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反左翼系リベラルのブログ

金持ちと貧困

2009年05月14日 | 経済学

このブログ知らなかったのだが、かなり面白い記事を見つけた。いかにもありがちな意見なのだが、よく聞くのでこの機会に少し書いてみる。

世界にはアメリカや日本のような豊かな国々があります。
また、アフリカの多くの国々のように極めて貧しい国々もあります。
その中間にはBRICsのような新興国群があります。

もっとも日本は1990年ぐらいまでは少なくとも経済的には世界でトップクラスのリッチな国だったわけですが、その後はみなさんご存知のように経済大国としての地位はどんどん凋落して、今では香港やシンガポールなんかより国民一人当たりのGDPは下になってしまいましたけれども。
ところで、国民一人当たりのGDPと言うのは簡単に言えば国民一人の平均年収みたいなものです。

アフリカの多くの国々が最貧国です。
アジアにもカンボジアや北朝鮮のような最貧国があります。
南米にもボリビアのような非常に貧しい国々があります。

世界の最貧国では生まれてくる赤ちゃんは劣悪な衛生環境で次々と死亡します。
飢饉で国民が餓死することもあります。
また、独裁政権による虐殺や、国内での内紛も絶えません。

こう言った貧しい国々は世界の先進国に搾取されているから貧しいのだと言う考え方もあります。
また、以前、NIKEのアジアの工場で未成年労働者がいたことが大問題になったことがありました。
そこでもNIKEのような多国籍企業が途上国を搾取しているとのイメージができあがりました。

しかし、そう言ったことは実は事実と全く反します。
多国籍企業に比較的安い賃金で雇用されることが搾取と言うなら、今、世界で急速に成長し豊かになっている発展途上国はむしろ搾取されているからこそ豊かになっているのです。
インドや中国、最近ではベトナムなどは安価な労働力が目当ての多国籍企業がどんどん進出したから先進国の技術や資本が移転して豊かになって行ったのです。

その点、アフリカの最貧国はこう言ったグローバルな市場経済に組み込まれずに取り残されているからこそ貧しいままなのです。

ここで簡単な思考実験をしてみましょう。
例えばアフリカのウガンダやルワンダと言った最貧国が明日、この地球上から消滅してしまったとしたらどうなるのでしょうか?
一部の先進国や多国籍企業が搾取しているからこそこれらの国々は貧しいのだとすれば、搾取される人々がいなくなったら何か困りそうなものです。
想像力を働かせてよく考えてみてください。
そうです。
ウガンダやルワンダが明日なくなっても、世界の先進国もグローバル経済もほとんど全く何の影響も受けないのです。

貧しさのひとつの理由はこのような世界の貿易体制に組み込まれていないことなのです。

最貧国で生まれても養子や孤児としてアメリカなどの先進国で育ち成功する個人もたくさんいますから、最貧国が貧しいままなのはそこの国民のDNAのような生物学的問題だと言うのもまったく的外れでしょう。

実際問題として、最貧国がなかなか這い上がれないのは一にも二にも政治が腐敗しているからです。
一部の政治家や役人や軍人が自分やその身内だけで富を独占し、自分たちの権力を脅かしそうな自国民を見つけては次々と虐殺しています。
大日本帝国もそうであったように、時として自国のトップが一番の害悪なのです。

最近、ネットカフェ難民や派遣村のように日本でも何かと格差が話題になりますが、これも金持ちや大企業が搾取しているから彼らが貧しいと言うのは全くのデタラメです。
同じように思考実験をしてみましょう。
ネットカフェ難民と派遣村の住人が明日日本から消滅したとしてみましょう。
そうです。
実は金持ちも大企業もまったく何も困らないのです。
困らないどころか社会福祉の税負担が減って助かるぐらいなのです。
このように富める者が搾取していると言う考え方は論理的に完全に破綻しているのです。

だからと言って、貧しい国をほかっておいていいわけでも、日本の中の貧困問題を放置していいわけでもありません。
実際、世界の先進国は、最貧国を救うため(焼け石に水ですが)様々な援助をしています。
日本だって経済的に貧しい人や地域に様々な補助が税金から支払われています。

しかし、貧困問題の矛先を金持ちや大企業に向けることは全くもって何も問題を解決しないのです。
元イギリス首相のサッチャーが言ったように、金持ちをいじめて貧乏にしても、もともとの貧乏人はもっと貧乏になるだけなのです。

最近の日本国政府やマスコミを見ていると、日本はみんなでどんどん貧しくなる方向に進んでいるような気がして、僕はたいへん憂いています。

国内問題においても国際問題においてもよく耳にする国内や途上国の貧困に対して、先進国やお金持ちは責任がないという主張だ。このような主張は昔から延々と繰り返されてきて、最近の日本の派遣社員の問題に対する自己責任論においても出てきたものである。このような主張は、階級闘争論などの対極にあるようにも思えるが、実はそのような思想と補完的な位置にある。

過去から現在にかけて行われてきた平等と不平等に関する議論の抱える大きな問題は、貧困の原因の一つが富めるものによる搾取であり、貧しいものを支援することが必要だという主張が受け入れられてこなかったことである。格差に関する議論が始まると必ず努力の話が持ち出され貧しいものがちゃんと努力していないという主張が繰り返された。その結果、貧しいものは被害者ではなく怠惰な加害者として迫害されることになった。その一方で、労働組合のような特権的な集団が資本家に搾取されていると主張し出せば、その意見に従わないものは迫害されその主張が通ることになった。つまり、貧しいものを保護するのではなく、裕福なものの中の一部の搾取されているとされる層を優遇することによって平等な社会が訪れるという前提の元で政策が行われた。

だから、貧しいものが怠惰だとか、途上国が貧しいのは政治が腐敗しているとか勤勉ではないとかいう主張は昔から繰り返されている屁理屈の一種である。問題の本質は単純に金持ちから貧しいものへと所得を分配すればいいのに、努力や生産性などを考慮した結果、貧しいものを迫害し逆に裕福な者を支援することが正しいことであるという結論が昔から繰り返されてきたことである。だから、貧しいのは金持ちが悪いからではないという主張と、資本家との階級闘争を唱える左翼の主張とは表裏一体の関係にあるものであると言っていい。

現在の格差や貧困の大きな原因はそもそも富める者から貧しい者への所得再分配がほとんど行われていないことが原因である。逆に、貧しい者から富める者へと富が移転してしまっている。これは、歴史的には昔からあったことであるが、それが二十世紀においてもひたすら続いてきたことが現在の不平等の原因である。実際、途上国は先進国に極めて不利な条件で取引をすることを余儀なくされ搾取されたが、最貧国さえ少額の援助しか得ることが出来なかった。国内においても、社会福祉の大部分は中高所得者層に対する援助へと消えていき、貧困層への支援は低額に止まった。つまり、貧困や格差の本質的な問題は、そもそも支援自体がほとんど行われなかったことである。

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