労働価値説というのがある。みんな知っていると思うが、生産物の価値はそれに投入された労働の量によって決まるという考えだ。一般的には、共産主義は労働価値説に基づいて国家を運営し、共産主義思想の流れを汲む政党や労働組合はこの思想に基づいて資本家と対決していることになっている。
しかし、実はそのように考えると辻褄が合わない。というのも、もし生産物の価値が投入された労働の量によって決まり、それゆえ労働者にすべてが分配されなければならないのであれば、当然すべての人の時給は同じにならなければならない。しかしながら、現在資本家と対決し労働者の権利を追及している労働組合の組合員や、さらには十九世紀の工場労働者も実は他の労働者と比べて賃金が高く、もし労働価値説に基づいて所得を分配するのであればむしろそのような労働者から他の者へと所得を移転する必要がある。つまり、労働価値説によっては共産主義的な行動を説明することができない。
ここで、もしそのような労働者が労働価値説に基づいているのではなく、生産物が労働者の労働の価値だけから出来ており経営者や資本家は何も貢献していないという考えに基づいているのであれば辻褄が合う。つまり、経営者や資本家は何も貢献していないはずだから、少しでも取るのは搾取だ。それに対して、生産物の価値は労働者の労働から来るはずだから高価格で売れている製品を作っている労働者は優秀で勤勉な筈だ。賃金の低い無能で怠惰な労働者とは全然違う。そのような考えに基づいていると考えるのだ。つまり、経営者は資本家は何も貢献していないし、経営者や資本家の事業選択や製品選択などの質的な違いが最終的な価値に影響を与えるなんてありえないが、労働者の労働の質的な違いは厳然とあり、それがすべてを決めているに違いない。だから、賃金の高い労働者は優秀で勤勉であるに違いないし、賃金の低い労働者は無能で怠惰であるに違いない。
このように考えると、共産主義者や現在の労働組合の行動が合理的に説明できる。資本家は何も貢献していないのだから何も与えないのは当たり前だ。当然、重要な仕事をしている幹部に高い報酬を払うのは当然だから自分達の賃金は庶民の百倍にしておこう。労働組合にとっては、仕事の価値は労働者の労働から来るのだから経営者や株主には一銭もやらない。うちの労働者が高賃金を得るのは優れた仕事をしたからだから当然のことだ。というようなもんだろう。
このような論法の問題点は、経営者や資本家による質的に違う貢献を否定し、額に汗して働く労働者が生産を行っているといいながら、他の労働者との間においてはいくらでも質的な違いがありそれが結果の差に繋がっていると言う主張が論理的に意味不明だということだ。普通に考えれば、経営の仕事の方が質的な違いが絶対的な差を生みそうなのに、質的な差というのは高品質なものが疎らに散らばっていそうなのに、ある労働者の集団が全員他の集団より優れていてそれが決定的な要素となっていると言うのは実際問題としてあまりありそうにない。結局は、自分達に都合のいい屁理屈に過ぎないのだろう。