哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

国立新美術館『巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡』×サントリー美術館『巨匠ピカソ 魂のポートレート』

2008-11-30 | 展覧会
 写真はかなりぶれているが、国立新美術館『巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡』のサントリー美術館『巨匠ピカソ 魂のポートレート』を観てきた。六本木の美術館2館が連携してパブロ・ピカソの展覧会をやっているのである。国立新美術館は若いころから死ぬまでのピカソの美術の遍歴を、サントリー美術館はやはり若いころから死ぬまでのさまざまな意味でのセルフ・ポートレートを並べている。そうそうたるコレクションである。訪れたのは、平日の午前、新美術館には開館後すぐ、サントリー美術館にはそのあと11時くらい。そんな時間なのに、結構混んでいた。それとは別に、学校のちょっとした行事なのか、小学生から高校生くらいの子がまとめて学生服を着てさわいでいたのでちょっと困った。

 私自身は、特にピカソは好きではないのだが、やはりこうしてピカソの作品を並べて見ているとその偉大さには感じ入ってしまう。まあ、女性関係とか問題の多い人物ではあったものの、それも含めて偉大なのだ。本当に、一人でよくあれだけの業績を挙げたものだと改めて驚く。他の巨匠と呼ばれる画家の3人前くらいの業績を上げているのではないだろうか。「青の時代」「分析的キュビズム」「総合的キュビズム」「シュールレアリスム」彫刻、晩年の闘牛やミノタウロスをモチーフとした絵画などなど。
 ピカソの業績の中でも、私が特に興味を引かれるのは、そのモチーフの選び方である。若いころから多く描いた道化師のモチーフや、晩年に多く描かれた闘牛やミノタウロスのモチーフである。これらは皆、ピカソが自分自身を描くために用いられたモチーフだが、暴力と性欲そのものの存在であるミノタウロスをセルフ・ポートレートとして描く画家の妄念には震撼せざるを得ない。まあ、絵自体が凄すぎてなかなか理解できないせいもあるのだが。
 そんなわけでというのか、ピカソの芸術を理解する一助になればと、今回は珍しく図録を買ってみた。二つの展覧会の作品が一冊でまとまってて、2800円。お得、かな。

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『Xファイル傑作選』

2008-11-29 | 映画
X-ファイル傑作選 DVD-BOX

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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「真実はそこにある」

 現在、映画版が公開されているということで、そのキャンペーンということかで出された『Xファイル(Files)』のドラマシリーズの傑作選を観た。『Xファイル』が流行ったのは10年も前のことだが、当時は僕もファンだった。世紀末だったせいか、オカルティズムがかなり流行っていた時期だしなあ。
 全100話超の長大なドラマシリーズのなかから制作総指揮者たちが直々に8話を選んだということで、文字通りの傑作ぞろい。『Xファイル』は話の本筋にあたる政府と異星人に関わる陰謀を「ミソロジー」と呼んでいるが、こんかいは「ミソロジー」に相当する話はほとんどなく、一話完結しているものばかりである。そのラインナップの特徴は、「ミソロジー」に関わりやすいモルダーではなく、スカリーの家族に関わるエピソードが多いこと。また、ホラー的なエピソードは少なく、サスペンスと案外コメディ的なエピソードが多いということである。コメディ的なエピソードというのは、モルダーとスカリーという超自然現象について賛否の立場が分かれる主人公ふたりが、対立しながら事件に当たる姿が、想像以上にはまっている。言いかえれば、バディものという、二人の主人公自身よりも彼らの掛け合いが主人公となるジャンルとして、特徴的な軽快さを、超自然現象をモチーフとしたこのドラマを人間味あふれるものにしているのである。その他、一つの事件を50分足らずのエピソードとして描くだけあって、その展開の圧縮感が小気味いい。モチーフこそ色ものだが、ドラマとしての完成度が非常に高いのである。
 それに、結構シャレもきいている。モンスターが輸送車から逃げ出した場面で、画面がアップになっていき「釣り人歓迎、生き餌あり」という象徴的なフレーズの看板が見えたりしていて、細かいところまでよく作り込まれている。

