方で、「勝手に」する。最後に、そのどちらでもない中途半端な人(つまり、世間の大部分の人)は、そういう場面での相応の振る舞い方があることは知っているが、それを実際にはどうするのかまでは知らない人である。その人たちは、「おたおた」と試行錯誤しながら振る舞うしかないという話。まあ、有名なディスタンクシオン(卓越化)の一例なのだろう。実際の場面をこう綺麗に三通りにわけられるとは思わないけれど、理念型の提示として考えるとなかなか興味深い。
 まあ、この本に興味を持つ人というのは限られると思うが(実際5年以上前に出た本なのに、僕の前に一人しか借りていないようだった)、社会学の入門書の次くらいに読んでみるとよいかもしれない。

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宮台真司・速水由紀子『サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル』

2007-08-01 | 
サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル
宮台 真司,速水 由紀子
筑摩書房

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P180)「社会」の中に「たえず」未既定な「世界」が闖入するようでは、そもそも規定されたものから成り立つ「社会」はあり得なくなります。そこで、「社会」の随所で露呈しうる「世界の未規定性」を、いわば一ヶ所に寄せ集めて、「世界」の中の特異点(特別な部分)として表象する。この特異点を社会システム理論では「サイファ」(暗号)と言います。

P192)第三の道とは何かを述べましょう。一口でいえば、①突発的な「名状しがたい、すごいもの」への感染を手掛かりとして、②徹底的に論理的な思考によって各宗教ごとに固定されがちな「サイファ」を逆変換し、「世界の根源的な未規定性」に到達すること。③そのことによって、失われた「世界」との関わりを取り戻すと同時に、④「名状しがたい、すごいもの」への感染に対する理論的再解釈で、「名状しがたい、すごいもの」への感染を他者によるブレイン・ウォッシング(洗脳)やマインド・コントロールに利用されないよう防波堤を築くことです。

 先週読んだ本だが、内容を整理して書くのがしんどいので、ちょっとおいておいて、僕の枠組みで端的にかけるようになるのを待っていた。それでもやっぱりしんどい。題名には、「バイブル」とか書いてあるが、対談本を「バイブル」と称して、売るというのはちょっと納得しがたいなあ。それに、『サブカルチャー神話解体』とか、一般の人に読んでもらえるように(ニッチな学術書にならないように)書いているのだろうが、ネーミングセンスのなさは…。僕は時々東浩紀先生を持ち上げるようなことを書いているが、これは東先生にでもがんばってもらわないと、日本の人文系の学問のコミュニケーション可能性が大幅に下がってしまうので持ち上げているのであって、本当はそこまで評価しているというわけではいないのだ(不遜ながら)。それでも、東先生があそこまで注目されるのは(『サイファ』でも何度も言及されている)オタクという、大学院生受けしそうなネタについて書いているからではなく、そのネーミングセンスのうまさ(動物化、データベース、ゲーム的リアリティ、環境管理型社会)が一因だと思っている。だって、『サイファ覚醒せよ!』て、なんだかバタくさいタイトルじゃないですか。それに、草の根天皇主義って、てっきり日本人だからという理由で素朴に天皇を崇拝すること、くらいの意味かと思ったら、日本人的な(外国人には見られない)独特の感受性のもち方だそうで、ネーミングで大分誤解されそうなものだ。以来、僕は草の根天皇主義という言葉を思い出すにつれ、微笑をもらさずにはいられないのだが。

 さて、サイファの定義については、引用したとおりなのだが、僕は一応ルーマンの社会システム理論を勉強しているのだが、聞いたことがない。ひょっとして『社会の宗教』あたりにはあるのかもしれないが、どちらにせよ、宗教というのは今のところ専門外だ。『サイファ』は宮台先生のオウム以降の宗教学的研究の集大成みたいなもので、そういう意味では、今となってはちょっと話題は古いという気もする。
 この本の主張は、要は新興宗教なんかにコテンと転ばされないように、心情的にも知性的にも鍛え上げ、強く生きろ、ということなのだと思う、多分。ただ、対談者の宮台先生と速水氏の主張は、一見通じているようで、実は最初から最後まで平行線なのである。宮台先生は、あくまで世界の不思議さに心を開け、みたいなことを言っているのに対し、速水氏は世界への帰属という第四の帰属を掲げ、いろいろなところにあるサイファの一つとして、自分もサイファであることを感じ、サイファとして生きろ、ということを言っているのだが、この二つは大分違う気がする。特に、速水氏の主張は、速水氏自身の実存にかなりかかっているように思うのだが。それが悪いとは言わないが、もうちょっとクールダウンしたほうが良いのではないか。それに、宮台先生の「名状しがたい、すごいもの」に感染せよ、という主張も、我々の言葉で言えば、端的に「電波」なんじゃないかと、思う。例えば僕も、ごくたまに霊感に打たれるような瞬間があったりするが、それを人に話しても理解されるとは思わないし(というか説明しようとも説明しきれないし、がんばってやったところで結局理解されない)、だからめったに話したりはしない。あと速水氏の教育で科学哲学について教えろ、というのも、今の高校生にはバカにされそうな話だ。正直、一部の「私は誰?」系の人の免疫力をつける以外は、あまり実存にこだわる方向に行っても、詮がないと思う。

