前の記事の労働価値説の話の続きであるが、資本家や経営者の貢献を否定して、労働者の労働から価値が生まれているとしつつ、他の労働者との間には絶対的な差を主張するような話はかなり昔からあった。ヨーロッパの都市国家における都市民の主張がまさにそうだし、その意味でその時代から次の工業化した時代の労働者貴族に受け継がれ、現在の日本の労働組合の主張へと受け継がれてきたといえるだろう。問題は、このような主張には客観的な根拠がないということだ。
歴史的に見れば、時代が経つにつれて、特に二十世紀においては生産量が急激に拡大した。この生産量の増加と所得の向上は生産性の上昇の結果であるとしか言いようがない。人間の能力が短期間にこれだけ伸びるとは考えられないからだ。そうすると、行っている仕事自体の生産性というものは非常に重要なものであることが分かる。どのような製品を生産するか、どのように作業を管理するかによって生産性が大きく変わってくるし、それが最終的には社会全体の所得を決定することになるだろう。
こう考えると、むしろ労働というのは他の労働者との間で交換が容易なものであるような気がしてくる。新古典派の限界生産性においては、労働者の賃金が限界生産性によって決まるという議論がされるのだが、ミクロで見てみると労働者の違いというものはそれほど大きくないのかもしれない。この前の、スウェーデンモデルの理論的支柱となっているレーン=メイドナー=モデルにおいては、むしろ労働者は同じようなものと考えられ、だから賃金を平均化して生産性の高い企業を成長させ、生産性の低い企業を退出させることが平等と経済成長をもたらすという考えに立っている。だから、生産性の違いが労働者の能力の差であるという主張には懐疑的にならざるを得ない気がする。