 また面白いと思ったのは「宿主」というエピソード。これは、チェルノブイリ原発事故の放射線で寄生虫が人間型に突然変異し、人間を襲い始めるというエピソードなのだが、結構有名なエピソードでもある。ただ、水場という人間の生活空間の外に対する恐怖が象徴的に表現されているし、モンスターに襲われて下水に引きづり込まれるというシチュエーションも素朴に嫌だ。そんなわけで印象的なエピソードなのだが、このエピソードを見ていると日米のホラーに対する考え方がありありと見えてくる。なんとこのモンスターは中盤であっさりと捕まってしまうのだが、一応人間型をしているということで、救急車に乗せられて精神病院に搬送されていくのである。おいおい、どう見ても人間には見えないだろうと。そんなシナリオの流れである以上、モンスターの姿もかなり見えてしまうのだが、日本のホラー界ならよくも悪くもこういうエピソードは作れないし、作ったとしても大叩きされること請け合いである。日本では、実害は限りなくないにも関わらず、また見えそうで見えないのにも怖いものが、本当に怖いとされているからだ。それに、モンスターの精神状態を判断しようなんて発想もまた出てこない。日本でモンスターを捕まえてそれを精神病院に運ぶなんてエピソードを作ろうとしたらコメディにしかならないはずだが、この『Xファイル』ではマジでホラーとサスペンスとして作っているのである。そんなわけで、この「宿主」は『Xファイル』のみならず、アメリカのドラマ業界を代表するエピソードではないかと思うのだ。もちろん、サスペンスとしては傑作で。
 そんなわけで、やっぱり、というよりも思ったよりも『Xファイル』はすごかったと見直したという次第である。

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横浜美術館『セザンヌ主義 父と呼ばれる画家への礼賛』

2008-11-26 | 展覧会
 横浜美術館に『セザンヌ主義 父と呼ばれる画家への礼賛 ピカソ・ゴーギャン・マティス・モディリアーニ』を観にいってきた。恥ずかしながら横浜美術館に行ったのはこれが初めて。のみならず、横浜美術館がある桜木町にまともに行ったのもこれが、初めてではないかな。なんとなく山崎まさよしの歌で、踏切とかがある商店街のイメージだったが、どっこい。かなり綺麗で、いかにも再開発地区という感じだった。時代が違ったのかな。

 横浜美術館は桜木町駅から徒歩約10分。みなとみらい駅からなら3分程。見た瞬間驚いてしまった。なんと立派な。これまで見た国内の美術館では一番綺麗なのではないかと思ったくらいだ。サイズと美しさで今のところ勝負になるのは、国立新美術館くらいではないかな。たぶん、横浜美術館は、日本画の方が得意なのだと思うのだが、そのせいで今まで来なかったのは我ながら手落ちと言わざるを得ない。

 肝心のセザンヌ主義だが、これまた量質ともに立派なものだった。タイトルにもある、ポスト印象派の作品が次々に並び、解説も充実している。さらにやはりセザンヌから影響を受けた日本人画家の作品も多く、そもそもセザンヌ自身の作品は、自画像、人物画、風景画、静物画、水浴画などバリエーションを網羅している。残念ながら、画家のマスターピースとされるような作品はなかったようだが、それでもおなかいっぱいの内容だった。美術展を見て、これだけ疲れたのも久しぶりではなかろうか。ただ、延々とセザンヌを囲むように見てきた美術展のオチが、みんながあこがれていたセザンヌ自身は「ドラクロワ最高!」と言っていたというもので、さすがにずっこけざるを得なかった。

 そんなおなかいっぱいの状況ではあるが、常設展がまだあるのである。今回あったのは、ダリなどのシュールレアリスムの画家の作品と日本人画家の作品、写真展、さらにデザイン家具まで。もうどうにでもしてという感じである。

 ミュージアムショップも展望台もカフェテリアも充実して、文句なしの美術館なのだが残念なのは一点。『セザンヌ主義』にあった絵の絵ハガキのラインナップが貧弱で、僕が絵ハガキを買おうと思った三枚の絵の絵ハガキが三枚ともなかったこと。お土産というよりも思い出に近い感じだが、僕は毎回美術展で気に入った作品の絵ハガキを買って帰ることにしているので、ここはやはり残念。まあそれも最終的には気にならないほど、おなかいっぱいな美術館だった。上野や六本木などの美術館の中心地からは遠いが、まだ訪れたことのない方は、騙されたと思って一度足を運ばれることをお勧めしたい。その機会にも今回の『セザンヌ主義』は良いものだと思います。