 それでも、この本は人文系の実存について語られていて、その点では非常に共感した。まあ、要は行きづらいなあという話だ。結局、私的にこの本を翻案すると、オレ様主義で、ガチンコに生きていけ!というのだが、どうだろう。

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佐藤俊樹『不平等社会日本―さよなら総中流』

2007-07-19 | 
不平等社会日本―さよなら総中流
佐藤 俊樹
中央公論新社

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「親も高学歴の専門職・管理職で本人も高学歴の「相続者」たちが、自分の成果をみずからの「実績」とみなす。みずからの力によらないものまで、みずからの「実績」にしてしまうのだ。それは、人生の選択という経験の希薄化とあいまって、「実績」というコトバの意味を曖昧にし、空虚にしていく」(P108)

「何かが人並み以上にできるはずだという意味での「実績」ならば、できるはずのことへの責任がともなう。できるはずのことができなければ、それはその人間たちの責任である。それに対して、既得権には責任はない。自分が選んだわけでもないのに、手に入っているものだからである。目的意識を欠いたまま、「実績」が曖昧な形で既得権に変質していく――そのなかでW雇上(ホワイトカラー雇用上層)という選抜システムのエリート集団が責任感を消滅させていくのだ」(P110)

 昨今のグッドウィルの問題とかで、格差や労働のアウトソーシング化が気になっていたので佐藤俊樹先生の『不平等社会日本―さよなら総中流』を読んでみた。佐藤先生は、現在の社会学界ではキレ者と名高い先生である。ゆえに、この本は学術本レベルのクオリティを持っており(多少、佐藤先生自身の価値観も語られているが、新書としての読みやすさわかりやすさ落としどころのためだろう)、そんじょそこらの印象論、感情論ではない。

 「国民的」という言い回しは嫌いなのだが、この本には国民的名著、必読の書という肩書きを与えていいのではないかと思う。理由は二つ。一つは、この本が戦後から90年代までの格差の変遷の実態を暴いたという日本についての啓蒙の書であるということ。もう一つは、まあ、日本研究でもしている人でもなければ、外国の人には関係のない本という、消極的な理由からである。それでも『バカの壁』や『国家の品格』など、理系の学者が思い上がって書きちらした啓蒙的日本論とかとは隔絶した感がある。ゆえに『バカ』や『品格』を潰すために、この本を「国民的名著」と持ち上げたい。

 この本の趣旨を強引に一言で要約すれば、戦後、学歴などの雇用の選抜システムは格差をなくす方法に働いていたが、団塊の世代の就職期以降から選抜システムの効果が飽和し、逆に格差を生み出す方向に働くようになってしまった。しかも、現在いる所謂「エリート」は、格差社会の上層にいることを所与のこととしているので、責任感が生まれなくなっている。また、こうした流れは社会の構造的変動でもあるので、現代に以前は考えられなかったような犯罪が起こっても当たり前、といったところだろうか。ちょっと、僕の興味に傾いているところはあるけど、大きくは外れていないと思う。

 また、この本はSSM調査という経年的な調査を統計的解析の技法によって分析しているので、ちょっと読みづらい。実は基礎的な統計の知識をもっている僕でもちょっと苦しい。それでも、そういった分析を飛ばして読んでも意味は繋がるので、安心して読んでいただきたい。

 出版が2000年ということで、多少分析自体は古くなっているが、言っていることは古びるどころか、むしろ予言的な響きすらもっている。これだけ政治で格差のことが肯定にせよ否定にせよ叫ばれているのだから、もっと日の目を見ていい本だとは思うのだが。だから、格差に興味のある方には、図書館にも置いてあるはずなので、読んでほしい。それに、統計の苦手な社会学の院生にとってはちょっとした統計の読み取りの訓練にもなるおまけつきだ。

「「団塊の世代がわるい」という悪玉善玉論をいっているのではない。学歴-昇進という単一の選抜ルートが社会全体をおおう動きは、彼ら彼女らが子どものころからすでに進行していた。誤解をおそえずいえば、それは戦後社会にとって既定の進路であり、それによって「努力すればナントカなる」状況が開かれたことは、決して否定されるべきではない。このシステムが拡大することはさまざまなよい効果をもたらしたが、飽和した後はそれが悪い効果に転じたのである。飽和することでみずからを空洞化させる効果を生んだのだ」(P120-121)

「私は、現実の市場の公正さはほとんど信じていないし、市場の効率性もあくまで条件付きで認めるべきだと考えている。だが、市場の倫理はもっともっと重視されるべきだ。それは他人に不当に損害をあたえないかぎり、ある人間の欲望をとやかくいうべきではない、ということである。「うまくやったなあ」と羨ましく思えるのなら、他人に迷惑をかけない範囲で自分も「うまくやる」方法を必死で考えればよい」(P147)

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ニクラス・ルーマン『情熱としての愛』

2007-07-12 | 
情熱としての愛―親密さのコード化

木鐸社

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P254-255)アイデンティティ概念は、論理的重要性ではなく、象徴的重要性を有している。アイデンティティ概念によって裏づけられるのは、インパーソナルな関係が優勢な社会では、自分自身を統一体であると経験し、自分自身が統一体として活動しうる場面を見つけ出すことが困難になっている、ということである。

 二クラス・ルーマンの『情熱としての愛』を読んだ…この本を読み終えるのにどれくらいの時間かかったは恥ずかしくて書けないが…。まあ、引用されている文献の数といい、論述のスタイルといいめまいがするとしか表現しようのない本である。

 この本は、16世紀からの「愛」に関するゼマンティク(コミュニケーションに用立てられるテーマのストックのこと)を追い、宮廷風恋愛が情熱としての愛を経てロマンチック・ラブをになり、現在の自律的な愛の形式になるという、歴史-知識社会学の本である。ただまあ、ルーマンの本の常として、大部分がわけがわからない。読み手の力量に問題があるとしても、なかなか読みこなせる人はいないんじゃないかなあ。大学院の社会学研究科でことあるごとにルーマンを喧伝して回っているのだが、間違ってもルーマンに転ぶ人だけはいないことの、理由の一つかもしれない。なかなか思いいれがないとできないのである。
 そんな『情熱としての愛』だが、私にとっては以下の一文に尽きた(まあ大部分わからなかったという上での尽きるだが)。

P256)愛するもの自身が自らの愛の源である。この意味で、自発性が愛の原則であると表現されなければならない。

 けだし、深遠な洞察を含んだ名言かもしれない。

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斎藤環『生き延びるためのラカン』

2007-07-07 | 
生き延びるためのラカン

バジリコ

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 まずタイトルを見てツッコむのだが、生き延びるためにラカンがいるのかよ、と。なぜ、よりにもよってラカンみたいなニッチな知識なのか、と。「生き延びるためのデリダ」「生き延びるためのルーマン」「生き延びるための池○大作」(最後のはダメか)以下続刊…といくらでも続きそうである。

 冗談はさておいて、著者も述べている通り、本書はまさに「日本で一番わかりやすいラカン入門書」だと思う。新宮一成先生の『ラカンの精神分析』を抜いて、ということだからこれはすごい。斎藤氏曰く、「頭の良い中学生なら読める」(やっぱり、中学生がラカンを知りたがるのかよ!とツッコみたくなるが)ということで、文体も、ちょうど精神分析家が中学生に話しかけるようなベタな文体が取られている。そのため、ギャグとしてまあサブいことも書かれているが、それには目をつぶりたいものである。実際、中学生に読まれるかは別として、斎藤氏一流のパフォーマンスなのだろう。しかし、ラカンは一応押さえているというだけの僕にとっては、勉強させてもらった一冊であり、とりあえずラカンを知りたいという人にはまずお勧めしたい本。

 しかし、やはりこの本から透けて見えてくるのは、斎藤氏のオジサン的凡庸さかなあ、という気がするのである。東浩紀先生が『動物化するポストモダン(1)』を上梓した直後に、『動物化』について斎藤先生と対談しているのだが、そこでわかりやすく見えた図式は、新進気鋭の東浩紀対ちょっとオジサン的鈍さを感じさせる斎藤環というものである。斎藤氏はいろいろと面白いことを書いているが、どうもちょっと鈍いというか、ものわかりの良いオジサンにとどまっているようなところがある。まあそれでも、おおざっぱかつ強引にことを進めすぎてしまい、後には何も残らない感じのする東先生よりは、斎藤先生の方を買うのだが。ゲーム脳批判とか、地道ながらちゃんと実績を積み重ねていっているし(ときどき、他の人がどうこう言えない治療体験とかを議論に持ち込んで、ブラックボックス化するという、ちょっとズルいこともやっているが)。

 斎藤先生のオタク論といえば『戦闘美少女の精神分析』だが、文庫版も出たので読み直して紹介したいかなあとも思っている(近々、読み直さなければいけない理由もできそうなので)のだが、あの本はラカンを議論の中心に据えているので、オタク論としては例外的に難しいんだよなあ。どんな話だったかはよく覚えていないが、当時学部生でラカンをほとんど知らなかった僕には分からない議論だったのではないかと思う。それに、村上隆の作品を分析対象にもってきたりするというのも、僕には納得できないし(それよりは、『博士の奇妙な思春期』に収められたオタク/婦女子論のほうがよっぽど納得できる)。そもそも、「戦闘美少女」を特権的に扱ってしまったら、普通の「戦わない」萌えキャラとかの分析や比較がしにくくなるし。いずれにせよ、精神分析を議論に援用するという「いかがわしさ」というのは、どこまで行っても消えないのである。