「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱い、すべてを遠近法の中に入れなさい」ポール・セザンヌ

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エラリイ・クイーン『ドルリイ・レーン最後の事件』

2008-11-26 | 小説
ドルリイ・レーン最後の事件 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリイ クイーン
早川書房

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 エラリイ(エラリー)・クイーンがバーナビー・ロス名義で発表した『ドルリイ(ドルリー)・レーン』四部作の最後、『ドルリイ・レーン最後の事件』を読んだ。確か、同じ早川文庫版の『Xの悲劇』か『Yの悲劇』の解説に、『ドルリイ・レーン』シリーズは全体で一つの長編でもあるということを書いてあったはずだが、この最後作を読んで、それが本当のことだということが分かった。世間では最高傑作である『Yの悲劇』だけ読めば良し、という風潮があるそうだが、今までの三作は『最後の事件』の犯人とその謎解きを際立たせるための伏線であるとのこと。四作すべてを読まねば、全く『ドルリイ・レーン』シリーズを語ることはできないのである。具体的には、『Xの悲劇』でドルリイ・レーンという魅力的な探偵を初登場させ、『Yの悲劇』でミステリー界に残る意外な犯人を描き、『Zの悲劇』でもう一人の探偵役であるペイシェンスを登場させ、『最後の事件』でなぜドルリイ・レーンが自らの探偵稼業に幕を引かなければならなくなったのかを描いているという意味で、四部作がそれぞれ「起・承・転・結」を成しているのだ。これらは、一連のシリーズというよりも、ドルリイ・レーンという探偵の一つのサーガだと言っても大げさではないと思うのだ。

 サム元警視の元に、異様な風体の男がある封筒を預かってほしいという依頼を持ち込む。奇妙に思いながらも、報酬につられて引き受けてしまう。それに引き続いて起こったのは、博物館で元刑事の警備員が行方不明となり、貴重なシェイクスピア本のすり替えという事件。事件のあまりの奇怪さにサム元警視たちはお手上げになり、ドルリイ・レーンが招かれるものの、二転三転する展開にさらに彼らは惑わされていく。そして、その事件の行き着く先は…。

 この小説の解説にも触れられているが、実はちゃんと解決していない謎が結構残っている。また、殺人が起こるのも物語の終盤であり、『Xの悲劇』や『Yの悲劇』のような本格ミステリとは趣が違っている。しかし、最後のペイシェンスの推理とその結末は衝撃であり、四部作を読み切った人は大きな衝撃を受けることだろう。もし興味と時間のある人なら四部作を全部読みとおしてほしい。他のミステリーでは味わうことのできない衝撃を受けること請け合いである。絶対に『最後の事件』だけで読まないように!

「彼は潔く立ち去れり。負い目はすべて支払いずみと聞く/されば、われらの神よ、彼へのご慈悲の与えられんことを/では、われわれの再会の日まで――ドルリイ・レーン」(P481-482)

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エラリイ・クイーン『Zの悲劇』

2008-11-25 | 小説
Zの悲劇 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリイ クイーン,エラリイ・クイーン
早川書房

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「ヒュームさん、わたしみたいな女が何を考えたって、どうってことはないでしょう」
「やあ、どうも。いまの言葉は、あなたを怒らせるつもりのものじゃなくて、その木箱についての意見を聞かせてもらいたいのは、実際の気持ちなんです」
「じゃ、申し上げますけれど」わたしはきっぱり言ってのけた。「あなたたちの目は、ふし穴同然ですわ!」(P73)

 ドルリー・レーン四部作の中では、唯一の失敗作ともいわれる『Zの悲劇』を読んだ。まあ、失敗作といわれるのも仕方なくて、犯行のトリックも犯人の動機も、これでいいんかいな、という残念な感じは否めないのである。まあでも、ドルリー・レーンらしい論理性は保たれているのだが。
 ただ、この小説では先立つ『Xの悲劇』と『Yの悲劇』とは大分趣が異なっている。先の二作が三人称で描かれたのに対し、『Zの悲劇』にはサム警視(警察は引退しているが)の娘であるペイシェンス・サムが登場し、彼女の一人称で物語が進むのである。また、彼女が推理の一部を引き受けている。お転婆という言葉が似合うが、これはこれでなかなか面白い活躍を見せてくれる人物である。対し、我らがドルリー・レーンは前作から10年(?)ほどの年月が経ったせいで、すっかりおじいさんとなっている。前作までは60台なのに40台に見えるという壮健な身体を保っていたのに対し、すっかり老いこんでしまったところがなんとも残念。名探偵もよる年波には勝てないということか。推理力は衰えていないようだが。

 警察を退職したサム警視は、ヨーロッパを巡りながら勉学に励んでいた娘のペイシェンスと、自ら開いた事務所で働いていた。そんなサム警視のもとに、自分の仕事上のパートナーを調べてほしいという依頼が舞い込む。さっそく、依頼人のもとに泊まり込みながら調査を始めるが、そこに地方の選挙に関わる殺人事件が起こる。そこで挙げられた容疑者は出所したばかりのアーロン・ドウという男だったが、ペイシェンスは独自の推理からアーロンは犯人でないと考え、ドルリー・レーンとともに推理を進めていく。

 失敗作とは言ったものの、中盤くらいまでは結構面白かった。というのは、犯罪が地方の選挙や政治や陰謀に関わっていて、そういうサスペンス的な部分が面白かったのだ。途中の死刑のシーンも描写がリアルで印象的だったし。が、結局のところ犯罪は、それらとは関係なく、トリックらしいトリックがあったわけでもなく、消去法で犯人を当てるだけというだけで、ミステリーに必須の、謎解きの最後の盛り上がりはほとんどなかったかも。まあ、続く『ドルリー・レーン最後の事件』でも語り手となるペイシェンスの登場など、『最後の事件』の伏線として読むのが良いのか。

「ペイシェンス、わたしはいまのあなたの言葉で、あなたが一万マイル以内にいるかぎり、殺人の罪はおかさぬことに決めましたよ。あなたの頭は鋭い! で、その結論はどうなります?」(P186)

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庄司卓『グロリアスドーン7 少女は剣を振るう』

2008-11-24 | ライトノベル
グロリアスドーン7 少女は剣を振るう (HJ文庫 し 1-1-8)
庄司 卓
ホビージャパン

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 今回は前回に続き、話が大きく動いた話。作者曰く、起承転結の「承」の部分が終わったところらしいけれど、これはまたかなり規模の大きい話でかつ、萌えっぽい外見の割に、陰謀をめぐらせたり、あるいはかなり真面目にSFやっているなあと感心せざるを得ない。

 ついに本格登場した四姉妹の長女ティラが誘拐され、彼女を助けるために不本意ながらティセ、ティル、ティオらが銀河の中心近くの星系に大遠征をし、そこで空前絶後の大バトルをするという話である。

 まあ、この大バトルが曲者で『トップをねらえ!』の1と2の両方を彷彿させながらも、さらに大きな規模のもので、銀河中心のブラックホールもなんのそのという傍若無人ぶりを見せる。何巻か前の星系レベルのbioクラフトの正体がほぼ明らかになり、同時にティセたちがbioクラフトのパトリシャンである理由も少なからずわかるという、これまでの伏線をある程度回収したエピソードでもある。ラブコメも、ちょっとは進んだのではないかなあと。

 いろいろとすごいエピソードではあるのだけど、巻末の登場人物たちのフリートークでの『駄目だ、こいつ。早く何とかしないと』が全てをもっていってしまうというw。作者、傍若無人過ぎだ。そのうち、『全力で見逃せ!』とかも出てくるんじゃないか。

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朝の多摩川サイクリングロード

2008-11-23 | Weblog
朝から走ってる人はたくさんいます。でもさすがに私みたくジーンズ&ブルゾンで頑張ってるのは…

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二子玉川駅より

2008-11-22 | Weblog
心象風景的な、あるいは押井版『攻殻機動隊』にこんな風景があったかな。

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ブリヂストン美術館『都市の心象と表象』

2008-11-22 | Weblog
ブリヂストン美術館に『都市の心象と表象』を観にいってきた。こちらの企画展はそれほどのものではなく…。ナポレオン三世時代のパリを舞台にした諷刺画というのか、モノクロの精細な絵が並ぶ。
一方相変わらず素晴らしいのは常設展で、セザンヌのちょっと前くらいからの近代画家の作品が総揃いという感じ。ここを一通り観るだけでも、近代絵画の勉強になる。
ところで今回お勧めしたいのが、ブリヂストン美術館が毎年販売しているカレンダーである。月代わりで毎月一枚の絵の複製が載せられている。それも外れなしで。これだけラインナップのそろった美術カレンダーは、寡聞にして僕は知らない。おかげでここ数年はここのカレンダーを買っている。1800円なり。ご観覧の折りには購入を検討していただきたい。