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ナンシー関「何」シリーズ

2007-06-26 | 
何だかんだと

角川書店

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 ナンシー関の「何」シリーズをほとんど読んだ。最新の6冊である。といっても、ナンシー関は何年か前に死んでしまっているので、2001年くらいのまでの話である。
 「何」シリーズとは『何だかんだと』など「何」をタイトルの頭におき韻を踏んだタイトルのシリーズである。だいたい3Pくらいで、毎回芸能人の消しゴム版画とともに、その芸能人やCMの批評の文章が載っている。正直、一人ノリつっこみが繰り返される文章には飽きもくるが、鋭い観察眼や記述対象と自分の距離の取り方など学べることは多い。テレビ批評については、今のところナンシー関の右に出るものはいないので会うr。何より、これは僕もそうなのだが、90年代辺りのテレビ状況の格好の資料となるのである。ナンシー関を読めば、当時のテレビの雰囲気が分かる。死して侮りがたしナンシー関。現在にも、こういう的確なツッコミを入れられる人がいたならば、ダダ流し状態のバラエティ番組に皮肉の一つも言えるのだが。

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北田暁大『広告の誕生―近代メディア文化の歴史社会学』

2007-06-24 | 
広告の誕生―近代メディア文化の歴史社会学

岩波書店

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北田暁大(2000)『広告の誕生 近代メディア文化の歴史社会学』
P4)消費社会的と形容される歴史的現象への気づきのなかで、広告は、「買う(買わない)」という受け手の行為選択に圧力をかける装置としてその機能を特化されることから解放され、むしろ人々の日常的な意味世界と商品世界を架橋するメディアとして認識されるにいたったわけである。つまり、「意味」を備給する媒体として広告は時代の象徴の位置にまで押し出されることとなったのだ。

P9)《かくも精密に広告の分析を施していくのはいい。しかし、われわれは広告をそんなにマジメに見て/意味解釈しているだろうか? むしろ、全然マジメに見て/解釈しているわけでもないのに、ふと思い起こしてみると何となく総体としての広告が醸し出す世界に巻き込まれてしまっている、というのが実情ではないだろうか?》

 今日は社会学をやっている院生でもなければ、意味のないような本の紹介をば。かくいう私も、一応ニクラス・ルーマンという社会学者の社会システム理論というものを、研究に対して副次的にやっているのだが、それほど社会学について明るいというわけではない。まあ、こういうものはドツボや深みにはまるほど、暗くなっていくのだが。

 北田先生といえば、社会学者の若手の中では有望株と目されている人物である。あまり明示して語りはしないが、ニクラス・ルーマンの学説にも多少を負っている。『広告の誕生』は北田先生の修論をベースに(形は残らないほど変えたらしいが)書かれた本である。この本はだいたい江戸~大正くらいまでの時代で、広告もどきみたいなものが、やがて広告として自律していく過程を記述している。しかも、よくある消費社会論みたいなテイストはほとんどない。そして、これは特徴的と言っていいのだろうが、冒頭の引用のように、広告というものに、特に内容面についてがっちりと取り組むのではなく、形式面などについて一歩引いている。また、ルーマン的な語用はあるものの、どちらかといえば男/女のコードをもちいたフェミニズム的な記述や、権力作用を問題にしたカルチュラル・スタディーズ的な研究のように思う。私的にちょっと気になったのは、北田先生がルーマンを踏まえながら、かなりきらびやかなタイプの文を書いていることだ。というのは、ルーマンは簡素でかつわかりにくい文を書くことで知られているが、そういうルーマン文体の素っ気なさ=身も蓋もなさ、あるいは不毛さみたいなもの―そして僕はそういうものにルーマンの魅力を感じるわけだが―の対極に北田先生の文体があるような気がするのである。ゆえに、ヘタをすれば、『広告の誕生』も形を変えた消費社会論、広告賛歌みたいなもののバリエーションと誤解されかねない気がする。まあ、多分に個人的な思い入れを含んでの言だが。でもやっぱ、北田先生は『嗤う日本のナショナリズム』といい、カルスタ派かなあ、と最後の最後に思うのである。

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宮台真司ら『増補 サブカルチャー神話解体』

2007-06-17 | 
サブカルチャー神話解体 増補―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在

筑摩書房

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「対象が前提としているコードと共振しないためには、対象となるコミュニケーションとは異質な、対象の側から見れば唐突としかいようのないような「無礼な」手法で分析する必要があります。ソフトな内容分析に血も涙もない統計的手法をぶつけ、ハードな社会思想に地をはうようなルポ的手法をぶつける、といった僕らのやり方は、そうした要請にしたがっている。しかしこの要請から既に明らかなように、統計に頼れば済む、ルポ的実感に頼れば済むというようなものではなく、統計的なるもののコード、ルポ的なるもののコードを、また別のものによって中和する必要が出てきます。こうした複数の手法相互の関係を、システム理論というCPUによって統括することで、対象との共振を排除しつつ、しかもアドホックさや恣意性を回避するということです」『増補 サブカルチャー神話解体』(P485)