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Bunkamura『アンドリュー・ワイエス 創造への道程』

2008-11-19 | 展覧会
「できることなら私は自分の存在を消してしまって絵を描きたい。―あるのは私の手だけ、という具合に」アンドリュー・ワイエス

 Bunkamuraザ・ミュジアムの『アンドリュー・ワイエス 創造への道程』を観てきた。知ってる人には言うまでもないことだが、ワイエスはアメリカの画家である。が、現在91歳で存命で、今も旺盛な創作活動を行っているとか。画家は、短命な人が多いので生きていること自体に驚き、また同時代に大好きな画家がいることをうれしく思った。私は、アンドリュー・ワイエスが古今の画家で三本の指に入る位に好きなのである。

 展覧会に入ったのは10時過ぎの開館すぐ。人の入りの具合は、観覧にさし障るほどではなく、かといってさびしいほどではないという絶妙な具合だった。絵のラインナップは習作が多かったのは残念だが、素晴らしい絵がいくつもあった。一枚の完成した絵に対し、2~4枚くらいの習作があって、展覧会のタイトル通りの創作の筋道が分かって面白い。ただ、やはり習作が多いということで、展覧会自体の濃度は薄かったかな。それに、ワイエスの代名詞みたいになっている、テンペラ画の絵も少なかったし。
 ワイエスの絵について、胸を突くような感情的な要素よりも、つつまれるような精神性の高さを感じる。それに西洋画の写実性と東洋の余白の美を合わせたような風格も感じるのである。この画風は、日本や中国の水墨画の墨のかすれや白の美にも通じるのではないかと思う。まあひょっとしたらだけど。さらに、ワイエスの絵には物語性を描くことにも長けていて、ヘルメットや斧、義手、家など、ある人物の人生を象徴する道具や、あるいは自然の年月を感じさせる風景を、ずばりと描くのも上手い。

 最後に、ワイエスの絵に何度も描かれたオルソン姉弟と彼らのオルソン・ハウスについて。ワイエスはオルソン姉弟という友人を何度も自分の絵の中に登場させているのだが、生まれながらに手足に障害をもち、移動するときにも這わねばならなかったのに力強い人生を送った、アンナ・クリスティーナ・オルソンの存在は特に、ワイエスの絵の精神性を象徴しているかのようである。この人が描かれた絵を見ていると、良い意味でのアメリカらしさというのは残っているんだなあと感心させられる。一言でいえば、フロンティア・スピリットというやつだ。素晴らしい。

「この日、もやの中で太陽が白々と輝き、その光に満たされた室内で、色彩感覚は失われていた」
「私は季節の中でも冬や空きが好きだ。風景の中にある骨組みが孤独感、死に絶えたような雰囲気を感じさせる。何かがその下に隠れていて、物語の全ては明らかにされていない。そんな気がするのだ。

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秋田禎信『閉鎖のシステム』

2008-11-18 | ライトノベル
閉鎖のシステム (富士見ミステリー文庫)
秋田 禎信,黒星 紅白
富士見書房

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「あらゆる文明人は殺人鬼なんだ。夢想の中にだけ生きる独裁者なんだよ」(P152)

 秋田禎信の『閉鎖のシステム』を読んだ。富士見ミステリー文庫からの刊行ということで、当然ながらミステリー風味である。
 
 話としては、ある地方経済のテコ入れとしてつくられた巨大なショッピングモールで、閉館時間を過ぎた後に、残業だのなんだかのでようやく帰ろうとした4人は、施設が停電してしまっていることに気付く。ケータイのディスプレイなどわずかな明かりを頼りに歩きまわり、出会う4人の男女だが、彼らが警備員室から施設の外に出ようとするのだが、彼らが見たのは警備員全員が皆殺しにされ、犯行声明と思われる怪文が壁に記されていること。不可視の闇の中、正体不明の殺人鬼から逃れるべく、彼らは闇の底をはいずりまわる。