 宮台真司の最高傑作、『サブカルチャー神話解体』が『増補』として文庫に出たので、読んでみた。すごい。『増補』とは、オリジナルをちょっと直し「序章」と上野千鶴子の解説をつけたバージョンである。前に、オリジナルを読んだことがあるのだが、あまりにおもしろくなくて、途中で投げ出したのだが、直しが良かったのか、あるいは僕の側の条件が変わったからか、やたらとおもしろく読めたのである。
 この本は、システム理論によって、サブカルチャー・コミュニケーションの変遷を戦後から読み解いたものである。対象となるサブカルチャーの領域は「少女メディア」「音楽コミュニケーション」「青少年マンガ」「性的コミュニケーション」の四つだが、これらは単に独立して分析されているのではなく、社会=コミュニケーションの地盤に乗っている以上、その時代時代において、コミュニケーションのコードは基本的に同じという考えから、様々な視点から同じコミュニケーションの地盤を照らし出しているという研究である。これは、どこまで厳密なのかは、僕には判定しきれないのだが、ニクラス・ルーマンの社会システム理論の考え方である。
 以前は、知らないマンガやミュージシャンなどの名前がでまくって、わけわからなくてつまらなくて読めなかったのだが、今回読見直してみると、すばらしくおもしろいのである。わかった!という感じなのだ。そんじょそこらのオタク論など、話にならない完成度。社会学や社会思想、サブカルチャーに興味のある人なら、とりあえず「序章」のところだけでもつまみ食いしてみると、必ず発見がある。

 また、解説に付された上野千鶴子先生の「宮台真司が大家になるのは、まだ早い」という辛口の解説もすばらしい。上野先生は宮台先生を「時代と寝た」と評し(上野先生にも、時代で寝たんじゃないかというつっこみはありそうだが)、これからはただの物わかりのいオジサンになるのではないか、というのは的を得ているのかもしれない。宮台先生自身が予告し、宮台ゼミの知り合いから本当に今書いていると聞いている、この『サブカルチャー神話解体』の続きも、上野先生によれば、次の代の若手が書くべきという話である。しかし、だれがこれだけの研究を乗り越えられるのか。考えるだに恐ろしい。まあ僕もこの本をタネのひとつに修論を書こうとしているのだが、当たって砕けてみようか。

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大黒岳彦『<メディア>の哲学 ルーマン社会システム論の射程と限界』

2007-05-31 | 
〈メディア〉の哲学 ルーマン社会システム論の射程と限界

NTT出版

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 修論研究と関連して読んでいた大黒岳彦先生の『<メディア>の哲学 ルーマン社会システム論の射程と限界』を読み終えた。本章は四部構成でその内訳は1.マクルーハンやデリダを含めた旧メディア論 2.ルーマンのメディア論 3.ルーマンのマスメディア論 4.大黒氏が提示するそれ以上という具合である。

 まず1.の旧メディア論については、僕はそこまで専門的にやっていないところなので、大いに勉強になった一方で、退屈さに死にそうになり、結局、飛ばし飛ばしで読むことになった(勉強の意味ない…)。2.と3.のルーマン理論の解説については、これまでルーマン(周辺)をそこそこ読んできた筆者にも、なかなか確かに思えたので、マスメディア研究にルーマンを用いようとしている人には、(ルーマンの『マスメディアのリアリティ(現実)』を副読本にしながら)勧められる出来だと思う。しかし、4.のルーマン理論を踏み越え(内側から食いぶって)、新たな一般的メディア論を作ろうという部分については、もっとルーマンをよく分かった先生方から猛烈な批判を受けているし、私程度のルーマン理解でも「あれ?」と思うことが少なくなかったので、読まないほうがいいかも。総じて、大黒氏の整理は大いに参考になるが、大黒氏自身の立論は割り引き、あるいは読まずにいたほうがいいのかもしれない。

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上野千鶴子、宮台真司ら『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』

2007-05-20 | 
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?

双風舎

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 『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』を読んだ。と言っても、興味があったのは宮台真司の対談と斎藤環の評論だけなので、それだけを読んだのだが。ちなみに「バックラッシュ」とは、「ある解放主義的な考え方に対する、伝統主義的な考え方からの反発」とでも定義できようか。この本は、バックラッシュへの「反批判」の本である。

 まず、汎性欲主義で、ラカンの「女は存在しない」といった発言から女性蔑視的だと思われていた精神分析を、斎藤環がジェンダーフリーを擁護できる立場と主張するのは良かった。たしかに、ファルスなど性的な用語の多い精神分析だが、少なくともフロイト理論を言語論的に再構築したラカン派においては、精神分析とは、言語を獲得したゆえに汎的に精神分裂症的(統合失調症的でもいいが、良くも悪くもニュアンスが弱い)な存在者になった「人間」一般を対象とする学問(?)なので、男だからとか女だからとかいう区別はありえない。斎藤環がこのことをちゃんと主張してくれたおかげで精神分析への理解が深まった気さえする。ただし、斎藤環得意の「精神分析だけが~~できる」というセリフは自重したほうが良いのではないかとも思う。

 宮台真司の対談(というか、インタビュー)については、この本はこの対談につきていいのではないかと思うほどだ。まず宮台先生が明らかにするのは「社会的性別の消去」という「ジェンダーレス」と「社会的性別に関わる再帰性の自覚」という「ジェンダーフリー」の概念の区別だ。つまり、ジェンダーフリーの立場は、「男だから」「女だから」という考えを自明のものとして設定することはできず、常に/すでに疑いうる考えであり、従ってジェンダーフリーだから「ああしろ、こうしろ」ということも出来ない。ジェンダーフリーを、たとえば「女性は社会進出すべき」とかいう主張を含むものと考えがちだった私にとっては、目から鱗だった。
 さらに宮台対談においては、ジェンダーフリーバッシング(バックラッシュ)にとらわれず、小泉政権以後の日本社会の社会診断が広く行われている。この議論の中にも、論壇誌を読んだり政治談議を好む割に、学領域で低層に位置する「亜インテリ」が諸悪の根源であり、こうした人々がアカデミックな領域で自己実現できないために、経済や政治の領域に加担して、アカデミック領域の高層にいるリベラルな人たちを攻撃するという、ルサンチマン的な社会診断が行われている(面白いが、ちょっと陰謀論ぽい)。
 個人的に面白いと思ったのは、宮台先生が本田透の『電波男』を取り上げ、「女が資本主義化したから男はダメになった」という診断自体は誤りであると指摘しながらも(というのは、宮台先生が採用するルーマン社会システム論は、資本主義などの社会資本的なものがコミュニケーションを反映するという、マルクス主義的なものを含めた反映論を棄却する)、一定の共感を示しながら「面白い」と評していること。さすがに本田一流の「オタク天下」に加担する気はないが、オタク的なもの(ギャルゲーなど)の機能を評価しているようである。
 結局、宮台先生は「祭り」を企画して社会の様々な成員を動員し、コミュニケーションの土台を作ることを考えているとのことだが、果たしてそんなもの可能なんかいという疑いは大きい。今の日本におけるもっとも大きな祭りの一つは「コミケ」だと思うが、人工的にあれ以上の(しかも、さまざまな興味の人々を巻き込める)ものを作れるのだろうか。オタク的なものは、ボーイズラブなどで女性にも広まっていることは周知の事実だが、ああいうものに一定の共感を示せば比較的寛容だという意味で、オタクほど包括的な興味や関心もないような気がする…と考えてしまうのが悲しいところだ。とはいえ、オタク的なものは、セクシュアリティに担保されていることもまた疑いないことなので、この線から何かできたら面白いのではないかと思ったりもするのである。

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東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』「リアリティへの不信/物語が多すぎる」

2007-04-30 | 
ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2

講談社

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「現代の物語的想像力は(…)、キャラクターのデータベースの隆盛とコミュニケーション志向メディアの台頭という二つの条件の変化のため、メタ物語的な想像力に広範に侵食されつつある。ひらたく言えば、そこでは制作者も消費者も、ひとつの物語を前にして、つねに他の結末、ほかの展開、ほかのキャラクターの生を想像してしまうし、実際にそのような多様性は、メディアミックスや二次創作として具体的に作品を取り巻いている」(『ゲーム的リアリズムの誕生 動物するポストモダン2』P236)

 この本は、評論家、東浩紀氏の『動物化するポストモダン』の5年越しの続編であり、また氏のこれまでの思索のとりあえずの総決算の本である。出るのは前々知っていたのだが、つい最近出たのを知ったので、レビューを書くには出遅れた感がしている。ま、それはどうでもいいのだが、この本は桜坂洋の『All You Need is Kill』やKIDの『Ever 17~out of infinite~』を例にし、ポストモダン化し、データベースが優勢になり、「物語が成立しない、あるいはあまりにたやすく成立してしまう」(P26)環境に至った現在において、この状況を反映したライトノベルや美少女ゲームをはじめとした作品を、いかに批評していくかという課題に挑戦し、さらにまったく新しい「日本文学史」の構想を示唆している野心的な本である。
 アマゾンの紹介では、東氏自身が直接紹介をし、その下のレビューには反発している意見も書かれている。確かに、この本は一定(大半?)の層(場合によってはオタクも含む)の反発を招かざるを得ないと思うし、僕としてもちょっと突っ込んだほうがいいと思う部分もないわけでもないが、それでも「オタク」というタームに関心を持つ人と、「批評」という営為に関心をもつ人は、とりあえず読んでみる価値があると、僕は思っている。少なくとも、東氏は本気であり、その本気具合は僕にはひしひしと伝わってくる。ちなみに、僕はこの本を読んでいて、自分は割りと保守的なオタクだなと感じた(まあ、『ハルヒ』をほとんど受け入れられないのでその気はもともとあったのだが)。
 というわけで以下は僕の、この本に対する反応である。