 というわけで、ちょっとサスペンス風味でもある。だが、作者自身がポストモズムになぜかかぶれている人のためか、不条理さもある。しかし、この小説の何よりもすごいのは、主人公たち4人が出会うまでの、大した出来事もないシークエンスをうだうだと76ページまで引き延ばしていること。そこそこ面白いし。でも、そういう文章で読ませる部分を除けば、やっぱりオチは弱いかなあと。まさに、秋田氏ファンのためにだけあるライトノベルである。他の人には、全くお勧めしない。

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アイザック・アシモフ『鋼鉄都市』

2008-11-18 | 小説
鋼鉄都市 (ハヤカワ文庫 SF 336)
アイザック・アシモフ
早川書房

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ロボット三原則
「第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
 第二条 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし与えられた命令が第一条に反する場合はこの限りではない。
 第三条 ロボットは第一条および第二条に反するおそれのない限り自己を守らなければならない」

 アイザック・アシモフがSFミステリーというジャンルを確立した傑作、『鋼鉄都市』を読んだ。原題は”THE CAVE OF STEEL”というもので、直訳すれば「鉄の洞窟」くらいのものだが、『鋼鉄都市』という邦訳はいまいちな気がする。というのは、この小説は、人類の発展史の側面をもっていて、人類が鉄の洞窟を出て、再び宇宙に旅立つというモチーフがあるからである。まあ、作中で描かれているシティの様子もなかなか興味深いので、「都市」を全面に出すのも悪くない気がする。

 地球人類が、かつて宇宙へ植民し再び地球にもどってきた”宇宙人”(スペーサー)に管理されかけている時代。地球の各都市は、ロボットを労働力として導入しながらシティと呼ばれるドーム都市で厳格な管理社会を形成していた。そんな折、スペーサーの殺人事件が起こり、地球とスペーサーの関係を揺るがす事態が発生する。刑事であるベイリは警視総監に呼び出され、スペーサーの作ったロボットのパートナー、R・ダニールの手を借りながら事件に立ち向かっていく。しかし、シティにはロボットへの反感が広がっており、ベイリ自身もあまりによく出来たロボットであるR・ダニールに不信の目を向けながら、凸凹コンビの捜査は続く。
 
 トリックがものすごくシンプルなので、ミステリー好きにはうっかり勧められない小説ではある。しかし、アシモフの描く未来都市やロボットの姿が興味深く、やはりSFとしてはよく出来た小説だなあと感心せざるを得ない。この小説の画期的な点は、(いろいろなところで紹介されているが)ロボット三原則という上記の法則をロボットを描く際の小道具として導入したことに尽きる。というのは、それまでのロボットや人造人間を描いた物語というのは、人間が被造物に脅かされ滅ぼされるという「フランケン・コンプレックス」に基づいたものがほとんどすべてだったのだが、アシモフはロボット三原則を導入することで、このすでに陳腐化していたモチーフから距離を取ることに成功したのだ。他にも、この「ロボット」シリーズはアシモフの「ファンデーション」シリーズに接続したりと、何かと作品外の要素の多い本である。

 でまあ、繰り返すことになるけれど、やはり純粋にミステリーとしてはいまいち。トリックがいまいちなのと、探偵役が失敗ばかりしていること、ミステリーとしては余計なモチーフが多すぎるなど。だから、やはりユートピアでもないディストピアでもない、「科学的な」SF小説という点で評価すべきだし、その点については名作という評価はゆるぎないものだと思う。言ってみれば、古き良き時代のSFの鏡である。
 ロボット関連の知識や技術は、この本が書かれた1979年とは隔絶した感すらあり、実際にロボット工学や認知科学の発達で多少当時とは事情が違っているのではあろうが、まだ古びていないのである。

「人間の人間としての能力を持ったロボットを造ることはできないのだ。まして、よりまさったロボットは無理な話だ。審美感とか、倫理感とか、信仰心を備えたロボットも造れない。電子頭脳は、唯物主義から一インチでも出ることはできないのだ。/そんなことはできない相談なのだ、ぜったいにできないのだ。われわれの脳を動かしているものがなにかを理解しないかぎり、できない。科学が測定できないものが存在するかぎりできない。美とはなにか、あるいは、美とは、芸術とは、愛とは、神とは? われわれは永遠に、未知なるもののふちで足踏みしながら、理解できないものを理解しようとしているのだ。そこが、われわれの人間たる所以なのだ」(P287~288)

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国立西洋美術館『ヴィルヘルム・ハンマースホイ~静かなる詩情~』

2008-11-17 | 展覧会
「私は、常にこの部屋のような美を思っていた。たとえ、人がいないとしても、いや、正確に言えば、誰もこの部屋にいないからなのだろう」ヴィルヘルム・ハンマースホイ

 国立西洋美術館の『ヴィルヘルム・ハンマースホイ~静かなる詩情』(~12月7日)を見てきた。といってもちょっと前の話なのだが。行ったのは金曜の19時頃で、夜間の観覧。そのせいか、昼間よりも観客の年齢層が低く、かつ落ち着いたい雰囲気だった。

 ヴィルヘルム・ハンマースホイはデンマークの画家で、最近見直され評価が高まっているとのこと。僕自身、ポスターなどで告知を見て、かなり良さそうな感じだなと思った。それに、今まで聞いたこともない名前の画家に、面白そうな作品があれば良いなと単純に感じるのである。

 ハンマースホイはフェルメールの影響を受けた画家ということだが、その画面の表面から受ける印象は、室内画としての静謐さの他は全く違うと言っていい。フェルメールの絵が肉感的なのに対し、ハンマースホイの絵は影の薄い印象である。たとえれば、フェルメールが装飾的なアンティーク家具だとしたら、ハンマースホイの絵は北欧家具だと思った。実際に、ハンマースホイの絵の舞台となった、自宅のアパートの様子も(最近の)北欧的な印象があるのである。
 そのハンマースホイの絵の特徴は、まず、人物が描かれることが比較的少ないことと、しかもその人物が画面に対して背後を見ていて、さらに風景そのものに溶け込むようなことろがあって、総じて人物の存在感が薄いこと。さらに、影の向きや家具の構造がありえないものだったり、モデルがある室内画から家具を省いたりと、違和感のような奇妙さとがらんとした空虚さをたたえている絵が多い。半びらきに開いた扉が連なる絵を描いたりと、家の中にいながら霧の中に迷い込むような戸惑いさえ覚える。
 だからと言って、ハンマースホイの絵に動きがないというわけではない。むしろ、白い壁を背景としても、その色には微妙な色が加えられて、モネの描く水面のようにゆらめいている。僕は、ハンマースホイの絵については、その平面の揺らぎが一番好きだ。むしろ、壁やドアなど、本来室内画において背景となっているものこそ、ハンマースホイの絵の主役になっているのではないかと感じるほどに。一言でいえば、世界の最後の日の光景のように、揺らぎ続ける静謐さ、とでもいうものがハンマースホイの絵の本質と感じた。
 展覧会自体は、面白いものだったが、正直なところ僕自身はハンマースホイの絵はそれほど好きというわけではない。画面の色彩のアンドリュー・ワイエスとも似ているかなと思ったけど、どちらかを選べと言われれば、僕は迷わずワイエスを選ぶ。ただ、再評価されている画家の絵を見るというのも楽しみなので、絵画に興味のある人にはためらわずお勧めする。そして、夜の少し疲れた雰囲気にも合うので、金曜の夜に行くのはなお良いかも。人も比較的少ない。

 ところで、国立西洋美術館を文化遺産にという運動が今行われているけど、どうなのかなあとは、少し思う。確か、有名な建築家が設計していたはずだけど、そこまで、そこまでなのか。どうせ文化遺産登録をしたいなら、上野公園全体を対象にした方が良いのではないかと思うのだが、うーむ。

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ELISA『ebullient future』

2008-11-09 | 音楽
ebullient future / ef - a tale of melodies. OPENING THEME
ELISA,nbkz Sakai,Emi Nishida,TENMON,Eiichiro Yanagi
Geneon =music=

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『ebulluent future(ほとばしる未来)』
愛、私はそれを感じようしている
もしあなたが私を信じてくれるなら、
私は自らの人生が何であるかを知るでしょう
ああ、あなたはずっと私が求める全てです

私はあなたの言葉を聞こうとする
だから私は祈る
けれどあなたは消えていってしまう
行かないで、私の脆い心を打ち砕かないで
私たちはバラバラにはならない
なぜなら、あなたは私のたった一つの星だから

夜になると涙が出てくるのが不思議
あなたを呼ぶ、そうまるで小さな子どものように
あなたはその心にすべての物をもっている
あなたの心の中を見ることができたなら

私は一人ぼっちで空っぽになったよう
あなたは遠い、私がそのことに耐えられないから
行動しようとしても、それが難しい
ああ、あなたは私がまだ信じていることを知らないの?