 まず、突っ込んでおきたいのだが、東氏の論考の中心的なモチーフを成す「データベース」(とその中に存するデータの類型化)という概念は美少女ゲームのプログラムの例を出され(『動物化するポストモダン』)直感的には了解できるのだが、割とあやふやだし、何にでも転用可能な万能概念である。それに、今に至って概念が拡張されているので、なおさら含意を確定しがたく感じている。実は、僕の大学院の先輩が東氏自身にデータベース概念について質問したことがある、という話を聞いたことがあるのだが、返答は要領を得なかったらしい。質問の趣旨としては、「物語や意味を剥奪されてたとされる、データベース内のデータにしても、やはり物語や意味という負荷がかかるのではないか」というものだったらしい。他にも斎藤環氏が「オタクはデータベースのストックにある萌え要素の組み合わせで萌えるのではなく、デジ子なら「~にょ」という口癖に萌えるのだ」という論をどこかで展開していたはずだ。僕も、萌えはキャラクターを要素の単純な集合・組み合わせに還元できるという考え方には、違和をもっているし、むしろその集合に何を+αできるかということに、萌えやキャラクター性はかかっているのではないかと思っている。第一、ツンデレのようなキャラは、キャラを文脈の上に立たせ、その性格をかなりうまく描写しないと成立しないのではないかと思う。それに、僕がこの作品はあの作品のあの部分と似ていると、ときどきこのBlogに書くように、類型化は伴っても、作品の固有性は、まさにその固有名によって担保されているように考えている。もっとも、僕の批評(と呼んでいいのか、最近かなり不遜ではないかと思っている)は、アニメ作品を念頭においていることが多いので、『ゲーム的リアリズム』とはよって立つ前提が微妙にずれているかもしれない。

 東氏は、Keyの『Air』やFlyngShineの『CROSS†CHANNEL』、KIDの『Ever 17』などの作品を取り上げながら、美少女ゲームの美少女ゲームとしての条件や環境や仕組みを物語の中に取り込む作品を「メタ美少女ゲーム(この本ではあまり使われないながらも、便利で適切な「メタフィクション」という言葉を僕は積極的に用いるが)」として評価しているし、僕もその評価を共有するのだが、果たしてこういう作品が、東氏が新しい可能性を開くというほど、広汎に広まるとは思っていない。というのは、こういうゲームは言わば「裏技」を使って書かれたのであり、こういうジャンルの仕組みを利用したメタフィクションはあまり応用が利かず、量産できず、さらに言えばもう打ち止めですらないかと感じている(田中ロミオの寡作など)。正直、このジャンルで『Ever 17』を超える作品が出る可能性については望むだけ無駄だと思っている。実際、あかべぇそふとつぅの『車輪の国、向日葵の少女』以来、ここ1、2年はそういう仕組みで作られた作品については聞いた覚えがない(田中ロミオ氏が『CROSS†CHANNEL』のスタッフで新作を作っているらしいが)。それに、メタフィクションについても、『向日葵の少女』や工画堂の『symphonic rain』などは、ある程度「叙述トリック」という説明で済まされてしまう可能性もある(「メタフィクション/叙述トリック」という区別を厳密につけられるなら話は別だが)。
 むしろ僕としては、こういう「小技」を使った作品をもちろん評価しつつ、たとえ嘘でも大きな物語を描く意志を持ち続けた作品を擁護したい。たとえばKeyなら『Air』もそうだが、より素朴に「家族」という嘘を突き通した(あまり「家族」という言葉に幻想をもたない僕にも涙させた)『CLANNAD』をこそ、Keyの最高傑作としたい。この作品は、類型化されたキャラクターを配置しながらも、ある一つの人生を描きえた稀有な作品だと思っている。
 あと東氏がメタフィクションの批評について有効だとして提案している「環境分析」(環境分析とは、いわば、作家が言いたかったこと、作家が語ったことそのものを「解釈」するのではなく、作品をいちど作家の意図から切り離したうえで、作品と環境の相互作用を考慮し、作家にその作品をそのように作らせ、そのように語らせることになった、その無意識の力学を「分析」する読解方法(P215))だが、僕は批評とはそもそもジャンルや媒体や作品や読者の連環を基盤として、作品を評価していく営為だと考えていたので、「環境分析」についても既存の構造主義的な批評と同じか、せいぜいその拡張くらいにしか受け取れない。
 本書について、「新しい」と感じることは実はほとんどないというのが本音である。たとえば、美少女ゲームやライトノベルをちょっと意識して読んでいる人(田中ロミオ好きとか)なら、少なからず感じていたはずのことばかり(現に、僕自身の『CROSS†CHANNEL』(2006/6/9)のレビューには同様のことを述べており、東氏の「メタフィクション」の概念で何を言おうとしているかを予想し、ほとんど当てている)。これをどうもうまく一番乗りして整理して書いたなという印象ではある(もっともその整理の手付きがこれ以上なく的確なのだ。『存在論的、郵便的』というデリダを分かりやすく示したデビュー作といい、東氏のもっとも際立った才能は、整理の能力ではないかと思う)(ちなみに、東氏のオタク論は、『動物化するポストモダン』以来かなりの部分を大塚英志氏に負っている。東氏は『ゲーム的リアリズム』で大塚氏の論考に批判を試み、その試みはかなりの説得力を獲得しえているが、それでも大塚氏の偉大さが薄れるわけではない)。それに、この本は別にオタクとその周辺に向けて書いたわけではなく、むしろ伝統的な文学とその周辺に書かれたもののようなので、部外者への紹介ということで、特殊なことを分かりやすく一般的に書いたものなので、僕らには冗長に感じられる文章であるほうが当たり前なのかもしれない。(ちなみにそれでも東氏はいくつかの発明をしている。美少女ゲームの引用の仕方「『作品名』、なになに編、何月何日」。僕はよく作品の引用を載せるが、美少女ゲームの引用については、作品名以上を載せるのは諦めていた)。
 僕が気になったのは、東氏が『涼宮ハルヒ』シリーズを少なからず評価している点で、意外に感じた。この本でも紹介されている『涼宮ハルヒの消失』に関しては、僕も同じように評価しているが、少なくともスニーカー大賞受賞作の『涼宮ハルヒの憂鬱』の時点では、ハルヒ=神、みくる=未来人、有希=宇宙人、一樹=超能力者という、非常に安易な設定の萌え+ドタバタノベルにしか読めないのだ(ただし、『ハルヒ』のファンについてはかなり二層化していて、片や細部のパロディを読み込み、批評的に読める層と、片や素直に萌える安直な層があるような気がしている。思うに『ハルヒ』の成功はその二つの層を両方とも取り込めたからではないか)。それに、主人公のキョンが口ではイヤイヤ言いながらも、ハルヒに振り回されるという、「可愛い女の子にイヤというほど振り回されたい」というこれまた安直な欲望が透けて見えるところも気になるところだ。まあ、こういうジャンルにどっぷりつかっている僕が言っても説得力がないが。
 あとは、オタク系のジャンルの自己言及(=批評)的な作品は、「メタフィクション」に分類されるような「ゲーム的リアリズム」の作品に限らず、たとえば僕がファンの、庄司卓氏の『トウィンクル☆スターシップ』の、宇宙船に主人公の他は女の子ばかり4999人乗っていて、作者は毎回新しい女の子を登場させキャラの書き分けの限界に挑戦すると宣言するという、ともすればアイロニカルにさえ映る試みもありえるのではないかと思っている。これだって「データベース」という環境を明確に扱っている例だろう。そんなわけで、「データベース」や「メタフィクション」「ゲーム的リアリズム」とそれへの批評はオタクたちにとっては、当たり前の前提ですらあるかもしれない。
 最後に付加的に付け加えておきたいのが、この本であまり明確に扱っていない感もするが、美少女ゲームに耽溺するオタクに対する、フェミニズム的な倫理の問題である。これには、筆者はちくちくするところが少なからずあった。この論は、なぜ美少女ゲームの主人公に「ヘタレ」が多いのか(『君が望む永遠』や『School Days』など)、という問題に関係していると僕は感じた。是非この問題を主題として扱った論考を書いてほしいものである。
(蛇足しておくが、ライトノベルならうぶ方丁について言及すべきだとか、アニメの『舞-Hime』シリーズも無視できないはずだ、とかいろいろないものねだりも出来るが、意味がないので明示しない。それに、僕は東氏のオタク作品についての理解に多少異論を出したが、東氏の伝統的な文学の理解については、文学の関係者からこんな程度で済まないほどの異議が噴出するだろう。いずれにせよ、東氏の提出しようとするテーゼを語りきる作業はとてつもない量になるので、新書サイズの論考では簡略化は否めないし、細部を批判してもしかたがない。果たして東氏が今後批判をどうさばいていくかは、見ものだ)