誰もあなたの道に立つことはできない
ほら私はここにいる
いつかそんな日が来るはず
泣くことなく、傷から解放される
いつも心の中では
スタートするための道を見つけたいと思っている

どうやって私は正しいことを知るのだろう
あなたがおらず、心を失っているのに
ただあなたのそばにいたい
私はあなたの愛と微笑みを待ち続ける

ずっとあなたのこと、私の夢のことを考えている…
息を吐くたび、新しい気持ちになる
私の鍵であなたの心を開いて
ああ、あなたは私の鼓動が聴こえないの?

私の愛、あなたはそれを感じようとしている
そしてもし私たちがお互いに信頼しあえるなら
あなたは私たちの人生が何であるかを知るでしょう
ああ、あなたは私が信じるたった一人なのです


 前に『eupforic field』の訳をここに載せたけれど、今回は第二弾と言える『ebullient future』の英語詞を載せる。前作もキャッチーな良曲だったけど、今回はキャッチーさも残しながら、よりメロディアスな曲となっている。歌詞については、比べてみれば分かるがまあ意味とかほとんど前作と同じ感じである。なんとなく前作ほどは売れないような気もするが、僕はひょっとしたら『ebullient future』の方が好きかも。

 このCDには、『ebullient future』の英語詞と日本語詞の別バージョンが入っているのだけど、比べてみると日本語詞じゃ英語詞に勝てねーという気がふつふつっしてくる。日本語詞も悪くはないんだけど、ワンフレーズで日本語詞が2行に対し英語詞が6行というところがざらにあって、英語詞バージョンの方が密度が高い気がするのである。だいたい言っていることは同じなんだけどなあ。

 あと、『euphoric field』のときはカップリング曲はなかったけど、『ebullient future』には『pray』というカップリング曲がもれなくついてくる。こちらの曲は…Soso

 最後に、初回版の特典としてついてくる七尾奈留直々の優子の絵はかなり綺麗。

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東京都美術館『フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち』

2008-11-03 | 展覧会
 今日も特番で紹介されていた東京都美術館の『フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち』を見てきた。知られている通り、フェルメールは寡作で世界に30数点しか現存していない上、それらも世界各地の美術館に点在していてなかなかまとまって作品を観ることができない画家である。そのフェルメールの絵が7点もまとまって観られる貴重な機会がこの『フェルメール展』である。
 美術展自体は第一生命が出資しているせいか、いつもよりも金がかかっている印象もある。並んでいるフェルメール以外の絵は当たり前だが、いかにもオランダらしく、市民の生活を描いた風俗画ばかりであまり面白いわけでもない。
 一方で、フェルメールの絵は、さすがに良かった。他の絵と比べると、艶や色気といったものが明らかに違う。ただ、私がフェルメールの絵について感じるのは、不吉な印象がするということだ。そういう様式だと言えばそうなのかもしれないが、画面の左から光が差し込み、描かれる人々はそれぞれ別な関係のないように見える動作をし、しかも意味ありげに振り返る女性が多く描かれている。さらに、地図や手紙や窓など、絵画に描かれる外の世界につながるモチーフが多く登場し、それが私には不吉に思えるのだ。まあ、不吉とまで言わなくとも、意味ありげな、隠喩めいた絵画だというのは誰でも感じるところではないだろうか。正直に言えば、私はこの美術展を見てもあまりフェルメールの作品を好きだとは思わないが、せっかくの機会なので好みに関わらず観にいくと良いのではと思う。個人的には、『小径』という素朴な印象の風景画が一番好きだ。上記のような絵の他にも、宗教画などもあるので、一つくらいは好きな絵が見つかるのでは。

 ところで、今日の特番は、ひどい出来だったなあ。どちらかと言えば、フェルメールよりもヒトラーの方が面白いくらいだったし。

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