 というわけで、この本は、オタク作品を例として、より広い層に現在の物語の状況について紹介・解説するための本であるが、むしろ(やはりと言うべきか)オタクが自己批評をするために読むべき本だと感じた。正直、僕にも少なからぬ反省点が浮かび上がった。オタクにこそ、是非一度ぶつかってほしい本である。

「(…)筆者がここで「批評的」という言葉にこだわるのは、「批評的=臨界的」(critical)とは、本来、明示的な批判や非難をさすのではなく、文学でも美術でもアニメでもゲームでも、とにかくなにか特定のジャンルにおいて、その可能性を臨界まで引き出そうと試みたがゆえに、逆にジャンルの条件や限界を無意識のうちに顕在化させてしまう、そのようなアクロバティックな創造的行為一般を指す形容詞だったはずだからである」(P323)

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中山元『フーコー入門』

2007-04-07 | 
フーコー入門

筑摩書房

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 先日紹介した『はじめて読むフーコー』に引き続き、中山元氏の『フーコー入門』を読んだ。入門書としては、こちらのほうがとっつきにくい感じ。

 この本は、基本的にフーコーが出した著作物を年代順に追いながら、その遍歴を探るというもの。『はじめて読むフーコー』と比べると、より言説分析というフーコーの独自の技法の解説が充実している。また、人が幸せに生きようとする願いに付け込み支配力を発揮する、「生=権力」への反抗の方法の思索が輻輳として存在している。たぶん、こちらのほうが「生=権力」の解説として突っ込んだことを書いているように思われる。

 とまあ特に書くことはないのだが、『はじめて読むフーコー』と並んで格好のフーコー入門書となるだろう。しかし、僕らのような人種でもなければ、誰がフーコーに興味をもつんだろう?と疑問に思わなくもない。

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